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幸福の国 アンハナケウ
210 潮見ヶ丘の昼下がり
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少しも悪びれるようすのないカツオドリは、そのまま丘の上に降り立った。
眼下に海と港が一望できる場所だった。
足元は晩秋の野草が小さな花をまばらに揺らし、空はパリセラの仲間であろう他のカツオドリや、カモメなどの海鳥が優雅に舞っている。
少しふらつく足で地面に降りたウリヴィヤは、それらを見てほうっと息を吐いた。
ロンショットはそんな彼女の手をとって支えつつ、パリセラに今一度注意する。
「……どういうつもりなんだ。勝手に道を逸れたうえに、人を乗せながらあんな危険な飛行をして」
『申し訳ございません。その、少しは気が紛れるのではないかと思いましたもので……それに、旦那さまがお客さまを落っことしたりするはずがないと、私は信じておりましたよ』
「だからって」
ほんとうに危なかったのだ、と語気を強めようとしたロンショットの袖を、隣のウリヴィヤが小さく引いた。
「そんなに責めなくていいわ。……気が紛れたのはほんとうだもの。むしろ、その、少しだけ……楽しかったから……。
ありがとう、パリセラ。気を遣ってくれたのよね」
カツオドリは微笑むように眼を細めた。
ウリヴィヤにそう言われてはロンショットもこれ以上彼女を叱れず、言葉の代わりに溜息だけを吐く。
確かにまっすぐ家に帰るより、こうした見晴らしのいい場所で休むのもいいかもしれない。
日の入りまではまだ少し時間もある。
そういうことか、と声には出さずに遣獣を見やると、彼女は意味ありげに喉を鳴らした。
パリセラは少し家族の顔を見てくると言うので、白い姿が海原のほうへ消えるのを見送ってから、残ったふたりは丘の上の草地にそろそろと腰を下ろす。
そうすると視界に入るのは水平線だけになった。
遠くから潮騒が聞こえる。
ロンショットは胸に提げた階級章が錆びつくかもしれないと気付き、軽く保護の紋唱を行った。
手袋の指先に銀色の光が散るのをウリヴィヤが興味深げに眺めている。
彼女は紋唱術師ではない。父親の意向で習わなかったのだと聞いている。
アウレアシノン、いや、マヌルド全体でそういう女性は少なくない。
「……ねえ、あなたはリュシーナのことを知ってた?」
ふいにウリヴィヤはそんな質問を投げかけてきた。
ロンショットは静かに首を振り、自分はそういうことには疎いので、と答える。
リュシーナ・バルカレッテという女性がいた。
下級貴族の令嬢で、ウリヴィヤと同じく父親が軍将校であったが、ロンショットは部署などが離れていたため彼とはほとんど面識がない。
親のことすらよく知らないので、その娘など聞いたこともなかった。
彼女には親の決めた婚約者がいたけれど、愛したのはヴァルハーレただひとりだった。
恐らくアウレアシノンに同じような女は数多くいただろう。
目の前にいるウリヴィヤがそうであるように。
ヴァルハーレほど多くの女を弄んだ男は他にいないし、この先も現れないでほしいとロンショットは思う。
女たちは彼を愛し、さまざまなものを捧げたけれど、ヴァルハーレは受け取るだけで与えることはなかった。
形ばかりの愛の言葉を囁いても、そこに彼の心はなかった。
女たちはそれを知っていて、それでも彼に縋りついた──彼に抱かれながらスニエリタを呪った。
それくらいは部外者のロンショットにもわかる。
遠目からスニエリタを睨みつけている女の姿を何度も目の当たりにしたからだ。
間違いなくリュシーナもそのひとりだったろう。
そして彼女の暗い情念は、ついにヴァルハーレ本人に向けられた。
訪ねてきた彼を受け入れて、褥の中に秘めていた刃で、彼の胸を貫いたのだ。
──心臓をえぐり出そうとしたようだったと、彼を視た医者が言っていた。
そして彼女はもういない。
愛した男の血の海に溺れて、自らその喉を掻き切ったからだ。
果たしてその傷口から噴き出たものは憎悪だったのか、それとも血まみれの愛だったのか、唯一それを知る彼女自身はもうこの世を去ってしまった。
「……ウリヴィヤさんは」
「何度か、バルカレッテ家の食事会に招かれて、父についていったの。少し話したこともあるわ。
きれいな女だった。頭が良くて……爵位もあって、いいお家に暮らしてるのに、それでも幸せにはなれないのね」
この国の女の幸せは、男が決めている。
昔からずっとそうで、そう簡単には変わらない。
「私、……あの人の気持ちがわかるわ。私も同じことをしたと思うから」
「同じこと、とは……」
「クラリオを殺そうってずっと思ってた。彼がクイネス家のお嬢さまと婚約した日から……どうやって殺してやろうか、どうすればこの気持ちがクラリオに伝わるだろうって……考えずにはいられなかった。
私は早いうちに捨てられたから、殺せなかった。
私と彼女の違いはそれだけよ」
ウリヴィヤはそう言って、馬鹿みたいでしょう、と自嘲気味に笑った。
そしてロンショットは自らの思い違いを知ったのだった。
ウリヴィヤが暗い顔をしていたのは愛するヴァルハーレが死にかけているからではなく、彼を殺そうとしたのが自分ではないからなのだ。
愛情と呼ぶにはあまりにも歪んでいるが、しかし彼女やリュシーナをそこまで思い詰めさせたのは、あの男の不誠実さに他ならない。
馬鹿なものか。
華奢な膝の上で震えている小さな手──あまりにも白くかよわいそれに、ロンショットは上からそっと黒手袋を重ねて答える。
「よかったです」
「……え?」
ウリヴィヤが顔を上げる。
彼女は泣いてはいない。まるで、自分にはその権利がないとでもいうかのように。
「あなたが人殺しにならずにすんで、よかったと自分は思います。……バルカレッテ嬢のことはとても残念ですが」
「どうして……」
「人を殺めるのは軍人(われわれ)の仕事ですから……どんな理由があろうと、あなたにあんなものを経験してほしくないんです。
だから、よかった。あなたの手はきれいだ」
しょせんはロンショット個人のエゴでしかない、自分でもそれはよくわかっていたが、そう言わずにはいられなかった。
ウリヴィヤの手が汚れていないことを心底よかったと思えた。
彼女は不実な男に振り回された被害者であって、加害者ではない。
まして罪人などではないのだ。
たとえ彼を殺したいほど憎んでいたとしても、その源は初めはたしかに愛であったのだから。
しばらくウリヴィヤは何も言わなかった。
重ねられた手を退けようともせず、黙ったまま俯いていたが、そのうちぽつりと水音がした。
また雨が降り出したかとロンショットは空を見上げたが、天上は茜色に染まっているだけで、薄黒い雲の姿はもうどこにもない。
濡れたのは手袋の上だった。
小さな水滴がひとつ、手の甲に丸い染みを作っている。
「……どうしてそんなに優しいの……」
呻くようにウリヴィヤがそう言った。
また水滴が手袋の革地を濡らす。
そのまま彼女は堪えていた涙を少しずつ零し始めた。
声を押し殺して泣きじゃくるウリヴィヤの、細い肩を抱いたものかロンショットは躊躇い、ひと呼吸おいてから意を決して手を伸ばす。
彼女は拒むことなくロンショットの胸に顔を埋めた。
小さな身体を震わせて泣くウリヴィヤを見つめながら、同じ境遇の女があと何人いるのだろうかとロンショットは憂えた。
誰かが傍にいてやればいいが、そうでない女もいるだろう。
ロンショットはその全員を救うことなどできない。
腕は二本しかないし、口もひとつしかない。
そもそも男女の情や女心には疎く、今もウリヴィヤひとりにさえ、上手く慰めの言葉をかけてやれた自信がないのだ。
それでも彼女はロンショットのことを優しいという。
甘いと言い換えてもいいだろう。
将軍にもよく指摘されている。
だからおまえは軍人に向いていない、と何度言われたかもう覚えていないほどだ。
確かに軍の、それも治安維持部に勤める者としては甘さは短所になる。
けれども今はそれでいいと思っている。
ウリヴィヤを見て、男に捨てられた愚かな女だと嗤うことは簡単だが、ロンショットはその涙を受け止めてやりたいのだ。
これがたとえエゴでも、自己満足や偽善であろうとも。
スニエリタを救えなかった。
彼女を立ち上がらせたのは外国から来た少年たちで、彼らはロンショットより遥かに弱い立場や苦境にあったらしいのに、それを感じさせないほど強かった。
腕ではなく心が強かだった。
彼らがいてくれたからこそ、ロンショットもヴァルハーレに立ち向かえた。
そしてスニエリタは見違えるほど明るくなった。
そのことはほんとうに心から感謝している。
そしてどこかで憧れてもいるのだ。
だからロンショットは今、ウリヴィヤの支えになりたいと願っている。
他に適任者がいるかどうかはどうだっていい。
するべきだと思うことを、正しいと信じることをして、己の心に悖らない男になりたいのだ。
願う。
祈る。
望み、希う。
──我がクシエリスルの神なる大河の主よ、私は強くなりたい。
この人の涙を止められるほどに。
しばらくして、ふたりは戻ってきたカツオドリの背に再び騎乗した。
陽が完全に沈んでしまう前にアウレアシノンまで帰りつかなければならない。
さほど距離はないとはいえ急がなければならなかった。
今度はロンショットが何を言うまでもなく、ウリヴィヤはその身体を彼に預けた。
西の彼方には太陽が明々と燃えている。
伝説によれば、その先に幸福の国があるという。
そういえば少年たちの旅がどのような結末を迎えたのかを知らないままだ、とロンショットは思い至り、明日は朝いちばんに将軍邸へ顔を出そうと決める。
そろそろスニエリタも帰ってきたかもしれない。
だとしたらきっと将軍は心配で怒り狂っているだろうから、それを宥めるのはロンショットの役目だ。
ミルンやララキも一緒だろうか。
ララキのほうはしばらく会っていないが元気だろうか。
そしてミルンのほうは、どうやらスニエリタとはよい仲になりつつあるようだが、果たしてあの将軍がそれを許すかどうか。
もちろん烈火のごとく反対するに違いないわけだが、彼ならきっと立ち向かうだろう。
それどころかスニエリタのほうがかなり強固に主張していると夫人が言っていた。
彼女は大人しいようでいて、やはり根幹のところで間違いなくクイネス将軍の娘なのだ。
今度もやはりロンショットは、彼女の味方になりたいと思う。
そして落ち着いたら、世にも稀なる少年少女の冒険についてじっくりと話を聞かせてもらうのが、今のロンショットの密かな楽しみのひとつになりそうだった。
「……なんだか楽しそうね。何を考えているの?」
「いえ」
ふとウリヴィヤがそう言った。
顔に出ていたかと苦笑しながら、なんでもないと言おうとして、ロンショットは少し考える。
そして、どこの父親も娘を心配する気持ちに変わりはないだろうと思い至った。
「その……あなたをこんな時間まで連れまわしたことについて、ナジエ中佐にお叱りをいただくかもしれませんね」
「平気よ、知りもしないと思うわ。今日は夜番だと言っていたもの」
「ですがお母さまはご自宅にいらっしゃるでしょう?」
どのみち伝わってしまうのではないか、とロンショットは思ったが、ウリヴィヤは困ったように笑って呟いた。
「……むしろ歓迎されるかもね、あなたなら」
「え?」
「なんでもないわ」
翼に裂かれた風音に紛れていたうえ、かなり小さな声だったので、ロンショットにはウリヴィヤの声がよく聞こえなかった。
しかしウリヴィヤはそれ以上は何も言わず、そしてロンショットも敢えて追及はしなかった。
なぜなら彼女が微かに笑っているのが見えたから、悪いことではないらしいとわかったからだ。
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少しも悪びれるようすのないカツオドリは、そのまま丘の上に降り立った。
眼下に海と港が一望できる場所だった。
足元は晩秋の野草が小さな花をまばらに揺らし、空はパリセラの仲間であろう他のカツオドリや、カモメなどの海鳥が優雅に舞っている。
少しふらつく足で地面に降りたウリヴィヤは、それらを見てほうっと息を吐いた。
ロンショットはそんな彼女の手をとって支えつつ、パリセラに今一度注意する。
「……どういうつもりなんだ。勝手に道を逸れたうえに、人を乗せながらあんな危険な飛行をして」
『申し訳ございません。その、少しは気が紛れるのではないかと思いましたもので……それに、旦那さまがお客さまを落っことしたりするはずがないと、私は信じておりましたよ』
「だからって」
ほんとうに危なかったのだ、と語気を強めようとしたロンショットの袖を、隣のウリヴィヤが小さく引いた。
「そんなに責めなくていいわ。……気が紛れたのはほんとうだもの。むしろ、その、少しだけ……楽しかったから……。
ありがとう、パリセラ。気を遣ってくれたのよね」
カツオドリは微笑むように眼を細めた。
ウリヴィヤにそう言われてはロンショットもこれ以上彼女を叱れず、言葉の代わりに溜息だけを吐く。
確かにまっすぐ家に帰るより、こうした見晴らしのいい場所で休むのもいいかもしれない。
日の入りまではまだ少し時間もある。
そういうことか、と声には出さずに遣獣を見やると、彼女は意味ありげに喉を鳴らした。
パリセラは少し家族の顔を見てくると言うので、白い姿が海原のほうへ消えるのを見送ってから、残ったふたりは丘の上の草地にそろそろと腰を下ろす。
そうすると視界に入るのは水平線だけになった。
遠くから潮騒が聞こえる。
ロンショットは胸に提げた階級章が錆びつくかもしれないと気付き、軽く保護の紋唱を行った。
手袋の指先に銀色の光が散るのをウリヴィヤが興味深げに眺めている。
彼女は紋唱術師ではない。父親の意向で習わなかったのだと聞いている。
アウレアシノン、いや、マヌルド全体でそういう女性は少なくない。
「……ねえ、あなたはリュシーナのことを知ってた?」
ふいにウリヴィヤはそんな質問を投げかけてきた。
ロンショットは静かに首を振り、自分はそういうことには疎いので、と答える。
リュシーナ・バルカレッテという女性がいた。
下級貴族の令嬢で、ウリヴィヤと同じく父親が軍将校であったが、ロンショットは部署などが離れていたため彼とはほとんど面識がない。
親のことすらよく知らないので、その娘など聞いたこともなかった。
彼女には親の決めた婚約者がいたけれど、愛したのはヴァルハーレただひとりだった。
恐らくアウレアシノンに同じような女は数多くいただろう。
目の前にいるウリヴィヤがそうであるように。
ヴァルハーレほど多くの女を弄んだ男は他にいないし、この先も現れないでほしいとロンショットは思う。
女たちは彼を愛し、さまざまなものを捧げたけれど、ヴァルハーレは受け取るだけで与えることはなかった。
形ばかりの愛の言葉を囁いても、そこに彼の心はなかった。
女たちはそれを知っていて、それでも彼に縋りついた──彼に抱かれながらスニエリタを呪った。
それくらいは部外者のロンショットにもわかる。
遠目からスニエリタを睨みつけている女の姿を何度も目の当たりにしたからだ。
間違いなくリュシーナもそのひとりだったろう。
そして彼女の暗い情念は、ついにヴァルハーレ本人に向けられた。
訪ねてきた彼を受け入れて、褥の中に秘めていた刃で、彼の胸を貫いたのだ。
──心臓をえぐり出そうとしたようだったと、彼を視た医者が言っていた。
そして彼女はもういない。
愛した男の血の海に溺れて、自らその喉を掻き切ったからだ。
果たしてその傷口から噴き出たものは憎悪だったのか、それとも血まみれの愛だったのか、唯一それを知る彼女自身はもうこの世を去ってしまった。
「……ウリヴィヤさんは」
「何度か、バルカレッテ家の食事会に招かれて、父についていったの。少し話したこともあるわ。
きれいな女だった。頭が良くて……爵位もあって、いいお家に暮らしてるのに、それでも幸せにはなれないのね」
この国の女の幸せは、男が決めている。
昔からずっとそうで、そう簡単には変わらない。
「私、……あの人の気持ちがわかるわ。私も同じことをしたと思うから」
「同じこと、とは……」
「クラリオを殺そうってずっと思ってた。彼がクイネス家のお嬢さまと婚約した日から……どうやって殺してやろうか、どうすればこの気持ちがクラリオに伝わるだろうって……考えずにはいられなかった。
私は早いうちに捨てられたから、殺せなかった。
私と彼女の違いはそれだけよ」
ウリヴィヤはそう言って、馬鹿みたいでしょう、と自嘲気味に笑った。
そしてロンショットは自らの思い違いを知ったのだった。
ウリヴィヤが暗い顔をしていたのは愛するヴァルハーレが死にかけているからではなく、彼を殺そうとしたのが自分ではないからなのだ。
愛情と呼ぶにはあまりにも歪んでいるが、しかし彼女やリュシーナをそこまで思い詰めさせたのは、あの男の不誠実さに他ならない。
馬鹿なものか。
華奢な膝の上で震えている小さな手──あまりにも白くかよわいそれに、ロンショットは上からそっと黒手袋を重ねて答える。
「よかったです」
「……え?」
ウリヴィヤが顔を上げる。
彼女は泣いてはいない。まるで、自分にはその権利がないとでもいうかのように。
「あなたが人殺しにならずにすんで、よかったと自分は思います。……バルカレッテ嬢のことはとても残念ですが」
「どうして……」
「人を殺めるのは軍人(われわれ)の仕事ですから……どんな理由があろうと、あなたにあんなものを経験してほしくないんです。
だから、よかった。あなたの手はきれいだ」
しょせんはロンショット個人のエゴでしかない、自分でもそれはよくわかっていたが、そう言わずにはいられなかった。
ウリヴィヤの手が汚れていないことを心底よかったと思えた。
彼女は不実な男に振り回された被害者であって、加害者ではない。
まして罪人などではないのだ。
たとえ彼を殺したいほど憎んでいたとしても、その源は初めはたしかに愛であったのだから。
しばらくウリヴィヤは何も言わなかった。
重ねられた手を退けようともせず、黙ったまま俯いていたが、そのうちぽつりと水音がした。
また雨が降り出したかとロンショットは空を見上げたが、天上は茜色に染まっているだけで、薄黒い雲の姿はもうどこにもない。
濡れたのは手袋の上だった。
小さな水滴がひとつ、手の甲に丸い染みを作っている。
「……どうしてそんなに優しいの……」
呻くようにウリヴィヤがそう言った。
また水滴が手袋の革地を濡らす。
そのまま彼女は堪えていた涙を少しずつ零し始めた。
声を押し殺して泣きじゃくるウリヴィヤの、細い肩を抱いたものかロンショットは躊躇い、ひと呼吸おいてから意を決して手を伸ばす。
彼女は拒むことなくロンショットの胸に顔を埋めた。
小さな身体を震わせて泣くウリヴィヤを見つめながら、同じ境遇の女があと何人いるのだろうかとロンショットは憂えた。
誰かが傍にいてやればいいが、そうでない女もいるだろう。
ロンショットはその全員を救うことなどできない。
腕は二本しかないし、口もひとつしかない。
そもそも男女の情や女心には疎く、今もウリヴィヤひとりにさえ、上手く慰めの言葉をかけてやれた自信がないのだ。
それでも彼女はロンショットのことを優しいという。
甘いと言い換えてもいいだろう。
将軍にもよく指摘されている。
だからおまえは軍人に向いていない、と何度言われたかもう覚えていないほどだ。
確かに軍の、それも治安維持部に勤める者としては甘さは短所になる。
けれども今はそれでいいと思っている。
ウリヴィヤを見て、男に捨てられた愚かな女だと嗤うことは簡単だが、ロンショットはその涙を受け止めてやりたいのだ。
これがたとえエゴでも、自己満足や偽善であろうとも。
スニエリタを救えなかった。
彼女を立ち上がらせたのは外国から来た少年たちで、彼らはロンショットより遥かに弱い立場や苦境にあったらしいのに、それを感じさせないほど強かった。
腕ではなく心が強かだった。
彼らがいてくれたからこそ、ロンショットもヴァルハーレに立ち向かえた。
そしてスニエリタは見違えるほど明るくなった。
そのことはほんとうに心から感謝している。
そしてどこかで憧れてもいるのだ。
だからロンショットは今、ウリヴィヤの支えになりたいと願っている。
他に適任者がいるかどうかはどうだっていい。
するべきだと思うことを、正しいと信じることをして、己の心に悖らない男になりたいのだ。
願う。
祈る。
望み、希う。
──我がクシエリスルの神なる大河の主よ、私は強くなりたい。
この人の涙を止められるほどに。
しばらくして、ふたりは戻ってきたカツオドリの背に再び騎乗した。
陽が完全に沈んでしまう前にアウレアシノンまで帰りつかなければならない。
さほど距離はないとはいえ急がなければならなかった。
今度はロンショットが何を言うまでもなく、ウリヴィヤはその身体を彼に預けた。
西の彼方には太陽が明々と燃えている。
伝説によれば、その先に幸福の国があるという。
そういえば少年たちの旅がどのような結末を迎えたのかを知らないままだ、とロンショットは思い至り、明日は朝いちばんに将軍邸へ顔を出そうと決める。
そろそろスニエリタも帰ってきたかもしれない。
だとしたらきっと将軍は心配で怒り狂っているだろうから、それを宥めるのはロンショットの役目だ。
ミルンやララキも一緒だろうか。
ララキのほうはしばらく会っていないが元気だろうか。
そしてミルンのほうは、どうやらスニエリタとはよい仲になりつつあるようだが、果たしてあの将軍がそれを許すかどうか。
もちろん烈火のごとく反対するに違いないわけだが、彼ならきっと立ち向かうだろう。
それどころかスニエリタのほうがかなり強固に主張していると夫人が言っていた。
彼女は大人しいようでいて、やはり根幹のところで間違いなくクイネス将軍の娘なのだ。
今度もやはりロンショットは、彼女の味方になりたいと思う。
そして落ち着いたら、世にも稀なる少年少女の冒険についてじっくりと話を聞かせてもらうのが、今のロンショットの密かな楽しみのひとつになりそうだった。
「……なんだか楽しそうね。何を考えているの?」
「いえ」
ふとウリヴィヤがそう言った。
顔に出ていたかと苦笑しながら、なんでもないと言おうとして、ロンショットは少し考える。
そして、どこの父親も娘を心配する気持ちに変わりはないだろうと思い至った。
「その……あなたをこんな時間まで連れまわしたことについて、ナジエ中佐にお叱りをいただくかもしれませんね」
「平気よ、知りもしないと思うわ。今日は夜番だと言っていたもの」
「ですがお母さまはご自宅にいらっしゃるでしょう?」
どのみち伝わってしまうのではないか、とロンショットは思ったが、ウリヴィヤは困ったように笑って呟いた。
「……むしろ歓迎されるかもね、あなたなら」
「え?」
「なんでもないわ」
翼に裂かれた風音に紛れていたうえ、かなり小さな声だったので、ロンショットにはウリヴィヤの声がよく聞こえなかった。
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