5 / 22
第一章 出立
第四話 山肌の地割れ
しおりを挟む
日が中天に差し掛かる頃に、オーケビョルンはルーテンバリを離れて再び空へと舞い上がった。
スヴェドボリ山を左手に見ながら、ぐんぐん速度を上げて北上していく。目指すはバーリ公国の首都、エクルンドだ。
この国最大の都市に行かねば、旅行したことにはなるまいとの、マルクスの弁である。オーケビョルンも確かにそう思っていた。せっかくなら大都市に行きたい。
公国の北端、海岸沿いに作られたエクルンドまで今日中に行くことは出来なくとも、早いうちに到着してしまいたい、と思いながら速度を上げようと翼をはためかせた時である。
「んむ?」
視界にあるものを認めて、オーケビョルンは翼をばさり、ばさりと動かした。空気を受け止めた翼が抵抗となって、速度を急激に落とす。首元に掴まっていたマルクスが、オーケビョルンの長い首にぐっとしがみついた。
「わっと……どうしたんだいオーケビョルン、急に止まって」
「マルクス、左側、スヴェドボリ山の山肌を見てみい」
空中で制止しながら、オーケビョルンは左の前脚で眼下に見えるスヴェドボリ山を指さした。
そちらにマルクスが目を向けると、途端に目を見張る。
「これは……」
「地割れじゃな。そういえば数ヶ月前に地鳴りがしたのう。その時に割れたんじゃろうか」
マルクスが視線を向けた先には、山肌に大きく走る亀裂があった。
スヴェドボリ山は大昔、地鳴りと共に地面が大きく隆起して出来上がった山だと言われている。少なくともオーケビョルンはそう伝え聞いていた。山の周囲に、既にある山の地面とぶつかり合うような地層の動きがあってもおかしくはない。
実際、こうした地層の動きに伴う地鳴りは、頻繁ではないにしろ度々発生していた。その度に山の周囲の村に住む人々は怯え、山の守護神に祈りを捧げていたわけである。無論、祈りを捧げられる側のオーケビョルンに何が出来るわけでもないが。
高い位置からもはっきりと見えるその亀裂を見下ろして、マルクスが肩を落としながら口を開いた。
「なるほどね。スヴェドボリ山は中々人の立ち入らない山だし、一度どこかが崩れたらそのままになってしまうか」
「じゃなぁ……わしらも別に崩れたからと直したりはせんし。そもそも山じゃから直す必要も無いからのう」
マルクスの言葉に頷きながら、オーケビョルンもその亀裂をじっと見ていた。
スヴェドボリ山。作られたばかりの真新しい亀裂。山を見下ろす形でしか全貌が見えないもの。
ぐる、と喉が鳴る。そうしてオーケビョルンはぐいとマルクスの方に顔を向けた。
「ふむ……マルクス、ちょいと降りてもいいかの」
「いいよ、インスピレーションが得られたかい?」
オーケビョルンの言葉に、すぐさまに頷くマルクスだ。元よりこの度は詩歌制作の旅。そのヒントになるものが得られて、作る気分になったのならそれを拒む理由はない。
首を戻して、オーケビョルンはだんだんと高度を下げ始めた。眼下に広がる草原に点在する岩が、少しずつ大きくなってくる。
「うむ、あの山肌が荒れたのを見たらな、なんぞ湧いてきた。岩は……あぁ、ちょうどこの辺に点在しておるな。あれでよかろう」
そうしてどんどん地面に近づいていって、二分ほどの後に。オーケビョルンはゆっくりと草原に降り立った。ばさりばさりと翼を羽ばたかせ、態勢を整えてから一息に地面に降り立つ。
「よっこいせっと」
「やっぱり、竜も年を取ると、そういうことを口に出して言うようになるんだなぁ」
人間の老人のような声を出しながら地面に降りたオーケビョルンに、マルクスがその背中から降りつつ言うと、首をゆっくり捻りながらオーケビョルンは眉根を寄せた。
「どうしてもな、わしらだって老いたら筋肉や関節の動きが悪くなる。まぁ、空を高く飛べるからわしはまだいい方じゃと思うがな」
「なるほどね。しかし、どうする? このあたりの岩だと、君が爪文字を書くには凹凸がありすぎないか」
彼の言葉に肩を竦めながら、マルクスは辺りを見回した。
この草原、位置的にはスヴェドボリ山北部のニーバリ草原だと思われるが、あちらこちらに岩がむき出しになって転がっている。その岩は風に晒されながらもなお表面の凹凸を保っていて、文字を書くには具合が悪い。
しかし、当のオーケビョルンはすました顔である。
「なーに、そこはわしの腕の見せ所ってやつじゃ。ちょいと耳を塞いでおれ」
そう言って、草原に転がる岩の中でもひときわ大きなものに近づくと、その前に立ってしっかと足元の草を踏みしめた。
そして。
「グゥオォン!!」
一声短く吼えると、岩の根元から立ち上るように突風が巻き起こった。突風は岩の表面を撫でるように削ると、そのまま上空へと消えていく。後に残されるのは、オーケビョルンの魔法に削られてすっかり平らになった面を見せる、一つの岩だけだ。
目を大きく見開いて額に手をやるマルクスへと、オーケビョルンが自慢げな笑みを向ける。
「ふー、どうじゃ」
「凄いな……岩の形を極力そのままに、一面を削り取って平らにするとは。切断の魔法にこんな使い方があるとは、知らなかった」
オーケビョルンが今使用したのは、竜語魔法の一つ、切断の魔法だ。鋭い刃となる突風を面を作るように発生させ、その線上にあるものを尽く切断する。
相手の翼や尻尾を傷つけたり、高い城壁にひびを作ったりする、竜の戦闘において多用される魔法だ。
それをオーケビョルンは、目の前の岩に、その一面を削り取って爪文字を刻むのに適した表面にするのに使ったのである。
感心した様子のマルクスに、オーケビョルンはますます胸を張った。
「そうじゃろそうじゃろ。この使い方、わしが考案したんじゃぞ。『竜語の教科書』にも二ページを割いてちゃんと書き残してある」
「君、魔法の指南書まで書いていたのかい……本当に多才だな」
老竜の言葉に、呆気に取られてため息をつくマルクスだ。
「竜語の教科書」は、オーケビョルンが幾らか年若い頃に書き記した、竜語と竜語魔法の解説本だ。内容こそ専門的で前時代的な書籍ではあるが、竜語を学ぼうとする人間にとっては、書籍の形にまとめられている貴重な指南書だ。
感心しきりのマルクスに、オーケビョルンは前脚の爪で地面を叩きながら言う。
「竜なんぞ大概はそんなもんじゃぞ。探求心と知識欲が旺盛で、興味を持ったことには没頭する。それを後世に伝えることも厭わない。
じゃからあんなに、竜語も爪文字も世の人々に存在を知られておるんじゃ。お主だって高等学校で竜語を修めたんじゃろ」
「まあ、確かにね。それで、どうだい。書けそうかい?」
さも当然のことを言うかのように話してくるオーケビョルンに同意しつつ、肩を竦めながらマルクスは問うた。
確かに彼の言う通りである。竜語も爪文字も、アッシュナー大陸の人々がそれを読んだり書いたり話したりできるかは別として、その言葉と文字があることは広く知られているし、竜がそれらを用いて会話し、文字を記すこともよく知られている。
マルクスもそうであるように、大陸各地の国にある高等学校では竜語を専門に扱う学部があり、そこで学んだものが人間と竜の橋渡しをするのだ。
さて、マルクスに問われたオーケビョルンはというと。
「ちょっと待っておれ……しばし思案するでな」
岩の前に蹲るようにして草の上に身を伏せ、じっと岩の表面を見つめ始めた。
執筆の体勢だ。
「じゃ、僕はその辺で日向ぼっこでもして休んでいるから、書けたら教えてくれよ」
「うむ」
老竜が書き始める態勢になったことを確認したマルクスが、彼から幾らか離れたところに腰を落ち着ける。
元々ずっと、洞窟に籠って一人で物を書くやり方の彼だ。一人で書くことには慣れている。毎度のことだ。
だが。
「うーむ……『大地の亀裂』……では安直か。『大地の疵』……うむ。『大地の疵、深々と爪痕を残すものか』……」
オーケビョルンの口からは絶えず、この言い回しはどうだ、あの表現はどうか、と言った独り言が漏れていた。それもそこそこボリュームのある声で。
書きながら自分の考えを口に出して言う。これが、オーケビョルンの執筆時の癖だった。
ルーテンバリでやっていた時のように、周りに村民や子供たちがいて、彼らと話をしながら書くのも、この癖によるものに近い。言葉に出して考えをまとめたり、人と話をしながら案を練ったりして、彼は作品を作り上げるのだ。
とはいえ傍から見たら、岩に文字を刻みながらぶつぶつと独り言を呟く奇怪な姿であって。
「やれやれ、相変わらず執筆する際にぶつぶつ呟く癖は直っていないんだな」
その独り言を聞き流しながら、マルクスは苦笑を零しつつ執筆の様子を見ていた。
やがて陽が徐々に傾き、マルクスがオーケビョルンの執筆の様子を眺めることに飽いて、草原に寝そべってうとうととし始めた頃。
最後の一文字を岩に刻んだオーケビョルンが声を上げた。
「よーし、これでどうじゃ」
「おっ、出来たかい?」
声を聞いて身を起こしたマルクスが老竜の元に近寄ると。
そこには爪文字がずらりと刻まれた岩の前で佇むオーケビョルンが、ぐっと胸を張っていた。
随分表現に苦労したのだろう、何度も刻んでは削って、刻んでは削ってとした跡が見て取れる。平らだった岩の表面はところどころボコボコしていた。
そして作品が出来上がったことに満足した様子のオーケビョルンが、小さく息を吸い込んだ。
「うむ、何とか形になった。読むぞ」
――大地の疵、それは御山にも深々と爪痕を残すものか。
偉大なるスヴェドボリも自然であり、故に同じ自然には為す術もない。
ああ、願わくば偉大なる天神よ。
御山の傷痕が疾く塞がり、癒えることのあるように。――
オーケビョルンの朗々とした声が、草原に響く。
アッシュナー共通語に訳されたその詩を紙に書き留めながら、マルクスは彼の作った詩をじっくり噛み締めた。
自然の雄大さ、人の手の及ばなさ、無情さ。それらがよく表されている。長命な、空を飛ぶ生き物である竜だからこそ詠める詩だ。
「どうじゃ?」
「うん、いいんじゃないかな。ただ、んー、二行目の『グァラー』は『雄大なる』の方が雰囲気に合ってるんじゃないかな」
マルクスの表情を伺ってくるオーケビョルンに、問われた彼は翻訳者としての忌憚のない意見を述べていく。
この表現は同じ文字でもこう言える、こう訳した方がより場面に合う、などと意見を言うたびに、オーケビョルンはうんうんと頷いて。
そうして二人で一つの作品を形にしていく。作品が形になっていく。
「ふむ、『偉大なる』で被ってもよくないか。マルクスがそう言うなら、訳文はその方がよいじゃろう」
「分かった、じゃあ手直しして記録するよ」
オーケビョルンが納得したところで、マルクスは改めて手帳に硬筆を走らせた、
爪文字と、大陸文字を両方書いて、オーケビョルンの著作を余すところなく残そうとするマルクスの姿に、オーケビョルンの目が一層細められて。
「本当に、友人というのは得難いものじゃなあ……」
そう零しながら、オーケビョルンは出来立てほやほやの詩を紙に書き留めるマルクスの後姿を、微笑まし気に見つめるのだった。
スヴェドボリ山を左手に見ながら、ぐんぐん速度を上げて北上していく。目指すはバーリ公国の首都、エクルンドだ。
この国最大の都市に行かねば、旅行したことにはなるまいとの、マルクスの弁である。オーケビョルンも確かにそう思っていた。せっかくなら大都市に行きたい。
公国の北端、海岸沿いに作られたエクルンドまで今日中に行くことは出来なくとも、早いうちに到着してしまいたい、と思いながら速度を上げようと翼をはためかせた時である。
「んむ?」
視界にあるものを認めて、オーケビョルンは翼をばさり、ばさりと動かした。空気を受け止めた翼が抵抗となって、速度を急激に落とす。首元に掴まっていたマルクスが、オーケビョルンの長い首にぐっとしがみついた。
「わっと……どうしたんだいオーケビョルン、急に止まって」
「マルクス、左側、スヴェドボリ山の山肌を見てみい」
空中で制止しながら、オーケビョルンは左の前脚で眼下に見えるスヴェドボリ山を指さした。
そちらにマルクスが目を向けると、途端に目を見張る。
「これは……」
「地割れじゃな。そういえば数ヶ月前に地鳴りがしたのう。その時に割れたんじゃろうか」
マルクスが視線を向けた先には、山肌に大きく走る亀裂があった。
スヴェドボリ山は大昔、地鳴りと共に地面が大きく隆起して出来上がった山だと言われている。少なくともオーケビョルンはそう伝え聞いていた。山の周囲に、既にある山の地面とぶつかり合うような地層の動きがあってもおかしくはない。
実際、こうした地層の動きに伴う地鳴りは、頻繁ではないにしろ度々発生していた。その度に山の周囲の村に住む人々は怯え、山の守護神に祈りを捧げていたわけである。無論、祈りを捧げられる側のオーケビョルンに何が出来るわけでもないが。
高い位置からもはっきりと見えるその亀裂を見下ろして、マルクスが肩を落としながら口を開いた。
「なるほどね。スヴェドボリ山は中々人の立ち入らない山だし、一度どこかが崩れたらそのままになってしまうか」
「じゃなぁ……わしらも別に崩れたからと直したりはせんし。そもそも山じゃから直す必要も無いからのう」
マルクスの言葉に頷きながら、オーケビョルンもその亀裂をじっと見ていた。
スヴェドボリ山。作られたばかりの真新しい亀裂。山を見下ろす形でしか全貌が見えないもの。
ぐる、と喉が鳴る。そうしてオーケビョルンはぐいとマルクスの方に顔を向けた。
「ふむ……マルクス、ちょいと降りてもいいかの」
「いいよ、インスピレーションが得られたかい?」
オーケビョルンの言葉に、すぐさまに頷くマルクスだ。元よりこの度は詩歌制作の旅。そのヒントになるものが得られて、作る気分になったのならそれを拒む理由はない。
首を戻して、オーケビョルンはだんだんと高度を下げ始めた。眼下に広がる草原に点在する岩が、少しずつ大きくなってくる。
「うむ、あの山肌が荒れたのを見たらな、なんぞ湧いてきた。岩は……あぁ、ちょうどこの辺に点在しておるな。あれでよかろう」
そうしてどんどん地面に近づいていって、二分ほどの後に。オーケビョルンはゆっくりと草原に降り立った。ばさりばさりと翼を羽ばたかせ、態勢を整えてから一息に地面に降り立つ。
「よっこいせっと」
「やっぱり、竜も年を取ると、そういうことを口に出して言うようになるんだなぁ」
人間の老人のような声を出しながら地面に降りたオーケビョルンに、マルクスがその背中から降りつつ言うと、首をゆっくり捻りながらオーケビョルンは眉根を寄せた。
「どうしてもな、わしらだって老いたら筋肉や関節の動きが悪くなる。まぁ、空を高く飛べるからわしはまだいい方じゃと思うがな」
「なるほどね。しかし、どうする? このあたりの岩だと、君が爪文字を書くには凹凸がありすぎないか」
彼の言葉に肩を竦めながら、マルクスは辺りを見回した。
この草原、位置的にはスヴェドボリ山北部のニーバリ草原だと思われるが、あちらこちらに岩がむき出しになって転がっている。その岩は風に晒されながらもなお表面の凹凸を保っていて、文字を書くには具合が悪い。
しかし、当のオーケビョルンはすました顔である。
「なーに、そこはわしの腕の見せ所ってやつじゃ。ちょいと耳を塞いでおれ」
そう言って、草原に転がる岩の中でもひときわ大きなものに近づくと、その前に立ってしっかと足元の草を踏みしめた。
そして。
「グゥオォン!!」
一声短く吼えると、岩の根元から立ち上るように突風が巻き起こった。突風は岩の表面を撫でるように削ると、そのまま上空へと消えていく。後に残されるのは、オーケビョルンの魔法に削られてすっかり平らになった面を見せる、一つの岩だけだ。
目を大きく見開いて額に手をやるマルクスへと、オーケビョルンが自慢げな笑みを向ける。
「ふー、どうじゃ」
「凄いな……岩の形を極力そのままに、一面を削り取って平らにするとは。切断の魔法にこんな使い方があるとは、知らなかった」
オーケビョルンが今使用したのは、竜語魔法の一つ、切断の魔法だ。鋭い刃となる突風を面を作るように発生させ、その線上にあるものを尽く切断する。
相手の翼や尻尾を傷つけたり、高い城壁にひびを作ったりする、竜の戦闘において多用される魔法だ。
それをオーケビョルンは、目の前の岩に、その一面を削り取って爪文字を刻むのに適した表面にするのに使ったのである。
感心した様子のマルクスに、オーケビョルンはますます胸を張った。
「そうじゃろそうじゃろ。この使い方、わしが考案したんじゃぞ。『竜語の教科書』にも二ページを割いてちゃんと書き残してある」
「君、魔法の指南書まで書いていたのかい……本当に多才だな」
老竜の言葉に、呆気に取られてため息をつくマルクスだ。
「竜語の教科書」は、オーケビョルンが幾らか年若い頃に書き記した、竜語と竜語魔法の解説本だ。内容こそ専門的で前時代的な書籍ではあるが、竜語を学ぼうとする人間にとっては、書籍の形にまとめられている貴重な指南書だ。
感心しきりのマルクスに、オーケビョルンは前脚の爪で地面を叩きながら言う。
「竜なんぞ大概はそんなもんじゃぞ。探求心と知識欲が旺盛で、興味を持ったことには没頭する。それを後世に伝えることも厭わない。
じゃからあんなに、竜語も爪文字も世の人々に存在を知られておるんじゃ。お主だって高等学校で竜語を修めたんじゃろ」
「まあ、確かにね。それで、どうだい。書けそうかい?」
さも当然のことを言うかのように話してくるオーケビョルンに同意しつつ、肩を竦めながらマルクスは問うた。
確かに彼の言う通りである。竜語も爪文字も、アッシュナー大陸の人々がそれを読んだり書いたり話したりできるかは別として、その言葉と文字があることは広く知られているし、竜がそれらを用いて会話し、文字を記すこともよく知られている。
マルクスもそうであるように、大陸各地の国にある高等学校では竜語を専門に扱う学部があり、そこで学んだものが人間と竜の橋渡しをするのだ。
さて、マルクスに問われたオーケビョルンはというと。
「ちょっと待っておれ……しばし思案するでな」
岩の前に蹲るようにして草の上に身を伏せ、じっと岩の表面を見つめ始めた。
執筆の体勢だ。
「じゃ、僕はその辺で日向ぼっこでもして休んでいるから、書けたら教えてくれよ」
「うむ」
老竜が書き始める態勢になったことを確認したマルクスが、彼から幾らか離れたところに腰を落ち着ける。
元々ずっと、洞窟に籠って一人で物を書くやり方の彼だ。一人で書くことには慣れている。毎度のことだ。
だが。
「うーむ……『大地の亀裂』……では安直か。『大地の疵』……うむ。『大地の疵、深々と爪痕を残すものか』……」
オーケビョルンの口からは絶えず、この言い回しはどうだ、あの表現はどうか、と言った独り言が漏れていた。それもそこそこボリュームのある声で。
書きながら自分の考えを口に出して言う。これが、オーケビョルンの執筆時の癖だった。
ルーテンバリでやっていた時のように、周りに村民や子供たちがいて、彼らと話をしながら書くのも、この癖によるものに近い。言葉に出して考えをまとめたり、人と話をしながら案を練ったりして、彼は作品を作り上げるのだ。
とはいえ傍から見たら、岩に文字を刻みながらぶつぶつと独り言を呟く奇怪な姿であって。
「やれやれ、相変わらず執筆する際にぶつぶつ呟く癖は直っていないんだな」
その独り言を聞き流しながら、マルクスは苦笑を零しつつ執筆の様子を見ていた。
やがて陽が徐々に傾き、マルクスがオーケビョルンの執筆の様子を眺めることに飽いて、草原に寝そべってうとうととし始めた頃。
最後の一文字を岩に刻んだオーケビョルンが声を上げた。
「よーし、これでどうじゃ」
「おっ、出来たかい?」
声を聞いて身を起こしたマルクスが老竜の元に近寄ると。
そこには爪文字がずらりと刻まれた岩の前で佇むオーケビョルンが、ぐっと胸を張っていた。
随分表現に苦労したのだろう、何度も刻んでは削って、刻んでは削ってとした跡が見て取れる。平らだった岩の表面はところどころボコボコしていた。
そして作品が出来上がったことに満足した様子のオーケビョルンが、小さく息を吸い込んだ。
「うむ、何とか形になった。読むぞ」
――大地の疵、それは御山にも深々と爪痕を残すものか。
偉大なるスヴェドボリも自然であり、故に同じ自然には為す術もない。
ああ、願わくば偉大なる天神よ。
御山の傷痕が疾く塞がり、癒えることのあるように。――
オーケビョルンの朗々とした声が、草原に響く。
アッシュナー共通語に訳されたその詩を紙に書き留めながら、マルクスは彼の作った詩をじっくり噛み締めた。
自然の雄大さ、人の手の及ばなさ、無情さ。それらがよく表されている。長命な、空を飛ぶ生き物である竜だからこそ詠める詩だ。
「どうじゃ?」
「うん、いいんじゃないかな。ただ、んー、二行目の『グァラー』は『雄大なる』の方が雰囲気に合ってるんじゃないかな」
マルクスの表情を伺ってくるオーケビョルンに、問われた彼は翻訳者としての忌憚のない意見を述べていく。
この表現は同じ文字でもこう言える、こう訳した方がより場面に合う、などと意見を言うたびに、オーケビョルンはうんうんと頷いて。
そうして二人で一つの作品を形にしていく。作品が形になっていく。
「ふむ、『偉大なる』で被ってもよくないか。マルクスがそう言うなら、訳文はその方がよいじゃろう」
「分かった、じゃあ手直しして記録するよ」
オーケビョルンが納得したところで、マルクスは改めて手帳に硬筆を走らせた、
爪文字と、大陸文字を両方書いて、オーケビョルンの著作を余すところなく残そうとするマルクスの姿に、オーケビョルンの目が一層細められて。
「本当に、友人というのは得難いものじゃなあ……」
そう零しながら、オーケビョルンは出来立てほやほやの詩を紙に書き留めるマルクスの後姿を、微笑まし気に見つめるのだった。
0
あなたにおすすめの小説
『白い結婚だったので、勝手に離婚しました。何か問題あります?』
夢窓(ゆめまど)
恋愛
「――離婚届、受理されました。お疲れさまでした」
教会の事務官がそう言ったとき、私は心の底からこう思った。
ああ、これでようやく三年分の無視に終止符を打てるわ。
王命による“形式結婚”。
夫の顔も知らず、手紙もなし、戦地から帰ってきたという噂すらない。
だから、はい、離婚。勝手に。
白い結婚だったので、勝手に離婚しました。
何か問題あります?
異世界に転移したら、孤児院でごはん係になりました
雪月夜狐
ファンタジー
ある日突然、異世界に転移してしまったユウ。
気がつけば、そこは辺境にある小さな孤児院だった。
剣も魔法も使えないユウにできるのは、
子供たちのごはんを作り、洗濯をして、寝かしつけをすることだけ。
……のはずが、なぜか料理や家事といった
日常のことだけが、やたらとうまくいく。
無口な男の子、甘えん坊の女の子、元気いっぱいな年長組。
個性豊かな子供たちに囲まれて、
ユウは孤児院の「ごはん係」として、毎日を過ごしていく。
やがて、かつてこの孤児院で育った冒険者や商人たちも顔を出し、
孤児院は少しずつ、人が集まる場所になっていく。
戦わない、争わない。
ただ、ごはんを作って、今日をちゃんと暮らすだけ。
ほんわか天然な世話係と子供たちの日常を描く、
やさしい異世界孤児院ファンタジー。
冷徹宰相様の嫁探し
菱沼あゆ
ファンタジー
あまり裕福でない公爵家の次女、マレーヌは、ある日突然、第一王子エヴァンの正妃となるよう、申し渡される。
その知らせを持って来たのは、若き宰相アルベルトだったが。
マレーヌは思う。
いやいやいやっ。
私が好きなのは、王子様じゃなくてあなたの方なんですけど~っ!?
実家が無害そう、という理由で王子の妃に選ばれたマレーヌと、冷徹宰相の恋物語。
(「小説家になろう」でも公開しています)
なぜ、最強の勇者は無一文で山に消えたのか? ──世界に忘れられ、ひび割れた心のまま始めたダークスローライフ。 そして、虹の種は静かに育ち始め
イニシ原
ファンタジー
ダークスローライフで癒しに耐えろ。
孤独になった勇者。
人と出会わないことで進む時間がスローになるのがダークスローライフ。
ベストな組み合わせだった。
たまに来る行商人が、唯一の接点だった。
言葉は少なく、距離はここちよかった。
でも、ある日、虹の種で作ったお茶を飲んだ。
それが、すべての始まりだった。
若者が来た。
食料を抱えて、笑顔で扉を叩く。
断っても、また来る。
石を渡せば帰るが、次はもっと持ってくる。
優しさは、静けさを壊す。
逃げても、追いつかれる。
それでも、ほんの少しだけ、
誰かと生きたいと思ってしまう。
これは、癒しに耐える者の物語。
***
登場人物の紹介
■ アセル
元勇者。年齢は40に近いが、見た目は16歳。森の奥でひとり暮らしている。
■ アーサー
初老の男性。アセルが唯一接点を持つ人物。たまに森を訪れる。
■ トリス
若者。20代前半。アーサー行方不明後、食料を抱えて森の家を訪れる。
処刑前夜に逃亡した悪役令嬢、五年後に氷の公爵様に捕まる〜冷徹旦那様が溺愛パパに豹変しましたが私の抱いている赤ちゃん実は人生2周目です〜
放浪人
恋愛
「処刑されるなんて真っ平ごめんです!」 無実の罪で投獄された悪役令嬢レティシア(中身は元社畜のアラサー日本人)は、処刑前夜、お腹の子供と共に脱獄し、辺境の田舎村へ逃亡した。 それから五年。薬師として穏やかに暮らしていた彼女のもとに、かつて自分を冷遇し、処刑を命じた夫――「氷の公爵」アレクセイが現れる。 殺される!と震えるレティシアだったが、再会した彼は地面に頭を擦り付け、まさかの溺愛キャラに豹変していて!?
「愛しているレティシア! 二度と離さない!」 「(顔が怖いです公爵様……!)」
不器用すぎて顔が怖い旦那様の暴走する溺愛。 そして、二人の息子であるシオン(1歳)は、実は前世で魔王を倒した「英雄」の生まれ変わりだった! 「パパとママは僕が守る(物理)」 最強の赤ちゃんが裏で暗躍し、聖女(自称)の陰謀も、帝国の侵略も、古代兵器も、ガラガラ一振りで粉砕していく。
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
大ッ嫌いな英雄様達に告ぐ
鮭とば
ファンタジー
剣があって、魔法があって、けれども機械はない世界。妖魔族、俗に言う魔族と人間族の、原因は最早誰にもわからない、終わらない小競り合いに、いつからあらわれたのかは皆わからないが、一旦の終止符をねじ込んだ聖女様と、それを守る5人の英雄様。
それが約50年前。
聖女様はそれから2回代替わりをし、数年前に3回目の代替わりをしたばかりで、英雄様は数え切れないぐらい替わってる。
英雄の座は常に5つで、基本的にどこから英雄を選ぶかは決まってる。
俺は、なんとしても、聖女様のすぐ隣に居たい。
でも…英雄は5人もいらないな。
転移先で日本語を読めるというだけで最強の男に囚われました
桜あずみ
恋愛
異世界に転移して2年。
言葉も話せなかったこの国で、必死に努力して、やっとこの世界に馴染んできた。
しかし、ただ一つ、抜けなかった癖がある。
──ふとした瞬間に、日本語でメモを取ってしまうこと。
その一行が、彼の目に留まった。
「この文字を書いたのは、あなたですか?」
美しく、完璧で、どこか現実離れした男。
日本語という未知の文字に強い関心を示した彼は、やがて、少しずつ距離を詰めてくる。
最初はただの好奇心だと思っていた。
けれど、気づけば私は彼の手の中にいた。
彼の正体も、本当の目的も知らないまま。すべてを知ったときには、もう逃げられなかった。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる