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西の国 ヴレンデール
113 盟主顕現② ‐ 忌神頭、冥府の王、常闇を齎す者、黄泉の獣、あるいは『死』
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めいっぱい練習をして、気づいたらふたりは泥だらけになっていた。
そういうわけで寺院に戻るなりお風呂に入り、それから夕食の支度を手伝おうとしたらもう大半が終わっていたので、もうあとは運ぶくらいしかやることが残っていない。
ところで食材とかどうしてるんだろうと今さらすぎる疑問を抱いたララキだったが、もちろん外で買ってきたものですよ、とロンショットさんにめちゃくちゃ笑顔で答えられた。
ちなみに資金はヴァルハーレが提供してくれているそうです。
とにかくめちゃくちゃ嫌なやつ、という認識をそろそろ緩めてあげてもいいかもしれない。
ちなみにマヌルドの郷土料理だったようで、スニエリタはどこか懐かしそうな顔だった。
一方、食べ慣れないミルンは終始珍しいものを見る顔をしていたし、ロディルはちょっと引きつっていた。マヌルドに居たときのことでも思い出してしまったのだろうか。
もちろんララキは美味しくいただいた。
みんなが揃って薬臭いと評するお茶だろうと平気で素飲みできる舌の持ち主である。砂糖とスパイス入りのほうはおやつ感覚でいただいている。
少し多く作りすぎてしまったロンショットさんが僧侶たちに差し入れをしにいったので、その間にララキとスニエリタとで片付けをする。
ふたりでやれば洗いものもあっという間だ。
ついでにララキの発案で明日の朝食用の仕込みまで済ませ、一段落してまた部屋へと戻る。
ミルンがいない。ロディルに尋ねてみると、庭で運動してるよ、と返ってきた。またやってるのか。
夜は気温が下がってけっこう寒いので引戸は締め切られている。
それをちょっと開いて外を覗くと、たしかにえっちらおっちら歩いているミルンがいた。
「おーいミルーン、寒くないー?」
声をかけてみる。怪我人なのだし、あまり身体を冷やさないほうがいいと思うのだが。
「どこがだよ。紅葉月も終わりがけだってのに温かすぎて驚いてるぐらいだっつの」
「あーそっか雪国出身だもんね……でもさあ、リハビリもあんまりやりすぎないほうがいいんじゃない。どのみち神さまたちの方針が決まるまでは動けないんだし、まずは怪我をちゃんと」
「ララキ」
ふいに言葉を遮るような形で名前を呼ばれて面食らう。
ミルンのほうもちょっとばつが悪そうというか、何か言いにくそうな顔をしているようだったが、薄暗くてよく見えなかった。
庭の明かりは燈籠がひとつ灯っているだけだ。
そのままのろのろとミルンが歩いてくるのを、待っているのがやたら長く感じた。
後ろではスニエリタがロディルと何か話している。
これまでの旅の話をしているようだが、その会話にどうにも違和感があったララキは、思わず耳をじっと凝らしてしまった。
──それは大変だったね、じゃあ今もその間の記憶は戻っていないのか。
──ええ、何か、いい方法はないのでしょうか。
ララキがその違和感の正体に気づく前に、ミルンが目前に辿り着く。
「あのさ、……、俺、おまえにひとつ謝らなきゃならない」
「え、なに、急に」
「おまえがスニエリタを探しに行ってる間に、おまえの出自とか、どういう理由でここまで旅をしてきたのかとか、ぜんぶあいつらに説明した」
「……えぇ……」
肩からがっくり力が抜けるのを感じながら、ララキの喉からどうしようもない息が漏れる。
自分で言うならまだしも、いない間に勝手にこいつ、何てことしてくれた。
旅をしてきた理由のほうはまだいいけど、ララキが呪われた民だってことまでバラしちゃったのか。
ああ、そうだよ、それは紛れもない事実なわけだけど、でも、それでもさ。
悄然とするララキに、ほんとうにごめん、とミルンの力ない謝罪の言葉が差し出される。
「……なんで?」
「あっちのほうから説明しろって言ってきたんだ。たぶんきっかけは昨夜おまえとスニエリタが額を合わせてあれこれ言ってたから……やっぱりおまえが戻ってからちゃんと話し合っとくべきだったよな。ごめん」
「もういいよ……それで、向こうの反応はどうだったの?」
「信じ難いな、の一言だった。さすがに俺の言葉だけじゃ説得力に欠けるからな。……あと、スニエリタの背中の件はまだ話してない」
「あ、それは言わないほうがいいから、それで正解」
もしその話をしたら、絶対に見せろと言ってくる。スニエリタに対して脱げと言うも同然だ。
さすがにそれはスニエリタが可哀想すぎるし、どうせ見せて納得させたところで連れ帰るのをやめることにもならないだろうし。
いや、もちろんララキも可哀想だよ。
自分で言うのもなんだけど、最大の秘密を勝手に暴露されたんだよ、自分の知らないところで、しかもよりによって嫌なやつに。
こんなのってないよ。
なんかもう泣きそうだったが、とりあえず背後の会話の違和感もこれでわかった。
ロディルが明らかにスニエリタがタヌマン・クリャに操られていたことを知っている体で話しているからだ。
とりあえずミルンに部屋に入るよう指示を出し、ロンショットさんが戻ってきたのでロディルとヴァルハーレの間に座らせて、ララキは今世紀最大ほどの大きな溜息をついた。
みんな困惑顔でこちらを見ている。
こっちはそれどころじゃあないよと思いながら、入ってきたミルンを指差す。
「この人があれこれ喋ったと思うんだけど」
できるだけ冷静に喋ろうと思ったが、感情が滲んでいがいがした声が出た。
ミルンが小さな声でごめんとまた言った気がするがそれはもういい、もうあと何度言われてもこの悲しみは癒えないし、回数こなせばいいってもんでもない。
「あたしからも捕捉。あたしもスニエリタもタヌマン・クリャと深く関わりすぎたから、もうどこに行っても外神に簡単に見つけられるような状態になってるの。だからスニエリタをこのままつれて帰るとマヌルドが大変なことになるかも」
「……何を言い出すかと思えば。だから僕らに諦めろと? そもそもそんな荒唐無稽な話を信じるなんて、僕は一言も言っていないんだがな」
「ミルンくんから、あなたなら証拠を見せられるというように伺ったのですが……」
なんだと。
さっとミルンを見ると、めちゃくちゃ申し訳なさそうな顔で頷いている。
証拠って、……証拠ってなんだろう。
まさかここにシッカを呼ぶわけにはいかないし。
正直シッカの姿を見せれば有無を言わせず理解してもらえるとは思うけれど、そんなことのために彼を消耗させたくない。こっちは毎日、会いたい気持ちを堪えているというのに。
かといって他の神を自由に呼べるわけではない。
みんな一度きりしか呼んだことがないし、ルーディーンは招言詩が長くてうろ覚えだ。
フォレンケも夢の中だったし紋章が見えなかった。
だいたいにして呼ぼうと思ってそうしたわけではなくて、向こうから干渉されて強制的に呼び出させられていたような状態だった。
たぶん向こうだってそう簡単に呼ばれたくないわけで、紋章や詩を覚えられないよう、気軽に呼べないように手を加えているはずだ。
きちんと覚えてやったところで無視されるかもしれない。
つまるところ、もはやララキに神を呼ぶ手立てなどないわけで。
たぶんここで誰かに語りかけても、良くてフォレンケあたりの結界に呼ばれてくっちゃべるだけだろう。
それは傍から見るとララキが倒れるだけだ。
そのあと会話内容を話しても信じてもらえるのはミルンやスニエリタだけ。あとロディルも。
もしくはここはオーファト領の寺院だから、全力で頼めば出てくるかもしれない。あのでかいサソリが。
それはそれで気持ち悪いからやだ。あとあの神は性格がなんか面倒くさそう。
どうしよう。他に呼んだらすぐ来てくれそうな神なんて、……あっ。
もしかしたらいるかもしれない。どこででも呼べる、なおかつ、呼んだらきっと反応してくれる神。
いやそこまで都合よくはいかないかもしれないが、試してみる価値はあるだろう。
ララキは覚悟を決め、そして、叫んだ。
「ガエムっちゃーーーん!」
その場の全員がぎょっとしてララキを見る。
とくにミルンのひきつり具合がすごいが、ロディルもかなり引いている。こちらはララキが呼んだ相手が何者かを知っているからこその反応だ。
恐らくガエムトの名を聞いてもぴんとこないマヌルド人三人は、ただララキの突然の絶叫に驚いたふうだった。
だが、すぐにそれは違う驚愕にとってかわる。
狙いどおり、ぼこ、という音がした。
ララキはすばやく立ち上がって庭へと続く引戸を開け放つと、すぐさま冷たい夜風が吹き込んでくる。
いや、夜風というにはあまりにも冷たすぎるそれは、まるで誰かの泣き声のような物悲しい風音とともに室内に流れ込んできた。
きれいに整備されていた庭の芝は消え失せ、そこには赤黒い泡が幾つも吹き上げられている。
もはやララキにとっては見慣れた光景だが、他の人間たちにとってはそうではない。
スニエリタは悲鳴を上げ、ロディルは絶句し、軍人たちは身構える。
泡沫の下からは青黒い手が天へと突き出される。
ああ、こうして見ると腐りかけの死体のような色だ。
一旦空を掻いてから、泡だってぎたぎたの地面を掴んだそれが、残りの身体をぐいと引きずり出す。
骨の仮面が月光に照らされておぞましいほどに白く、眼窩の暗闇がなおいっそう洞洞と黒い。
顕現するというよりは、這い出てきたという風情のガエムトは、まず咆哮した。
またあの冷気が全員の顔に吹きつける。氷室に放り込まれたような寒さに、さすがにララキもマントの裾をひっぱって身体を包んだ。
結界なしに顕現するとこんなことになってしまうのか。
何はともあれ神は呼べた。
それが忌神であるという点がやや問題だが、外見の衝撃度から言えば文句はないはずだ。
どこからどう見てもこの世の生きものではないガエムトを前に、あらゆる神の存在を否定しようとする感情が消え失せるはず。
どうよ、と言いたかったが──あまりに寒すぎた。
物理的に寒いというよりは、身体の芯が凍える感じがした。身に帯びる冷感以上に身体が震えるのはどうしようもない恐怖のせいだろうか。
渾名をつけて親しみを持とうとしてみたが、やはりそんなことをしていい相手ではなかった。
ガエムトが一歩歩くたび、喉元を氷が滑り落ちていくような恐ろしさを感じる。
『呼ばれた……ガエムト、呼ばれた……』
ガエムトが喋るたび、彼の顎を灰色の唾が滴り落ちるたび、脚が床に凍りついたような心地がする。
『ヌダ・アフラムシカ……臭い、する……タヌマン・クリャ、臭い、するぞ……どこだ? どこだ?』
「う……あ……」
『喰う。ガエムト、喰う。喰えるもの、みな喰う』
ガエムトが歯を打ち鳴らす。全員の心臓がびくりと跳ねる。
ガエムトはゆっくりと頭を振りながら、誰から喰おうか悩んでいるのだろうか、一人ずつ顔を改めていく。
ヴァルハーレを見てかたかたと顎を振って仮面のどこかで音を鳴らしたのは、笑っているのだろうか。
この場でいちばん紋唱術に長けている者のひとりだ、ガエムトからすれば、多少なりと美味しそうに見えるのかもしれない。
彼の喉から引きつった悲鳴のなりそこないみたいな音が漏れて、動けない身体で手だけが布団を掻いたのが見えた。
次にロンショットを見て、クウウ、と鼻を鳴らす。
ロディルを見ると、またかたかたと顎を鳴らす。
ミルンとスニエリタ──ミルンがスニエリタを庇うような体勢だったため──には、アアア、とこれまた意味のわからない鳴き声。
そして最後にララキを見て、彼はきょとんと首を傾げた。ようやく自分を呼んだのが誰かわかったのか。
「ガエムっちゃん、い、いきなり呼んで、ごめんね……そん、でもって、わ、悪いけど、この場の誰も、食べないで……」
否応なしに身体が震えるため上手く喋れないような状態だが、なんとかそう伝える。
この前はなんとか意思の疎通もできたのだ、ガエムトだって話せばわからないでもないのだから、とにかく話しかけるのが大事だろう。
呼べさえすればもう目的は果たせたので、あとはどうやってお帰りいただくか。
そう思った矢先、ララキの頭をむんずと掴んだ者がいた。
腐った果物のような臭いがして、指と思われるところは氷を押し付けられたように冷たくて、一瞬何が起きたのかわからなかった。
だが目の前のこの暗黒色の硬い体毛に覆われた太い腕はガエムトのもので、続いてこの奇妙な感覚は恐らく身体が浮き上がるときのそれ……?
──あ、殺される。
いやに冷静にそう思った。
唾で粘ついた歯がララキの眼前に迫ってくるのが、なぜかものすごくゆっくりに思えた。
意外に鋭い牙ではなく臼歯のような形の歯が並んでいて、舌の色はレバーのようなくすんだ赤色だ、というところまで観察してしまったくらいだ。
果たしてその歯がララキの頭を噛み潰す寸前に、ばりん、と何かが砕ける音がした。
→
めいっぱい練習をして、気づいたらふたりは泥だらけになっていた。
そういうわけで寺院に戻るなりお風呂に入り、それから夕食の支度を手伝おうとしたらもう大半が終わっていたので、もうあとは運ぶくらいしかやることが残っていない。
ところで食材とかどうしてるんだろうと今さらすぎる疑問を抱いたララキだったが、もちろん外で買ってきたものですよ、とロンショットさんにめちゃくちゃ笑顔で答えられた。
ちなみに資金はヴァルハーレが提供してくれているそうです。
とにかくめちゃくちゃ嫌なやつ、という認識をそろそろ緩めてあげてもいいかもしれない。
ちなみにマヌルドの郷土料理だったようで、スニエリタはどこか懐かしそうな顔だった。
一方、食べ慣れないミルンは終始珍しいものを見る顔をしていたし、ロディルはちょっと引きつっていた。マヌルドに居たときのことでも思い出してしまったのだろうか。
もちろんララキは美味しくいただいた。
みんなが揃って薬臭いと評するお茶だろうと平気で素飲みできる舌の持ち主である。砂糖とスパイス入りのほうはおやつ感覚でいただいている。
少し多く作りすぎてしまったロンショットさんが僧侶たちに差し入れをしにいったので、その間にララキとスニエリタとで片付けをする。
ふたりでやれば洗いものもあっという間だ。
ついでにララキの発案で明日の朝食用の仕込みまで済ませ、一段落してまた部屋へと戻る。
ミルンがいない。ロディルに尋ねてみると、庭で運動してるよ、と返ってきた。またやってるのか。
夜は気温が下がってけっこう寒いので引戸は締め切られている。
それをちょっと開いて外を覗くと、たしかにえっちらおっちら歩いているミルンがいた。
「おーいミルーン、寒くないー?」
声をかけてみる。怪我人なのだし、あまり身体を冷やさないほうがいいと思うのだが。
「どこがだよ。紅葉月も終わりがけだってのに温かすぎて驚いてるぐらいだっつの」
「あーそっか雪国出身だもんね……でもさあ、リハビリもあんまりやりすぎないほうがいいんじゃない。どのみち神さまたちの方針が決まるまでは動けないんだし、まずは怪我をちゃんと」
「ララキ」
ふいに言葉を遮るような形で名前を呼ばれて面食らう。
ミルンのほうもちょっとばつが悪そうというか、何か言いにくそうな顔をしているようだったが、薄暗くてよく見えなかった。
庭の明かりは燈籠がひとつ灯っているだけだ。
そのままのろのろとミルンが歩いてくるのを、待っているのがやたら長く感じた。
後ろではスニエリタがロディルと何か話している。
これまでの旅の話をしているようだが、その会話にどうにも違和感があったララキは、思わず耳をじっと凝らしてしまった。
──それは大変だったね、じゃあ今もその間の記憶は戻っていないのか。
──ええ、何か、いい方法はないのでしょうか。
ララキがその違和感の正体に気づく前に、ミルンが目前に辿り着く。
「あのさ、……、俺、おまえにひとつ謝らなきゃならない」
「え、なに、急に」
「おまえがスニエリタを探しに行ってる間に、おまえの出自とか、どういう理由でここまで旅をしてきたのかとか、ぜんぶあいつらに説明した」
「……えぇ……」
肩からがっくり力が抜けるのを感じながら、ララキの喉からどうしようもない息が漏れる。
自分で言うならまだしも、いない間に勝手にこいつ、何てことしてくれた。
旅をしてきた理由のほうはまだいいけど、ララキが呪われた民だってことまでバラしちゃったのか。
ああ、そうだよ、それは紛れもない事実なわけだけど、でも、それでもさ。
悄然とするララキに、ほんとうにごめん、とミルンの力ない謝罪の言葉が差し出される。
「……なんで?」
「あっちのほうから説明しろって言ってきたんだ。たぶんきっかけは昨夜おまえとスニエリタが額を合わせてあれこれ言ってたから……やっぱりおまえが戻ってからちゃんと話し合っとくべきだったよな。ごめん」
「もういいよ……それで、向こうの反応はどうだったの?」
「信じ難いな、の一言だった。さすがに俺の言葉だけじゃ説得力に欠けるからな。……あと、スニエリタの背中の件はまだ話してない」
「あ、それは言わないほうがいいから、それで正解」
もしその話をしたら、絶対に見せろと言ってくる。スニエリタに対して脱げと言うも同然だ。
さすがにそれはスニエリタが可哀想すぎるし、どうせ見せて納得させたところで連れ帰るのをやめることにもならないだろうし。
いや、もちろんララキも可哀想だよ。
自分で言うのもなんだけど、最大の秘密を勝手に暴露されたんだよ、自分の知らないところで、しかもよりによって嫌なやつに。
こんなのってないよ。
なんかもう泣きそうだったが、とりあえず背後の会話の違和感もこれでわかった。
ロディルが明らかにスニエリタがタヌマン・クリャに操られていたことを知っている体で話しているからだ。
とりあえずミルンに部屋に入るよう指示を出し、ロンショットさんが戻ってきたのでロディルとヴァルハーレの間に座らせて、ララキは今世紀最大ほどの大きな溜息をついた。
みんな困惑顔でこちらを見ている。
こっちはそれどころじゃあないよと思いながら、入ってきたミルンを指差す。
「この人があれこれ喋ったと思うんだけど」
できるだけ冷静に喋ろうと思ったが、感情が滲んでいがいがした声が出た。
ミルンが小さな声でごめんとまた言った気がするがそれはもういい、もうあと何度言われてもこの悲しみは癒えないし、回数こなせばいいってもんでもない。
「あたしからも捕捉。あたしもスニエリタもタヌマン・クリャと深く関わりすぎたから、もうどこに行っても外神に簡単に見つけられるような状態になってるの。だからスニエリタをこのままつれて帰るとマヌルドが大変なことになるかも」
「……何を言い出すかと思えば。だから僕らに諦めろと? そもそもそんな荒唐無稽な話を信じるなんて、僕は一言も言っていないんだがな」
「ミルンくんから、あなたなら証拠を見せられるというように伺ったのですが……」
なんだと。
さっとミルンを見ると、めちゃくちゃ申し訳なさそうな顔で頷いている。
証拠って、……証拠ってなんだろう。
まさかここにシッカを呼ぶわけにはいかないし。
正直シッカの姿を見せれば有無を言わせず理解してもらえるとは思うけれど、そんなことのために彼を消耗させたくない。こっちは毎日、会いたい気持ちを堪えているというのに。
かといって他の神を自由に呼べるわけではない。
みんな一度きりしか呼んだことがないし、ルーディーンは招言詩が長くてうろ覚えだ。
フォレンケも夢の中だったし紋章が見えなかった。
だいたいにして呼ぼうと思ってそうしたわけではなくて、向こうから干渉されて強制的に呼び出させられていたような状態だった。
たぶん向こうだってそう簡単に呼ばれたくないわけで、紋章や詩を覚えられないよう、気軽に呼べないように手を加えているはずだ。
きちんと覚えてやったところで無視されるかもしれない。
つまるところ、もはやララキに神を呼ぶ手立てなどないわけで。
たぶんここで誰かに語りかけても、良くてフォレンケあたりの結界に呼ばれてくっちゃべるだけだろう。
それは傍から見るとララキが倒れるだけだ。
そのあと会話内容を話しても信じてもらえるのはミルンやスニエリタだけ。あとロディルも。
もしくはここはオーファト領の寺院だから、全力で頼めば出てくるかもしれない。あのでかいサソリが。
それはそれで気持ち悪いからやだ。あとあの神は性格がなんか面倒くさそう。
どうしよう。他に呼んだらすぐ来てくれそうな神なんて、……あっ。
もしかしたらいるかもしれない。どこででも呼べる、なおかつ、呼んだらきっと反応してくれる神。
いやそこまで都合よくはいかないかもしれないが、試してみる価値はあるだろう。
ララキは覚悟を決め、そして、叫んだ。
「ガエムっちゃーーーん!」
その場の全員がぎょっとしてララキを見る。
とくにミルンのひきつり具合がすごいが、ロディルもかなり引いている。こちらはララキが呼んだ相手が何者かを知っているからこその反応だ。
恐らくガエムトの名を聞いてもぴんとこないマヌルド人三人は、ただララキの突然の絶叫に驚いたふうだった。
だが、すぐにそれは違う驚愕にとってかわる。
狙いどおり、ぼこ、という音がした。
ララキはすばやく立ち上がって庭へと続く引戸を開け放つと、すぐさま冷たい夜風が吹き込んでくる。
いや、夜風というにはあまりにも冷たすぎるそれは、まるで誰かの泣き声のような物悲しい風音とともに室内に流れ込んできた。
きれいに整備されていた庭の芝は消え失せ、そこには赤黒い泡が幾つも吹き上げられている。
もはやララキにとっては見慣れた光景だが、他の人間たちにとってはそうではない。
スニエリタは悲鳴を上げ、ロディルは絶句し、軍人たちは身構える。
泡沫の下からは青黒い手が天へと突き出される。
ああ、こうして見ると腐りかけの死体のような色だ。
一旦空を掻いてから、泡だってぎたぎたの地面を掴んだそれが、残りの身体をぐいと引きずり出す。
骨の仮面が月光に照らされておぞましいほどに白く、眼窩の暗闇がなおいっそう洞洞と黒い。
顕現するというよりは、這い出てきたという風情のガエムトは、まず咆哮した。
またあの冷気が全員の顔に吹きつける。氷室に放り込まれたような寒さに、さすがにララキもマントの裾をひっぱって身体を包んだ。
結界なしに顕現するとこんなことになってしまうのか。
何はともあれ神は呼べた。
それが忌神であるという点がやや問題だが、外見の衝撃度から言えば文句はないはずだ。
どこからどう見てもこの世の生きものではないガエムトを前に、あらゆる神の存在を否定しようとする感情が消え失せるはず。
どうよ、と言いたかったが──あまりに寒すぎた。
物理的に寒いというよりは、身体の芯が凍える感じがした。身に帯びる冷感以上に身体が震えるのはどうしようもない恐怖のせいだろうか。
渾名をつけて親しみを持とうとしてみたが、やはりそんなことをしていい相手ではなかった。
ガエムトが一歩歩くたび、喉元を氷が滑り落ちていくような恐ろしさを感じる。
『呼ばれた……ガエムト、呼ばれた……』
ガエムトが喋るたび、彼の顎を灰色の唾が滴り落ちるたび、脚が床に凍りついたような心地がする。
『ヌダ・アフラムシカ……臭い、する……タヌマン・クリャ、臭い、するぞ……どこだ? どこだ?』
「う……あ……」
『喰う。ガエムト、喰う。喰えるもの、みな喰う』
ガエムトが歯を打ち鳴らす。全員の心臓がびくりと跳ねる。
ガエムトはゆっくりと頭を振りながら、誰から喰おうか悩んでいるのだろうか、一人ずつ顔を改めていく。
ヴァルハーレを見てかたかたと顎を振って仮面のどこかで音を鳴らしたのは、笑っているのだろうか。
この場でいちばん紋唱術に長けている者のひとりだ、ガエムトからすれば、多少なりと美味しそうに見えるのかもしれない。
彼の喉から引きつった悲鳴のなりそこないみたいな音が漏れて、動けない身体で手だけが布団を掻いたのが見えた。
次にロンショットを見て、クウウ、と鼻を鳴らす。
ロディルを見ると、またかたかたと顎を鳴らす。
ミルンとスニエリタ──ミルンがスニエリタを庇うような体勢だったため──には、アアア、とこれまた意味のわからない鳴き声。
そして最後にララキを見て、彼はきょとんと首を傾げた。ようやく自分を呼んだのが誰かわかったのか。
「ガエムっちゃん、い、いきなり呼んで、ごめんね……そん、でもって、わ、悪いけど、この場の誰も、食べないで……」
否応なしに身体が震えるため上手く喋れないような状態だが、なんとかそう伝える。
この前はなんとか意思の疎通もできたのだ、ガエムトだって話せばわからないでもないのだから、とにかく話しかけるのが大事だろう。
呼べさえすればもう目的は果たせたので、あとはどうやってお帰りいただくか。
そう思った矢先、ララキの頭をむんずと掴んだ者がいた。
腐った果物のような臭いがして、指と思われるところは氷を押し付けられたように冷たくて、一瞬何が起きたのかわからなかった。
だが目の前のこの暗黒色の硬い体毛に覆われた太い腕はガエムトのもので、続いてこの奇妙な感覚は恐らく身体が浮き上がるときのそれ……?
──あ、殺される。
いやに冷静にそう思った。
唾で粘ついた歯がララキの眼前に迫ってくるのが、なぜかものすごくゆっくりに思えた。
意外に鋭い牙ではなく臼歯のような形の歯が並んでいて、舌の色はレバーのようなくすんだ赤色だ、というところまで観察してしまったくらいだ。
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