幸福の国の獣たち

夢 浮橋(ゆめの/うきはし)

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幸福の国 アンハナケウ

204 轟雷を閉じよ

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 まず初撃は、カーシャ・カーイが担う。
 ドドの体勢を崩し、可能なら氷漬けにでもしてその動きを奪う。

 彼の護衛はルーディーンが務める。
 不可触の女神が本気を出せば大概の攻撃からは身を守れることだろう。

 そして彼女の持つ護りの力の構造は、強烈な拒絶、つまり遮断ではなく反射に近いものがある。
 そこに鋼鉄を生み出すオーファトの力を合わせ、さらにカーイの力を練りこむことで、防御と攻撃を兼ねた氷鏡壁を創造する。
 壁の強度を高めるのはペル・ヴィーラ、それからヤッティゴ、サイナ、ティルゼンカーク。

 これを檻として四方に配置、ドドを閉じ込める。
 そうした上で、空にヴニェク・スー、地中にはカジンらを送り、さらに布陣を完全なものにすれば、壁を迫りつめてドドを追い込むことができる。

「……理論上は可能です。しいていえば、全員の息が合っていなければどこかで崩れはするでしょうが、指示はすべてカーイがオヤシシコロカムラギの根を使って逐一伝達するそうなので、問題はないかと」
「なるほどの」
「では、先んじて飛び出していったうつけどもはオオカミに任せるとするかの」

 アルヴェムハルトの立てた戦略にヴィーラたちは頷き、名前を挙げられた神々を引き連れて戦場へと向かった。

 ちょうどカーシャ・カーイがドドに一撃を喰らわせたところらしい。
 それらしい轟音と地響きを、アルヴェムハルトはラグランネの膝の上で聞く。

 彼女がひたすら力を注いでくれたお陰で、肉体こそ復元できていないものの、意識は完全に戻っている。
 そして幸いだったのは、地面に散らばった内臓をティルゼンカークがかき集めてくれたこと、そしてそれが運よくオヤシシコロの根のひとつに重なっていたことだ。
 カーイとはそれを通じて連絡を取っていた。

 ほんとうならアルヴェムハルト自身も戦場に向かうべきだが、脚も腕も足りないのでは邪魔にしかならない。
 氷で義肢を創ってもいいが、それでは脆すぎて戦場に立つには心許ないし、そこに力を使ってしまうと今のアルヴェムハルトには他に何もできそうになかった。

 それで少し考えて、逆に自分を抱えっぱなしの女神に少しばかり返してやることにする。

 何を思ったか知らないが、ラグランネ自身は自分の負傷をそのままにしていた。
 脚は潰れて骨が砕けたまま、顔の怪我もそのままで、頬から肩にかけて広がる痣が痛々しい。

「……アルヴェくん」
「なんだよ」
「うちには仕事、ないの?」
「何かしろって言っても無理だろ。ほとんど力が残ってないのはわかってるよ、……だから僕に回すのはもうやめろ。
 どのみち身体が治らないことには僕も動けないし、それにはまだ時間がかかるから」
「うん……ねえ、どしてそんなに、治るのが遅いの?」

 アルヴェムハルトを抱くラグランネの手に、ぎゅっと力が入る。
 震えるのを隠そうとしているように。

 溜息をひとつついて、アルヴェムハルトは彼女を見上げた。

 これ以上泣かせるのはいい加減気が咎めるのに、どうもラグランネに優しくしてやることは難しいらしい、困ったことに。
 ……あまりに不器用で自分でも嫌になる。

「ドドにかなり持っていかれてるから。
 気づかなかったか? 僕らの力を、彼に何度も勝手に使われてる」
「あ、……うん、みたいね。アルヴェくんに送るのに必死で、あんまり気にしてなかった」
「バカ」
「……そうだよ、バカだよ。うちらみーんな、どうしようもないおバカさん」

 ラグランネは自嘲しながらそう呟いて、そして激しい戦闘の続く彼方を見た。



 少しずつだが、アルヴェムハルトの想定のとおりに戦闘が運ばれているのが、遠目からでもなんとなくわかる。
 みんなが連携して戦っている。
 初めからそうできていれば、こんなことにはならなかったのかもしれない。

 さっきドドが喚いていたことを思っても、こんなに遠回りをしてクシエリスルの全員を巻き込むようなことをしなくて済む方法だって、いくらでもあったはずだ。

 でも彼はそれを選ばなかった。
 あえて反逆者の汚名を着ることで、アフラムシカの罪と失態を浮き彫りにしたのだ。

 たくさんの神が傷ついた。
 ラグランネとアルヴェムハルトも、それ以外の神々も。

 革命には痛みを伴う。
 血で贖われたこの世界を、これから誰がどう導いていくのかは、ラグランネのような弱い神が考えても仕方のないことだ。
 すべては上位の者たちが決めて、ラグランネたちはそれに従うだけ。

 だから今思うのは、あの戦いが早く終わることだけだった。

 すべて終わって、アルヴェムハルトがゆっくり身体を休められる環境になってくれれば、それでいい。
 それ以外に求めることなど何もない。

 しいていえば、カーシャ・カーイには幸せになってもらいたいけれど、それはルーディーンの領分だ。
 彼女なら彼を裏切ることなど絶対にないだろうから、安心はできる。

 寂しくないと言えば嘘になるけれど、それでももう、ラグランネは長かった恋に見切りをつけることを決めたのだ。

 大好きだった。
 命の恩人で、憧れだった。
 そしてたくさん迷惑をかけた。
 疎ましがられた。
 それでも幸せだった。

「……今までずっと、ごめんね」

 ふと呟いた言葉に、アルヴェムハルトが片眉を上げる。

「それは誰に向けて言ってるんだ?」
「さあねぇ」

 あなたにも、なんて言わなくても、聡いこの神ならわかるだろう。


 ‐ - - +


 深い深い地の底で、その神は眼を閉じる。

 その名はガエムト。
 すべての魂を、その最期を引き受ける者の名前だ。
 神格は忌界を纏い、すべての忌神の長にして、この世の末期を見届けるために存在している。

 地中の暗闇では視力は要らない。
 大概のことは鼻と肌で知ることができる。

 今ガエムトの前に佇んでいるのは、配下である忌神カジン。
 忌神は死を司る神であるからして、多くの死骸が辿り着く土の中とは相性がいい。

 カジンの触れた岩盤は柔らかく融け崩れ、主の身体をなめらかに飲み込んでいく。
 ワニはその中を易々と泳いでいくのだ。
 ただし今は彼も人型に縛りつけられているため、普段ほど移動が容易くはないらしかった。

「……このあたりか。地響きがここまで降りてきてる」

 面倒くさそうに呟いて、カジンはその両の掌を重ねて握る。

 ちょうど人が神に祈るような仕草だ。
 それが忌神同士の合図にもなる。
 上に残っているサイナらに、カジンたちが目標の地点に着いたことを知らせている。

 ガエムトがにわか腕を伸ばす。
 何を掴みたいのか定かではない無骨な拳が、カジンの頭部を殴りそうな勢いで突き出された。

 しかしカジンはそれをするりと避けて、そのままガエムトの背後へと下がる。

 ここから先は主の領分であることを、彼はよく理解している。
 伊達に何百年、いやそれよりずっと永い時をこの寡黙な首長に従って生きてはいない。
 カジンはこれで忌神の中でも年嵩のほうだ。

「ドドを……」

 ガエムトは泥だらけの口を震わせて言いかける。

 カジンは眼を伏せて、静かに頷く。

「……。久しぶりに」
「爪だけでは為せぬこともある……」
「それが今ですか。ま、尤もだ。となると……上に残したのは、抜け殻ですか」
「意識はある。……繋がっている。魂源こんげんまでは切り離していない」
「……それ、誰が護ってるんです」

 カジンの訝しげな問いに、ガエムトは喉をくつくつと鳴らして笑った。

 骨の仮面が揺れて、歪に捻じ曲がった角とぶつかっては、がちがちと耳障りな音を立てる。
 先のドドとの戦いで面は破損しているが、それでもなお忌神の主の尊顔はわずかにも覗いてはいなかった。

 青黒い腐肉の両腕を、王はゆらりと地上へ伸ばす。

 すべての魂を貰い受ける者。
 人も獣も、果ては神でさえも彼の前には平等に死を賜る。
 そうであるように生まれてきた。

 神というよりは悪魔や怪物という蔑称が相応しいような容貌と、邪悪なまでに漲る力。

 彼のうちにはすべての死者が眠っている。
 誰もに必ず訪れる最期。
 そして、死者は永遠に増え続ける。

 それだからこそガエムトは、笑うのだった。

「その必要はない。この期に及んで、私だけが保身しても意味がなかろう」
「……無粋な質問をしました。ご容赦を」
「構わぬ……だが、そうだな……もし私に何かあったなら」

 ガエムトはそして、地上へと這い上がる。

 思い上がって身の丈にあわぬ地位を手にしてしまった、愚かで哀れな田舎の猿を一匹ばかり、戒めるために。

「……サイナあたりは嘆くやもしれぬな」

 忌神の王は地上へと顕れた。

 地はすでに痛ましいほどに狂っているありさまだったが──その大半はカーシャ・カーイの為したものであったろう──構わずドドへと腕を伸ばす。

 煤と泥に塗れ、さらに雪解けの水に身体をしとどに濡らした神は、いつもの威勢をすっかり失っていた。
 オオカミに屠られた肩からは夥しい血を流し、両腕の爪はいくつか抉れて剥がれ落ちそうになっている。

 満身創痍に近い状態の彼に対し、灰銀のオオカミはほとんど怪我もなくしっかりと四肢で大地を踏み締めている。

 その傍らには戦場に似つかわしくない純白のヒツジが寄り添い、なるほど、彼女の強固な守護に弾かれたせいでヒヒの指先はあのように爛れてしまったのだろう。

 すでにぼろぼろのドドは、あまりにも簡単にガエムトに捕えられた。
 黒い爪がぎちぎちとその皮膚を裂くが、ヒヒはほとんど抵抗することもなく、虚ろな眼でガエムトの顔を見上げている。
 そこに戦う意志はもう微塵も残ってはいなかった。

 虚無に満ちた眼差しは、死者のそれとよく似ていた。

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