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京介編
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しおりを挟む「貴方をお待ちしていましたよ。 田中京介さん」
鈍く光る銃を向けられながらも、一之瀬財閥の若き総帥、一之瀬尊は、今まさに自分を撃とうとしている男に向かって、礼儀正しく優しい声で微笑む。
一方で、拳銃を構えていた男、田中京介は激しく動揺していた。
(俺は、俺は本当に撃つのか?! 目の前の、一之瀬尊を撃てるのか?!)
聞いていた話とまるで違うーー
俺は稀代の悪党を倒すために、ここに来たはずだ。
けれど目の前にいる一之瀬尊は、まるで清廉な人間そのもの……
冷たい銃口に怯える様子も見せず、無垢な瞳で微笑み続けている。
もしも、無様に泣き叫んで命乞いでもしたなら、躊躇することなく、その額に銃弾を撃ち込んだだろう。
しかし、長年培ってきた刑事のカンが一之瀬はシロだと、そう自分に訴えかけている。
ーーなぜ、なぜそんなに優しく俺に微笑むことが出来る……
俺を“待っていた”とは、どういうことだ?
何かがおかしいーー
一体、どこで間違えたーー
京介の額にじっとりと汗が浮かび、引き金にかけた指先が僅かに震える。
ーー迷うな、京介
心の中でもう一人の自分が囁く。
ーー優奈を救うためだろう? 勇気を出すんだ
その声を聞き、覚悟を決めて、京介は再び銃の照準を、ピタリと一之瀬尊に合わせた。
数日前、京介は警察庁警備局長の竹中に呼ばれて局長室へと赴いていた。
「お呼びですか、局長」
高い身長に、きりりと筋肉質に引き締まった背筋をピンと伸ばし、実直な黒い瞳を瞬きさせ、少し緊張した面持ちで局長デスクの前に立つ京介は、キャリア組の若手ホープとして普段から上司の信頼も厚かった。
意志の強そうなその顔は、テロリストからこの国を守るという職務への誇りが現れていた。
「田中君、これを読め」
竹中局長は黄色いファイルをポンと寄越す。
「失礼します」
京介はファイルを手に取り開き、ザッと視線を走らせる。
書類のヘッダーには
“一之瀬尊に関するデータと報告”と書かれていた。
「君も一之瀬グループの名は聞いたことがあるだろう?」
竹中局長の言葉に京介は頷く。
銀行に保険といった金融業から不動産や製薬会社、また自動車だけでなく、ロケットや潜水艦を造る重工、そして映画や音楽のエンターテイメントにIT産業と、ありとあらゆる会社を抱える世界的なグループ企業であり、その一之瀬を現在統括しているのが、“若き獅子”と天下にその名を轟かせている、一之瀬尊であった。
「この一之瀬グループが密かに大量破壊兵器を製造するための主要部品を、我が国と敵対するT国に流している事実が見つかったのだが、実質、この国を治めているのが一之瀬グループと言っても過言ではない今の状況で、一之瀬を捜査する権限は残念ながら我々には無い」
竹中局長はここで言葉を区切って、悔しそうな表情を浮かべる。
「我が国から敵対国への核流出は同盟国からの信頼を損ねるだけでなく、核戦争への引き金となり、国家の危機にも成りかねない。これに対応すべく、我々が“個人”で動く事にした」
「局長……」
「田中君、公安警察としてキミの成績の優秀さは聞いている。是非とも君に今回の任務に着いて貰いたい」
そう言うと、竹中局長は机の一番下の引き出しから茶色の小さな紙袋を取り出し、京介に手渡す。
京介はその袋の中身を取り出して、ハッと息を呑んだ。
それは、白銀のボディのずっしりとしたS&WのM686の銃だった。
「今回の君の任務は、私が敢えて口に出さなくとも分かるね? この国を守るためだと思って、この仕事を受けて欲しい。辛いだろうが、君にしか出来ない仕事だ」
竹中局長の言葉に京介は茫然と立ち尽くすしかなかった。
「お兄ちゃん!」
病院のベッドの上の青白い顔をした幼い少女は、見舞いに来た京介の顔を見ると嬉しそうに微笑んで起き上がろうとする。
「優奈、無理をするな」
京介は慌てて優奈の体を支えると、腕の中に抱き抱える。
父親の若い後妻が産んだ優奈とは二十以上も歳が離れているせいもあり、京介はまるで自分の娘のように優奈を可愛がっていた。
その父親と後妻の優奈の母親が数年前に交通事故で亡くなってからは、京介はより一層、優奈への保護者としての意識を強くしていた。
「優奈、今日の体調はどうだい…… ?」
京介は優奈の蒼白い顔をそっと覗きこむ。
優奈は小さな頃から心臓を悪くしていて、外科手術を勧められていたが、京介は高額な手術代が出せずにいた。
今まで貯めていた貯金に、事故で亡くなった父親の生命保険金を足しても、まだ足りなかった。
「ねぇ、お兄ちゃん…… 優奈…、もうすぐ死ぬの……? この間ね、隣のベッドの…勇人くんが天国に…行ったの…優奈…知ってるの…… 次は…、優奈の…番なの……?」
呼吸をする度に苦しそうに胸を押さえる腕の中の幼子に問われて、京介の心は締め付けられる。
「大丈夫だ。優奈は死なない。お兄ちゃんが必ず助けてあげるから」
ぎゅっと優奈の小さな体を抱きしめ、しっとりと汗で濡れた髪を撫でながら、昼間の竹中局長の言葉を思い出す。
『田中君、今回の仕事には相応の報酬が出る。君の妹さんの手術代が出せる分くらいの金額だ』
最早、京介には断るという選択肢は無かった。
この手を血に染めても優奈の命を守ってやる!
京介は優奈の小さな額にそっとキスをすると、決意を胸に病院を後にした。
いよいよ、決行日。
重厚なオフィスビルが競い合うようにして立ち並ぶ丸の内の中でも、一際、高くそびえ立つ、一ノ瀬本社ビルの正面に京介は立ち、その上階を睨みつける。
まだ建てたばかりの真新しいビルで、一階部分はやや前面にせり出していて、大きく開放的な天井のガラス窓からは輝くような光が差し込んでいた。
ロビーには美しい人工の滝のオブジェがあり、流れる水の音がまるで音楽の音色のように響き渡っている。海外のミュージアムのような赴きだったが、京介の目にはまるで鬼の城のように禍々しく見えた。
入り口の自動扉の前に立った京介は、竹中局長から直々に叩きこまれた侵入から逃走までの手順を頭の中で反芻する。
今回の計画は外部に漏れる事を警戒し、限られた人物しか関わっていない、そう竹中局長から聞かされていた。従って、局長以外の誰が動いているのか、全く分からなかった。
万が一、現場でのバックアップが無かったとしても、1人でやり遂げるしかない。
大丈夫だ。絶対に上手くやってみせる。
必ず成功して優奈の元へ帰る。
京介は覚悟を決めると、グッと拳を握りしめて敵陣へと足を踏み入れた。
「警視庁警備部の長部という者だが、一之瀬社長の警備状況について、社長本人からヒアリングをしたい」
脇には1mはありそうな大きなフラワーアレンジメントが飾られている、大理石で出来た豪奢な受付で、京介は暗記していた台詞をスラスラと言い、警察手帳を出す。
受付嬢はチラリと警察手帳を見ると、その美しい顔をニコリともさせずに、何処かへ電話をかけ始めた。
何か不審に思われたのかと、京介の背中に冷や汗が流れ落ちる。
公安所属である京介は、普段は警察手帳というものは持ち合わせていない。今、手にしているこの警察手帳は竹中局長が用意したもので、名前も所属も偽名だった。
やがてマネキンのように整った顔の受付嬢はカチャンと受話器を置くと
「ただ今、秘書室長がこちらにお迎えに参りますので、あちらでお待ちください」
と、ロビーの隅に置かれたソファーの方向を示して、そこで待つよう京介に素っ気なく言い、ツンと澄ました顔で京介から視線を外す。
「どうも」
京介は、冷たい顔をした受付嬢に会釈をすると、ロビーのソファーに腰かけた。
それにしても、暗殺者の自分が、『社長の警備状況を視察に来た』なんて台詞を言うのは皮肉だなと1人心の中で笑う。
しかし、警察手帳をチラリと見せただけで社長室に簡単に行けるというのはセキュリティとしてどうかとも思う。
いや、もしかしたら竹中局長の方で何か根回しをしているのかもしれない。
社長室にさえ入り込めれば、後はこの銃の引き金を引くだけだ。
相手は核を拡散させ、この国を戦火へ巻き込もうと目論む売国の悪党だ。英雄願望など更々無いが、悪を退治し、この国に貢献できるのならば、警察の仕事を選んだ甲斐があるというものだ。
京介はスーツの内側に仕舞い込んだ銃を生地の上からそっと押さえる。それから周囲を注意深く見渡した。周りのスーツを着たビジネスマン達は皆、一様に手には鞄を持っており、時折中から書類を出しては確認するかのように視線を走らせ、またしまい込んだりしていた。
そうやって見ていると、手ぶらで来てしまった自分がやや浮いているように感じる。周りに不審に思われたりしないだろうか。場に合ってない格好で、下手に周囲に印象付けるのは良くない。しかし、かと言って、警察を名乗った以上、ビジネスマンのような鞄はおかしい。
そんな事をうつらうつらと考えながら座っていたが、時が進む気配が一向にしなかった。
ーーそれにしても遅い。
ソファーで待つように言われてから、優に45分は経っていた。
周囲にいた商談と思しきの客たちは、次々とミーティングルームへと通されていくのに、自分だけが取り残されていた。
警察の自分をこんなにも平気で待たせるなんて、随分とナメられてるじゃないか。
イライラしながら顔をロビーの方へと向けたその時、
「いやぁ、お待たせしました!」
エレベーターホールの方から、バリトンのような滑らかな声が響き、がっしりとした長身の男がこちらに歩み寄って来た。
恐らく彼が尊の秘書なのだろう。
遠目からも彼の華やかさとハンサムな容姿は嫌という程に分かった。意志の強そうな眼差しにクッキリとした顔の輪郭。プライドの高そうな性格と比例するかのようなキリッとした高い鼻。全てが整い過ぎるほどの完璧な容姿だった。
さっきまでマネキンのように冷たい顔をして座っていた美人受付嬢は、
彼の姿を見ると、少し頬を赤く染めながら、直ぐに立ち上がり
「お疲れ様です、相馬室長」
と微笑んで丁寧にお辞儀をする。
"客"の俺とは随分と対応が違うじゃないかと、京介は苦々しく心の中で笑う。
「お待たせしてすみません!社長の一之瀬も会議が立て込んでいて、なかなか席を外せなかったものですから」
秘書室長は口では謝りながらも、待たせた事を一ミリも申し訳ないと思っていない雰囲気を隠そうともせずに、余裕の笑みでこちらに歩み寄る。
「いえいえ、急に面会を申し出たのは我々の方なので」
京介は立ち上がり、再び警察手帳を出す。
秘書室長は受付嬢と同じように、チラリと警察手帳を一瞥すると、
「また、うちの社長宛に脅迫状でも警察に届いたんですかね?」
声を潜めて京介に尋ねる。
「えぇ……まぁそんなところです。一応、社長ご本人にも周辺で気になる事が起きていないか確認したいのですが」
京介が答えると、秘書室長は頷き、社長室に案内するのでついて来るように京介に声をかけた。
重役専用のエレベーターに秘書室長と二人きりで乗り込むと、京介は改めて自分の斜め前に立つ秘書室長の長身でがっしりとした背中を眺める。
彼の魅力を引き立たせるイタリアンスタイルのスーツは、素人が見ても、熟練の職人が仕立てたオーダーメイドだと分かる。値段にすれば60万以上はする筈で、一介のサラリーマン が着る服では無いことは確かだった。
男から見ても相当にハンサムな容姿だったが、それ以上に彼を魅力的に見せているのは、この男が纏っている王者の風格だった。
何者にも屈しない、鋼のような強さ
生まれながらにして、周囲を傅かせる素質を持つ男ーー
もし彼がこの一之瀬グループの総裁だったとしても、誰もが納得しただろう。
そんな事をぼんやりと考えているうちに、エレベーターが60階で止まる。
秘書室長と共にエレベーターホールに出ると
ビー!ビー!ビー!
と大きな音を立てて警報アラームがフロア中に鳴り響き、警備員が6人ほど一斉にこちらに駆け寄って来た。
しまった!
京介は思わず、銃の入ったポケットを押さえる。
恐らくセキュリティゲートにこれが反応したのだ。
その時、秘書室長が
「こちらは警察の方だ。問題無い」
そう言って、京介を取り押さえようとしていた警備員達を制止する。
彼らは一瞬、不満気な表情を浮かべたが、「失礼しましたっ!」と敬礼をして直ぐに自分達の持ち場へと戻って行った。
「騒々しくて申し訳ありません」
秘書室長が軽く頭を下げる。
「いえ。セキュリティがしっかりしているのは悪い事ではありませんよ」
京介はそう答えながら、気付かれないように冷や汗をそっと拭った。
秘書室長は再び歩き出し、京介も慌てて室長の大きな背中を追って、後をついて行く。
さすが、一之瀬の役員フロアだけあって、一般フロアとは違い、廊下の壁はマホガニーで作られていて、壁に取り付けられている照明は、バカラのキャンドルスタイルだった。まるで高級ホテルの設えだったが、京介は慎重に廊下に並んだ部屋の作りを確認しながら、足を進める。
ちらりと見えた先には非常口の看板があり、逃走経路はあそこだなと、目視する。
やがて一番奥の部屋の扉を開けると、そこには小さなデスクがあり、『秘書室長』と書かれたプレートが置かれていて、そのデスクの奥に、更に重厚な扉があった。
恐らくあの扉の奥が社長室なのだろう。
秘書室長が社長室の扉をノックし
「社長、警察の方がお見えになりました」
と声をかけると、
中から若い男の声で
「どうぞ」
と返事があった。
いよいよ、国家の敵である、一之瀬尊との対面の時である。
京介はぎゅっと固く拳を握り締めると、任務が無事に成功する事を祈りながら、社長室の中へと入っていった。
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