幸福の国の獣たち

夢 浮橋(ゆめの/うきはし)

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呪われた民の国 チロタ

172 愚か者たちの贖罪のすべ

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『確かに私は今までひたすらにおまえを欺いてきた……その私が今さら何をいくら詫びたところで信じられはしまい、まして許されようなどとは思わないが、これだけは否定させてくれ。
 おまえを再びクリャの贄にしようなどと考えてはいない』

 シッカはそう言ってララキの手を取った。その手のぬくもりに嘘はない。
 その言葉を素直に信じられたらどんなにいいだろうかと、ララキは思わずにはいられない。

 けれどもララキが答えるより先に、タヌマン・クリャが口を挟んだ。

『その段階はもう過ぎたと言ったほうが正確ですな。今はそれよりララキの最後の役目を終えさせることが先決でしょう。アフラムシカよ、早くその娘を私に──』
『いや少し待て、クリャ。ララキに話を』
『そんな時間などないと誰より承知しているのはあなただろうに!』

 急にクリャが声を荒げた。
 翼を大きく広げた姿は威嚇を表しているのだろう、クリャの全身から、びりびりとした緊張や焦りが電流のように伝わってくる。

 しかしシッカはララキを庇うようにクリャとの間に立って、諭すような口調で彼に言った。

『あまりにも永い間、我々の都合で彼女を振り回してしまったのだから、納得させる時間は必要だろう。
 だいたい今の世界情勢の説明にしても人間の彼らにさせてしまった。これでは誠実とは言い難い』
『……あなたは実に謙虚です、アフラムシカ。それゆえこの世は滅びるだろう。

 今こうしている間もフォレンケはドドから逃げ回っている。あなたが完全に復活して戻ることだけを希望にな。
 すでに存在の危機に瀕する者もいる。我らが知らぬだけで、もはや潰えた神があるやもしれぬ。

 これだけ状況が逼迫していても、あなたはあくまで人間の心を重んじるというのか。ご立派なことだ』
『すまない。フォレンケとガエムトのことは今しばらく頼む』
『早くしてくれ。もう傀儡の大半が壊された……』
『必要ならカーシャ・カーイにも援護を要請しよう。彼は今どこに?』
『それがわかれば私もこれほど焦りはしない。
 そもそもあのオオカミは信用ならんでしょう。あなたの指示を無視してアンハナケウを出た上に、何をするでもなく姿を消し……あれはいずれ我々の敵となるだろうよ。

 そのためにも私の本体を、いや、あなたの依を解放するのだ。今すぐに。
 あなたが躊躇うのなら私が直接取り出そう』

 彼らの会話の大半は、ララキにはよくわからないことだった。
 クリャの言葉を信じるのなら、どうやら世界規模で大変なことが起きているらしい。
 見知った神の名もいくつか出てきた。

 何が何やらわからないままシッカの腕をつつく。
 ──あたしなら、いいよ。

 事情はほとんど知らないけれど、シッカがララキのことを気にかけているからこそ話が進まないのだということだけは感じられたから、そう言った。

 たぶんすごく差し迫った状況なのだ。
 それでもって、その状況を変えるための何かを、シッカかクリャのどちらかがララキに仕込んだのだろう。
 さらにシッカの態度からすると、それを取り出すか使うかすることでララキの身に危険が及ぶのかもしれない。

 でも、もともとララキはシッカに救われた身なのだ。
 そこにどんな理由があったとしても。

 ララキは周囲の瓦礫を見回す。かつてここにあった結界から、あの無限にも思える孤独の牢獄からララキを解放してくれたのは、シッカだった。
 その事実は変わらない。ララキにはそれで充分だ。
 この先に何が待っているとしても。

 ミルンとスニエリタを見る。
 ララキがいなくなったあと、ふたりがどんなふうに過ごしていたのかが気になるけれど、もしかしたら落ち着いて話を聞ける機会は来ないかもしれない。
 それは少し寂しい。

 ライレマ夫妻にももう会えないかもしれない。
 それも、少し寂しい。

 ……ほんとうはどれも少しではない。
 もしかしたらここで死ぬことにでもなるのか、なんて思った瞬間に、いろんな人の顔が頭に浮かぶのだ。
 お世話になった人からそうでもない人まで、イキエスの知人も、旅先で会った人たちも、彼らとの思い出が大河のようにララキの中をとめどなく流れていく。

 それがちょっとだけ、瞳からも滲んだ。
 そんなララキを見てシッカがまた悲しそうな顔をする。

『ララキ』
「ごめんねぇ、シッカは水が苦手なのにね。それとも、それもほんとは嘘?」
『すまない……ほんとうにすまない、ララキ……』
「教えて。あたしの、最後の役目っていうのは何なの? あたしは何をすればいい?」
『それは……』

 それは──その身を神の器とすることだ、と、シッカは言った。

 シッカはララキを再び抱き上げると、その美しい声で詩を詠い始めた。
 曰く。

『私は地平に懸かり星天に省みる者、ヌダ・アフラムシカの名において汝に問う。

 まつろわぬ民のかんなぎはいずこにあり、またゆめ語らず依願して唱う詩歌の主は、音音おとおとの宿りたる玉の緒を借り越していずれへと至る。

 神盟は覆り、改め焦天の獣の名において汝に請う。人柱じんちゅうの名は……』

『お答え申し上げるは亡念滔々なる地に伏せます遺却の獣、ここに翼をいて詠う。
 我が名はタヌマン・クリャ、賤しくも獣の王に言の葉を持ちまして、奉賛致したく馳せ参ずる』

 クリャも詠う。
 耳障りな声だと思っていたけれど、詩を吟じていると意外に悪くない。

 聞いているうちに、気付けばララキの身体は温かな光に包まれていた。
 いや、というよりむしろ、光っているのはララキの身体そのものだ。それにお腹の奥のほうがじんわりと熱い。

 ちょうど目の前にあった自分自身の手が、奇妙な変化を起こしているのをララキは見つめていた。

 爪が伸び、弧を描く。
 体毛が急に増えたかと思うとそれが膨らんで爆ぜ、一本一本が羽毛のような形になり、鮮やかな緑色になっていく。

 身体が縮み、骨が軽くなる。
 内臓の感覚が薄れていく。
 どんどん自分が人でないものに変貌していくのがわかるけれど、不思議と恐ろしさはなく、むしろララキは心地よい眠気に包まれていた。

 まどろみながら、意識の中で誰かの声を聞く。


 ──贄は、女がいい。
 それは己の他にも魂を抱くことができるのだから。

 ただしすでに他の命を抱えている者ではいけない。
 ゆえに私は、幼い娘を差し出させよう。

 そして初めに私は肉体を捨てた。
 でなければ、神が人の身に隠れ棲むことなど能わぬからだ。

 魂だけでお前のはらに宿り、庵には最低でも千年……それでようやく贄は器となりうる。

 名もなき巫女の娘、今はララキと呼ばれる我が贄よ。
 おまえは我が器にしてアフラムシカの依代となるのだ。

 永きに渡る務め、まことに大儀であった──。



   : * : * :



 バカみたい、と彼女は呟いた。
 それは足元に転がっていた無残な肉塊──もはやそうとしか表現できないほどに痛めつけられたアルヴェムハルトに対しての言葉だった。

 血の海に転がっている彼にはもう下半身がない。
 片腕も付け根から引きちぎられ、胴も三割近くを失い、骨と臓物がこぼれ出ているありさまだ。
 そんな姿になってもまだ辛うじて生きている。
 死ぬことができないのだと言ったほうが正確かもしれない。

 彼からの返事はなかった。
 できないだろう、これだけの血を流しては、おそらく眼や耳もまともに機能してはいるまい。

 血まみれの手で、血まみれの肉塊を抱き寄せて、彼女はもう一度吐き出すように言った。

「ほんとバカみたい……黙って、大人しくしてればよかったのに……」

 紫色の痣を浮かべた頬に、血が混じって薄紅色をした雫が伝うのを、ティルゼンカークは黙ったまま見つめる。

 彼らからすれば地理的にはちょうど間に位置するが、歴史においてもずっとそうだった。
 どちらをも同じだけの時間眺めてきた。
 彼女──ラグランネが幼いころに地神から受けていた仕打ちも知っているし、なんなら隣接している自分も同じようにひどい目に遭わされた経験がある。
 アルヴェムハルトとは同じ地域の神として永い付き合いだ。

 どちらのこともよく知っている。
 だからこそ、かける言葉が見つからない。

 アルヴェムハルトを抱き締めるラグランネの身体は、薄ぼんやりと光を放っているようだった。
 恐らく持てるわずかな力を彼に注ぎ込んでいるのだろう。
 そんなことをしたところで、アルヴェムハルトが回復するより先にドドが帰ってきて、また彼を殺戮する作業を再開してしまうというのに。

 どうしてフォレンケが逃げ出せたのかは知らないが、彼がガエムトに何かさせたにしても、相手は今や世界中を掌握しているのだ。
 そう遠くないうちに捕まって、いかにあのガエムトといえども殺されるに違いない。

 だから辛うじて死にきってはいないアルヴェムハルトも、そしてまだ軽傷で済んでいる自分も、他の神も、みんなそのうちがくる。

 果たしてどちらのほうがマシだろう。
 すべての人間から忘れ去られてアンハナケウの住民となるのと、世界神と化したドドに食い殺されて彼の一部に成り下がるのとでは。

 実際のところ、ティルゼンカークのような元からさほど強力でもない神には、自身が消滅することに対しての矜持的な部分での怒りはあまりない。

 ただ、痛いのは嫌だと思う。苦しいのも嫌だ。
 だから痛めつけて言うことを聞かせようとするドドのやりかたは許せない。

 しかし反発の言葉を発する以上のことなどティルゼンカークにはできなかった。
 それはティルゼンカークが商売繁盛といった、武力とは縁遠い幸を司る神だからというわけではない。

 暴力で支配されようとしているラグランネを目の当たりにして、我が身を標的に差し替えさせて彼女を救うなんていう芸当は、思いつかなかった。
 頭に浮かんだとしても咄嗟に実行には移せない。
 もしかしたらいつか来るかもしれない反撃の機会のために、今はみんな力を温存しようと躍起になっている中で、敢えてわずかな力をすべて通りもしない攻撃に回すなんて愚かな真似は。

 だからこそ抱くのだ。血まみれの旧友に向けて、こんな感情を。

 ──やっぱりおまえは頭がいいよ、アルヴェ。
 オレは一生おまえには勝てない。

 どう考えても要領のよさでは自分に軍配が上がる。
 アルヴェムハルトはいろいろなことに頭が回るが、それゆえに後手に回ったり非合理的な行いが目立つ。
 今の、ラグランネを護るために自ら犠牲になるような悪手を打つ。

 けれど、合理的なだけでは成しえないことが、この世には山ほどあるのだ。

「……ラグ、あの……ごめんな」
「何が?」
「その……なんていうか……、ゲホッ、グッ」

 上手く言葉を紡げないうちに、咽てしまってその先が続かない。

 友人の血で真っ赤に染まった袖口を見下ろしながら、その中に一滴でも、自分の血が混じらないことを恥じてさえいる。

 やろうと思えばできたのにしなかった。
 どちらが嬲られていたときも、ただ見ていただけだった。

 耐え難いほど苦しかったのに傍観に甘んじたのは、遠い昔に誰かから受けた痛みに未だに怯えているせいだなんて、どうしようもなく情けない言い訳でしかない。
 同じくらい痛かった子を知っているのに、自分だけ、逃げたのだ。

 だから。

「……バカばっかり……」

 こちらの言いたいことを察したのか、ラグランネはそう呟いた。
 その声にはどこか自嘲的な響きがあって、それもまた、ティルゼンカークには痛いほどよくわかる。

 女のために後先考えずに我が身を差し出し、結局女を泣かせる男。

 何もできずに終始指を咥えて見ていただけで、結果誰も救えない男。

 そしてどちらに応える気もないのに、それでも涙だけ流してくれる女。

 ほんとうに、どいつもこいつも独り善がりで、愚か者しかいない。
 中でも群を抜いて愚鈍なのは己に違いない。
 だからせめて、最後までその愚かさを貫くことでしか誰にも贖罪ができないのだろう。

 ティルゼンカークは這いつくばったまま、手だけを伸ばしてそれに触れる。

 血の海に散らばって、まだ胴と筋ひとつで繋がっている臓物に、少しでも己の力を注ぐのだ。
 無意味と知りながらも、他に贖う術がないから。

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