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皇帝の胸中
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最初、母が寝込んだ時、風邪というのが侍医の見立てだったが、予想以上の早さで衰弱は進み、床に伏せって三日目にはもう何も食べられなくなり、意識混濁のまま亡くなった――それは母付きの女官から聞かされたことだった。
死の触りがあると、遺骸を見ることすら許されなかったのだ。
うちひしがれた英麟は母の喪に服そうとするが、芳皇太后はそれを許さなかった。
――皇帝たるものが、身内の死で政務を休むことなどあってはなりません。お前の肩にはこの恵国の民の行く末がかかっているのですよ。
英麟はその時、はじめて、皇太后という存在に恐怖を覚えた。
(この人は、鬼だ……)
見た目こそ人だが、その心のうちには何がまがまがしいものが潜んでいる……。
母の葬儀もそこそこに、政務に励む毎日。
精神が削れていく日々のなかで、英麟ははじめて自分が傀儡だということに気づいたのだ。
そして背後にある御簾の向こうにいる人こそ、真の皇帝であることを知った。
それでもなお、皇太后の言うがままに形ばかりの政治を学ぶことに務めたのは、英麟の弱さ故だった。
※
そのことを、蒼花は知らない。
彼女は一年前から、皇太后から居室に立ち入ることを禁じられた。
あれほど愛情を注ぎ、宮廷作法やしきたり、箏などを教えた蒼花を……。
皇太后は英麟の頭ごしに臣下を次々と排除していき、新参ものへとすげ替えた。
英麟を含め、宮城は恐怖に囚われた。
にもかかわらず、自分が長年、思い続けている女性が、仇敵も同然な皇太后を敬慕し、その死を悼んでいることが信じられず、狂おしい気持ちにかりたてられた。
皇太后への生きている時にはどうにもやり場のなかった憎悪は、誰よりも大切にしていた蒼花を苦しめるという形で現れた。
大切なものを奪われた悲しみを、死した皇太后に味あわせる。
蒼花を犯すたび、英麟の心を何かが蝕む。
蒼花を想う心が心にありからこそ、想い人を犯すことでうまれるものは奇妙な背徳感となって己を焼き尽くし、歪んだ悦びが胸を満たす。
それを自覚しながらも、それらが麻薬のように身体を支配し、やめられなかった。
英麟は侍中に言って、羌士忠を呼ぶように言った。
しばらくして、
「陛下」
叩頭をして大将軍が姿を見せる。
「人をやって、これを処理させろ」
英麟は顎をしゃくって書類の束を示した。
「畏まりました。……陛下」
「何だ」
怪訝《けげん》に眉をひそめながらも、侍中を下がらせや、そばにあった榻にだらしなく寝そべった。
「……昨今、あの女性にご執心のようですね。毎夜、通われている……」
「見張っているのか?」
「自然とそういうことは入ってくるものです」
「それがどうした。お前には関係ないことだ」
「陛下もそろそろ妃を迎えてはいかがですか。陛下の年頃ともなれば、妃はもちろん、数人の嬪もおられて当然の頃です。それが、虜囚の女に執着では」
「士忠!」
榻《いす》を蹴立てん勢いで立ち上がった。
「はっ」
羌士忠《きょうしちゅう》は跪《ひざまず》く。
「お前が今の地位にあるのは、母上の甥だからこそ、だ。朕がなにをしようと、朕の勝手である。口出しは無用。いいな。――下がれっ」
「はっ」
玻璃のはめこまれた窓越しに、まだまだ高い日と青い空を見あげた。
死の触りがあると、遺骸を見ることすら許されなかったのだ。
うちひしがれた英麟は母の喪に服そうとするが、芳皇太后はそれを許さなかった。
――皇帝たるものが、身内の死で政務を休むことなどあってはなりません。お前の肩にはこの恵国の民の行く末がかかっているのですよ。
英麟はその時、はじめて、皇太后という存在に恐怖を覚えた。
(この人は、鬼だ……)
見た目こそ人だが、その心のうちには何がまがまがしいものが潜んでいる……。
母の葬儀もそこそこに、政務に励む毎日。
精神が削れていく日々のなかで、英麟ははじめて自分が傀儡だということに気づいたのだ。
そして背後にある御簾の向こうにいる人こそ、真の皇帝であることを知った。
それでもなお、皇太后の言うがままに形ばかりの政治を学ぶことに務めたのは、英麟の弱さ故だった。
※
そのことを、蒼花は知らない。
彼女は一年前から、皇太后から居室に立ち入ることを禁じられた。
あれほど愛情を注ぎ、宮廷作法やしきたり、箏などを教えた蒼花を……。
皇太后は英麟の頭ごしに臣下を次々と排除していき、新参ものへとすげ替えた。
英麟を含め、宮城は恐怖に囚われた。
にもかかわらず、自分が長年、思い続けている女性が、仇敵も同然な皇太后を敬慕し、その死を悼んでいることが信じられず、狂おしい気持ちにかりたてられた。
皇太后への生きている時にはどうにもやり場のなかった憎悪は、誰よりも大切にしていた蒼花を苦しめるという形で現れた。
大切なものを奪われた悲しみを、死した皇太后に味あわせる。
蒼花を犯すたび、英麟の心を何かが蝕む。
蒼花を想う心が心にありからこそ、想い人を犯すことでうまれるものは奇妙な背徳感となって己を焼き尽くし、歪んだ悦びが胸を満たす。
それを自覚しながらも、それらが麻薬のように身体を支配し、やめられなかった。
英麟は侍中に言って、羌士忠を呼ぶように言った。
しばらくして、
「陛下」
叩頭をして大将軍が姿を見せる。
「人をやって、これを処理させろ」
英麟は顎をしゃくって書類の束を示した。
「畏まりました。……陛下」
「何だ」
怪訝《けげん》に眉をひそめながらも、侍中を下がらせや、そばにあった榻にだらしなく寝そべった。
「……昨今、あの女性にご執心のようですね。毎夜、通われている……」
「見張っているのか?」
「自然とそういうことは入ってくるものです」
「それがどうした。お前には関係ないことだ」
「陛下もそろそろ妃を迎えてはいかがですか。陛下の年頃ともなれば、妃はもちろん、数人の嬪もおられて当然の頃です。それが、虜囚の女に執着では」
「士忠!」
榻《いす》を蹴立てん勢いで立ち上がった。
「はっ」
羌士忠《きょうしちゅう》は跪《ひざまず》く。
「お前が今の地位にあるのは、母上の甥だからこそ、だ。朕がなにをしようと、朕の勝手である。口出しは無用。いいな。――下がれっ」
「はっ」
玻璃のはめこまれた窓越しに、まだまだ高い日と青い空を見あげた。
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