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西の国 ヴレンデール
099 休息
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怪我人を収容するのに、町の病院では寝台の数が足りなかったため、寺院の堂を借りることになった。
本来なら僧侶たちが礼拝を行うための広間に布団を直接敷き、そこにひとりずつ運び込む。
幸い戦闘のほとんどは町外で行われたため地元住民には被害がなかった。
そのせいか町民たちの対応も親切で優しかった。寺院の管理僧にもすぐに話をつけてくれたし、怪我の程度はどのくらいか、何か必要なものはないかとこちらが言うより先に尋ねてくれたほどだった。
スニエリタはそれらに丁寧にお礼を言ってから、水の入った小さな盥を抱えてお堂へ向かった。
怪我をした術師たちのうち、ララキ以外はロンショットに運ぶのを任せてしまっている。
戻ってみるとちょうどミルンを運び終えたところだった。
「ありがとうございます。ディンラルさんはもう休んでください」
「そういうわけにはいきません」
「でも、あなたも怪我をなさってますし……」
「自分で応急手当はしましたし、これくらいどうということはないですよ。私も軍人ですからね」
そう言って微笑むロンショットを見て、それ以上強く言えず、みんなの看病を手伝ってもらうことにした。
もっともスニエリタひとりで四人の世話をするのは手が足りなかったので、結局それでよかったのだが。
かろうじてララキは意識を保っていたが、あとの三人は気絶していた。
ひとまず重傷そうなヴァルハーレとロディルの治療を最優先にする。
その間ミルンを放っておくことになるのがスニエリタとしては心苦しいものがあったが、順番を考えるとこうするしかない。
濡らした布で泥だらけの顔を拭う。
治癒の紋唱を使うにあたり、その効果を少しでも高めるには服を脱がさなくてはいけないが、それはロンショットが率先してやった。
さすがに伯爵令嬢に男の服を剥ぎ取るような真似をさせるのは気が咎めたらしい。
別に気にしないのに、とスニエリタは思ったが、彼の気遣いを無碍にするのも悪いので黙っておく。
ヴァルハーレもロディルも身体はぼろぼろだった。あちこちの皮膚が裂け、傷口には血がべっとりと固まっている。
痛々しい姿に思わず戦闘の激しさを思い返し、つい溜息が漏れる。
ミルンは、ロディルにもヴァルハーレと戦う理由があるのだと言っていた。
それはつまりヴァルハーレが何かしら彼から怨みを買っていたということになる。
確かにマヌルドでも敵の多い人だった。スニエリタの父と同じように。
あるいは……男の人は矜持や自尊心のためにあえて戦いを選ぶことがあるのだと、いつか母に聞いたことを思い出した。
矜持の高い男性ほど、それを守るために戦い続けなければならないのだと。
スニエリタにはまったく理解できないことではあるが、それゆえ強い男ほど心が疲弊しやすいものだから、それに寄り添えるような女になりなさいと母には言われた。
わからない。傷だらけで痛い思いをしてまで守らなければならないものなんて、ほんとうにあるのだろうか。
首、肩、胸、と少しずつ身体も拭いてやりながら、適宜回復の紋唱を行っていく。
しかしそれですぐ塞がるような浅い傷はほとんどなくて、薬をつけたり包帯を巻いたりする必要があったが、これもスニエリタひとりの力ではできない。
腕や脚はともかく、胴体に包帯を巻くにはロンショットに上体を持ち上げてもらわないといけないからだ。
ヴァルハーレは鍛えていることもあってしっかりした身体つきだ。
一方、ロディルは長らく旅をしているということだからか痩せていて、しかも今回負ったのではない古い傷跡があちこちにあった。
なんとかふたりの手当てをひと通り終えて、スニエリタはミルンの隣へ移る。
順序を考えて後回しにしたわけだが、だからといって彼が軽傷というわけでは決してない。その場で簡単に回復紋唱をかけただけで何もしていないのだ。
スニエリタはちょっと泣きそうな気持ちになったのをぐっと堪え、できるだけ丁寧にミルンの顔の泥を落とした。
前のふたりと同じように服を脱がせ、怪我の状態を確認する。
歳が近いせいか、なぜか彼の裸を見るのは気恥ずかしかったが、そんなことを言っている場合ではない。
ミルンもロディルと同じように古傷の痕がたくさんあった。
見た目や雰囲気はそれほど似ていない兄弟だと思ったのに、こんなところが共通点なのはちょっとどうかと思う。
ミルンの腕にガーゼを当てていると、なぜかロンショットがくすりと笑った。
「わ、わたし何か、おかしなことをしてますか?」
「いいえ、すみません。随分丁寧にされているので……よほどこの少年を気に入っておられるのだな、と……」
「あ……」
そう言われればそうかもしれないが、まったく意識していなかった。
ガーゼを固定するための布を切り、それをミルンの肘に括りながら、スニエリタは自分の指先に篭もった熱に意識を傾けた。
彼とララキは命の恩人だから。
スニエリタに記憶がないことを知りながら同行を許し、紋唱術でもそれ以外でも足を引っ張ってばかりのスニエリタのことを、疎ましがることなくいつも気にかけてくれた。
彼らにもらったものが多すぎて、ちょっと丁寧に手当てしたぐらいでは到底返しきれない。
「……さきほども、少しお話しましたが、ふたりはわたしの恩人です。生き返らせてくれて、帰りたくないというわたしのわがままを聞いてくれて……わたしの紋唱術のひどさを知っても、見捨てるどころか励ましたり練習に付き合ってくださったんです」
「奇特な人たちだというのはわかりましたよ。それに、さきほどヴァルハーレ卿相手にふたりを庇っていたお嬢さまを見て驚きました。以前ならそうはなさらなかったでしょうから……」
「はい。……ディンラルさん、わたし、今は遣獣だって持っているんですよ。ミルンさんが捕まえるのを手伝ってくれて……旅をしながら、お仕事をしたり、神と戦ったり、ほんとうに貴重な経験をたくさんさせていただいてます。自分でも少しは成長したと思えるくらいです」
「そのようですね。
……ところで神と戦うというのは何の比喩ですか?」
「いえ、喩えではなくてそのままの意味です。おふたりには事情があって、各地の神を訪ねては試験というものを受けているそうなんです。わたしも実際にヴレンデールの神々とお会いしました」
ロンショットはさすがに言葉を失って、唖然としたままミルンとララキの顔を交互に見た。
「なんというか……タヌマン・クリャの件もそうですが、我々にはまったく想像の及ばない世界があるんですね……」
スニエリタは頷いた。
この世界は人間が思っているよりもずっと広くて深いのだ。姿かたちは見えなくても神々は存在しているし、だからきっとアンハナケウもどこかにきっとあるのだろう。
だからこのまま自分だけ家に帰るのは、やはり受け入れがたかった。
ふたりと旅を続けたい。その先に何があるのかを知りたい。
マヌルドに帰ってしまったら、その結果を知ることはないだろう。多少まともに使えるようになってきた紋唱術もまた不能になってしまう気がする。
そして、そのとき、今度はスニエリタを激励してくれる人は周りにいない。ロンショットだっていつも一緒にいてもらうわけにはいかないのだ。
それに何より、もう完全に、ヴァルハーレに対する気持ちがなくなってしまった。
今までは許婚なのだからと気持ちの上では受け入れているつもりでいた。
好きだと思えたことはなかったが、彼はそれなりに優しく接してくれているし、もともと自由な恋愛など謳歌できる立場にはないと理解していたから望みもしなかった。
何も考えずに彼と結婚する未来を迎えるのだろうと漠然と思っていた。
だが、今はそれに強い抵抗を感じる。
今までは無関心に近かったヴァルハーレに対する感情が、今は嫌悪の色に染まりつつある。
彼がミルンを侮辱したからだ。あのときヴァルハーレはミルンがスニエリタにとって恩人であるということを知らなかったからだが、それでもさすがにもの言いがひどすぎた。
あの件に関してはヴァルハーレが直接ミルンに謝罪しないことには許すわけにはいかない。
思い出したらなんだか悲しくなってきて、やりきれない気持ちを吐き出す代わりに、ミルンの髪についていた泥を拭う。
暗い銀髪は見た目から想像していたよりも硬いというか、芯がしっかりしていた。しなやかで素敵な触り心地だとスニエリタは思った。
レンズのついた不思議な模様のヘアバンドを着けているが、これは一体何に使うものなのだろう。
ロンショットにも聞いてみたが、彼も初めて見るようで、ハーシ族に伝わる装飾などでしょうか、と言われた。
しばらくそれを眺めてから、ララキの手当てがまだだったことを思い出して慌てて彼女のほうへ移動した。
ララキは苦笑いしながら、あたしは自分でできるからミルンに集中してていいよ、などと言うので精一杯謝った。
→
怪我人を収容するのに、町の病院では寝台の数が足りなかったため、寺院の堂を借りることになった。
本来なら僧侶たちが礼拝を行うための広間に布団を直接敷き、そこにひとりずつ運び込む。
幸い戦闘のほとんどは町外で行われたため地元住民には被害がなかった。
そのせいか町民たちの対応も親切で優しかった。寺院の管理僧にもすぐに話をつけてくれたし、怪我の程度はどのくらいか、何か必要なものはないかとこちらが言うより先に尋ねてくれたほどだった。
スニエリタはそれらに丁寧にお礼を言ってから、水の入った小さな盥を抱えてお堂へ向かった。
怪我をした術師たちのうち、ララキ以外はロンショットに運ぶのを任せてしまっている。
戻ってみるとちょうどミルンを運び終えたところだった。
「ありがとうございます。ディンラルさんはもう休んでください」
「そういうわけにはいきません」
「でも、あなたも怪我をなさってますし……」
「自分で応急手当はしましたし、これくらいどうということはないですよ。私も軍人ですからね」
そう言って微笑むロンショットを見て、それ以上強く言えず、みんなの看病を手伝ってもらうことにした。
もっともスニエリタひとりで四人の世話をするのは手が足りなかったので、結局それでよかったのだが。
かろうじてララキは意識を保っていたが、あとの三人は気絶していた。
ひとまず重傷そうなヴァルハーレとロディルの治療を最優先にする。
その間ミルンを放っておくことになるのがスニエリタとしては心苦しいものがあったが、順番を考えるとこうするしかない。
濡らした布で泥だらけの顔を拭う。
治癒の紋唱を使うにあたり、その効果を少しでも高めるには服を脱がさなくてはいけないが、それはロンショットが率先してやった。
さすがに伯爵令嬢に男の服を剥ぎ取るような真似をさせるのは気が咎めたらしい。
別に気にしないのに、とスニエリタは思ったが、彼の気遣いを無碍にするのも悪いので黙っておく。
ヴァルハーレもロディルも身体はぼろぼろだった。あちこちの皮膚が裂け、傷口には血がべっとりと固まっている。
痛々しい姿に思わず戦闘の激しさを思い返し、つい溜息が漏れる。
ミルンは、ロディルにもヴァルハーレと戦う理由があるのだと言っていた。
それはつまりヴァルハーレが何かしら彼から怨みを買っていたということになる。
確かにマヌルドでも敵の多い人だった。スニエリタの父と同じように。
あるいは……男の人は矜持や自尊心のためにあえて戦いを選ぶことがあるのだと、いつか母に聞いたことを思い出した。
矜持の高い男性ほど、それを守るために戦い続けなければならないのだと。
スニエリタにはまったく理解できないことではあるが、それゆえ強い男ほど心が疲弊しやすいものだから、それに寄り添えるような女になりなさいと母には言われた。
わからない。傷だらけで痛い思いをしてまで守らなければならないものなんて、ほんとうにあるのだろうか。
首、肩、胸、と少しずつ身体も拭いてやりながら、適宜回復の紋唱を行っていく。
しかしそれですぐ塞がるような浅い傷はほとんどなくて、薬をつけたり包帯を巻いたりする必要があったが、これもスニエリタひとりの力ではできない。
腕や脚はともかく、胴体に包帯を巻くにはロンショットに上体を持ち上げてもらわないといけないからだ。
ヴァルハーレは鍛えていることもあってしっかりした身体つきだ。
一方、ロディルは長らく旅をしているということだからか痩せていて、しかも今回負ったのではない古い傷跡があちこちにあった。
なんとかふたりの手当てをひと通り終えて、スニエリタはミルンの隣へ移る。
順序を考えて後回しにしたわけだが、だからといって彼が軽傷というわけでは決してない。その場で簡単に回復紋唱をかけただけで何もしていないのだ。
スニエリタはちょっと泣きそうな気持ちになったのをぐっと堪え、できるだけ丁寧にミルンの顔の泥を落とした。
前のふたりと同じように服を脱がせ、怪我の状態を確認する。
歳が近いせいか、なぜか彼の裸を見るのは気恥ずかしかったが、そんなことを言っている場合ではない。
ミルンもロディルと同じように古傷の痕がたくさんあった。
見た目や雰囲気はそれほど似ていない兄弟だと思ったのに、こんなところが共通点なのはちょっとどうかと思う。
ミルンの腕にガーゼを当てていると、なぜかロンショットがくすりと笑った。
「わ、わたし何か、おかしなことをしてますか?」
「いいえ、すみません。随分丁寧にされているので……よほどこの少年を気に入っておられるのだな、と……」
「あ……」
そう言われればそうかもしれないが、まったく意識していなかった。
ガーゼを固定するための布を切り、それをミルンの肘に括りながら、スニエリタは自分の指先に篭もった熱に意識を傾けた。
彼とララキは命の恩人だから。
スニエリタに記憶がないことを知りながら同行を許し、紋唱術でもそれ以外でも足を引っ張ってばかりのスニエリタのことを、疎ましがることなくいつも気にかけてくれた。
彼らにもらったものが多すぎて、ちょっと丁寧に手当てしたぐらいでは到底返しきれない。
「……さきほども、少しお話しましたが、ふたりはわたしの恩人です。生き返らせてくれて、帰りたくないというわたしのわがままを聞いてくれて……わたしの紋唱術のひどさを知っても、見捨てるどころか励ましたり練習に付き合ってくださったんです」
「奇特な人たちだというのはわかりましたよ。それに、さきほどヴァルハーレ卿相手にふたりを庇っていたお嬢さまを見て驚きました。以前ならそうはなさらなかったでしょうから……」
「はい。……ディンラルさん、わたし、今は遣獣だって持っているんですよ。ミルンさんが捕まえるのを手伝ってくれて……旅をしながら、お仕事をしたり、神と戦ったり、ほんとうに貴重な経験をたくさんさせていただいてます。自分でも少しは成長したと思えるくらいです」
「そのようですね。
……ところで神と戦うというのは何の比喩ですか?」
「いえ、喩えではなくてそのままの意味です。おふたりには事情があって、各地の神を訪ねては試験というものを受けているそうなんです。わたしも実際にヴレンデールの神々とお会いしました」
ロンショットはさすがに言葉を失って、唖然としたままミルンとララキの顔を交互に見た。
「なんというか……タヌマン・クリャの件もそうですが、我々にはまったく想像の及ばない世界があるんですね……」
スニエリタは頷いた。
この世界は人間が思っているよりもずっと広くて深いのだ。姿かたちは見えなくても神々は存在しているし、だからきっとアンハナケウもどこかにきっとあるのだろう。
だからこのまま自分だけ家に帰るのは、やはり受け入れがたかった。
ふたりと旅を続けたい。その先に何があるのかを知りたい。
マヌルドに帰ってしまったら、その結果を知ることはないだろう。多少まともに使えるようになってきた紋唱術もまた不能になってしまう気がする。
そして、そのとき、今度はスニエリタを激励してくれる人は周りにいない。ロンショットだっていつも一緒にいてもらうわけにはいかないのだ。
それに何より、もう完全に、ヴァルハーレに対する気持ちがなくなってしまった。
今までは許婚なのだからと気持ちの上では受け入れているつもりでいた。
好きだと思えたことはなかったが、彼はそれなりに優しく接してくれているし、もともと自由な恋愛など謳歌できる立場にはないと理解していたから望みもしなかった。
何も考えずに彼と結婚する未来を迎えるのだろうと漠然と思っていた。
だが、今はそれに強い抵抗を感じる。
今までは無関心に近かったヴァルハーレに対する感情が、今は嫌悪の色に染まりつつある。
彼がミルンを侮辱したからだ。あのときヴァルハーレはミルンがスニエリタにとって恩人であるということを知らなかったからだが、それでもさすがにもの言いがひどすぎた。
あの件に関してはヴァルハーレが直接ミルンに謝罪しないことには許すわけにはいかない。
思い出したらなんだか悲しくなってきて、やりきれない気持ちを吐き出す代わりに、ミルンの髪についていた泥を拭う。
暗い銀髪は見た目から想像していたよりも硬いというか、芯がしっかりしていた。しなやかで素敵な触り心地だとスニエリタは思った。
レンズのついた不思議な模様のヘアバンドを着けているが、これは一体何に使うものなのだろう。
ロンショットにも聞いてみたが、彼も初めて見るようで、ハーシ族に伝わる装飾などでしょうか、と言われた。
しばらくそれを眺めてから、ララキの手当てがまだだったことを思い出して慌てて彼女のほうへ移動した。
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