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西の国 ヴレンデール
115 盟主顕現④ ‐ 大河の主、総ての生命の源を知る者、あるいは精霊の王
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ごぼり、がぼ、と音と立てて互いの口から泡沫が溢れ出るのを夫妻は見た。
まったく意味がわからなかった。
さきほどまで物寂しくも温もりのある寝室だったその部屋は、天井ぴったりまで透明な水に満たされており、それなのに壁掛けの灯りは何事もなく柔らかな光を放ち続けている。
夫妻の身体も浮力に弄ばれるということはなく、寝台に横たえたまま自由に動くこともできた。
呼吸も苦しくはない。
ただ、妻の声は聞こえなかった。彼女は驚愕の表情でハイダールの肩の向こうを見つめている。
その口が動いても、声の代わりに泡がぶくぶくと出て行くだけだ。
ハイダールも意を決して振り向くと、そこには光があった。
他に表現のしようもない。火でもなければ紋章でもなく、ただ光の玉がぽっかりと水中に浮かんでいる。
色は白のように思えるが、光球の周りはどこか虹色に滲んでいるようにも見えた。
光は次第に大きくなっていく。
初めは手のひらほどの大きさだったものが、いつしか部屋いっぱいにまで広がり、あまりの眩しさに直視も難しいほどだった。
そしてその中心にゆらりと紋章らしいものが現れたのをハイダールは見た。
それはあまりにも複雑な図匠で、人間が描いたものではないことも即座に理解できた。
ハイダールは妻の手を取ると、寝台を下りた。
直感的にそうした。あるいは紋唱術師としての経験と知識がそうさせたのかもしれない。
光の中の紋様が増大していくにつれて立っていることができなくなり、いつしか夫妻は膝を折って、その場にずるずるとひれ伏す恰好になっていた。
顔を上げることもできない。だが、見なくとも、感じる。
それは巨大な魚だ。硝子か鏡のような光沢のある鱗に全身を覆われ、それゆえ虹色の輝きを放つという、この世でもっとも気高い神の一柱。
大河ペルを神体とする至高の存在。
全マヌルドの父にして母、永らくマヌルド人が主神として崇め祀ってきた偉大なる神ペル・ヴィーラであると。
身体は震え、額はひたすら床へと下がる。
水が揺れるのを感じる。
頭を伏せたままで光の端しか見えないが、確かに今そこにそれはいる。
『ハイダール……クイネス、とか言ったか……?』
やがて、声がした。
男にしてはやや高く、女にしてはいささか低すぎるが、清流のせせらぎのように美しく、耳に心地よい澄んだ声だった。
──吾はペル・ヴィーラなり。今宵は汝に伝えねばならぬことがあり参った。一度しか言わぬゆえ、心して聞け。
『貴様の娘、スニエリタ・クイネスは、今しばらくクシエリスルが預かる』
「……! がぼッ、ごぼほォぶッ」
『何故だ、と言ったか。それは人間である貴様の知るべきことではない。だが……ふむ、理由の何もわからぬでは辛かろうの』
少し間が空き、恐らく神も思案していたのだろう。やがてペル・ヴィーラはこう続けた。
『娘は、吾らの領世に深入りしすぎた。ある種の穢れを負ったとも言える。それゆえ、禊が済まねば此方に帰すことができぬのだ』
「ごぼっ……」
『うむ、しかるべき儀を終えれば帰そう。それまでは待つがよい』
神の言葉はそれですべてだった。
それ以上は何も語らず、次第に気配が薄れていった。
ハイダールは頭を垂れたまま、床の石材の色をただ眺めながら、ペル・ヴィーラに言われたことをゆっくりと呑み込もうとしていた。
だが、何から何まで信じられないことばかりだ。
スニエリタの行方のこともそうだが、そのために今この部屋に神が顕現したのだという事実を受け入れるのにも、しばしの時間を要した。
気づいたら床に触れたままの裸足がすっかり冷えてしまっていた。
ようやく顔を上げられるようになったころ、室内には一滴の水も残ってはいなかった。
もはや疲れのために幻覚を見たのだろうかとさえ思った。
まともに考えたら一瞬で寝室全体が水没するなんてことはどんな紋唱術を使ったとしても不可能だし、あまつさえ神の声を聞いたなどと、世の人が聞いたら将軍はとうとう頭がおかしくなったのだと思われても仕方がない。
だが、隣でハイダールの腕を掴んで震えている妻が、今のはハイダールがひとりで見た幻覚ではなかったのだと教えてくれていた。
彼女の手を取って一緒に立ち上がる。
ヴァネロッタは両眼に涙を湛えながら、ハイダールに尋ねた。
「あなた、今のは……夢ではないのね……?」
「……ああ。ふたり同時に幻を見るということもあるまい……だが、念のため、互いに何を聞いたか検めよう。
スニエリタの話だったな」
「ええ。あの子はクシエリスルの神々の元にいると言われたわ。そしてあの方はペル・ヴィーラと名乗られた……部屋がまるで海の底のようになって……」
今はもう、水の気配さえ感じられない。もちろん互いの身体や服にも濡れたところはひとつもなかった。
それ以外にも神が顕現したことを示す痕跡は何ひとつない。
妻と自分の記憶以外に、今起きたことを証言するものはないのだ。もはや自分のことすら信じ難い。
だが、妻を疑うことだけは、それだけは決してできなかった。
彼女は帝都じゅうの数多の女の中から選びぬいた、ハイダールが知りうるかぎり帝国で最高級の女だ。
容姿と知性は元より、絶対に己を裏切り欺くことだけはしない、そのような姦計とは遠い性格をした、温和で実直な女なのだ。
世界中が敵に回っても伴侶だけは自分を見捨てることがないように、その一点にもっとも重きを置いて選んだ妻がこのヴァネロッタなのだ。
それゆえ自分も妻にだけは疑いを抱いてはならない。婚約したときからずっと誓い合ってきたことだった。
その妻が一緒に見たという。聞いたという。
ならば、それは現実だ。
どんな異常も幻想も夢ではない。
「……必要な儀式が終われば帰す、とも言っていたな」
「いったいスニエリタに何があったというの……ああ、どうか無事でありますように……!」
妻を抱き締めながら、ハイダールも願った。スニエリタが何事もなく帰ってくることを。
だが、神はどれくらいの間スニエリタの身を預かるのかを明言しなかった。
もしそれが何十年も先のことだったらどうするのだ。それまでどんな思いで待てばいい。クイネス家の跡目を誰にどうやって継がせろというのだ。
だいたい、神の領域とは何だ?
どうやって人の身でそんなところに深入りなどできるというのだ?
穢れとは何なのだ。
禊、というのは何を行うのだ。
それにはどれほどの時間がかかるのだ。
あまりにも、わからないことが多すぎた。
恐らく神が言わんとしていたのは、スニエリタを探すのをやめろということだろう。
娘はもはや人の領域にはいないのだ、この大陸のどこを探しても無駄だから、帰ってくるのを大人しく待っていろと、そういうことなのだろう。
惨いものだと思う。主神御自ら顕現してそのように言われれば、帝国将軍とはいえども頭を垂れてその言葉を聞くほかない。
まともに返事すらできない状況で、あれ以上は疑問を挟むことも、反論したり詳しく聞きだすこともできなかった。
ただ一方的に言葉を受け取って頷くしかないのだ。
納得などできるはずがない。
だが、もう去ってしまった神に、どうやってこの無念をぶつけられようか。
かつて人びとは、安寧と平和を求めて神を祀った。
生活が豊かになるように、敵対する外部の勢力から集落が護られるように、そして日々生きていく中で抱える苦しみを少しでも軽くするために。
だが、実際に神が顕現して残されたのは、ほとんど絶望に近い感情だった。
これではたったひとりの娘を永久に失ったのと同じではないか。
父親として、伯爵家の当主として、将軍として、それはあまりにも手痛い喪失だ。
もはや震えているのが自分か妻かもわからない。
──ああ、神よ。ペル・ヴィーラよ。私はどうすればいいというのか。
: * : * :
ここはどこだろう。
気がつくと、ララキは見知らぬ場所に立っていた。
空気の感じや日差しの強さにはなんとなく覚えがあって、たぶんイキエスのどこかだろうとは思ったが、見下ろす街並みはまったく知らないものだった。
ちなみにララキが立っているのは山の上のようだ。
周りの植物を見てみても、南国のものであることは間違いない。
ララキだってイキエス国内でも行ったことのない場所はたくさんあるので、ここもそうなのだろうと思いつつ、とりあえずあたりを見回した。
ミルンやスニエリタの姿はない。
とりあえずこの山から下りたほうがいいかな、と考えて、一歩踏み出す。
するとぐにゃりと地面が揺らいだ。
え、と思って下を見ると、そこには何もない。あるべき地面がないのだ。
ちょうど崖から飛び出してしまったような状況で、もうあとは落ちるだけだということを理解したララキはぞっとして叫びそうになるが、不思議なことにそれ以上は沈まなかった。
変な表現だが、ララキの足は空中に留まっていたのだ。まるでそこに見えない足場があるかのようだ。
恐る恐るもう一歩歩いてみると、そのままふわりと身体が浮かんだ。
落ちないどころか空を飛んでいる。
そこまで至ってようやくこれが夢だということに気づく。
しかし、今まで神の結界に呼ばれるような夢はいろいろ見てきたわけだが、これはほんとうに単なる夢のようだ。
だって空を飛んだりしたことはないし、だいたい今まではヴレンデールにいたのだ。イキエスの神に呼ばれることなどありえない。
「……でも、あたし今どこにいるんだっけ?」
寝る前の状況をいまいち思い出せないのだ。
なんか変だなあと思いながらも、とりあえずは空中散歩を楽しむことにした。まずは街のほうに下りてみようか。
ふよふよと空を泳ぐようにして眼下の街へと近づいてみる。
そちらもそちらで、なんとも奇妙だった。
今日び、イキエス国内でしかもそれなりの規模の街だというのに、石畳のひとつも敷いていないのだ。
それに道行く人たちの服装の古めかしいこと。
イキエスの民族衣装といえばベストとゆったりしたズボンで、それ自体は今でも着ている人はいる。ララキだって似たような恰好だ。
だが、さすがにベストの下にシャツを着てないのなんて田舎の老人くらいなものだし、ズボンの留め具が紐なのは形式として古すぎる。最近はボタンか飾り帯が主流だ。
それに髪型もみんなもっさりしているし、建物が低すぎる。ほとんど平屋で二階建てすら見当たらない。
しばらくそれを眺めてから、もしかしたらイキエスはイキエスでも、昔の光景なのではないか、と思いついた。
しかしそんなものを夢に見るのもよくわからないのだが。
まあしょせんは夢なので、突拍子もないのは仕方がないだろう。
それにララキはかなり地上に近いところを飛んでいるが、誰もララキのことを気にしていない。
気づいていないというか、見えていないかのようだ。
しかし街の中を眺めるのも飽きてしまったし、このあとどうしようかな、とララキが顔を上げたときだった。
一筋の光が街の向こうから飛び出して、そのまま空の彼方をすーっと飛んでいくのが見えた。
あれはなんだろう。流れ星ではないし、それにそのことも人びとは気がついていない。
とりあえず追いかけてみよう。
ララキはぐっと足に力を入れて、そうするとひゅーんと身体が飛んでいく。
→
ごぼり、がぼ、と音と立てて互いの口から泡沫が溢れ出るのを夫妻は見た。
まったく意味がわからなかった。
さきほどまで物寂しくも温もりのある寝室だったその部屋は、天井ぴったりまで透明な水に満たされており、それなのに壁掛けの灯りは何事もなく柔らかな光を放ち続けている。
夫妻の身体も浮力に弄ばれるということはなく、寝台に横たえたまま自由に動くこともできた。
呼吸も苦しくはない。
ただ、妻の声は聞こえなかった。彼女は驚愕の表情でハイダールの肩の向こうを見つめている。
その口が動いても、声の代わりに泡がぶくぶくと出て行くだけだ。
ハイダールも意を決して振り向くと、そこには光があった。
他に表現のしようもない。火でもなければ紋章でもなく、ただ光の玉がぽっかりと水中に浮かんでいる。
色は白のように思えるが、光球の周りはどこか虹色に滲んでいるようにも見えた。
光は次第に大きくなっていく。
初めは手のひらほどの大きさだったものが、いつしか部屋いっぱいにまで広がり、あまりの眩しさに直視も難しいほどだった。
そしてその中心にゆらりと紋章らしいものが現れたのをハイダールは見た。
それはあまりにも複雑な図匠で、人間が描いたものではないことも即座に理解できた。
ハイダールは妻の手を取ると、寝台を下りた。
直感的にそうした。あるいは紋唱術師としての経験と知識がそうさせたのかもしれない。
光の中の紋様が増大していくにつれて立っていることができなくなり、いつしか夫妻は膝を折って、その場にずるずるとひれ伏す恰好になっていた。
顔を上げることもできない。だが、見なくとも、感じる。
それは巨大な魚だ。硝子か鏡のような光沢のある鱗に全身を覆われ、それゆえ虹色の輝きを放つという、この世でもっとも気高い神の一柱。
大河ペルを神体とする至高の存在。
全マヌルドの父にして母、永らくマヌルド人が主神として崇め祀ってきた偉大なる神ペル・ヴィーラであると。
身体は震え、額はひたすら床へと下がる。
水が揺れるのを感じる。
頭を伏せたままで光の端しか見えないが、確かに今そこにそれはいる。
『ハイダール……クイネス、とか言ったか……?』
やがて、声がした。
男にしてはやや高く、女にしてはいささか低すぎるが、清流のせせらぎのように美しく、耳に心地よい澄んだ声だった。
──吾はペル・ヴィーラなり。今宵は汝に伝えねばならぬことがあり参った。一度しか言わぬゆえ、心して聞け。
『貴様の娘、スニエリタ・クイネスは、今しばらくクシエリスルが預かる』
「……! がぼッ、ごぼほォぶッ」
『何故だ、と言ったか。それは人間である貴様の知るべきことではない。だが……ふむ、理由の何もわからぬでは辛かろうの』
少し間が空き、恐らく神も思案していたのだろう。やがてペル・ヴィーラはこう続けた。
『娘は、吾らの領世に深入りしすぎた。ある種の穢れを負ったとも言える。それゆえ、禊が済まねば此方に帰すことができぬのだ』
「ごぼっ……」
『うむ、しかるべき儀を終えれば帰そう。それまでは待つがよい』
神の言葉はそれですべてだった。
それ以上は何も語らず、次第に気配が薄れていった。
ハイダールは頭を垂れたまま、床の石材の色をただ眺めながら、ペル・ヴィーラに言われたことをゆっくりと呑み込もうとしていた。
だが、何から何まで信じられないことばかりだ。
スニエリタの行方のこともそうだが、そのために今この部屋に神が顕現したのだという事実を受け入れるのにも、しばしの時間を要した。
気づいたら床に触れたままの裸足がすっかり冷えてしまっていた。
ようやく顔を上げられるようになったころ、室内には一滴の水も残ってはいなかった。
もはや疲れのために幻覚を見たのだろうかとさえ思った。
まともに考えたら一瞬で寝室全体が水没するなんてことはどんな紋唱術を使ったとしても不可能だし、あまつさえ神の声を聞いたなどと、世の人が聞いたら将軍はとうとう頭がおかしくなったのだと思われても仕方がない。
だが、隣でハイダールの腕を掴んで震えている妻が、今のはハイダールがひとりで見た幻覚ではなかったのだと教えてくれていた。
彼女の手を取って一緒に立ち上がる。
ヴァネロッタは両眼に涙を湛えながら、ハイダールに尋ねた。
「あなた、今のは……夢ではないのね……?」
「……ああ。ふたり同時に幻を見るということもあるまい……だが、念のため、互いに何を聞いたか検めよう。
スニエリタの話だったな」
「ええ。あの子はクシエリスルの神々の元にいると言われたわ。そしてあの方はペル・ヴィーラと名乗られた……部屋がまるで海の底のようになって……」
今はもう、水の気配さえ感じられない。もちろん互いの身体や服にも濡れたところはひとつもなかった。
それ以外にも神が顕現したことを示す痕跡は何ひとつない。
妻と自分の記憶以外に、今起きたことを証言するものはないのだ。もはや自分のことすら信じ難い。
だが、妻を疑うことだけは、それだけは決してできなかった。
彼女は帝都じゅうの数多の女の中から選びぬいた、ハイダールが知りうるかぎり帝国で最高級の女だ。
容姿と知性は元より、絶対に己を裏切り欺くことだけはしない、そのような姦計とは遠い性格をした、温和で実直な女なのだ。
世界中が敵に回っても伴侶だけは自分を見捨てることがないように、その一点にもっとも重きを置いて選んだ妻がこのヴァネロッタなのだ。
それゆえ自分も妻にだけは疑いを抱いてはならない。婚約したときからずっと誓い合ってきたことだった。
その妻が一緒に見たという。聞いたという。
ならば、それは現実だ。
どんな異常も幻想も夢ではない。
「……必要な儀式が終われば帰す、とも言っていたな」
「いったいスニエリタに何があったというの……ああ、どうか無事でありますように……!」
妻を抱き締めながら、ハイダールも願った。スニエリタが何事もなく帰ってくることを。
だが、神はどれくらいの間スニエリタの身を預かるのかを明言しなかった。
もしそれが何十年も先のことだったらどうするのだ。それまでどんな思いで待てばいい。クイネス家の跡目を誰にどうやって継がせろというのだ。
だいたい、神の領域とは何だ?
どうやって人の身でそんなところに深入りなどできるというのだ?
穢れとは何なのだ。
禊、というのは何を行うのだ。
それにはどれほどの時間がかかるのだ。
あまりにも、わからないことが多すぎた。
恐らく神が言わんとしていたのは、スニエリタを探すのをやめろということだろう。
娘はもはや人の領域にはいないのだ、この大陸のどこを探しても無駄だから、帰ってくるのを大人しく待っていろと、そういうことなのだろう。
惨いものだと思う。主神御自ら顕現してそのように言われれば、帝国将軍とはいえども頭を垂れてその言葉を聞くほかない。
まともに返事すらできない状況で、あれ以上は疑問を挟むことも、反論したり詳しく聞きだすこともできなかった。
ただ一方的に言葉を受け取って頷くしかないのだ。
納得などできるはずがない。
だが、もう去ってしまった神に、どうやってこの無念をぶつけられようか。
かつて人びとは、安寧と平和を求めて神を祀った。
生活が豊かになるように、敵対する外部の勢力から集落が護られるように、そして日々生きていく中で抱える苦しみを少しでも軽くするために。
だが、実際に神が顕現して残されたのは、ほとんど絶望に近い感情だった。
これではたったひとりの娘を永久に失ったのと同じではないか。
父親として、伯爵家の当主として、将軍として、それはあまりにも手痛い喪失だ。
もはや震えているのが自分か妻かもわからない。
──ああ、神よ。ペル・ヴィーラよ。私はどうすればいいというのか。
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ここはどこだろう。
気がつくと、ララキは見知らぬ場所に立っていた。
空気の感じや日差しの強さにはなんとなく覚えがあって、たぶんイキエスのどこかだろうとは思ったが、見下ろす街並みはまったく知らないものだった。
ちなみにララキが立っているのは山の上のようだ。
周りの植物を見てみても、南国のものであることは間違いない。
ララキだってイキエス国内でも行ったことのない場所はたくさんあるので、ここもそうなのだろうと思いつつ、とりあえずあたりを見回した。
ミルンやスニエリタの姿はない。
とりあえずこの山から下りたほうがいいかな、と考えて、一歩踏み出す。
するとぐにゃりと地面が揺らいだ。
え、と思って下を見ると、そこには何もない。あるべき地面がないのだ。
ちょうど崖から飛び出してしまったような状況で、もうあとは落ちるだけだということを理解したララキはぞっとして叫びそうになるが、不思議なことにそれ以上は沈まなかった。
変な表現だが、ララキの足は空中に留まっていたのだ。まるでそこに見えない足場があるかのようだ。
恐る恐るもう一歩歩いてみると、そのままふわりと身体が浮かんだ。
落ちないどころか空を飛んでいる。
そこまで至ってようやくこれが夢だということに気づく。
しかし、今まで神の結界に呼ばれるような夢はいろいろ見てきたわけだが、これはほんとうに単なる夢のようだ。
だって空を飛んだりしたことはないし、だいたい今まではヴレンデールにいたのだ。イキエスの神に呼ばれることなどありえない。
「……でも、あたし今どこにいるんだっけ?」
寝る前の状況をいまいち思い出せないのだ。
なんか変だなあと思いながらも、とりあえずは空中散歩を楽しむことにした。まずは街のほうに下りてみようか。
ふよふよと空を泳ぐようにして眼下の街へと近づいてみる。
そちらもそちらで、なんとも奇妙だった。
今日び、イキエス国内でしかもそれなりの規模の街だというのに、石畳のひとつも敷いていないのだ。
それに道行く人たちの服装の古めかしいこと。
イキエスの民族衣装といえばベストとゆったりしたズボンで、それ自体は今でも着ている人はいる。ララキだって似たような恰好だ。
だが、さすがにベストの下にシャツを着てないのなんて田舎の老人くらいなものだし、ズボンの留め具が紐なのは形式として古すぎる。最近はボタンか飾り帯が主流だ。
それに髪型もみんなもっさりしているし、建物が低すぎる。ほとんど平屋で二階建てすら見当たらない。
しばらくそれを眺めてから、もしかしたらイキエスはイキエスでも、昔の光景なのではないか、と思いついた。
しかしそんなものを夢に見るのもよくわからないのだが。
まあしょせんは夢なので、突拍子もないのは仕方がないだろう。
それにララキはかなり地上に近いところを飛んでいるが、誰もララキのことを気にしていない。
気づいていないというか、見えていないかのようだ。
しかし街の中を眺めるのも飽きてしまったし、このあとどうしようかな、とララキが顔を上げたときだった。
一筋の光が街の向こうから飛び出して、そのまま空の彼方をすーっと飛んでいくのが見えた。
あれはなんだろう。流れ星ではないし、それにそのことも人びとは気がついていない。
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