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西の国 ヴレンデール
095 憤怒
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なんとか指定された作業をすべて終えることができた。
遣獣たちにも苦労をかけてしまったが、これでこの町に伝わる霊薬の製法を教えてもらうことができる。
ロディルは深く息を吐きながら椅子を戻した。
ここ、ヴレンデール北西部のサーリという町には、他では採れない非常に貴重な薬草と、それを使って作る秘伝の薬がある。
薬草の採取される量が非常に少ないため、そのことはほとんど外部には知られていない。
薬の製法に至っては町の人間でもごく一部しか知らない。
いわゆる魔女とか呪術師などと呼ばれる類の人間によって口伝で守り継がれており、薬そのものが門外不出の扱いである。
その神秘の霊薬が、ロディルにはどうしても必要だった。
世界各地で紋唱術の腕を磨きながら、遺跡を巡って秘儀の紋唱に関する研究をしていたときに、たまたまその存在を知った。
どんな医者にも匙を投げられた難病の患者が、大金を支払ってその薬をひと匙飲んだところ、たちまち症状が緩和したという。
ひと匙では完治には至らなかったので、その人は追加で薬を得るためになんとかして金を作っているところだと言っていた。
もちろんロディルの手持ちの金もそう多くはない。もともとあまり持っていなかったし、旅をするのに最低限の資金繰りしかしてこなかった。
その話を聞いてからは積極的に地下クラブなどに顔を出して資金を溜めてはいたものの、ひと匙などではなく瓶で手に入れようなどと思ったら、必要な額を稼ぐのに何年かかるかわからない。
それなら自分で作るしかない、というのがロディルの結論だった。
そして持てる金をすべてこの町の最長老の魔女に差し出して秘薬の製法を乞うたのだ。
もちろん最初は拒絶された。それでも誠心誠意頼み続け、彼女が恐らくはロディルを追い払おうとして言いつけたありとあらゆる無理難題に挑戦し続けた。
やがて魔女はロディルの熱意に折れて、あとこれだけやってくれれば教えてもいい、と言った。
これだけ、といっても山のような課題が出されはしたが、それを何日もかけて終わらせた。ひとつだけ偶然訪れた弟が手伝ってくれた。
ロディルは町はずれの家へ向かった。
その家に住んでいる、見た目はごくふつうの老婦人が、この町を長年守ってきた魔女だ。
彼女は手袋をする代わりに指輪を嵌めて紋唱を行う。彼女に言わせればそれは紋唱ではなく魔法らしいが、それは単なる認識の違いだろう。
現れたロディルを見て、魔女は頷いた。やり遂げたことをすでに彼女は知っているのだ。
彼女は袖口から古びた紙をひと巻き取り出して、それをロディルに差し出す。
ロディルが手を伸ばすと、その手をとって、包み込むようにして紙を持たせた。そしてその上に呪(まじな)いのように紋章を描いた。
「これが、サーリの霊薬のレシピです。渡すかわりに幾つか守ってもらうことがあるわ」
「はい」
「まず……もちろん、他の誰にも教えないこと。そして薬は一生に一度しか作ってはいけない。つまり、あなたが薬を作ったら、この紙は消えてなくなる……そのように魔法をかけました」
「もし誰かにこれを渡そうとしても、同じように消えてしまうでしょうね」
「ええ。内容を口頭で伝えることも、別の紙に書き写すこともできない。もしこれらの禁を破ったら、あなたの作った薬は毒となる」
彼女はロディルの眼をじっと覗き込む。
彼女自身の両眼はもうどちらも濁って光を失っているが、恐らく彼女にはそれでも視えている。
「あなたの大切な人が助かるように、私も祈っているわね」
「……ありがとうございます」
ロディルは深々と頭を下げてから、魔女の家をあとにした。
製造方法は手に入れたが、実際にそれを行うための場所と材料を揃える必要がある。
それらをこの小さな町で賄うのは難しいため、もう少し大きな街に移動する必要があるが、それならヴレンデール国内より北上してハーシに入ったほうが近い。
戻るのは随分久しぶりだが、故郷に寄らずとも北の空気を吸うくらいはいいだろう。
それに薬ができたらできるだけ早く届けなくてはいけない。
郵送するにしても近い街から送ったほうが何かと安心だ。
行き先を決めたら、あとは移動手段を呼び出すだけ。
紋唱しようと顔を上げたところで奇妙なものが目に入った。
前方の遥か彼方、幾つも家屋を挟んだ向こうのどこかで、妙に黒い煙が上がっている。
不穏に思ってそちらに歩き始めると、反対側から走ってくる人がいる。服装などからして地元の住民のようだが顔が真っ青だ。
彼はロディルが自分と反対方向に歩いているのに気づくと、ずいぶん慌てたようすでこちらに駆けてきた。
「そっちにいかないほうがいいよ! あの煙が見えるだろ!?」
「あれ、何かあったんですか?」
「旅の術師が喧嘩してるみたいなんだ。片方はなんか軍人みたいな恰好の外人で、そいつがめちゃくちゃ強いんだ、もう相手は一方的にやられまくってる。あんなのに巻き込まれたらえらいことだよ!」
「そうですか。では、町の人たちは近づかないほうがいい。僕はようすを見てきます」
もしかしたら弟が巻き込まれているかもしれない。
旅の術師、という単語にその可能性を感じたロディルには、足を止める理由もない。
というかそもそも弟が巻き込まれていなくても関係がない。
強い術師がいるのなら、戦わなくては。
どれだけ修練したとしても、力を試す方法は対人戦闘のほかにないと思う。
ロディルは強くならなくてはいけないのだ。誰にも負けないくらい強くなろうとしているのだから、その強いという軍人らしき人物にも手合わせ願わなくてはならないし、勝たねばならない。
果たして通りを抜け、角を曲がった先でロディルの眼に飛び込んできたのは、血を流して転がる弟ミルンの姿だった。
その傍に倒れているのも見覚えのあるポニーテールの少女だ。
ふたりともかろうじてまだ意識はあるようだが、立ち上がることもできず、震える手で地面を掴んで這い蹲っている。
ふたりの前には小柄な少女が立っていて、なんとかふたりを守ろうとしているように見えた。
その向かいには確かにマヌルド帝国軍の制服に身を包んだ軍人が立っている。
ちらりと見えた胸元の勲章からそれなりの地位の人物だとわかるが、あまりにも若い。
それにその顔にロディルは見覚えがあった。
いや、──忘れるはずがない。
彼の足元にももうひとり軍人が転がっている。
そちらも負傷しているが、見たところミルンの仕業ではなさそうだ。弟の使える術であのような傷を負わせられるものはない。
つまり、すべての下手人は、この男。
クラリオ・フェント=ソルデュ・ヴァルハーレ子爵。マヌルド帝国軍本部大佐。
「スニエリタ、そこを退いてくれ。きみのことは傷つけるつもりはないんだ」
「嫌です……!」
軍の支給品ではない高級そうな手袋をした指が紋章を描く。
まったく素晴らしい速度と精度で描き上げられたそれから、地獄の釜の蓋が開いたように、おぞましい色をした煉獄の炎が吐き出される。
対するスニエリタは防御の紋唱を行うけれども速度が間に合っていないうえに、属性の相性が悪い。
判断するなりロディルは間に割って入った。
──逆滝(げきろう)の紋。
少女の目前に、上からではなく下から昇っていく水流が起こり、炎のことごとくを呑み込んだ。
多少受けきれない部分も空に散らせるのでスニエリタには届かない。
その場の全員が異常に気づいてあたりを見回し、ヴァルハーレがこちらを認めて叫ぶ。
「なんだおまえは!? 邪魔をしないでもらおうか!」
「失礼。どういう事情かは知らないけど、うちの弟が何かしたのかい? ──ヴァルハーレ」
あえて名前を呼んでやると、ヴァルハーレの顔が驚愕に歪む。
「どうして僕のことを……弟って、おまえあのドブネズミの兄か? そんなやつに知り合いは……」
「……まあそうだろうね。僕らにはほとんど接点はなかったわけだし。でも、僕のことは忘れても、ナスタレイハのことは覚えているんじゃないか?」
「ナスタ……? あ、ああ、わかった。あのハツカネズミのことか。そういえばそんな名前だったな。
ということは、おまえは例の"帝国学院唯一の汚点"か? はは……まさか、不届き者がおまえの弟だったとはな」
ふたりの会話をスニエリタはおろおろしながら聞いている。乱入してきたロディルが敵か味方か判断しかねているのだろうか。
フィナナで会ったときは雰囲気が違いすぎたので同名の別人だと思ったが、ここにヴァルハーレがいるということは、やはり彼女はクイネス将軍の娘のスニエリタだろう。家出でもしたのだろうか。
恐らくヴァルハーレは彼女を連れ戻そうと追いかけてきて、ミルンたちが一緒にいるのを見て激怒した、といったところか。
なぜか一緒に来たらしい軍人まで殺されかけているのはわからないが、なんにせよ弱い者に興味はない。
それにヴァルハーレなら恰好の腕試しになる。
彼の実力がどれほどのものか、少なくとも学生時代に何度か目にする機会があった。
お互いそのころよりも腕は上がっただろう。試す価値は充分すぎるほどある。
それに、理由はそれだけではない。
「ミルンが何か失礼をしたなら謝ろう。でもそれはそれとして、ひとつ僕とやりあってもらえないかな?」
「……ははは! げに麗しきは兄弟愛かな。
言っておくが、邪魔をするなら貴様も殺す。ひとり増えたところで造作もない」
「いや、弟のことはこの際どうでもいいんだよ。わかった、まどろっこしい言いかたは止めよう。
僕が個人的にきみを許せないから、この機会にぜひ一発殴らせてもらう。許可は乞わない。そして、悪いけどこれは逆恨みだということは承知の上だ」
この男は、直接関わっていたわけではない。
この男自身が彼女を苦しめていたわけではない。
……ナスタレイハという名前の、ひとりの何の罪もない女の子を、あんなにぼろぼろにしたのは別の人間たちだった。
だがこの男がその原因になったのも事実。
その相関を無視できない以上、ロディルの胸の内に湧き上がるどす黒い感情はどうしても彼にも向けられている。
紋章を描きながらスニエリタに言う。
──危ないから下がっていなさい。余力があったら弟たちの手当てを頼む。
彼女が頷いたのを横目で確認しながらまずひとつ目の術を発動させる。
続けて次、間を空けないように両手を駆使して、指も五本すべてを使って描く。この技法はマヌルドで教わったものだから相手もできる。
目の前の空間が足りなくなるほど大量の紋章で埋め尽くされる。
ならば自分が動けばいい。
ついでにできるだけ町の被害を減らし、なおかつスニエリタがミルンたちの手当てを落ち着いてできるように、ヴァルハーレを町の外の荒野へと誘導する。
とにかく戦って、勝つ。
そして謝ってもらわなくては気が済まない。
間接的に彼女をあれだけ苦しめた挙句、今でもハツカネズミと呼び捨てるその根性を、ロディルは絶対に許さない。
→
なんとか指定された作業をすべて終えることができた。
遣獣たちにも苦労をかけてしまったが、これでこの町に伝わる霊薬の製法を教えてもらうことができる。
ロディルは深く息を吐きながら椅子を戻した。
ここ、ヴレンデール北西部のサーリという町には、他では採れない非常に貴重な薬草と、それを使って作る秘伝の薬がある。
薬草の採取される量が非常に少ないため、そのことはほとんど外部には知られていない。
薬の製法に至っては町の人間でもごく一部しか知らない。
いわゆる魔女とか呪術師などと呼ばれる類の人間によって口伝で守り継がれており、薬そのものが門外不出の扱いである。
その神秘の霊薬が、ロディルにはどうしても必要だった。
世界各地で紋唱術の腕を磨きながら、遺跡を巡って秘儀の紋唱に関する研究をしていたときに、たまたまその存在を知った。
どんな医者にも匙を投げられた難病の患者が、大金を支払ってその薬をひと匙飲んだところ、たちまち症状が緩和したという。
ひと匙では完治には至らなかったので、その人は追加で薬を得るためになんとかして金を作っているところだと言っていた。
もちろんロディルの手持ちの金もそう多くはない。もともとあまり持っていなかったし、旅をするのに最低限の資金繰りしかしてこなかった。
その話を聞いてからは積極的に地下クラブなどに顔を出して資金を溜めてはいたものの、ひと匙などではなく瓶で手に入れようなどと思ったら、必要な額を稼ぐのに何年かかるかわからない。
それなら自分で作るしかない、というのがロディルの結論だった。
そして持てる金をすべてこの町の最長老の魔女に差し出して秘薬の製法を乞うたのだ。
もちろん最初は拒絶された。それでも誠心誠意頼み続け、彼女が恐らくはロディルを追い払おうとして言いつけたありとあらゆる無理難題に挑戦し続けた。
やがて魔女はロディルの熱意に折れて、あとこれだけやってくれれば教えてもいい、と言った。
これだけ、といっても山のような課題が出されはしたが、それを何日もかけて終わらせた。ひとつだけ偶然訪れた弟が手伝ってくれた。
ロディルは町はずれの家へ向かった。
その家に住んでいる、見た目はごくふつうの老婦人が、この町を長年守ってきた魔女だ。
彼女は手袋をする代わりに指輪を嵌めて紋唱を行う。彼女に言わせればそれは紋唱ではなく魔法らしいが、それは単なる認識の違いだろう。
現れたロディルを見て、魔女は頷いた。やり遂げたことをすでに彼女は知っているのだ。
彼女は袖口から古びた紙をひと巻き取り出して、それをロディルに差し出す。
ロディルが手を伸ばすと、その手をとって、包み込むようにして紙を持たせた。そしてその上に呪(まじな)いのように紋章を描いた。
「これが、サーリの霊薬のレシピです。渡すかわりに幾つか守ってもらうことがあるわ」
「はい」
「まず……もちろん、他の誰にも教えないこと。そして薬は一生に一度しか作ってはいけない。つまり、あなたが薬を作ったら、この紙は消えてなくなる……そのように魔法をかけました」
「もし誰かにこれを渡そうとしても、同じように消えてしまうでしょうね」
「ええ。内容を口頭で伝えることも、別の紙に書き写すこともできない。もしこれらの禁を破ったら、あなたの作った薬は毒となる」
彼女はロディルの眼をじっと覗き込む。
彼女自身の両眼はもうどちらも濁って光を失っているが、恐らく彼女にはそれでも視えている。
「あなたの大切な人が助かるように、私も祈っているわね」
「……ありがとうございます」
ロディルは深々と頭を下げてから、魔女の家をあとにした。
製造方法は手に入れたが、実際にそれを行うための場所と材料を揃える必要がある。
それらをこの小さな町で賄うのは難しいため、もう少し大きな街に移動する必要があるが、それならヴレンデール国内より北上してハーシに入ったほうが近い。
戻るのは随分久しぶりだが、故郷に寄らずとも北の空気を吸うくらいはいいだろう。
それに薬ができたらできるだけ早く届けなくてはいけない。
郵送するにしても近い街から送ったほうが何かと安心だ。
行き先を決めたら、あとは移動手段を呼び出すだけ。
紋唱しようと顔を上げたところで奇妙なものが目に入った。
前方の遥か彼方、幾つも家屋を挟んだ向こうのどこかで、妙に黒い煙が上がっている。
不穏に思ってそちらに歩き始めると、反対側から走ってくる人がいる。服装などからして地元の住民のようだが顔が真っ青だ。
彼はロディルが自分と反対方向に歩いているのに気づくと、ずいぶん慌てたようすでこちらに駆けてきた。
「そっちにいかないほうがいいよ! あの煙が見えるだろ!?」
「あれ、何かあったんですか?」
「旅の術師が喧嘩してるみたいなんだ。片方はなんか軍人みたいな恰好の外人で、そいつがめちゃくちゃ強いんだ、もう相手は一方的にやられまくってる。あんなのに巻き込まれたらえらいことだよ!」
「そうですか。では、町の人たちは近づかないほうがいい。僕はようすを見てきます」
もしかしたら弟が巻き込まれているかもしれない。
旅の術師、という単語にその可能性を感じたロディルには、足を止める理由もない。
というかそもそも弟が巻き込まれていなくても関係がない。
強い術師がいるのなら、戦わなくては。
どれだけ修練したとしても、力を試す方法は対人戦闘のほかにないと思う。
ロディルは強くならなくてはいけないのだ。誰にも負けないくらい強くなろうとしているのだから、その強いという軍人らしき人物にも手合わせ願わなくてはならないし、勝たねばならない。
果たして通りを抜け、角を曲がった先でロディルの眼に飛び込んできたのは、血を流して転がる弟ミルンの姿だった。
その傍に倒れているのも見覚えのあるポニーテールの少女だ。
ふたりともかろうじてまだ意識はあるようだが、立ち上がることもできず、震える手で地面を掴んで這い蹲っている。
ふたりの前には小柄な少女が立っていて、なんとかふたりを守ろうとしているように見えた。
その向かいには確かにマヌルド帝国軍の制服に身を包んだ軍人が立っている。
ちらりと見えた胸元の勲章からそれなりの地位の人物だとわかるが、あまりにも若い。
それにその顔にロディルは見覚えがあった。
いや、──忘れるはずがない。
彼の足元にももうひとり軍人が転がっている。
そちらも負傷しているが、見たところミルンの仕業ではなさそうだ。弟の使える術であのような傷を負わせられるものはない。
つまり、すべての下手人は、この男。
クラリオ・フェント=ソルデュ・ヴァルハーレ子爵。マヌルド帝国軍本部大佐。
「スニエリタ、そこを退いてくれ。きみのことは傷つけるつもりはないんだ」
「嫌です……!」
軍の支給品ではない高級そうな手袋をした指が紋章を描く。
まったく素晴らしい速度と精度で描き上げられたそれから、地獄の釜の蓋が開いたように、おぞましい色をした煉獄の炎が吐き出される。
対するスニエリタは防御の紋唱を行うけれども速度が間に合っていないうえに、属性の相性が悪い。
判断するなりロディルは間に割って入った。
──逆滝(げきろう)の紋。
少女の目前に、上からではなく下から昇っていく水流が起こり、炎のことごとくを呑み込んだ。
多少受けきれない部分も空に散らせるのでスニエリタには届かない。
その場の全員が異常に気づいてあたりを見回し、ヴァルハーレがこちらを認めて叫ぶ。
「なんだおまえは!? 邪魔をしないでもらおうか!」
「失礼。どういう事情かは知らないけど、うちの弟が何かしたのかい? ──ヴァルハーレ」
あえて名前を呼んでやると、ヴァルハーレの顔が驚愕に歪む。
「どうして僕のことを……弟って、おまえあのドブネズミの兄か? そんなやつに知り合いは……」
「……まあそうだろうね。僕らにはほとんど接点はなかったわけだし。でも、僕のことは忘れても、ナスタレイハのことは覚えているんじゃないか?」
「ナスタ……? あ、ああ、わかった。あのハツカネズミのことか。そういえばそんな名前だったな。
ということは、おまえは例の"帝国学院唯一の汚点"か? はは……まさか、不届き者がおまえの弟だったとはな」
ふたりの会話をスニエリタはおろおろしながら聞いている。乱入してきたロディルが敵か味方か判断しかねているのだろうか。
フィナナで会ったときは雰囲気が違いすぎたので同名の別人だと思ったが、ここにヴァルハーレがいるということは、やはり彼女はクイネス将軍の娘のスニエリタだろう。家出でもしたのだろうか。
恐らくヴァルハーレは彼女を連れ戻そうと追いかけてきて、ミルンたちが一緒にいるのを見て激怒した、といったところか。
なぜか一緒に来たらしい軍人まで殺されかけているのはわからないが、なんにせよ弱い者に興味はない。
それにヴァルハーレなら恰好の腕試しになる。
彼の実力がどれほどのものか、少なくとも学生時代に何度か目にする機会があった。
お互いそのころよりも腕は上がっただろう。試す価値は充分すぎるほどある。
それに、理由はそれだけではない。
「ミルンが何か失礼をしたなら謝ろう。でもそれはそれとして、ひとつ僕とやりあってもらえないかな?」
「……ははは! げに麗しきは兄弟愛かな。
言っておくが、邪魔をするなら貴様も殺す。ひとり増えたところで造作もない」
「いや、弟のことはこの際どうでもいいんだよ。わかった、まどろっこしい言いかたは止めよう。
僕が個人的にきみを許せないから、この機会にぜひ一発殴らせてもらう。許可は乞わない。そして、悪いけどこれは逆恨みだということは承知の上だ」
この男は、直接関わっていたわけではない。
この男自身が彼女を苦しめていたわけではない。
……ナスタレイハという名前の、ひとりの何の罪もない女の子を、あんなにぼろぼろにしたのは別の人間たちだった。
だがこの男がその原因になったのも事実。
その相関を無視できない以上、ロディルの胸の内に湧き上がるどす黒い感情はどうしても彼にも向けられている。
紋章を描きながらスニエリタに言う。
──危ないから下がっていなさい。余力があったら弟たちの手当てを頼む。
彼女が頷いたのを横目で確認しながらまずひとつ目の術を発動させる。
続けて次、間を空けないように両手を駆使して、指も五本すべてを使って描く。この技法はマヌルドで教わったものだから相手もできる。
目の前の空間が足りなくなるほど大量の紋章で埋め尽くされる。
ならば自分が動けばいい。
ついでにできるだけ町の被害を減らし、なおかつスニエリタがミルンたちの手当てを落ち着いてできるように、ヴァルハーレを町の外の荒野へと誘導する。
とにかく戦って、勝つ。
そして謝ってもらわなくては気が済まない。
間接的に彼女をあれだけ苦しめた挙句、今でもハツカネズミと呼び捨てるその根性を、ロディルは絶対に許さない。
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