皇帝(実の弟)から悪女になれと言われ、混乱しています!

魚谷

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第三章 記憶の残り香

記憶のフタ

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 村ではあんな心のねじくれた会話など、一度もしたことがない。
 表面的には友好ながら、旬果をつるし上げにして楽しもうという下衆さが、ありありだ。
 しかしそんなことより気持ちを暗くさせるのは、洪周が二人の会話を寄りにも寄って劉麗のような女に、話していたことだ。
(……これも後宮での、保身術の一つなの……?)
 確かに洪周は、家のこともあって切羽詰まっているのかも知れない。
 旬果と仲良くしてて良いことなど何もない。
(頭では理解出来るけど、結構辛いかも)

 伏魔殿で出会えた友人と信じただけに、衝撃は尚更だ。
 涙をこぼすまいと、天を仰ぐ。
(駄目よ。こんなことくらいで挫けてられない……!)
 旬果は袖で目元を乱暴に拭うと、忘れろと自分に言い聞かせ、軽く両頬を叩いた。
 それに劉麗たちの元を辞去出来たのは良いとしても、現在、大問題が発生中であった。
(ここ、どこなの!?)
 旬果は辺りを見回すが、来た時にはこんなところ一度も通らなかった。
 一刻も早くあそこから逃れたい余り、がむしゃらに歩き続け、我に返ったのがここだったのだ。

(ここは迷路っ?)
 しかし女官に道を聞く訳にはいかない。騙されて、またあの陰険女どものところに連れ戻されるなんて真っ平だ。
(本当に無駄に複雑な造りなんだから。迷わせる為に作ってるとしか思えない!)
 しかしよくよく考えれば、自分はかつてここで暮らしていたはずである。
 皇女なのだから、きっとたくさんの女官がついていたに違い無い。
(もし私がずっとここで暮らしていたら、ああいう性悪になっていたのかな……。なっちゃってる可能性はあったかも)
 旬果は庭に面した廊下の欄干を、人差し指でなぞりながら歩く。
(ここに記憶を取り戻す手がかりがあるかもしれない。泰風のことも……)
 キョロキョロして周囲へ目を配り、失われた八年間の断片を求める。
 そしていくつか廊下を折れた。

 しかし、頭には何も浮かんではくれない。
 心細さに拍車がかかってしまう。
 早く菜鈴や泰風の待つ白鹿殿に帰りたい。
 手すりに寄りかかって、頬杖をつき、見事な庭園をぼけっと眺める。
 その時、旬果の目の端に、少年の姿が映った。
 はっとして顔を上げた。
「え?」
 ここは後宮であり、入れる男子といえば皇帝か、その子息……。
 しかし瑛景に弟も子もない。
 旬果は、恐る恐る呼びかけた。

「君、誰?」
 少年はおどおどしながら涙ぐんで、旬果の声に何ら反応を見せない。
 旬果は庭に下り、「ね。君、誰?」ともう一度声をかけるが、反応は同じだ。
 もう一度呼びかけようとしたその時、少年が顔を上げた。
 しかし少年は旬果を見てはいなかった。その視線をなぞる。
 ついさっき自分がいた廊下に、少女が佇んでいた。少年と同い年くらいだが、化粧もしているし、髪飾りがやたらと豪華である。
 そしてその子の顔には、今の旬果の面影が……。
(え。私……?)
 刹那。
「――……っ」
 激しい耳鳴りと共に、旬果は激しい頭痛に襲われ、その場に蹲ってしまう。
 頭が割れそうになり、呻く。幾ら頭を押さえても、その痛みは収まるどころか、激しさを増す。
(誰か……っ!)
 悲鳴を上げ、旬果は前のめりに倒れた。

                     ※※※※※

 目の前に少年がいた。
 いつものように少女――旬果は女官たちの目を盗んで部屋を飛び出し、庭を眺めていた。
 と、茂みがざわざわと鳴った。
 びくっとして身構えた旬果の前に、よろよろと足取りの覚束ない少年が現れた。

 少年は怯えたように旬果を見、涙ぐんでいた。
 ――あなた、誰?
 旬果が声を掛けても、少年はおどおどして答えない。
 ――私は旬果。
 旬果が返答を根気よく待っていると、少年がぽつりと呟く。
 ――……た、泰風……。
 ――泰風。よろしくね。でもここは男の人は入ってはいけないと、父上が仰ってたわ。あっちに出口があるから、連れていってあげる。
 旬果は庭に下りると、少年にそっと手を差し出す。
 泰風は、手を取るべきかどうか迷う。
 旬果が泰風の手を取れば、彼ははっとして恥ずかしそうに目を伏せてしまう。
 一緒に歩き出そうとしたその時、女官や宦官達が駆けつけてくる。
 ――姫様、いけません!
 ――その者から離れて下さい。その者は、魁夷ですよ!
 旬果が泰風を見る。
 ――そうなの?
 泰風は俯いたまま、答えなかった。
 旬果は、女官たちを見る。
 ――魁夷だから何なの? そんなこと関係無いわ。
 そこに黄色の龍袍をまとう髭を蓄えた男と、その後から緑の襦裙を身につけた若い女性が現れた。
 女官や宦官たちは、その場に平伏した。
 旬果は顔を上げた。
 ――父上、母上。
 父、皇帝の瑛恭才《えいきょうさい》が言う。
 ――旬果。その者は?
 ――魁夷だそうです。多分道に迷ったんです。外まで案内しようと思いまして……。
 恭才は傍で、平伏している宦官に尋ねる。
 ――この者は?
 宦官は恐懼する。
 ――は、はい。昨夜、魁夷の子どもが宿所から逃げたという報告があり、その者かと……。
 恭才は旬果に言う。
 ――その者は奴隷だ。働き場がある。
 旬果は反論する。
 ――まだ子どもです。瑛景とそう変わりません。
 ――その者にはその者の、居場所がある。我々とは違うのだ。
 ――では、私の元で働かせて下さい。
 ――その者は男だ。後宮には……。
 ――後宮でとは言いません。私が外に出た時に護衛をさせたいのです。その為にはこの者には力が要ります。錦衣衛に入隊させて下さりませんか?
 娘の要望に恭才は眉を顰めた。
 ――何を言っているのだ。魁夷を傍に置くなど……。
 ――父上。いずれ私は誰かに嫁ぎます。その時に一緒に嫁ぎ先に行き、私を守ってくれる者が必要です。魁夷であれば、とても頼もしいと思うのですが……。
 ――お前の気持ちは分からないではないが……。魁夷に同情するたび、お前はそのような無茶を言うつもりか?
 ――父上、母上。私が偶然出会った魁夷の少年を見ても、何とも思わぬ子であることをお望みでしょうか。それをお望みであれば、私は今申し上げたことを全て忘れます。
 しばらくの間を置き、恭才は妃と顔を見合わせる。
 母の法那が言う。
 ――旬果。皇族の言葉は重い。後で気分が変わったは、許されませんよ。
 ――分かっています。
 法那は皇帝に頷く。
 ――………良いだろう。公主の言う通りに。
 ――父上、母上。ありがとうございますっ!
 泰風は深々と頭を下げ、去って行く皇帝夫妻を見送った。
 そして泰風を軍営に案内するよう申しつかった宦官が、少年に言う。
 ――ついて来い。
 旬果は呼び止める。
 ――待って!
 旬果は泰風へ足早に近づけば、自分が首にかけていた帝室の証たる玉鈴を、泰風の手に握らせる。
 宦官が慌てて止めようとするが、旬果は一瞥して制する。
 泰風が旬果を見る。
 ――これ、何……?
 ――お父様から頂戴した物よ。あなたは私に仕えるのだから、他の人に従っては駄目よ。これを首にかけて、それを忘れないで。
 ――はい!
 ――耳を澄まして。これはね……。

 チリンッ。
 この清流のように穏やかで、心に響く音色が旬果は大好きだった。
 そしてそれは泰風もそうだった。音色に少年は、軟《やわ》らかな笑みを見せてくれた。 
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