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捌 上野ノ妖ノ章

捌ノ漆 過去を背負っていく

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「だめーーーー!!!!」

 安永とフェノエレーゼの間に、ヒナが泣きながら飛びこんできました。

「ヒナ!? お前、なんでここに!!」

「やだ、やだよ! フエノさんしんじゃやだ! おししょうさん、フエノさんにひどいことしないで!!」

 思いもよらない横槍に、安永も手を止めます。
 ヒナを追って、ナギと政信も二人の間に立ちました。

「袂雀とキツネが、おれたちを呼びに来たんです。フェノエレーゼさんが危ないと」

『チッチッチッ。助けを呼んできたんだから、旦那にはメイッパイ感謝してほしいっさ!』

 ナギの肩では雀がチチチと偉そうに鳴きます。
 助けが来るなんて思ってもいなかったので、フェノエレーゼは苦笑して、その場にへたり込みます。

「フエノさん、大丈夫? 涙がでているわ。ケガがいたいの?」

 ヒナはフェノエレーゼにかけより、ほほをなぞります。触れたその指先は湿っていました。

「泣いている? 私が?」

 泣いたことなんてないので、自分の瞳からこぼれる熱いシズクが涙だと、フェノエレーゼにはわかりませんでした。
 ヒナはやけどのように赤くなったフェノエレーゼの腕に手を添えて、一心に祈ります。

「いたいのいたいの、おそらのむこうにとんでけー! これね、わたしがケガをしたとき、お母さんがしてくれたおまじないなの。とってもよく効くのよ。いたいのかるくなった?」

「……そうだな」

 胸の奥が熱くなる。陰陽師でもなんでもないヒナのおまじないに、効果なんてあるはずもないけれど、こころなしか痛みがうすれる気がしました。


 戦意を失ったフェノエレーゼを横目に、安永は目を閉じます。

「お前たちに、こんな醜い私を見せたくなかったのに。どうして来てしまったんだ」

 ナギは安永と向き合い、訴えます。

「師匠は醜くなんてない。人を傷つける妖怪を退治するのはおれたち陰陽師の役目だけれど、でも、こんなことやめてください。フェノエレーゼさんはもう、人を傷つけることはしない。だから……」

「だから、復讐をやめろと? 私の一族を殺したこいつを許せと言うのか、ナギ」

 安永とフェノエレーゼの確執を初めて知り、ナギは一瞬たじろぎます。それでも、もう一度言いました。

「許せなんて言いません。おれにだって、憎んでいた相手はいる。でも。生涯憎み合うなんて、そんなの悲しいじゃないですか。おれは、師匠にも、フェノエレーゼさんにも、これ以上傷ついてほしくない」

 政信も、安永の手を取り言います。

「師匠。わたくしの目には、彼女を傷つけることで師匠の心も傷ついているように見える。師匠、わたくしは師匠のことを父だと、家族だと、思っております。亡くした家族のかわりになるなどと、おこがましいことは言えませんが、それでも知っていてください。わたくしもナギも、あなたの弟子で、息子です」

 復讐にかられて師が傷つくのは悲しい。
 二人の弟子の心からの言葉に、安永は手をおろしました。

 この五十年は復讐のためだけにあったのではないと、身にしみました。

「……私は、私は許してもらおうなどと思っていない。だが、お前を私と同じ境遇にしてしまったことは詫びよう。人でもあやかしでも、支えなしに一人で立つのは困難だ」

 ヒナに支えられながら、フェノエレーゼは立ち上がります。翼を奪われる前、人間を憎むだけのフェノエレーゼなら、説得に応じたりしなかったでしょう。

 自分の身を案じてくれる存在ができたことで、憎しみだけではだめなのだと気づきました。

 安永はフェノエレーゼをまっすぐ見て言います。

「今回は、弟子に免じて引いてやろう。だが、決して忘れないことだ。善行を重ねようと、お前が過去に犯した罪が消えるわけではないこと」

 その言葉に、瞳に、先ほどまでの深い憎しみと激情はありません。けれど、安永の言葉はフェノエレーゼにまっすぐ届きました。

「わかっている。私は私の過去を、命ある限り背負っている」

 自分が長年傷つけてきた命の影に、安永のような者がいる。忘れないでいることが、せめてもの償いになる、そう思いました。
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