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Doilea capitol:Kanagawa

高島

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『ハーッ、いいわねー紹興酒、日本酒とはまた違う味わいだわ』
『杏露酒も、とても美味しいです、奥様。で、あの、それは大変よろしいのですが……』

 とある中華料理屋の店内。
 中華風のランプが天井から下がり、すだれで隣の席と仕切られているボックス席で、グロリアとヘレナが向かい合わせに座りながら酒に舌鼓を打っていた。
 テーブルの上には青椒肉絲、鶏肉とカシューナッツの炒め物、焼き餃子に空心菜炒め。中華料理の数々が並んでいる。
 そしてヘレナが、杏露酒の入ったグラスをそっとテーブルの上に置き、取り分けられていた鶏肉とカシューナッツの炒め物に箸を伸ばしながら口を開いた。

『私、調べました。ヨコハマには日本ジャポーニア最大、いえ、日本ジャポーニアを含む東アジア地域で最大級の、中国人街オラシュル・キネゼスクがある、と。それはここのお店がある場所の、すぐ近くだとも。
 中華料理を食べるには、そちらの方がお店もたくさんありますし、人も多いと思います。どうして、そちらに行かれなかったのですか?』

 そう、場所を考えれば尤もらしい質問を投げつつ、ヘレナは不器用な手つきでウスターソースの絡んだ鶏肉を口に運んだ。
 二人が今いるこの店の所在地は、横浜市西区高島二丁目。最寄り駅は横浜駅。横浜中華街として名高いみなとみらい線の元町・中華街駅からはいくぶん距離があるどころか、みなとみらい地区にもギリギリ被っていない場所だ。
 中華料理を食べに行くのなら、なにも横浜駅周辺で済ませなくても、ちょっと足を延ばせばもっと本格的で、美味しく、安く目的のものが食べられるのに。ここの料理も非常に美味しいが。
 そんな意見を言外ににじませながら、ヘレナは首を傾げた。
 対してグロリアは涼しい表情だ。五年物の紹興酒をストレートでちびちび舐めながら、視線を手元のグラスに落としたままで口を開く。

『ヘレナ、中国人街には誰がいるか分かる?』
『中国人……あとは観光客の方々でしょうか?』
『そう。じゃあもう一つ。中国人が話すのは?』
『……中国語、ですね』

 シンプルで、単純な質問を投げるグロリアに、こちらもシンプルな回答を返すヘレナ。中国人街には中国人がいて、中国人は中国語を話す。当然のことだ。
 それを確認した上でグロリアは、手に持っていた紹興酒のグラスを置いた。そのまま右手で箸を取り、青椒肉絲を自分の手元の小皿に取り分ける。

『そうでしょう?私達は日本語研究のフィールドワークに来たのに、中国語が飛び交う場所に行ったってしょうがないでしょ。
 日本ジャポーニアの中に作られて、日本人ジャポネーザと交流する中国人キネーザが、どんな日本語ジャポネーザを話すのか、なら研究対象にもなるけれど、そういうのを味わえるのは日本人ジャポネーザを相手取る飲食店くらい。お客様相手の整えられた言葉を研究してもあまり意味が無いのよ、私の研究テーマだと。
 ま、移民街って大体そういうものだけどね』
『移民……ですか』

 手慣れた箸遣いで青椒肉絲をその長い口に運ぶグロリアに、ヘレナは改めて主人のプロ意識を垣間見た。
 グロリア・イングラム=アータートンの研究するのは日本の話し言葉、特に生活に密着した場面での話し言葉だ。市井の人々が日常生活の中でどんな会話をしているか、彼女は言語学者としてそこに着目している。
 だからこうして日本に訪れては、フィールドワークを行ってサンプルを収集しているのだ。
 居酒屋での飲み歩きを行っているのもその一環。酒の席での会話が耳に入ってくる環境は、サンプル収集に随分効率がいい。趣味半分、仕事半分といったところだ。
 問題は彼女が姿を見せると、日常の場も一気に非日常になってしまうのが、悩ましいどころではあるのだが。
 ヘレナがカシューナッツをつまむのに苦戦しては、震える手で口元にナッツを運びんで不思議そうに口を開く。

『でも奥様、フーグラーどころか、大公国から日本ジャポーニアを訪れる人は全然いません。国内各地に地球パーマントゥルと繋がる店があることを知ってる人がどれだけいるか。
 それなのに何故、奥様は日本語ジャポネーザを研究されて、それを本にして売っておられるのですか?』

 ヘレナの問いかけに、グロリアは青椒肉絲を咀嚼する口を一瞬だけ止めた。
 すぐさまに口を動かして飲み込むと、箸を置いてくい、と紹興酒のグラスで口を潤す。
 その深い余韻に目を細めながら、店の天井から下がるランプを見つめたグロリアの瞳に、懐かしそうな色が宿る。

『確かに、ドルテの人々は日本ジャポーニアの存在や日本語ジャポネーザの存在は知っていても、それを実際に使おうとは思わないわね。そういう機会がよくよく無いから。
 でも、その気になって足を向ければこうして来れるチャンスがあるのに、行くためのツールも探せばあるのに、その気にならないのは勿体ないじゃない?
 人種の問題や言語の問題なんて大きな障害じゃない、行けるのに行こうとしないその心の壁が、一番の障害だって私は思うの。
 だから、その壁を取り払うお手伝いをするために、私は日本語ジャポネーザを研究して、日本語ジャポネーザを大公国内に紹介しているってワケ』
『なるほど……奥様、大学でも講座をお持ちでいらっしゃいますものね……』

 持論を話しながらも、料理を取る手を休めないグロリアの箸が、焼き餃子の最後の一つに伸びる。
 ヘレナも一瞬だけそちらに箸を向けるが、グロリアが先に餃子を取ったのを見て、すぐさまにそれを引っ込めた。
 それを見たグロリア、小さく苦笑して「ごめんなさいネ」と一言断ってから、酢醤油に餃子を付けて口に運んだ。同時にヘレナがテーブルの端へと、餃子の皿を押しやっている。

『奥様、移民とはちょっと違いますけれど、所作とかお話しされることとかは、他の日本人ジャポネーザの皆さんとそんなに違いませんよね』
『そりゃあね、もう何十年も日本語の研究してきて、何回も日本を訪れているのだもの。今回のフィールドワークで……えーと、九回目?十回目だったかしら』
『そんなに日本ジャポーニアにいらしていて、日本語ジャポネーザもペラペラで、日本ジャポーニアに住もうとか、日本ジャポーニアにご子息を住まわせようとか、思わなかったんですか?』

 鶏肉をごくんと飲み込みながらヘレナが問いかけると、問われた瑠璃色の貴婦人はほんの少し、寂しげな表情を浮かべた。
 その悲しみを取り払うかのように、指一本分くらいの深さでグラスに残っていた色の濃い紹興酒を、ぐいと呷る。
 そうしてグラスをテーブルの上にそっと置くと、長い顎をテーブルについて組んだ手の上に乗せた。

『あるわよ、それを思ったこと、何度も。
 クリスもデュークも、機会があれば日本ジャポーニアの学校に留学させようと思っていたし、末っ子のエレインについてはまだチャンスはたくさんある。
 貴女やパトリック、お屋敷の短耳族スクルトの皆も、日本ジャポーニアアメリカアメーリカに連れていければ、もっといい暮らしをさせてあげられるのでは、とも思っているわ。
 でも、子供たちはともかくとして、私はそうしないの。仕事もあるし、立場もある。なにより、日本ジャポーニアに住んだらドルテの人々に、日本語ジャポネーザの素晴らしさを伝えられないじゃない?』
『……ハイ』

 酒が入って幾らか目つきがとろんとしながら、グロリアはふーっと長い息を吐いた。
 グロリアは人種差別が根強く横行する異世界ドルテにおいて、差別撤廃に向けて動く急進派の一人として特に有名だ。種族として権利の低い短耳族スクルト獣人族フィーウルを積極的に懐に迎え入れては、教育を施し、教養を身に付けさせ、社会で働ける人材として積極的に送り出している。
 そんな彼女だからこそ、いずれも「人間」の姿をしているとはいえ、多種多様な人種が手を取り合い、平等に権利が保障されている日本やアメリカは、魅力的に映るのも当然の話だろう。
 ヘレナが相槌を打つのを確認して、彼女は目を閉じつつ話を続ける。

『それにほら、一緒に行動しているから貴女も分かるでしょう?竜人族バーラウは目立つのよ。
 勿論獣人族フィーウルも、長耳族ルングも目立つでしょうし、無理なく溶け込めるのは短耳族スクルトくらいでしょうね。
 目立つ人は遠巻きにされる、これは仕方がないわ。
 でも、遠巻きにされたら悲しいもの。私は愛する息子たちや娘たちに、悲しい思いはさせたくないってわけ』
『はい……分かります。奥様が人々から遠巻きにされるのを、何度も見て来ました』

 そう話しつつ再び長い息を吐く、人間からかけ離れた姿をした主人の言葉に、ヘレナはこくりと、大きく頷いた。
 目立つ者は遠巻きにされる。ともすれば晒し物にされる。このご時世、どうしてもそういう扱い・・を受けてしまう。グロリアは実感として持っていないが、一昔前の地球であれば、もっと彼女は排斥されていたことだろう。
 そんな悲しみを帯びた表情を天井へと一瞬向けると、彼女は目を見開いてさっと片手を上げた。気が付いた店員がすぐさまに寄ってくる。

龍女士ロンニゥシー、ご注文ですカ?」
「五年紹興酒をモウ一杯、ストレートでネ。それと炒飯ト、杏仁豆腐を二ツお願いするワ」
「かしこまりマシタ」

 紙の伝票にさらさらと注文を書き留めて、一礼して去っていく女性の店員。口調からして中国系なのだろう、言葉の端々に特徴的なイントネーションが見える。
 店員が去っていった後、ヘレナが大きく首を傾げた。

『店員さん達、奥様を見て口々に『ロンニゥシー』って言ってますけど……なんなんでしょう?』
『さぁね、私は中国語キネーザは分からないけれど……大方、『竜の女』とか言っているんじゃない?』

 そう話しつついたずらっぽく笑うグロリア。
 ドルテ語で話されたその表現が当たらずとも遠からずであることを、彼女は知る由もなく、テーブルの傍を通りがかった中国人店員が冷や汗を流しつつ過ぎゆくのを、その銀色の瞳を細めて笑うのだった。
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