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第四章 緋色(ひいろ)の記憶
後宮は大きすぎて迷う
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女官が輿《こし》に乗るのはおかしいから、宦官に扮した泰風を背後に従えて、徒歩で後宮まで向かう。
後宮の門をくぐる時にはさすがに、緊張した。
が、呆気ないほどあっさり、抜けられた。
恐る恐る振り返れば、他の女官たちが足早に出入りを繰り返している。
(……そうよね。今の私は女官なんだから、別に緊張するようなことはないのよね。落ち着いて、普通に振る舞っていれば怪しまれない……)
旬果は前を向いたまま、泰風に話しかける。
「――泰風が後宮に来たのは、あの時だけ?」
あの時とは、初めて二人が出会った時のことである。
泰風は少し歯切れの悪い言い方をする。
「いえ……。もう一度、参りました」
「え、それっていつ……?」
そこに声が掛けられた。
「――ちょっと、あなたたち! 暇ならこっちを手伝って!」
びくっとした旬果が、恐る恐るそちらを振り向けば、何人かの女官たちが庭に出ていた。
地面に大きな布を敷き、そこに何十冊という本を広げている。どうやら虫干しの作業中だったらしい。
この場を仕切っている女官が言う。
「あなたは本を並べて。そこの宦官は本を運び出して」
旬果は泰風と顔を見合わせ、「わ、分かりました」と従う。
と、別の女官が言う。
「駄目よ。そいつは宦官なんだから、男じゃないのよ? 思いものなんて運べないわっ」
「あらあら、そうだったわ。ホホホ」
「でもこいつ、宦官にしては格好良いかも」
「嘘!?あんた、見る目なさ過ぎ!」
「うるさいわねぇ」
「でもいくら格好良く立って宦官じゃねえ。――ほら、あんた、何とか言いなさいよ」
泰風は女官に小突かれ、弄られまくられていた。
しかし泰風は俯いたまま、何も言わない。
別の女官が笑う。
「やめなさいよ。あんな情けない声を出すのが恥ずかしいのよ」
「全くねぇ!」
女官たちは下卑た会話を交えつつ、高笑いする。
(泰風、こらえて!)
旬果は心の中で祈りながら、作業に取りかかった。
※※※※※
作業を終えるのに、二刻(一時間)はかかってしまった。
旬果は額に浮いた汗を拭う。
(こんなことをしている場合じゃないのに!)
と、女官の一人が旬果に話しかけてくる。
「そういえば、あなた、見かけない顔ね」
旬果は顔を見せない為に俯き、恐縮した振りをする。
「は、はい……。最近、後宮へ参りました……」
「名前は?」
(ご、誤魔化そう。え、えっと……)
「しゅっ、旬果、でございます」
とぼけつるもりが、思わず本名を名乗ってしまう。
(しまった!)
「まあ、旬果っ! あらあら、これは不吉ねえ!」
女官がおかしそうに言った。
「不吉、ですか?」
「そうよ。実はね、先日畏れ多くも皇太后陛下に乱暴狼藉を働いた女がいてね。その者の名前も旬果、というのよ」
(乱暴狼藉って誤解っ! 誰にも殴りかかってないわよ!?)
「はあ……そ、そうなのですか」
旬果は、好奇心で尋ねてみた。
「乱暴狼藉って、具体的には何をしたんですか?」
噂好きなおしゃべり雀たちは、目を輝かせる。
「何でも、皇太后陛下の姪御様に対し、唾を吐きかけたとか」
「あら。皇太后陛下の頬を打ったんじゃなかった?」
「違うわよ。いきなり裸になって、淫らな歌を口にしたんじゃなかったっけ?」
「姪御様に噛みついたんだったかしら」
(いくら噂だって、ひどいにも程があるわよ! 捏造じゃない!!)
旬果は驚く。
自分としては正当な怒りと思っていたはずなのに、噂に尾ひれが付きすぎてとんでもないことになってしまっているのが信じられない。
言いたい放題話した挙げ句、女官たちは旬果を見た。
「そんなことより、厨房に行って白湯を持って来て頂戴よ」
「わ、私がですか?」
「当たり前でしょう! 下っ端が動かなくてどうするのよっ!!」
旬果は、泰風を見た。
「それでは、泰風も一緒に……」
「そんなのは一人でやるのよ。ほら、さっさと行きなさいよ!」
旬果は不安一杯で、女官たちに口々に何かを言われて戸惑う泰風を一瞥し、この場を後にせざるを得なかった。
(泰風。ごめん。後で必ず助けるから!)
※※※※※
何人かの女官に尋ね、どうにかこうにか厨房まで辿り着けた。
そこは食材や香辛料などの様々な香りと、人いきれで満ちていた。
女官たちがせっせと動き回り、食材を切ったり、炒めたり、てんやわんやだった。
(まるで戦争ね)
と、背中からドンッと誰かからぶつかられて、つんのめる。
「ひゃっ!?」
当たってきた張本人らしき中年太りの女性が、目を三角にする。
「あんた、そんな所に突っ立ってたら邪魔だよっ!」
「ご、ごめんなさい! あのぉ……」
「何だいっ。さっさと用件を言いなっ。こっちは忙しいんだよ!」
「ごめんなさい! 白湯を頂きたくって」
「白湯!? 見たら分かるだろ。どの竈も一杯なんだよ! そんなもん、後だよ!」
「後って……ど、どれくらいですか?」
「そんなの知らないよ!」
会話は一方的に打ち切られてしまう。
旬果はすごすごと、厨房を出て行くしかなかった。
※※※※※
(やばい。あっさり引き下がっちゃったけど、このままじゃ泰風が……! ああもう……どうしよう!)
ふと顔を上げた時だった。
(あ、あれ……?)
旬果は周囲を見回し、愕然とする。
(ここ、どこっ!?)
厨房まで無事に行けたのは、片っ端から女官に尋ねていったからだ。
まさか来た道を、いちいち覚えているはずもない。
(まずい! 帰れないっ!)
また行き会った人に聞こうか……。
(駄目。そもそもあそこがどこの何て言う場所かも、分からないんだから!)
今頃、腹黒女官どもが、泰風をいびっているかもしれないのに……。
その時、曲がり角の向こうから、大人数の足跡が聞こえて来た。
(しょうがない。本を虫干ししてる場所はどこかって聞こう!)
旬果はその場で止まり、やってくる集団を待った。
果たして、何人かの女官を従えて廊下を歩いてくる人物は、
(ちびっ子!!)
康慧星だった。
(一瞬だけど、顔見られた!?)
旬果は廊下の端に避け、慧星たちの一団に頭を下げ、やり過ごそうとする。
(気付かないで気付かないで気付かないで気付かないで……っ!)
旬果の祈りが通じたのか、目の前を慧星一行が過ぎていく。
(神様、ありがとうっ!)
胸を撫で下ろし、早足で立ち去ろうとしたその時、である。
「……そこの。お待ちなさい」
慧星からの声に、旬果は一団に背を向けたまま立ち止まった。
「こちらを向きなさい」
旬果は俯いた格好のまま、恐る恐る振り返った。
「……はぃ」
声を極力小さくする。
ちびっこが言う。
「もっと大きな声で返事をするんですのよっ! それから顔を上げなさいっ!」
慧星は、女官に対して居丈高だ。
旬果は背中で、嫌な汗がたらりと垂れていくのを意識しながら、ちらっと慧星を見て、すぐに顔を伏せた。
しかしそんなことで、慧星が納得するはずもない。
「もっとちゃんと顔を見せなさい。あなた、私が誰だか分かっておりますの!? 陛下の皇后、康慧星よ!?」
(候補、をちゃんとつけなさいよねっ)
何も知らない女官が相手と侮って、権力を笠に着るのも良い加減にしてもらいたい。
女官の何人かは、笑いを噛み殺している。
「ちょっと、あなた。慧星様が顔を上げなさいと言っているのが、聞こえないの!?」
主人の前で良い顔を見せたいと思ったのか、女官の一人が近づいて来るや、乱暴に旬果の顎を持ち上げようとする。
「や、やめてっ!」
思わず大きな声を上げてしまう。
(やばっ)
慧星の目が見開かれた。
「あ、あなた! 旬果っ!? その格好はなんですのっ!?」
「い、いえ。私は旬果などでは、あ、ありません……」
「下らない嘘を! 誰かこの者を捕まえるのよ! 皇太后陛下の御前で、無礼を働いた不逞の輩ですわっ!!」
(ああああああもう! 私の馬鹿っ!!)
寄りにも寄って、慧星に見つかってしまうなんて。
旬果は踵を返して逃げ出す。
しかし向かいから、女官たちの姿が。
旬果を追いかけている女官たちが、叫ぶ。
「その女を捕まえてっ! 慧星様に襲いかかった、あばずれよ!!」
「してないし、あばずれじゃない!!」
挟み打ちにされた旬果だが、伊達に山を駆け回ってきた訳ではない。
旬果は廊下の欄干に右手を突くや、軽やかに飛び越えて庭に降り立った。
女官たちは欄干から身を乗り出す。
「何と言う猿技っ!?」
(失礼ね!)
瞬間は、脱兎の如く逃げ出した。
後宮の門をくぐる時にはさすがに、緊張した。
が、呆気ないほどあっさり、抜けられた。
恐る恐る振り返れば、他の女官たちが足早に出入りを繰り返している。
(……そうよね。今の私は女官なんだから、別に緊張するようなことはないのよね。落ち着いて、普通に振る舞っていれば怪しまれない……)
旬果は前を向いたまま、泰風に話しかける。
「――泰風が後宮に来たのは、あの時だけ?」
あの時とは、初めて二人が出会った時のことである。
泰風は少し歯切れの悪い言い方をする。
「いえ……。もう一度、参りました」
「え、それっていつ……?」
そこに声が掛けられた。
「――ちょっと、あなたたち! 暇ならこっちを手伝って!」
びくっとした旬果が、恐る恐るそちらを振り向けば、何人かの女官たちが庭に出ていた。
地面に大きな布を敷き、そこに何十冊という本を広げている。どうやら虫干しの作業中だったらしい。
この場を仕切っている女官が言う。
「あなたは本を並べて。そこの宦官は本を運び出して」
旬果は泰風と顔を見合わせ、「わ、分かりました」と従う。
と、別の女官が言う。
「駄目よ。そいつは宦官なんだから、男じゃないのよ? 思いものなんて運べないわっ」
「あらあら、そうだったわ。ホホホ」
「でもこいつ、宦官にしては格好良いかも」
「嘘!?あんた、見る目なさ過ぎ!」
「うるさいわねぇ」
「でもいくら格好良く立って宦官じゃねえ。――ほら、あんた、何とか言いなさいよ」
泰風は女官に小突かれ、弄られまくられていた。
しかし泰風は俯いたまま、何も言わない。
別の女官が笑う。
「やめなさいよ。あんな情けない声を出すのが恥ずかしいのよ」
「全くねぇ!」
女官たちは下卑た会話を交えつつ、高笑いする。
(泰風、こらえて!)
旬果は心の中で祈りながら、作業に取りかかった。
※※※※※
作業を終えるのに、二刻(一時間)はかかってしまった。
旬果は額に浮いた汗を拭う。
(こんなことをしている場合じゃないのに!)
と、女官の一人が旬果に話しかけてくる。
「そういえば、あなた、見かけない顔ね」
旬果は顔を見せない為に俯き、恐縮した振りをする。
「は、はい……。最近、後宮へ参りました……」
「名前は?」
(ご、誤魔化そう。え、えっと……)
「しゅっ、旬果、でございます」
とぼけつるもりが、思わず本名を名乗ってしまう。
(しまった!)
「まあ、旬果っ! あらあら、これは不吉ねえ!」
女官がおかしそうに言った。
「不吉、ですか?」
「そうよ。実はね、先日畏れ多くも皇太后陛下に乱暴狼藉を働いた女がいてね。その者の名前も旬果、というのよ」
(乱暴狼藉って誤解っ! 誰にも殴りかかってないわよ!?)
「はあ……そ、そうなのですか」
旬果は、好奇心で尋ねてみた。
「乱暴狼藉って、具体的には何をしたんですか?」
噂好きなおしゃべり雀たちは、目を輝かせる。
「何でも、皇太后陛下の姪御様に対し、唾を吐きかけたとか」
「あら。皇太后陛下の頬を打ったんじゃなかった?」
「違うわよ。いきなり裸になって、淫らな歌を口にしたんじゃなかったっけ?」
「姪御様に噛みついたんだったかしら」
(いくら噂だって、ひどいにも程があるわよ! 捏造じゃない!!)
旬果は驚く。
自分としては正当な怒りと思っていたはずなのに、噂に尾ひれが付きすぎてとんでもないことになってしまっているのが信じられない。
言いたい放題話した挙げ句、女官たちは旬果を見た。
「そんなことより、厨房に行って白湯を持って来て頂戴よ」
「わ、私がですか?」
「当たり前でしょう! 下っ端が動かなくてどうするのよっ!!」
旬果は、泰風を見た。
「それでは、泰風も一緒に……」
「そんなのは一人でやるのよ。ほら、さっさと行きなさいよ!」
旬果は不安一杯で、女官たちに口々に何かを言われて戸惑う泰風を一瞥し、この場を後にせざるを得なかった。
(泰風。ごめん。後で必ず助けるから!)
※※※※※
何人かの女官に尋ね、どうにかこうにか厨房まで辿り着けた。
そこは食材や香辛料などの様々な香りと、人いきれで満ちていた。
女官たちがせっせと動き回り、食材を切ったり、炒めたり、てんやわんやだった。
(まるで戦争ね)
と、背中からドンッと誰かからぶつかられて、つんのめる。
「ひゃっ!?」
当たってきた張本人らしき中年太りの女性が、目を三角にする。
「あんた、そんな所に突っ立ってたら邪魔だよっ!」
「ご、ごめんなさい! あのぉ……」
「何だいっ。さっさと用件を言いなっ。こっちは忙しいんだよ!」
「ごめんなさい! 白湯を頂きたくって」
「白湯!? 見たら分かるだろ。どの竈も一杯なんだよ! そんなもん、後だよ!」
「後って……ど、どれくらいですか?」
「そんなの知らないよ!」
会話は一方的に打ち切られてしまう。
旬果はすごすごと、厨房を出て行くしかなかった。
※※※※※
(やばい。あっさり引き下がっちゃったけど、このままじゃ泰風が……! ああもう……どうしよう!)
ふと顔を上げた時だった。
(あ、あれ……?)
旬果は周囲を見回し、愕然とする。
(ここ、どこっ!?)
厨房まで無事に行けたのは、片っ端から女官に尋ねていったからだ。
まさか来た道を、いちいち覚えているはずもない。
(まずい! 帰れないっ!)
また行き会った人に聞こうか……。
(駄目。そもそもあそこがどこの何て言う場所かも、分からないんだから!)
今頃、腹黒女官どもが、泰風をいびっているかもしれないのに……。
その時、曲がり角の向こうから、大人数の足跡が聞こえて来た。
(しょうがない。本を虫干ししてる場所はどこかって聞こう!)
旬果はその場で止まり、やってくる集団を待った。
果たして、何人かの女官を従えて廊下を歩いてくる人物は、
(ちびっ子!!)
康慧星だった。
(一瞬だけど、顔見られた!?)
旬果は廊下の端に避け、慧星たちの一団に頭を下げ、やり過ごそうとする。
(気付かないで気付かないで気付かないで気付かないで……っ!)
旬果の祈りが通じたのか、目の前を慧星一行が過ぎていく。
(神様、ありがとうっ!)
胸を撫で下ろし、早足で立ち去ろうとしたその時、である。
「……そこの。お待ちなさい」
慧星からの声に、旬果は一団に背を向けたまま立ち止まった。
「こちらを向きなさい」
旬果は俯いた格好のまま、恐る恐る振り返った。
「……はぃ」
声を極力小さくする。
ちびっこが言う。
「もっと大きな声で返事をするんですのよっ! それから顔を上げなさいっ!」
慧星は、女官に対して居丈高だ。
旬果は背中で、嫌な汗がたらりと垂れていくのを意識しながら、ちらっと慧星を見て、すぐに顔を伏せた。
しかしそんなことで、慧星が納得するはずもない。
「もっとちゃんと顔を見せなさい。あなた、私が誰だか分かっておりますの!? 陛下の皇后、康慧星よ!?」
(候補、をちゃんとつけなさいよねっ)
何も知らない女官が相手と侮って、権力を笠に着るのも良い加減にしてもらいたい。
女官の何人かは、笑いを噛み殺している。
「ちょっと、あなた。慧星様が顔を上げなさいと言っているのが、聞こえないの!?」
主人の前で良い顔を見せたいと思ったのか、女官の一人が近づいて来るや、乱暴に旬果の顎を持ち上げようとする。
「や、やめてっ!」
思わず大きな声を上げてしまう。
(やばっ)
慧星の目が見開かれた。
「あ、あなた! 旬果っ!? その格好はなんですのっ!?」
「い、いえ。私は旬果などでは、あ、ありません……」
「下らない嘘を! 誰かこの者を捕まえるのよ! 皇太后陛下の御前で、無礼を働いた不逞の輩ですわっ!!」
(ああああああもう! 私の馬鹿っ!!)
寄りにも寄って、慧星に見つかってしまうなんて。
旬果は踵を返して逃げ出す。
しかし向かいから、女官たちの姿が。
旬果を追いかけている女官たちが、叫ぶ。
「その女を捕まえてっ! 慧星様に襲いかかった、あばずれよ!!」
「してないし、あばずれじゃない!!」
挟み打ちにされた旬果だが、伊達に山を駆け回ってきた訳ではない。
旬果は廊下の欄干に右手を突くや、軽やかに飛び越えて庭に降り立った。
女官たちは欄干から身を乗り出す。
「何と言う猿技っ!?」
(失礼ね!)
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