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終 夜王府の胡蝶、筆をとる。

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 ふと目を開けると、くちびるが触れるかと思うくらいの間近に、端正に整った綺麗な顔があった。

(っ、きゃあ……!)

 羽綺うきは声にならない悲鳴を上げて、弾かれたように身体を反転させる。

 隣にいるのは蒼瑛そうえいだ。それはわかる。わかってはいるのだが、心臓に悪かった。相手に背を向けた恰好になると、どきどきどきとうるさい鼓動をおさえるために、羽綺は、ほう、と、長い息をついた。

 両手で頬を包み込む。そこは無駄に熱を持っている気がする。

(旦那様の寝顔はいっそ凶器だわ。黙ってると、なんて迫力のある美貌なの)

 先程まで、蒼瑛は異界である山海せんがいきょうからこちらへ来ようとしていた怪と闘っていた。そして最後には、その身に宿すのだというばくの姿を解き放って、怪から生えのぼった笹竹を食べていた。

 ふたりで同じ夢を見た、と、そういうことで合っているだろうか。

 それとも、あそこはあくまでも誰かの悪夢の中なのであって、羽綺や蒼瑛にとっては、うつつというべきものなのだろうか。

「――とりあえず、向こうでばくに変じても、現実での旦那様の姿かたちは変わったりはしないのね」

 羽綺はゆっくりと身体を起こし、ちら、と、隣でまだ寝ている蒼瑛をうかがい見る。

 彼は目を閉じる前と同じ恰好をしていた。つまり、今朝いっしょに臥牀しんだいのうちで目覚めたときにそうだったように、素裸になっているようなことはなかった。

(っていうか、昨夜ゆうべのあの獣も、結局は旦那様が変じたものだったのよね? どうしよう、無遠慮に撫でたり頬擦りしたりしてしまった気がする……)

 おそらく昨日、羽綺は獏に身を寄せたまま、ほんとうに眠ってしまったのだ。先程したのと同じように、そのときもひたいと額を寄せ合った瞬間に眠気が来たから、なにか不思議な力が働いたせいだったのかもしれない。

 その後――よくわからないが、たぶん蒼瑛が運んでくれたかどうかしたのだろう――獣の姿ままの彼の隣で、羽綺ははひと晩、眠っていた。朝になって、変化へんげの解けた蒼瑛は――獣姿では深衣きものを着ているはずもないから――裸だったということなのだろう。

(つまり、なにもなかったってことね……)

 羽綺は溜め息をつく。

 その吐息が、なんだか気落ちしたときのそれに似ていて、我ながらはっとした。

(なに? よかったじゃない! 結局なにもなかったんだから……)

 夫婦の初夜を覚えていないというわけではなかったらしいというのは、安堵すべき事実だ。それなのに自分は何を考えているのだろう、と、ますます熱くなった頬を再び両手で包んだとき、ふいに近くから、あきれたような声がかかった。

「なにをひとりでおもしろい百面相ひゃくめんそうをしているんだ、あんたは」

「っ、きゃあ」

 今度の叫びは、声に出てしまった。

 蒼瑛が、ちら、と、眉をひそめている。

「なんだよ、その反応は……俺は妖物ばけものか? ……いや、実際、妖物なんだが」

 言いながら身体を起こした相手から、羽綺は思わず、距離を取ろうとする。

「だから、なんだよ」

「いえ、あの、べつに」

「あ、そ」

 蒼瑛が詰まらなさそうに吐息する。

 その反応に、羽綺はわずかに違和感を覚えた。

「旦那様……なんだかちょっと、いま反応が穏やかですね」

「はあ? なんだよそれ」

「すみません。だっていちいち、言動が喧嘩を売ってるみたいなので」

「おい、あんたこそ喧嘩売ってんのかよ」

 蒼瑛は顔をしかめた。が、すぐに、ふう、と、長い息をはき、それ以上は、何も言い返してはこない。

(やっぱり、ちょっとだけ静か……?)

 羽綺はまだ蒼瑛をたくさんは知らないので、単なる直感のようなものでしかなかったが、相手のまとう気配はいま、わずかにいだそれのような気がする。

 羽綺がたしかめるようにまじまじと相手を見詰めていると、その視線に気づいたのだろう、蒼瑛は嫌そうに眉根を寄せた。

「悪かったな。獏が起きてると、気がしずまらないんだよ」

「え?」

「悪夢を喰って満腹になれば、あいつも、しばらく寝てくれる。これまでまともに喰わしてやれてなかったからな。あいつがずっと起きてて、こっちも、いつも気が張り詰めてた」

 つまり、睡眠不足がたたって、いらいらするようなものだろうか。

「……そういうもの、なんですね」

 羽綺はつぶやく。俄かに嫁いできたこの夜王府のこと、夜王である蒼瑛のこと、まだまだ知らないことがたくさんありそうだった――……けれども、ひとつ、わかったこともある。

「でも、わたしがいれば、旦那様は夢の中へ這入はいって、山海せんがいきょうの生き物を退しりぞけることができるんですよね。それで、さっきみたいに、獏さんに、えっと、夢の笹竹でしたっけ? 食べさせてあげられる?」

「ああ」

「じゃあ、これからは、旦那様もすこしは落ち着いて寝られるようになるということですね」

 自分がいて、夜王として本来の役目を果たすことができるようになれば、獏も満腹し、蒼瑛にも気がやすまる瞬間が訪れる。そう、口許をしずかな笑みのかたちゆるめて羽綺が言うと、蒼瑛は一瞬、驚いたように目をみはった。

「ま、まあ……そうかもな」

 ぼそぼそと応じながらも、なんだか気まずそうにこちらから目を逸らしてしまうのはなぜだろう。

「旦那様?」

「っ、うるさい! 見るな!」

 また、もとの調子である。

「あ……左目ですか? わたしはきれいだと思いますけど、気になるんでしたら、どうぞ眼帯を」

 羽綺が褥の上に落ちているそれを拾って蒼瑛に手渡すと、引っ手繰たくるように受け取った相手は、それを手早く結って、すぐに青鈍色の左目を覆ってしまった。おそらくその眸は、蒼瑛が獏憑きであることと関係が深いものなのだろう。

(やっぱりまだ、わからないことだらけだわ)

 わからないことといえば、もうひとつあった。

「そういえば旦那様は、どうしてわたしをわざわざ妻になさろうと思ったんでしょう?」

「は? 言っただろうが。あんたが夜王の胡蝶だからだって」

「聴きました。でもそれなら、べつに、下女として雇い入れるとかでも、良かったのでは?」

 何も妻にまでしなくても良いように思う。夜王としての務めを果たすためには羽綺の能力が必要なので夜王府に仕えよ、と、言えば、それで済むことだったのではないだろうか。

 羽綺は拒むことなどなかっただろう。皇族からの申し入れなら、伯父も無碍むげに断ったりは出来なかったはずだ。

「ばっ……! だって、それは……場合によっては、俺はあんたを、日毎夜毎に寝所に引き入れることになるんだぞ! さっきみたいに!」

 ひたいと額とを触れあって、ともに眠る。たしかに、先程蒼瑛がとった方法はそういうものだった。

「男が女を抱いて寝るんだ! 責任ってもんがあるだろうが!」

 叫ぶように告げられた蒼瑛の言葉に、羽綺は目をぱちくりさせた。

 そして、つい、くすりと笑み声を立ててしまった――……どうやら目の前のらん蒼瑛そうえいという人物は、口はよろしくないが、意外と真面目であるらしい。

「っ、何で笑う!?」

「いえ……旦那様は真面目だなと思って」

「あ? 莫迦ばかにしてんのか?」

 蒼瑛は顔をしかめた。

「してません」

 否定しつつも、それでもまだ、羽綺はくすくすと笑い続けていた。

「くそっ」

 口汚なく悪態を吐かれても、ちっとも怖くない。忍び笑いをおさめない羽綺を見て、蒼瑛は、ふん、と、そっぽを向いた。

「――そういえば、これでお仕事はすべて完了ですか?」

 むっと押し黙っている蒼瑛の意識をちがう方へむけようと、羽綺は言う。

 蒼瑛は不機嫌なしかめっつらのままだったが、ちがう、と、短く言った。

 それから、さっさと臥牀しんだいを降りていってしまう。

泰然たいぜん! いるか!? 紙を持て! すみと水とすずりと筆も!」

 どうやら扉を開けて、外へ向かって命じているようだ。羽綺が蒼瑛を追って居間のほうへ出ていくと、程なくして、夜王府の使用人の大男が、蒼瑛の言いつけたものを抱えて房間へやへとやってきた。

 泰然は黙々と書卓に書の準備を整えていく。竹紙らしい、淡い萌黄色の紙を用意し、墨をする。羽綺が傍へ寄ると、よい品なのだろう、かぐわしい墨の香りがしていた。

 蒼瑛が何かしたためるのだろうかと思っていたら、彼は無造作に羽綺に筆を手渡した。

「仕上げだ」

「……なんですか?」

「仕事は完了かと訊いたのは、あんただろ? いまからするのが、仕上げ」

(そういわれてもわからないわ)

 思いつつも、差し出された筆を、羽綺は受け取った。

「名を呼べば制す、名を書けばほうず」

 夢の中で言っていた言葉を、蒼瑛は繰り返した。
 
「あんたが誰から字を習ったか知らんが、あんたの字には力がある。たぶん、獏を宿す俺より、だ。――ヒッポウだったな、あれの名を書いてくれ。それを山海せんがいきょう図絵ずえに特別なのりで貼りつける。そうすることで、もう、こちらで悪さが出来なくなるんだと」

「そ、んな……ものなんですね」

 羽綺は目をぱちくりさせた。

(ほんとうに、わからないことだらけだわ。でも、よう府では、わたしはいるかいないかわからない存在だったけど、夜王府ここでは、ちがう……それだけは、たしか)

 羽綺にも出来ることがある。

 そして羽綺は、ここではちゃんと〈いる〉存在ものとして扱われている。

(だったら……)

 字を書くのは好きだ。自分の字に本当に力があるのかどうかはわからないが、蒼瑛が言うのなら、やってみよう、と、思う。

 ――……ヒッポウ……ヒッポウ……畢方。

 羽綺は書卓につくと、目を閉じ、ひとつ深呼吸した。

 まぶたを持ち上げると、真摯な表情で、萌黄色の竹紙にむかう。そのままなめらかに筆先を走らせ、頭に浮かび上がった文字をしたためた。

 書き終えて蒼瑛を見上げると、彼は満足そうに笑んでいる。

(これで……いいみたい。よかった)

 ほう、と、息をついた。

 羽綺の夜王府での生活は、まだ、はじまったばかりである。
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