幸福の国の獣たち

夢 浮橋(ゆめの/うきはし)

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東の国 マヌルド

149 城砦の都アウレアシノン

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 ワクサレアどころかマヌルドの西端まで運ばれたミルンは、ふらふらになりながらウルムハルトに礼を言った。

 飛翔するときもかなりの速度と角度を体感したが、着地時のそれはさらに想像以上の勢いと内臓が揺れる感覚を味わったので、わりと真剣に吐きそうだった。
 ロディルが普段これに乗って移動していたとは到底信じがたい。

 どうもこのフクロウは元々こちらの出身らしく、用を終えても消えるのではなく近場の森へと飛んでいった。マヌルド留学時代に契約した獣だったのだろうか。

 ウルムハルトの去っていく空は朝陽に染まってきれいな茜色だ。
 夜行性の鳥だけあって夜でも平気で飛び続けてくれたのだが、それにしてもカルティワを発ってから何時間くらい経っているのだろう。
 恐ろしいほどの持久力である。

 ともかくミルンは吐き気が治まるのを待ちながらも歩き出した。
 ほんとうは休みたかったのだが、耳元で囁いてくる始祖鳥がそうはさせてくれなかった。

 姿を堂々と晒すことはないが、タヌマン・クリャはミルンにぴったりくっついてきており、飛行中からずっとあれこれ喋りかけてくる。

 正直とてもうるさい。
 長年クシエリスルからつまはじきにされてきて、話相手もいなかったのかと思うと多少憐れな気もするが。

『とにかく急いでアウレアシノンに行け。ほんとうに時間がない』
「わかってるよしつこいな……うう」

 えずきながらも必死で歩くミルンだが、悲しいことに、ミルンの新たな旅路はここから更なる困難を迎えることが予想されている。
 ここがマヌルドで、ミルンがハーシ人だからだ。

 まずアウレアシノンまでの道中、あらゆる場面でミルンは不便を被ることになるだろう。
 さすがに馬車を借りられないとかそういう事態にはならないとは思うが、ちょっと値段を倍にされたりとか、ちょっと順番を後回しにされるとか、ちょっと使用に耐えるか危うい代物を押し付けられるぐらいはふつうにある。
 なんとなれば一人旅時代にすでに一度経験もしている。

 いくらクリャが急かしても馬車の順番が回らないことにはどうしようもない。
 かといって最低限この吐き気と眩暈が治まらなければアルヌ頼みもできやしない。

 と、いうことをこの鳥もどきはどこまで理解してくれるだろうか。

 ともかくミルンは近隣の集落を目指して歩く。
 恐らく国境沿いの森に下ろされたので、近くに村なり町なりあるはずだ。

 歩きながら、ミルンは独り言のようにクリャに尋ねる。

「急に俺が来たらスニエリタも驚くんじゃないのか?」
『案ずるな、既に話は通してある。むしろおまえよりは事情を理解しているぞ』
「どういうことだよ」
『おまえにはまだ説明していないが、この私はタヌマン・クリャの傀儡だ。本体そっくりに創ってあって世界中に散らばっている。スニエリタの元にも一体配置しているし、個々が自立して活動できるが、意思は統一されている』

 これが複数いるのか、と想像してミルンは元々悪かった気分がさらに沈むのを感じた。

『私とアフラムシカが協力関係にあるのも、まさに今のような事態に備えてのことだ。内部に背反者があってアフラムシカの動きが制限されたとき、代理で活動するために私はあえて同盟には与しない形をとった。代わりに生存のための手段は問わないという条件つきでな。
 そういうわけで、効率よく生き延びるには傀儡をできるだけ多く創る必要があったのだ』

「それって要は分裂みたいなもんだろ? 自分が複数いるって気持ち悪くならねえの?」
『おまえは自分の毛髪や手足の指を気色悪いと感じるのか?
 末端の有象無象がいくらあっても本体はたったひとつの確固たる存在だ。脅かされることはない。

 ……ないはずなのだが、世界改変後、私の本体がララキともども行方不明なのだ。
 つまりおまえに探してもらいたいのは私の本体のことなのだよ。本体さえ無事なら我々は問題なくドドを排除できるのだがねえ』

 クリャの溜息が聞こえてくるようだった。

 人間であるミルンにはなかなか理解しがたい感覚だが、本体とやらと傀儡との間には越えがたい壁のようなものがあるらしい。
 しかしそんな大事な本体がどうして行方不明なんてことになったのだろうか。

 どうやら少し状況が読めてきたな、とミルンは思った。

 ララキともども、とクリャは言ったが、わざわざララキを一緒に探さなければならないということは、つまり彼女の身体じゅうにあるというクリャの印に何か関係があるのではないだろうか。
 たぶんクリャの本体が彼女の紋章に紐づけされていて、彼女を通して召喚できる形になっているのだ。

 結界から出て以後十年も放っておきながら、旅立ちに際してずっと近くに潜んでいたらしいのもそのあたりが理由なのだろう。
 恐らくクリャにとってはララキの身に危険が迫るのがまずいのだ。
 最悪の場合、つまりララキが不慮の事故などで死んでしまったりしたら、その時点で本体との接触手段が失われる可能性もあるのではないか。

 返す返す、どうしてそんな大事な本体をほったらかしにしていたのかが謎である。

「ところで、その傀儡ってのは互いに連絡したりできるのか」
『個体にもよる。こちらの都合で傀儡の質は一定ではないのだよ。ほぼ動くだけの屑もある』
「スニエリタのとこにいるのは?」
『むろん最高品質の一体だ。人体を操るというのはかなり緻密な作業になるのでね』
「彼女には記憶もちゃんと残ってるんだよな?」
『そのために目立つ印をつけたからねえ』

 ミルンはちょっと考えて、それからぼそりと呟くように尋ねた。

「……スニエリタ、俺のこと何か言ってなかったか?」
『いや何も』

 ──即答かよ。

 ミルンは内心で毒づいたが、果たしてそれもクリャには聞こえてしまうだろうか。外神はこれといって反応を見せないが。

 今ごろスニエリタはどうしているのだろう。
 強制的に実家に帰らされた形になってしまったようだが、また周りに圧されて萎縮してしまってはいないだろうか。
 ミルンにとっては行方不明のララキと同じくらいそちらも心配だった。

 もちろん気になるのはそれだけではない。あんな別れになってしまったミルンのことを、今の彼女がどう考えているのか、どんな気持ちでミルンの到着を待っているのかと思うと、胸がざわついて落ち着かない。
 それに何よりあのときの彼女の本心を聞きたいと思っているし、ミルンの気持ちも伝えたい。

 そんなことをしていいのかを悩む時期はもう過ぎた。
 傷が深くなる前に手放そうだなんて、大人ぶった考えでいられるほどミルンは達観できていなかったから。

 それに、これからミルンは彼女を攫いにいくようなものなのだ。
 それも世界を救うためとかいう大それた名目の元に。

 ただでさえハーシ人で信頼のないミルンがそんなことを言い出したとして、クイネスの家の人間は間違いなく信じてはくれないので、スニエリタを連れ出すには合法的な手段では不可能だろう。

 なので上手くスニエリタとだけこっそり落ち合うしかない。
 絶対にすぐ追跡が来るだろうが、それはクリャにどうにかしてもらうしかないだろう。

 やがて森を抜け、小さな村に辿り着いた。

 村をまるごと挟むようにして流れている二本の小川はペル河の支流だろうか。
 恐らくここは本来ならあのティルゼンカークの信仰地域だったのだろうが、今はもちろん村の中心にある小さな教会も、クシエリスルを名乗る反逆者に乗っ取られている。

 先日のことがあってティルゼンカークの印象はあまり良くないミルンではあるが、その名前すら完全に抹消されているのを見るとやはりいい気分ではない。
 何より住民たちが何も知らずに偽者を拝んでいる光景がやるせなかった。

 ともかく馬車屋を探して声をかける。
 明らかにミルンを見て困惑したようすの馬車屋の主人は、しかし想定していたような難癖をつけることもなく、すんなりミルンに一台の馬車を提示した。
 見たところ明らかな駄馬でもないし台車が痛んでいるでもない、拍子抜けするほどまともな馬車だ。

 どうやらクリャが何か手を回したらしい。急な越境だったためマヌルドの通貨を持ち合わせていなかったが、ハーシの通貨でも問題なく受け取ってもらえた。

 そこからは可能な限り速く馬車を走らせる。
 馬車は晩秋の森の中を駆け抜けていく。

 もうかなり葉が落ちている紅や黄色の広葉樹や、その根元を飾るキノコの姿は、あの試験会場のことを思い起こさせた。
 スニエリタとそこでふたりきりですごした時間が今では夢か幻のようだ。
 しばらくの間そうしていたはずなのに、どんな会話をしていたのかもあまり覚えていなくて、最後の泣き顔ばかりがちらついて離れない。

 正直に言えば、ミルンは一刻も早くスニエリタに逢いたかった。

 もはやララキや世界のことは体のいい言い訳にすぎない。
 もう一度スニエリタに逢えるのならなんだっていい。

『見えてきたぞ、城壁だ』

 いつの間にか俯いて考え込んでいたミルンは、クリャの声にはっとして顔を上げた。

 樹々の向こうにたしかに白亜の城壁が見える。
 周囲をぐるりと石造りの巨壁と甕城おうじょうに囲まれた、かつては難攻不落の城塞として知られたアウレアシノンは、今なお旅人を拒むような排他的な気配を佇まいだ。

 だいたい、正規の方法で国境を越えていないミルンには城門を開かせる手段がない。どうにか侵入経路を見つけるか、クリャにまた何か手助けをしてもらう必要がある。

 どうするんだ、と御者に聞こえないよう小さな声で尋ねると、耳元に潜む神はくつくつと笑った。

『壁でもよじ登ってみたらどうだね』
「できるか! ……おい、アウレアシノンはもう目の前だぞ、マジでどうすんだよ」

 神はまだ笑っていて、ミルンに救いの手は差し伸べられなさそうだった。
 まさかほんとうにこの壁を、見た限り数十メートルはあるうえに傾斜や棘など登りにくい工夫が多々施された、そもそも侵入者を阻むための建築物を登って越えるしかないというのか。

 馬車を降り、そびえ立つ壁を見上げながら、ミルンは溜息をついた。

「……ララキだったら登れそうだな……」

 ミルンに彼女のような身体能力はない。
 紋唱術を駆使すれば多少はどうにかなるかもしれないが、もちろんそれだけ誰かに見つかりやすくなるだろう。下手したらスニエリタに会えずに牢屋行きだ。

 どうしたものかとミルンは腕組みをして、一瞬眼を瞑った。
 そして瞬きのあと、雑踏の中に放り込まれたのでしばし呆然としてしまった。

 もちろん一秒前までは城壁の前につっ立っていたはずだ。しかし、気づけばミルンは大都市の往来のど真ん中で立ち往生している状態で、道行くマヌルド人たちが怪訝そうにこちらを見ている。
 どう考えてもクリャの仕業だが、外神はこれといって説明もしてくれない。

 ともかくミルンは慌ててその場を離れ、人目を避けるように路地裏に入った。

「おいクリャ、こういうことができるんなら先に言えよ」
『そう何度もできることではないから、あまり期待させるまいと思ったのだがね。ともかくもっと中心部に進め。クイネスの邸宅は二重城壁の内側にある』
「あ、そっか、おまえは場所も知ってるんだな。……もちろん次の壁も越えさせてくれるんだろうな」
『何度もできんと言っただろう。自力でどうにかしろ』

 使えるんだか使えないんだかわからない神である。

 基本的には頼らないほうがよさそうだなと思いつつ、ミルンは言われたとおりに内側の城壁を目指す。
 とはいえ、アウレアシノンを訪れたのは一年以上前の数日間だけなので、地理がよくわからず手間取ってしまった。
 壁の内側も侵入者が攻略しづらいように入り組んだ構造をしているせいである。

 背後からクリャに野次を飛ばされながらなんとか城壁にたどり着いたころには、もうだいぶ陽が高くなっていた。

 門番が見慣れないハーシ人をぎろりと睨んでくる。
 たしか内側の城壁の中は、皇帝一家とそこに連なる貴族たちの中でも上流の家系のみが邸宅を構えることを許された、いわば高級住宅地らしい。

 つまり一般人の出入りは基本的に不可で、素性の知れない外国人などもってのほかである。
 クイネス家のお嬢さんの知り合いですなどと言ってもまず信用されないだろう。

 今度こそどうしたものか、門番の視線から逃げるようにして城壁の周りを歩いていると、ふいに大きな音がした。
 空砲か花火の類らしい。何か祝いごとでもあるのだろうか。

 空を見上げると、明るい中でかすかに光が散ったのが見えた。城壁の内側だ。

『始まってしまったか』

 クリャが面倒そうにそう呟いた。よくわからないが彼にとってはあまり都合のいいことではないらしい。
 この状況では、もれなくミルンにとってもあまりよいことではなさそうなので、ミルンは急いで紋唱を始めた。

「クリャ、ほんの少しの間だけ俺を誰にも見えなくするとか、そういうのはできるか」
『……まあいいだろう、非常事態だからね。おまえを包む程度の小さな結界を張る。ただしほんとうにわずかな間だけしか保てないぞ』
「それでいい、頼む。──水流の紋、に重ねて地霜の紋ッ!」

 重ね描きなんて習ってもいないしやってみるのは初めてだったが、さすがに二年以上も旅をしていれば紋唱術の腕も上がっている。
 ぎりぎりのところで発動が間に合い、城壁に向けて放出された水はたちまち凍っていった。

 氷の術をしっかりと制御することで、どことなく階段ふうの形状に整える。

 その作業が終わりきらないうちからミルンはそれを駆け上り始めた。
 クリャが結界を張ってくれているうちに城壁の上まで辿り着かなければならないし、そもそもこの即席の階段だってそう長くは保たない。
 案の定、術の届きにくい上のほうが脆くなっていて、最後は落っこちかけながら狭間の窪みにしがみつくことになった。

 どうにか壁の上にはこられたが、今度はここから反対側に降りなければならない。

 けっこうな高さだ。
 飛び降りたらまず死ぬだろうし、実際それで自殺を試みた人間をミルンは知っている。

 この高さから身を投げるなんて、いくら死を覚悟していたとはいえ相当な度胸だよな、とミルンは思った。

綱樹こうじゅの紋」

 城壁に蔓植物を生やして、それをロープ代わりに下りる。

 内側には案外警備兵がいない。
 よほど侵入されない自信があるのか、それとも別の場所に集中させているのだろうか。

 下りたらそのままクリャの指示に従ってクイネス邸を目指すのだが、それが近づけば近づくほど、花火の音が大きくなっている。

 やがてミルンの眼に、信じがたい光景が飛び込んできた。

 巨大な教会の前に、大勢の人が集まっている。
 一様に礼服に身を包んだ彼らの中心には、真っ白な衣装に身を包んだ見覚えのある男が立ち、彼の隣にも同じく純白のドレスに身を包んだスニエリタがいたのだ。
 化粧でもしているのか、その顔は記憶にあるより少し大人びて見えた。

 ミルンは言葉を失った。
 この光景が何を意味しているのかはわかるし、もちろんショックだったが、それ以上にスニエリタの姿があまりにも現実的でなかったからだ。

 普段の生活では絶対に着ないであろう差し色ひとつない白一色のドレスも、それに合わせてきれいに結い上げた髪も、どこか愁いを帯びた横顔も、どれもが初めて見るものだった。

 かわいいというよりも、美しいという言葉が似合う。
 思わず黙って見とれてしまったミルンを、クリャが見えない脚で蹴飛ばした。

『呆けている場合か』

 そのとおりである。ミルンは痛む後頭部を押さえながら頷き、息を吸った。叫ぶためにだ。

 ──その結婚、

「おいおまえ! ここで何してる!?」
「ハーシ人じゃないか、どうやって壁の中に入ってきたんだ!」

 ……残念ながらミルンの制止の声が響き渡ることはなかった。

 だが、教会周辺の警備をしていた衛兵たちが騒ぎ立ててくれたので、式に参加していた全員が異変に気づいてミルンを見た。
 本来いるはずのない外国人の乱入にマヌルド人たちは眉をひそめ、中には罵声を上げる者も少なくない。

 そして、その中で、スニエリタはというと。

「──ミルンさん!」

 ミルンに気づくなり、ドレスの裾を掴んでこちらに駆けてきた。
 ヴァルハーレや参列客の制止も振り切り、かかとの高い靴で転びそうになりながら走ってきた彼女は、最後にはとうとう躓いてしまった。

 ちょうど目の前にきていたので、ミルンはすんでのところでなんとかその身体を受け止めた。

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