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皇太后の決断

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 街の大きな商家に買われてすぐ、下女として働かされた。
 同じように人買い経由でここに買われた下女下男はいたが、ここではある意味、敵同士だった。どちらが主人に認められるかの的も同然だった。
 下手な行動をすればすぐ主人にご注進に入られる。そうなれば、またどこぞの人買いに売られてしまうかもしれない。
 だから、主人に気に入られるように賢くなろうと決めた。

 そのためには何より文字を覚えなければならない。
 それまでの蒼花の生活は日が昇ると共に畑に出て、日没と共に眠るというもの。
 それでも時々、親と共に野菜を売りに行くのに、計算だけは達者だった。
 もってうまれた頭と要領の良さがあった。
 幸いなことにここは商家だ。文字に接する機会はかなりあった。

 人間観察をし、番頭に近そうな優しそうな人間に取り入り、まず計算が達者であることを示した。文字は分からないと言うと、手習いを覚えるように言われた。
 少しでも賢い人間はたとえそれが買われた人間だとしても別の仕事を任される。
 商人は強欲ではあるが、同時に合理的だ。
 肉体労働よりも店にでたり、荷物の売り買いなど知的労働のほうの人材は常に足りなかった。
 それでもある程度、限界はある。所詮は女。
 金を持たされ、一人で行動することは警戒された。
 しかしそうした出世は主人の目にもつくようになる。
 蒼花は自分の顔かたちが男たちにはどうやら悪く見えていないことを知った。
 店の主人には家族があったが、そのいやらしい視線はしっかりと気づいて、それでも素知らぬふりをした。
 やがて少しずつ主人から直々に声をかけられるようになった。
 やっぱり仕事は裏方どまりだし、いつでも笑顔で応じ、とにかく可愛く見えるように振る舞った。
 そしてある時、主人から別宅に来るように言われた。
 お遣いの行き帰りはもちろん手代の目があったが、まさか主人の部屋の中までというわけにはいかない。
 蒼花は、すけべ面をさらす商人を中くらいの花瓶で殴りつけ、出奔したのだった。

 そうして今に到る――。


 
 話し終わっても、すぐに誰も口を聞かなかった。
 重たい沈黙がのしかかる。
 どうせ、誰もが穢らわしいと思っているに決まっている。思うなら思えばいい。
 そうなったのもすべてお前ら、のんびり花見に興じているお前らのせいなんだ。
 お前らが父様w兵隊にとらなければ……。
 蒼花は完全に開き直って傲岸と胸をそびやかして、目の前にいる皇帝と老婆を見た。
 そして最初に口を開いたのは老婆のほうだった。

「まだ私たちを殺したいか」
「殺したい」
「貴様っ」

 兵士が近づこうとするのを老婆が手だけでとどめる。

(このばあさん、何者なの?)

 皇帝と並んでいるが、まさか妃ということはないだろう。

「……ならば、私の傍で仕えなさい」
「皇太后様っ」

 女官たちが声をあげる。

(こうたいごう……)

 知ってる、それは皇帝の母親の名前だ。

(それにしては似てない母子)

 この険の強い母親のどこに、あんな柔和な要素があるのだろうか。

「陛下。この子は政の犠牲者です。いかがでしょうか」
「……皇太后様。どうしてそのように思われたのですか」
「この子は、あまたいるそういった境遇の者のうちで買われた先から無事に逃げおおせ、このように警戒重大な妾たちのもとまで辿り着き、あと一歩のところまで辿り着いた。これは……天が味方したとは言えませんか?」
「天が我々を殺せ、そう仰るのですか……」

 皇帝はさすがに眉をひそめた。

「いえ、天はこの子をつかって妾たちを試そうというのかもしれない」
「試す……? 何をですか?」
「分かりません。しかし天意がこの子を助けたからにはそれなりの意味があると思うのです」

 老婆は優雅に団扇を揺らめかせながら、その目は真剣だった。

「それに、ちょうど書類整理をさせる者が欲しかったところです。文字が読め、計算ができるならば好都合。――私のそばにいて、政がなんたるかを知りなさい。それでも、我々を許せないと思うのであれば、殺しなさい。きっと、天がそうするためにお前を我々のもとへ使わしたのだから。ただし、蒼花」
「…………」
「蒼花」
「は、はい……っ」

 老婆は怒鳴ったわけでも叫んだわけでもない。二度、同じ風に声を出しただけだったというのに、その迫力に抗しきれなかった。

「奪うのは、この婆の生命だけで我慢しなさい」
「皇太后様!」

 皇帝が驚いたように皇太后の顔を見る。

「これで、あなたも多少は、政治に熱を入れることでしょう。多少なり、自分の落ち度でこの妾が死ねば、寝覚めも悪いでしょうから。――蒼花、皇帝まで殺しては天下は麻の如く乱れる。そうなれば、お前のような子は人買いにさらわれるどころか戦火で命を落とすものもでてくるでしょう。どう?」
「……分かった」
「分かりました」
「……わ、分かりました」
「蒼花。これからよろしく」

 皇帝は苦笑したが、膝をつたばかりか手をとった。

「陛下っ」

 さすがに今度は皇太后のほうが驚く番だった。
 しかし皇帝が自分の意志でそうしたからには、周囲も力尽くでやめさせるわけにもいかない。

「……あ、はい……」
「皇太后様にひどいことをされたらすぐ言うんだよ」
「ひどいことをするものか。むしろ蒼花のほうが私たちにひどいことをしようとするかもしれないんだよ」
「かもしれません。でも皇太后様が仰られることも、なんだか信じられるようになりました。私どもも精進をつまなければなりません。――ただ、蒼花よ。もし殺す覚悟があるというのならば、朕を殺せ。いいね」

 そう、耳元でそっと囁き、身を引いた。
 一瞬のことで周りは気づかなかっただろう。
 変なやつら……。
 それが、その時、抱いた感想だった。
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