幸福の国の獣たち

夢 浮橋(ゆめの/うきはし)

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東の国 マヌルド

155 抗う者たち

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 どういうわけか、その日からミルンは外出を許されていた。

 内壁侵入の罪が完全に許されたわけではなさそうだが、将軍からのとりなしでもあったのか、ともかく監視はかなり緩くなった。
 なんなら正規の道を通って門を開けてもらって内壁に入り、クイネス邸を訪ねることすら認められたのだ。

 何がなにやらわからないまま、ともかくロンショットの指示によりスニエリタを尋ねることになった。
 彼自身も用があるらしいので道中は一緒に移動する。

 それにしても二重壁の内外で雰囲気が違いすぎる、とミルンは思った。
 外側は下級貴族や平民から貧困層まで入り乱れて生活しているため、場所にもよるが空気が雑多な感じがするし、建物も背の高いものが多い。

 建築物を極力縦に広げることで土地を有効活用しようというようすが見られる。
 道も狭く路地が多い。
 外国人も街中でふつうに見かけるし、ハーシ人もいないことはない。暮らしにくそうではあるけれども。

 一方内側は、完全に隔絶された上流社会である。
 建物の数自体が少ないし、それも土地を広々と使った扁平な建築物がほとんどで、道も広く整備が行き届いている。

 マヌルド人の中でも選び抜かれたごく一部しか暮らしていないだけあり、漂う空気も上品で穏やかな感じがする。
 もっともミルンに対しては存在するだけで異様なものを見る眼が向けられるのだが。

 ともかく巨大なクイネス邸を前に、ミルンは眩暈がしそうになった。

 スニエリタが本来なら別世界の人間であることは充分に承知していたつもりだったが、改めて彼女の暮らす家、いや家と呼ぶのがおかしいほどの荘厳な邸宅に圧倒される。
 この前庭だけで水ハーシの里の大半が収まるほどの広さがあるのではなかろうか。
 なんなら敷地の端から端まで移動するのに遣獣が必要ではないかと思うほどだった。

 絶句するミルンを見て、ロンショットが苦笑している。

「今日は将軍もご在宅です。くれぐれも失礼のないようにしてください」
「っはい、気をつけます」

 声が震える。
 情けないことに、ミルンはもうビビッていた。

 しかし今日どのような理由でここに招かれたのかはわからないが、怖気づいている場合ではないことだけは確かだし、ましてや帝国将軍の前で醜態を晒すわけにはいかない。
 できうる限り堂々と、でなくともせめて虚勢くらいは張りたい。

 深呼吸をして一歩を踏み出す。

 門から玄関までがまた長く、他の貴族などが訪ねるときは馬車で横付けすることもあるのだろう、道幅が広く造られている。
 あるいは身体の大きな遣獣で降り立っても周りにぶつからないようにという配慮だろうか。

 室内はいたるところに女中や従僕の姿が見える。
 それぞれ忙しく働いているようだが、視界の端にミルンの姿を見とめては訝しげな表情を浮かべているのが、直接見ていなくとも空気で感じられた。
 平民である彼らにはヴァルハーレなどから向けられたような直接的な悪意はないようだが、それでもこの邸内でハーシ人を見かける違和感は拭えないのだろう。

 ミルンはロンショットに続いて進む。
 もちろん内部も外観同様に広く豪奢で、どこに何の部屋があるのかを覚えるのは一日二日では難しいだろう。

 意外に、というとおかしな表現だが、内装には世界各地の高級品が使われていた。

 絨毯は見たところヴレンデールの職人が手織りしたもののようだし、木製の調度品はワクサレアの有名工房の製品が見られるほか、イキエスのものと思われる南国の観葉植物も飾られている。
 壁を彩る大小さまざまな絵画も国籍を問わず選りすぐられた品ぞろいだ。

 それらは眼にも楽しいが、何よりミルンの気持ちを前向きにさせてくれた。
 かなり優れたもののみであるという前提はあるにしろ、思っていたよりもずっと、国外の文化を受け入れる姿勢があるように思えたからだ。

 残念ながらハーシのものは他よりずっと少ないが、それでもまったくないわけではない。

 長い廊下を抜けて広間らしき部屋へと連れて行かれる。
 もはや規模が大きすぎて客間なのか居間なのかわからない空間に、寝台と見紛う大きさの長椅子が並び、ミルンはそこへ腰掛けるように指示されたのでそのとおりにした。

 そうして待つこと数時間──いや、実際には数分だったのだろうが、緊張しすぎてそれくらいに長く感ぜられた。

 奥の扉が開き、将軍夫妻とスニエリタが姿を現した。
 スニエリタは昨日は伯爵令嬢らしいドレス姿だったが、今日は旅の間にもよく見た、紋唱術の練習着と思しきズボンを穿いている。

 将軍の顔が扉の影から覗いた瞬間、ミルンは弾かれるように立ち上がっていた。
 両手を身体の脇で握り締め、奥歯を砕けそうなほど噛みしめて、なんとか身体の震えを収めようとする。

 しかしながら真正面に立たれるとその威圧感は尋常なものではなかった。

 マヌルド人としても背が高い部類だろう。
 軍人らしいがっしりとした身体つきに、これまでの人生で何を見てきたのかと思うほど鋭く険しい眼差しが、刺し殺さんばかりの強さでミルンへと注がれている。

「おはようございます、ミルンさん、ディンラルさん」

 こちらの緊張を知って知らずか、スニエリタがにっこりと微笑んで挨拶をしてきた。
 それ自体はたまらない癒しの効果を持っていたが、隣で父親が放っている圧に蹴散らされ、結果的にミルンを微塵たりとも救ってはくれない。

 というか、本来はこちらから挨拶をしなければならない場面だろう。ミルンは指が潰れそうなほど両手に力を込めて、なんとか口を開く。

「っ……おはよう、ございます」
「おはようございます、皆さま。
 さっそくですが閣下、お言いつけどおりミルン少年を連れてまいりましたが、私もこのまま同席してもよろしいですか?」
「構わん、座れ」
「失礼します。……さ、ミルン、あなたも」
「はい」

 ロンショットに促されてどうにか着席するも、少しも落ち着けそうにない。

 今の気分を喩えるのなら、獰猛な肉食獣を前にしたシカやウサギの心境がこんなものではないか、とミルンは思った。
 とにかく一瞬でも気を抜いたら目の前の将軍に殺される気がしてならない。

 もちろん言葉のあやなのだが、なんというかこの男性は全身から殺気が漲っているかのようなのだ。

 どうしてロンショットや他の人間が平気なのか不思議なくらいだった。
 彼らはもう慣れてしまったのだろうか。あるいはミルンがハーシ人で、なおかつスニエリタに手を出そうなどという不届き者なので、いっそう強く敵意を向けられているだけなのだろうか。

 しかし将軍は言葉にしてミルンを罵ることはなかった。
 その代わり、その第一声も極めて不可解なものだった。

「今日の午後、試合を行うことにした」

 意味がわからなかった。
 今日の午後というのもいきなりだったが、試合とは何の話だ。

 しかしひっかかっているのはミルンだけで、ロンショットや伯爵夫人は頷いたり相槌を打ったりして、その試合とやらの詳細を話し始めた。

 会場はクイネス家が私有する訓練場で、立会いは将軍夫妻とロンショットほか数名のマヌルド軍人。
 そして判定には公的な大会の審判員を呼ぶことになっている、らしい。

 ミルンは困惑し、無意識のうちにスニエリタを見ていた。
 彼女に助けを求めたかったわけではないし、何を言うでもなかったが、どうやらスニエリタにはミルンの心境が如何ばかりか伝わったらしい。

「お父さま、このお話が終わったらすぐにでもミルンさんと打ち合わせをさせてください」
「……好きにしろ」

 そしてその言葉のとおり、何のかわからない試合の話が概ね終わると、スニエリタが立ち上がってミルンを手招きした。

 とくに他の人にも止められないので彼女に従うと、そのまま部屋を出て廊下を抜け、玄関から出て、さらにぐるりと邸の横手を回って別棟らしい場所へ向かう。

 そこまでの石畳の道すがら、ミルンは耐え切れずにスニエリタに尋ねた。

「なあ、さっきの話はなんだったんだ? それに打ち合わせって、今から向かってる場所もそうだけど、何がなんだか俺にはさっぱり──」
「タヌマン・クリャの力を借りました」
「へっ?」

 スニエリタは別棟の扉に鍵を差し込んで、その重そうな取っ手に手をかける。ミルンも慌てて開くのを手伝った。
 しかし何か紋章が仕込まれているのだろう、重厚な扉は見た目から想像されるよりずっと軽々と開いた。

 その先にはだだっぴろい広い空間が広がっている。
 床に描かれた円形の紋章から、ここが訓練場の類であるとわかったが、流石に下手な民間のそれよりずっと設備が整っているようだと一目でわかる。

 ふたりで中に入って扉を閉めてから、スニエリタがふうと息を吐いた。

「もう出てきていいですよ」
『貴様は私を一体なんだと思っているのだ? まったく……』
『やあ、傀儡同士で会うのも珍しい』

 スニエリタの頭上から見覚えのある神が現れたかと思うと、ミルンの背後からも聞きなれた声と羽ばたきの音が聞こえる。
 そういえば傀儡が複数あるとか言っていたか。

 ともかくタヌマン・クリャの傀儡たちは希少な再会を果たしたが、別にそれで何が起こるわけでもないらしい。

 ただ向こうの傀儡はずいぶん機嫌が悪そうだった。
 ララキの捜索を待たされ続けているのはどちらも同じだが、傀儡ごとに性格が違ったりするのだろうか。

 二体になったタヌマン・クリャを呆然と眺めるミルンに対し、スニエリタは落ち着いたようすで口を開いた。

「端的に説明しますね。わたしがクラリオさんとの婚約を解消するのに一筋縄ではいかなかったので、タヌマン・クリャにご協力いただいて彼との試合を設けることにしました」
「……いや、なんでそうなる!? というかあいつと誰が戦うんだ!?」
「わたしとミルンさんが組んで、二対一です。
 マヌルドでは、とくに貴族や軍人がそうなんですけど、何か大きな提案やお願いをする際に決闘をする風習があります。勝てば相手にこちらの要求を呑んでもらえるんです。もちろん、負ければその逆です」
「つまり、勝てれば婚約解消を強行できて……」

 負けてしまったら、スニエリタは即結婚させられて、ミルンは彼の好きなように処罰されることになる。

 良くも悪くも実力主義なマヌルド人らしい風習だ。

 確かにこの状況を変えるにはうってつけに思えるが、しかし、あまりにも無謀な話だった。
 相手はそこらの術師とはわけが違う。
 ロディルでさえ相討ち寸前で辛うじて勝利をもぎ取れたほどの、たしかロンショットが言うには現役のマヌルド軍人でも最高峰とされる男だ。

 いくら二対一でもこちらに分があるとは考えにくい。
 むしろ一度、やや不意打ちに近い形だったとはいえ三対一で手酷くやられている。

 スニエリタは自棄でも起こしたのか、自分がそうさせたのではないかと不安に駆られたミルンだったが、そうでないことにすぐ気がついた。

 自分を見つめるスニエリタの眼差しが、あまりにもまっすぐで。

 今のそこには恐れも涙すらも見当たらない。
 それどころかスニエリタはかすかに笑ってさえいるようで、穏やかな声をミルンの胸へと放り投げたのだ。

「初めから失敗することを考えるな、って言ったのはミルンさんでしょう?」

 微笑みを湛えたくちびると、静かに澄んだ瞳と、凛とした佇まいには既視感がある。

 最初に出逢った、外神に操られていたころの彼女にもう一度逢えたような気がした。

 スニエリタの手がミルンのそれを握ったので、ミルンもぎゅっと握り返す。

「……そうだったな。じゃあ……まず、勝つ方法を考えないと」
「はい。絶対に勝ちましょう」
『そして早くララキを探しに行け』

 頭上で外神が愚痴っぽく呟いたので、ふたりは思わず笑ってしまった。

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