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プロローグ
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雨が東京の裏路地をしつこく叩いていた。
傘を持つ手が震え、指先は冷え切っている。深く差したはずの傘の隙間からは容赦なく水滴が入り込み、濡れたコートの裾が足に貼りついて気持ちが悪い。
もう、どうでもよかった。何もかもが、どうでもいい。
ユキは、黙って古びた看板を見上げた。
《紅茶館 ル・サロン・ルージュ》――看板の文字は赤く剥げ、まるで長い間、誰にも気づかれなかった秘密のようだった。こんな場所に、どうして自分は立っているのか。答えは簡単だった。逃げたのだ、すべてから。現実から、自分自身から。
誰も見ていないことを確認し、ユキは重い木の扉に手をかけた。濡れた髪が頬に貼りついている。まるでずぶ濡れの野良猫が雨宿りでもするかのようだった。
相手は美術サークルの先輩だった。
入学式のあと、サークルの勧誘でチラシを手渡されたときから、ずっと惹かれていた。
絵が上手いわけでもないのに、美術サークルに入ったのは、その人がそこにいたから。
理由なんて、そんなものでよかった。憧れは、いつしか密かに燃える恋心になっていた。
そして今日、初めて知った。
先輩には恋人がいる――という事実を。
噂でも、友人づてでもなかった。
本人の口から、ごく自然に語られた。
「昨日、彼女と根津美術館に行ってさ。あそこ、やっぱり良かったよ」
ただ思い出を語っただけの、何気ない一言。
悪意なんてひと欠けらもなかった。
柔らかな笑顔で、彼は幸せそうに話していた。
ユキは、うまく笑えなかった。
頬がひきつり、声は喉の奥でかすれた。
滲みそうになる涙を、瞬きで必死にごまかす。
胸の奥で、何かが静かにひび割れた気がした。
――私には、魅力がないんだ。
ぽつりと落ちたその呟きが、自分という存在を内側から壊していく。
足元が崩れ落ちるような感覚。
どこにも逃げ場はなく、しがみつける場所もなかった。
このまま消えてしまいたいと、心のどこかで思っていた。
気がつけば、サークルの部室を飛び出していた。
どうやってその場を離れたのかも、覚えていない。
ただ、すべての記憶を消し去りたくて。
なにもかもなかったことにしたくて。
ユキは、雨に濡れながら街を彷徨っていた。
――どこでもいい。ここじゃない場所に行きたい。
そう願ったその時、視界の隅に、小さな看板が浮かび上がったのだった。
扉を押すと、雨音が一気に遠ざかり、甘く温かな空気がユキを包み込んだ。まるで別世界のようだった。紅茶の香り、淡く漂うジャスミンとムスク。暖色の光が落ちる天井から、古風なシャンデリアが静かに揺れている。まるで異国の貴族が集うサロンのようだった。
そこに、黒いサテンのドレスを纏った女主人がいた。
「ようこそ、雨の日の迷い子さん」
女の声は低く艶やかで、まるでチェロの音色のようだった。銀の髪が波打ち、緑の瞳がユキを見つめる。その瞳には、見透かされるような鋭さと、不思議な温もりが同居していた。
女主人は、日本人とも西洋人ともつかない、不思議で妖艶な顔立ちをしていた。
ドレスの胸元は深く開き、光を受けた肌が艶めく。言葉にならない何かが、ユキの心を強く揺らした。
――ここ、どこ……?
逃げたい気持ちと、引き寄せられる衝動。
雨に濡れながら立ちすくむユキを、女主人はやさしくカウンター席へ導いた。赤いベルベットのクッションが、ずぶ濡れのユキの身体をそっと受け止める。柔らかな香煙がくゆり、ユキの心に触れてくる。鏡に映る自分――濡れた髪、青白い頬、伏せた瞳。その姿に、恥ずかしさと哀しみがないまぜになる。
「紅茶でよいかしら」
カップを手渡されたユキは、震える指先で受け取る。温もりが掌に沁みた。ダージリンにバラとバニラが溶け合った香り。ふっと肩から力が抜ける。こんなに優しく扱われたのは、いつぶりだろう。
「名前は?」
女主人の声がふたたび響く。ユキはびくりとし、小さく答えた。
「ユ……ユキ、です」
声は壊れかけのガラス細工のように脆く、震えていた。
女主人は一拍おいて、慈しむように口にした。
「――ユキ」
まるでその名に触れた瞬間、心の奥の何かがほどけていくようだった。
「ユキ。雪のように白く、儚く、美しい名前ね。こんな雨の日に、なぜこんな場所へ?」
返せなかった。痛みが、喉を塞ぐ。
けれどその沈黙さえも、彼女は見透かしていた。
「なにか、心に傷を抱えているのね」
ユキの心が、ぶつ、と軋む。
「……先輩に……好きな人がいて……私なんて、きっと、愛されない……」
自分の声とは思えなかった。張り裂けそうな胸の奥から、言葉が流れ出た。
「魅力がない? そんなことはないわ、ユキ」
セシルと名乗った女主人は、甘く、やさしく、ユキを慰める。
その声は、どこか媚薬のようだった。
「あなたは白い花のよう。濡れても、踏みにじられても、なお咲き続ける花よ。傷ついた心こそ、真に愛される資格があるの」
ユキの視界が滲む。
――本当に、そう思ってくれるの……?
セシルは新たな紅茶を淹れ、差し出す。
その香りは、先ほどとは違っていた。より濃密で、どこか甘美で、抗えない誘惑を孕んでいる。ユキは迷いながらも、セシルの瞳に押されて口をつける。
一口、また一口。
紅茶の熱が喉を滑り、脳を痺れさせる。身体がふわふわと軽くなり、胸の痛みが遠ざかっていく。紅茶が、心の隙間を満たしていくようだった。
「どう? 素敵な気分でしょう?」
セシルの声が囁く。
「さあ、もっと素敵な世界を見せてあげる」
女主人のセシルはそっと手を差し出した。
白く長い指、爪の先にはわずかに紅を差したような艶。まるで夜の蝶が羽根を広げるように、優雅で、静かで、誘惑的だった。
ユキはその手を見つめたまま、動けなかった。
頭のどこかで警鐘が鳴っていた。
知らない場所に連れて行かれる。危ないかもしれない。
だけど、胸の奥では、もう一つの囁きがこだましていた。
――でも、こんなふうに手を差し伸べられたこと、あった?
セシルはユキの戸惑いを感じ取っているようだった。
そして、そっと微笑んだ。
その笑みは、どこまでもやさしく、包み込むようで、それでいて危うい色香を纏っていた。
見てはいけない宝石を覗き込んでしまったような――そう、心が震えるほどの美しさだった。
「怖くないわ、ユキ。私はあなたを、傷つけたりしない。むしろ……大切にするわ」
ユキは、息を呑んだ。
脚が勝手に動いていた。
怖い。でも、行きたい。この先にある世界を、ほんの少しだけ覗いてみたい。そう思ってしまったのだ。
そして、そっと――指先が重なる。
セシルの手は温かく、柔らかかった。
引かれるまま、ユキは立ち上がり、二人はカウンターの向こうの、深紅のカーテンの奥へと歩き出した。
重いカーテンをくぐった先は、まるで現実から切り離された異界だった。
四方の壁に張り巡らされた鏡が、シャンデリアの柔らかな光を何重にも反射し、眩いほどに空間を包み込む。
部屋の隅に置かれた赤いサテンのソファ、漂うジャスミンとムスクの香。
香炉の煙がゆらめいている。
外の雨音だけが、ここがまだ現実だと告げていた。
ユキはセシルに手を引かれ、ふらふらと鏡の前に立たされる。
「見て、ユキ。これがあなたよ。こんなにも可憐で、美しいのよ」
視線を上げたくなかった。だが、気づけば鏡が、自分の全身を映し返していた。
――その姿に、ユキは息を飲んだ。
「……最低……」
雨に濡れて色が滲んだスカート。水を吸って重たくなった髪が頬に貼りつき、ファンデーションは流れ、目元は涙でにじんでいる。
真っ赤に充血した瞳。泣き腫らした顔。唇の色は悪く、肌は青白い。
こんなにも惨めな女が、自分だったのか。
愛する人に選ばれなかった、道化師みたいな敗北者…
涙が止まらなかった。
嗚咽が喉をせり上がり、鏡の中の自分を睨みつける。
「……嫌…っ! こんな自分、見たくない……!」
言葉にすると、余計に胸が軋んだ。
誰にも必要とされない。愛される価値なんてない。
鏡はそれを証明しているようだった。
だが、その横から、セシルの落ち着いた声が降ってくる。
「違うわ、ユキ。あなたは……ひどく傷ついてる。でも、それがあなたの美しさを否定する理由にはならない」
ユキは首を横に振った。
「こんなの、美しくなんかない……
濡れて、泣いて、グチャグチャで、プライドもズタボロで……
こんな姿、誰にも見られたくないのに……!」
自分でも声が震えているのが分かった。
泣きたくないのに、涙は止まらない。
けれどセシルは、静かに一歩近づくと、ユキの肩にそっと手を置いた。
「心が壊れたとき、人は自分の一番醜い面しか見えなくなるわ。でも、それだけよ。
鏡が映すものは、今だけ。
あなたの中には……まだ咲いていない美しさが、ちゃんと眠ってる」
その言葉に、ユキの瞳がわずかに揺れた。
鏡に映るのは、確かにズタズタの、みじめで泣き顔の自分。
でも、セシルはそれを“否定”しない。ただ、そっと包み込むように見てくれている。
「……私に、まだ……何か残ってるの……?」
絞り出すように呟いたユキに、セシルは頷く。
「ええ。あなたの心の奥には、小さな蕾のようなものが、ちゃんと残っているわ。
この雨がやんだら、きっと……開く時が来る」
その微笑みは、あまりにもやさしくて、ユキはもう抵抗する力をなくしていった。
セシルの指先が、静かに、しかし確かな意志をもってユキに触れる。
濡れたブラウスの襟元に指をかけ、一枚ずつ――まるで羽を脱がせるように、ユキの衣服を解いていく。
その手つきは優雅で、まるで儀式のようだった。
ボタンが外れ、布が滑り落ちていくたびに、ユキの身体から、今まで守ってきた何かが剥がれていく。
抵抗は、できなかった。
頭のどこかで「やめて」と叫ぶ声がかすかに響くのに、身体は動かない。
セシルの瞳に見つめられると、そのすべてが甘やかに絡みつき、鎖のようにユキを縛る。
――怖くないわけじゃない。だけど、それ以上に、もう何もかも自分では支えきれなかった。
委ねたい。
この人に、全部、任せてしまいたい。
泣きすぎた心が、そう囁いていた。
やがて、最後の一枚が指先から滑り落ち、床に静かに落ちる音が響いた。
鏡の中には――
生まれたままの、真っ白なユキの姿があった。
震える肩、腕に抱きしめた自分の身体、潤んだ瞳。
それは、どこまでも脆く、壊れやすく、そして……どこか神聖だった。
セシルは、静かに囁いた。
「美しいわ、ユキ。
壊れそうなほど繊細なその姿が……私は、たまらなく愛おしいの」
その声に、ユキの心は震えた。
羞恥、恐れ、戸惑い――そのすべてが、紅茶の余韻に溶けて、じわじわと甘く痺れていく。
心はまだ痛んでいるのに、不思議と温かく、
まるで「再生」の始まりに、立ち会っているかのようだった。
傘を持つ手が震え、指先は冷え切っている。深く差したはずの傘の隙間からは容赦なく水滴が入り込み、濡れたコートの裾が足に貼りついて気持ちが悪い。
もう、どうでもよかった。何もかもが、どうでもいい。
ユキは、黙って古びた看板を見上げた。
《紅茶館 ル・サロン・ルージュ》――看板の文字は赤く剥げ、まるで長い間、誰にも気づかれなかった秘密のようだった。こんな場所に、どうして自分は立っているのか。答えは簡単だった。逃げたのだ、すべてから。現実から、自分自身から。
誰も見ていないことを確認し、ユキは重い木の扉に手をかけた。濡れた髪が頬に貼りついている。まるでずぶ濡れの野良猫が雨宿りでもするかのようだった。
相手は美術サークルの先輩だった。
入学式のあと、サークルの勧誘でチラシを手渡されたときから、ずっと惹かれていた。
絵が上手いわけでもないのに、美術サークルに入ったのは、その人がそこにいたから。
理由なんて、そんなものでよかった。憧れは、いつしか密かに燃える恋心になっていた。
そして今日、初めて知った。
先輩には恋人がいる――という事実を。
噂でも、友人づてでもなかった。
本人の口から、ごく自然に語られた。
「昨日、彼女と根津美術館に行ってさ。あそこ、やっぱり良かったよ」
ただ思い出を語っただけの、何気ない一言。
悪意なんてひと欠けらもなかった。
柔らかな笑顔で、彼は幸せそうに話していた。
ユキは、うまく笑えなかった。
頬がひきつり、声は喉の奥でかすれた。
滲みそうになる涙を、瞬きで必死にごまかす。
胸の奥で、何かが静かにひび割れた気がした。
――私には、魅力がないんだ。
ぽつりと落ちたその呟きが、自分という存在を内側から壊していく。
足元が崩れ落ちるような感覚。
どこにも逃げ場はなく、しがみつける場所もなかった。
このまま消えてしまいたいと、心のどこかで思っていた。
気がつけば、サークルの部室を飛び出していた。
どうやってその場を離れたのかも、覚えていない。
ただ、すべての記憶を消し去りたくて。
なにもかもなかったことにしたくて。
ユキは、雨に濡れながら街を彷徨っていた。
――どこでもいい。ここじゃない場所に行きたい。
そう願ったその時、視界の隅に、小さな看板が浮かび上がったのだった。
扉を押すと、雨音が一気に遠ざかり、甘く温かな空気がユキを包み込んだ。まるで別世界のようだった。紅茶の香り、淡く漂うジャスミンとムスク。暖色の光が落ちる天井から、古風なシャンデリアが静かに揺れている。まるで異国の貴族が集うサロンのようだった。
そこに、黒いサテンのドレスを纏った女主人がいた。
「ようこそ、雨の日の迷い子さん」
女の声は低く艶やかで、まるでチェロの音色のようだった。銀の髪が波打ち、緑の瞳がユキを見つめる。その瞳には、見透かされるような鋭さと、不思議な温もりが同居していた。
女主人は、日本人とも西洋人ともつかない、不思議で妖艶な顔立ちをしていた。
ドレスの胸元は深く開き、光を受けた肌が艶めく。言葉にならない何かが、ユキの心を強く揺らした。
――ここ、どこ……?
逃げたい気持ちと、引き寄せられる衝動。
雨に濡れながら立ちすくむユキを、女主人はやさしくカウンター席へ導いた。赤いベルベットのクッションが、ずぶ濡れのユキの身体をそっと受け止める。柔らかな香煙がくゆり、ユキの心に触れてくる。鏡に映る自分――濡れた髪、青白い頬、伏せた瞳。その姿に、恥ずかしさと哀しみがないまぜになる。
「紅茶でよいかしら」
カップを手渡されたユキは、震える指先で受け取る。温もりが掌に沁みた。ダージリンにバラとバニラが溶け合った香り。ふっと肩から力が抜ける。こんなに優しく扱われたのは、いつぶりだろう。
「名前は?」
女主人の声がふたたび響く。ユキはびくりとし、小さく答えた。
「ユ……ユキ、です」
声は壊れかけのガラス細工のように脆く、震えていた。
女主人は一拍おいて、慈しむように口にした。
「――ユキ」
まるでその名に触れた瞬間、心の奥の何かがほどけていくようだった。
「ユキ。雪のように白く、儚く、美しい名前ね。こんな雨の日に、なぜこんな場所へ?」
返せなかった。痛みが、喉を塞ぐ。
けれどその沈黙さえも、彼女は見透かしていた。
「なにか、心に傷を抱えているのね」
ユキの心が、ぶつ、と軋む。
「……先輩に……好きな人がいて……私なんて、きっと、愛されない……」
自分の声とは思えなかった。張り裂けそうな胸の奥から、言葉が流れ出た。
「魅力がない? そんなことはないわ、ユキ」
セシルと名乗った女主人は、甘く、やさしく、ユキを慰める。
その声は、どこか媚薬のようだった。
「あなたは白い花のよう。濡れても、踏みにじられても、なお咲き続ける花よ。傷ついた心こそ、真に愛される資格があるの」
ユキの視界が滲む。
――本当に、そう思ってくれるの……?
セシルは新たな紅茶を淹れ、差し出す。
その香りは、先ほどとは違っていた。より濃密で、どこか甘美で、抗えない誘惑を孕んでいる。ユキは迷いながらも、セシルの瞳に押されて口をつける。
一口、また一口。
紅茶の熱が喉を滑り、脳を痺れさせる。身体がふわふわと軽くなり、胸の痛みが遠ざかっていく。紅茶が、心の隙間を満たしていくようだった。
「どう? 素敵な気分でしょう?」
セシルの声が囁く。
「さあ、もっと素敵な世界を見せてあげる」
女主人のセシルはそっと手を差し出した。
白く長い指、爪の先にはわずかに紅を差したような艶。まるで夜の蝶が羽根を広げるように、優雅で、静かで、誘惑的だった。
ユキはその手を見つめたまま、動けなかった。
頭のどこかで警鐘が鳴っていた。
知らない場所に連れて行かれる。危ないかもしれない。
だけど、胸の奥では、もう一つの囁きがこだましていた。
――でも、こんなふうに手を差し伸べられたこと、あった?
セシルはユキの戸惑いを感じ取っているようだった。
そして、そっと微笑んだ。
その笑みは、どこまでもやさしく、包み込むようで、それでいて危うい色香を纏っていた。
見てはいけない宝石を覗き込んでしまったような――そう、心が震えるほどの美しさだった。
「怖くないわ、ユキ。私はあなたを、傷つけたりしない。むしろ……大切にするわ」
ユキは、息を呑んだ。
脚が勝手に動いていた。
怖い。でも、行きたい。この先にある世界を、ほんの少しだけ覗いてみたい。そう思ってしまったのだ。
そして、そっと――指先が重なる。
セシルの手は温かく、柔らかかった。
引かれるまま、ユキは立ち上がり、二人はカウンターの向こうの、深紅のカーテンの奥へと歩き出した。
重いカーテンをくぐった先は、まるで現実から切り離された異界だった。
四方の壁に張り巡らされた鏡が、シャンデリアの柔らかな光を何重にも反射し、眩いほどに空間を包み込む。
部屋の隅に置かれた赤いサテンのソファ、漂うジャスミンとムスクの香。
香炉の煙がゆらめいている。
外の雨音だけが、ここがまだ現実だと告げていた。
ユキはセシルに手を引かれ、ふらふらと鏡の前に立たされる。
「見て、ユキ。これがあなたよ。こんなにも可憐で、美しいのよ」
視線を上げたくなかった。だが、気づけば鏡が、自分の全身を映し返していた。
――その姿に、ユキは息を飲んだ。
「……最低……」
雨に濡れて色が滲んだスカート。水を吸って重たくなった髪が頬に貼りつき、ファンデーションは流れ、目元は涙でにじんでいる。
真っ赤に充血した瞳。泣き腫らした顔。唇の色は悪く、肌は青白い。
こんなにも惨めな女が、自分だったのか。
愛する人に選ばれなかった、道化師みたいな敗北者…
涙が止まらなかった。
嗚咽が喉をせり上がり、鏡の中の自分を睨みつける。
「……嫌…っ! こんな自分、見たくない……!」
言葉にすると、余計に胸が軋んだ。
誰にも必要とされない。愛される価値なんてない。
鏡はそれを証明しているようだった。
だが、その横から、セシルの落ち着いた声が降ってくる。
「違うわ、ユキ。あなたは……ひどく傷ついてる。でも、それがあなたの美しさを否定する理由にはならない」
ユキは首を横に振った。
「こんなの、美しくなんかない……
濡れて、泣いて、グチャグチャで、プライドもズタボロで……
こんな姿、誰にも見られたくないのに……!」
自分でも声が震えているのが分かった。
泣きたくないのに、涙は止まらない。
けれどセシルは、静かに一歩近づくと、ユキの肩にそっと手を置いた。
「心が壊れたとき、人は自分の一番醜い面しか見えなくなるわ。でも、それだけよ。
鏡が映すものは、今だけ。
あなたの中には……まだ咲いていない美しさが、ちゃんと眠ってる」
その言葉に、ユキの瞳がわずかに揺れた。
鏡に映るのは、確かにズタズタの、みじめで泣き顔の自分。
でも、セシルはそれを“否定”しない。ただ、そっと包み込むように見てくれている。
「……私に、まだ……何か残ってるの……?」
絞り出すように呟いたユキに、セシルは頷く。
「ええ。あなたの心の奥には、小さな蕾のようなものが、ちゃんと残っているわ。
この雨がやんだら、きっと……開く時が来る」
その微笑みは、あまりにもやさしくて、ユキはもう抵抗する力をなくしていった。
セシルの指先が、静かに、しかし確かな意志をもってユキに触れる。
濡れたブラウスの襟元に指をかけ、一枚ずつ――まるで羽を脱がせるように、ユキの衣服を解いていく。
その手つきは優雅で、まるで儀式のようだった。
ボタンが外れ、布が滑り落ちていくたびに、ユキの身体から、今まで守ってきた何かが剥がれていく。
抵抗は、できなかった。
頭のどこかで「やめて」と叫ぶ声がかすかに響くのに、身体は動かない。
セシルの瞳に見つめられると、そのすべてが甘やかに絡みつき、鎖のようにユキを縛る。
――怖くないわけじゃない。だけど、それ以上に、もう何もかも自分では支えきれなかった。
委ねたい。
この人に、全部、任せてしまいたい。
泣きすぎた心が、そう囁いていた。
やがて、最後の一枚が指先から滑り落ち、床に静かに落ちる音が響いた。
鏡の中には――
生まれたままの、真っ白なユキの姿があった。
震える肩、腕に抱きしめた自分の身体、潤んだ瞳。
それは、どこまでも脆く、壊れやすく、そして……どこか神聖だった。
セシルは、静かに囁いた。
「美しいわ、ユキ。
壊れそうなほど繊細なその姿が……私は、たまらなく愛おしいの」
その声に、ユキの心は震えた。
羞恥、恐れ、戸惑い――そのすべてが、紅茶の余韻に溶けて、じわじわと甘く痺れていく。
心はまだ痛んでいるのに、不思議と温かく、
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