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不穏な風と巫女
51.マリの覚醒
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マリの能力が覚醒した日は、2~3日前からどんよりとした雲が空を漂い、晴れた日は薄水色に光る神殿が灰色に見えるほど、全く日差しを感じられない、暗い空だった。
何かを考えていたわけではないけれど、マリは朝の食事を済ませると、なんとなく引き寄せられるような感覚で、徐に泉へ向かった。
歩いているのは自分自身だというのに、目立った不安があるわけではないのに、何故か浮き足立つような、今歩いているのは自分の意思ではないような、不思議な違和感があった。つま先から静かに泉へ浸かり、中央のゴブレットに触れる。腕はもはや、自力というよりも魔力が勝手に動かしていると言ってもいいほど、無意識のように動いた。
ゴブレットに触れた瞬間、この場所へ来た時と同じような、大きな水の塊に飲み込まれる感覚に襲われ、一瞬にして『別れ』の感情が洪水のように心に流れ込んでくる。ハイド様との出会い、カタリナやサーシャ、レオン様、ソフィア様…他にもたくさんの人の笑顔が、記憶の中でフェードインしては薄れていく。
お披露目の時の景色で、笑顔で手を振ってくれた国民の姿、美しい街、市場の様子…自分の中にある記憶は、どれもとても手放し難いものだ。まだここに居たいのに、こんな呆気ない終わりなのか。まだやることもやれることも、やりたいこともたくさん残っている。
このまま終わらせたくない。
あの日、転生してしまった日本の斎藤茉莉ではなく、今の自分が咲いているこの場所の、巫女のマリとして、『ハイデルの腕に帰りたい』と願った。
「「「ヴェルヌへ、帰りたいのですか?」」」
水の中で知らない女性の声がいくつも重なって聞こえる。
「あの人の元へ、帰りたいです」
息が出来ず苦しかった胸が、なぜかちっとも苦しくない。心の底から、すんなりと言葉が出てきた。
「「「あなたが想像出来ることは、きっと叶います」」」
姿は見えないけれど、マリに向かって優しく微笑むような、穏やかで柔らかい声がこだまするように水中で響く。
想像、想像。ここから出ることを考えよう。この水から出たい。水の…球体から出るにはどうしたらいいのか。頭の中で、水…水…と、連想ゲームを無理矢理始める。
川、雨、水溜まり、海、プール、水風船…そうだ、水風船!
今、もし、自分が水風船の中にいるんだとしたら、その水風船を割れたら、水が弾けて出られるはず。神殿の泉の間に、人間が入るくらいの大きな水風船が、ぷかぷかと浮いている想像をしてみる。
水風船の中には、白い巫女服を着た私がいて、その中で蹲るように丸くなって祈っていて。この水風船の内側の水がどんどん増えて、風船が膨らんで、少しずつ目に見えて風船が広がっていく…。
水が増える想像をしていると、自分の周りの停滞していた水もどこからか発生した水流でゆるゆると動きはじめた。想像に合わせて自分を取り巻くものが変わっているのだとしたら、これはおそらくいけると直感した。
が、頭の中で想像した水風船は、膨らんでも、膨らんでもなかなか割れない。
中の水が増え続けて……ついに想像し始めた時の3倍以上のサイズになったところで、壁に取り付けられている燭台の先が、膨らんだ水風船に刺さって弾けた。
「……ぷはぁっ!……はぁっ…はぁっ……」
いつもの大理石のようなクリーム色の床にペタリと座り込んでいる足が冷たく、一気に現実へ引き戻され、慌てて大きく息をした。
想像で見ていた泉の間は天井まで水浸しで大惨事だったが、実際の泉の間に大きな変化はなく、ゆらゆらと水面が風に揺れている程度で、マリのドレスの裾だけがぐっしょりと濡れていた。
何が起こったのか、何もわからない。理解が追いつかない。ただ溺れてしまった時、自分はここへ帰りたいと思ったのだ、という意識だけが確かにある。
それに…さっきの声は誰なんだろう。
今の出来事はなんだったんだろう。
謎だらけで立ちすくむマリの元へ、額に大粒の汗をかいたカタリナが必死な顔で走ってきた。
「ッ……マリ様!!!マリ様!!!!いますか!!何をしたんですか今度は!!!」
いつもは「声を荒げるなんて貴族のすることではありませんからね」などと言っている本人が、聞いたことのないほど大きな声でマリを呼んでいる。
「カタリナ、そんなに大きな声を出さなくても、聞こえてます。」
ズンズンと近寄ってきたカタリナは、床に座り込んでいるマリの肩をぎゅっと掴んで顔を覗き込む。
「ああマリ様!体調に、何かお変わりはないですか?!」
「どうしたんですか急に。」
なぜか、さっきの出来事を話す気にはならなかった。
「あぁよかった……実は、空が大変なんです…!」
いつも健康そうな赤い頬をしているカタリナが、青ざめた様子で、巫女の道のある方を指さす。カタリナの差し出してくれた手を取って巫女の道へと移動すると、朝までどんよりと曇っていた空が、雲ひとつない青空に変わっていた。
「……えっと、いいお天気になった…わね?」
「いえ、違うんですマリ様。
あの、少し前、いえ本当につい先程まで、分厚い雲に覆われていたのです。
それが、食器を洗いに表へ出たら、泉のあたりから、雲を刺すように細い水色の光の柱が立って、それが段々と太くなって、そのあと急に弾けたと思ったら、雲が……全て消えたんです。」
カタリナは目をまん丸にして、大きく身振り手振りをしながら、早口に、唾を飛ばしながら説明する。
「私はもうてっきり、マリ様が何かを代償にして新たな能力を手に入れて、晴れを呼んだのかとおもって…」
さっきまでの驚いた顔から、急にしょんぼりし、エプロンの裾で涙をぬぐい始める。
「もしかしたらもう、この神殿から、いなくなってしまったんじゃないかと、思ったんですよ…。」
うっうっ…と声をあげて泣くカタリナを抱きしめて、大丈夫よ、ありがとうと伝えたけれど、すぐに泣き止む様子はない。
少し前のカタリナと同じような顔をしたハイド様が、凄い勢いで巫女の道を駆け上がってくるのが見えたのは、それからすぐのことだった。
何かを考えていたわけではないけれど、マリは朝の食事を済ませると、なんとなく引き寄せられるような感覚で、徐に泉へ向かった。
歩いているのは自分自身だというのに、目立った不安があるわけではないのに、何故か浮き足立つような、今歩いているのは自分の意思ではないような、不思議な違和感があった。つま先から静かに泉へ浸かり、中央のゴブレットに触れる。腕はもはや、自力というよりも魔力が勝手に動かしていると言ってもいいほど、無意識のように動いた。
ゴブレットに触れた瞬間、この場所へ来た時と同じような、大きな水の塊に飲み込まれる感覚に襲われ、一瞬にして『別れ』の感情が洪水のように心に流れ込んでくる。ハイド様との出会い、カタリナやサーシャ、レオン様、ソフィア様…他にもたくさんの人の笑顔が、記憶の中でフェードインしては薄れていく。
お披露目の時の景色で、笑顔で手を振ってくれた国民の姿、美しい街、市場の様子…自分の中にある記憶は、どれもとても手放し難いものだ。まだここに居たいのに、こんな呆気ない終わりなのか。まだやることもやれることも、やりたいこともたくさん残っている。
このまま終わらせたくない。
あの日、転生してしまった日本の斎藤茉莉ではなく、今の自分が咲いているこの場所の、巫女のマリとして、『ハイデルの腕に帰りたい』と願った。
「「「ヴェルヌへ、帰りたいのですか?」」」
水の中で知らない女性の声がいくつも重なって聞こえる。
「あの人の元へ、帰りたいです」
息が出来ず苦しかった胸が、なぜかちっとも苦しくない。心の底から、すんなりと言葉が出てきた。
「「「あなたが想像出来ることは、きっと叶います」」」
姿は見えないけれど、マリに向かって優しく微笑むような、穏やかで柔らかい声がこだまするように水中で響く。
想像、想像。ここから出ることを考えよう。この水から出たい。水の…球体から出るにはどうしたらいいのか。頭の中で、水…水…と、連想ゲームを無理矢理始める。
川、雨、水溜まり、海、プール、水風船…そうだ、水風船!
今、もし、自分が水風船の中にいるんだとしたら、その水風船を割れたら、水が弾けて出られるはず。神殿の泉の間に、人間が入るくらいの大きな水風船が、ぷかぷかと浮いている想像をしてみる。
水風船の中には、白い巫女服を着た私がいて、その中で蹲るように丸くなって祈っていて。この水風船の内側の水がどんどん増えて、風船が膨らんで、少しずつ目に見えて風船が広がっていく…。
水が増える想像をしていると、自分の周りの停滞していた水もどこからか発生した水流でゆるゆると動きはじめた。想像に合わせて自分を取り巻くものが変わっているのだとしたら、これはおそらくいけると直感した。
が、頭の中で想像した水風船は、膨らんでも、膨らんでもなかなか割れない。
中の水が増え続けて……ついに想像し始めた時の3倍以上のサイズになったところで、壁に取り付けられている燭台の先が、膨らんだ水風船に刺さって弾けた。
「……ぷはぁっ!……はぁっ…はぁっ……」
いつもの大理石のようなクリーム色の床にペタリと座り込んでいる足が冷たく、一気に現実へ引き戻され、慌てて大きく息をした。
想像で見ていた泉の間は天井まで水浸しで大惨事だったが、実際の泉の間に大きな変化はなく、ゆらゆらと水面が風に揺れている程度で、マリのドレスの裾だけがぐっしょりと濡れていた。
何が起こったのか、何もわからない。理解が追いつかない。ただ溺れてしまった時、自分はここへ帰りたいと思ったのだ、という意識だけが確かにある。
それに…さっきの声は誰なんだろう。
今の出来事はなんだったんだろう。
謎だらけで立ちすくむマリの元へ、額に大粒の汗をかいたカタリナが必死な顔で走ってきた。
「ッ……マリ様!!!マリ様!!!!いますか!!何をしたんですか今度は!!!」
いつもは「声を荒げるなんて貴族のすることではありませんからね」などと言っている本人が、聞いたことのないほど大きな声でマリを呼んでいる。
「カタリナ、そんなに大きな声を出さなくても、聞こえてます。」
ズンズンと近寄ってきたカタリナは、床に座り込んでいるマリの肩をぎゅっと掴んで顔を覗き込む。
「ああマリ様!体調に、何かお変わりはないですか?!」
「どうしたんですか急に。」
なぜか、さっきの出来事を話す気にはならなかった。
「あぁよかった……実は、空が大変なんです…!」
いつも健康そうな赤い頬をしているカタリナが、青ざめた様子で、巫女の道のある方を指さす。カタリナの差し出してくれた手を取って巫女の道へと移動すると、朝までどんよりと曇っていた空が、雲ひとつない青空に変わっていた。
「……えっと、いいお天気になった…わね?」
「いえ、違うんですマリ様。
あの、少し前、いえ本当につい先程まで、分厚い雲に覆われていたのです。
それが、食器を洗いに表へ出たら、泉のあたりから、雲を刺すように細い水色の光の柱が立って、それが段々と太くなって、そのあと急に弾けたと思ったら、雲が……全て消えたんです。」
カタリナは目をまん丸にして、大きく身振り手振りをしながら、早口に、唾を飛ばしながら説明する。
「私はもうてっきり、マリ様が何かを代償にして新たな能力を手に入れて、晴れを呼んだのかとおもって…」
さっきまでの驚いた顔から、急にしょんぼりし、エプロンの裾で涙をぬぐい始める。
「もしかしたらもう、この神殿から、いなくなってしまったんじゃないかと、思ったんですよ…。」
うっうっ…と声をあげて泣くカタリナを抱きしめて、大丈夫よ、ありがとうと伝えたけれど、すぐに泣き止む様子はない。
少し前のカタリナと同じような顔をしたハイド様が、凄い勢いで巫女の道を駆け上がってくるのが見えたのは、それからすぐのことだった。
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