上 下
9 / 10

しおりを挟む

* * *

 その日は、気温の低い雨の日だった。文化祭当日、俺は朝から、心臓の高鳴りを抑え切れないでいる。いよいよ、この日がやってきたのだ。

 水川はきっとやって来る。水川を夢の世界から解放するって、そう約束したから。俺は自分を信じて疑わなかった。

 文化祭のステージ発表は、午後から開催される。午前中はスピーチコンテストやら合唱コンクールやらが開かれて、午後からのイベントは一般開放されるのだ。もちろん、午前中は何も考えられなかった。これから行われる弾き語りで、頭の中は一杯だ。

 加恋たち家族も呼んだ。父さんは仕事だから、母さんと二人で来るだろう。加恋はすっかり良くなって、一週間前に退院している。

「青島君、頑張ってね! 青島君なら絶対上手くいくよ!」
「池山君、ありがとう。頑張るよ」

 本番前に、池山君が背中を擦ってくれた。一応これは、クラスの出し物ということにもなっている。一人で臨むにせよ、クラスを代表していくのだ。嫌でも力が入る。

「じゃあ僕、席に戻るからね。青島君、ファイト!」

 ステージ裏についてきてくれた池山君が、クラス順ごとに座っている観客席に戻っていった。一人になった途端、呼吸が乱れてきた。俺は本当に、大丈夫なのだろうか。

「それでは、三年一組のステージ発表です。代表者、青島栄人君による発表を、どうぞご覧ください」

 司会の人によるタイトルコール。その声と共に、幕がゆっくりと開いた。心臓の鼓動がマックスで響いている。

 暗い体育館の中で、小さな照明がステージ上の俺を照らしている。拍手が静まった後、大勢の視線を一気に浴びた。ピックを持って弦をかき鳴らす……その行為が、何故だかできない。

 手が固まってしまったみたいだ。いつもはスムーズにできるのに、頭の中が真っ白になった。あれ……どうしたんだ?

 ……ざわつき始める客席。負けちゃダメだ。この空気に、屈しちゃダメだ。わかってはいるけど、体が反応しない。こんなに追い込まれるのは、生まれて初めてかもしれない。こんなはずじゃなかったのに、俺はどこまで惨めなんだ。

 一度幕を締めてもらおうか……舞台袖の方に目をやって、助けを求めようとした時、客席の方から手を振られたのに気がついた。

「……水川?」

 俺たちのクラスの塊のところに、皆と同じ制服を着た水川を発見した。女の子の中でも小柄で、誰よりも細い。とびきりの笑顔を見せてくれた水川のおかげで、正気に戻った。

 そうだ……俺は、水川を救わないといけないんだ。混乱し過ぎて、本来の目的を忘れていた。水川は無事に、ここに来てくれている。だったら、最大限に表現するしかないだろう。

 俺の歌を。俺が作った歌で、水川の心臓を震わせないと。水川と目が合うと、指の先にまで力が通った気がした。そのまま力を込めて、思いっ切りにギターをかき鳴らす。

 
 ――夢の中にある幸せは、想像以上に心地良いものなのかもしれない。夢の中の幸せに縋って、現実を生きていく勇気が出ないのかもしれない。もし、この世に希望を見出せずに、独りで夢の中に囚われているのなら……俺が君を導こう。だってこの世は、数え切れない喜びに満ち溢れているから。

 たとえ君が、夢の中にいるとしても。

 俺は、君を導く光となる。俺が君を、何度でも笑わせてあげる。

 いつか、君の中にある悲しみを乗り越えられる日が来る……その時まで。俺は逃げないと誓った。

 辛い困難も、寄り添い乗り越えてみせる。


 ……僅か三分三十秒。歌っている間、水川のことだけを想っていた。

 ギターの音が止んだ後、割れんばかりの歓声が起きた。中にはスタンディングオベーションをしている生徒もいる。見てくれている人が笑顔になっているのを見て、俺はやり切ったんだと実感することができた。

 水川は、ちゃんと俺のことを見ていてくれた。拍手をしながら、俺の方を見て頷いてくれている。拍手が止むまで、この余韻を味わう。


 転校してきた当初は、『どうせすぐ卒業するんだから、友達なんて作らなくてもいい』と思っていた。孤独でも、自分の成績や評価さえ保てれば、他はどうでもいいと思っていた。

 でも今は違う。水川と接することで、大切な感情を覚えた。それは、人を愛すということだ。

 過眠症を抱える水川……眠った先の世界に見ているのは、俺じゃないかもしれない。今は俺じゃないかもしれないけど、いずれは夢に逃げなくてもいいような現実を、一緒に作っていこうと思っている。 


 水川日菜乃が、好きだから。
しおりを挟む

処理中です...