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1巻
1-2
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下着姿で抱きついて懇願したら、彼がギョッとした声で言った。
「自分がなにを言ってるか、わかってる?」
呆れられているが、ここで引くわけにはいかない。
彼をその気にさせるにはどうしたらいいの? 裸になったら抱いてくれる?
着ていたキャミソールを脱いで、ブラを外したら、彼が慌てた様子で私の手を掴んだ。
「待った。君、こういうこと慣れてないよね? もっと自分を大切にしたほうが……!」
「私、もう二十七歳なんです! ずーっと処女で、男性の手を握ったこともなくて、大事にしてたらおばあちゃんになっちゃいます!」
彼をベッドに押し倒して一気に捲し立てた。
「お願いだから、抱いてください! 一度だけでいいんです。しつこく付きまとったりしません!」
胸が露わの状態だが、恥ずかしがっている場合ではない。
私の人生がかかっている。
「落ち着いて。自棄になってやるものじゃない」
彼が私の頬に手を触れてきてドキッとした。
「こういうのはムードが大事なんだ。名前はなんていうの?」
彼がゆっくりと起き上がり、私に優しい眼差しで問う。
その言葉でそれまでどこか張りつめていた空気が、一気に穏やかなものに変わった。
なんていうか王子さまオーラ全開。そのせいか夢を見ているように思える。
「柚葉です」
名前を教えると、彼も私の目を見つめて告げた。
「俺は理人」
あれ? 会った時は『僕』って言ってたような。
でも、最初に会った時よりも親しみやすさを感じる。
私がそんなことを考えている間に、理人さんは部屋の照明を暗くして私に顔を近づけてきた。
「柚葉もいい匂いがする。なんだか雅な感じ」
それは多分、お香の匂いだと思う。祖母が好きで私も気分転換によくお香を焚くのだ。
「お、お香だと……ぎゃっ!」
気持ちを落ち着かせながら言葉を返そうとする私を彼が押し倒し、首筋にキスをしてきた。びっくりして変な声をあげてしまったが、彼は気にした様子もなくキスを続ける。
「柚葉の匂い好きだな」
耳元で低くて甘い声で言われ、私はなんだか脳まで蕩けそうな感覚に陥った。
いつの間にか理人さんが私の手を掴んで指の一本一本にゆっくりと口づける。
彼の唇が指に触れるたびにトクンと跳ねる心臓の音が煩い。それに、キスされた指が熱く感じる。
てっきり胸とかに触れてくると思った。だって、指にキスする展開って漫画で見たことなかったから。
でも、これはこれでなんだかエロい。
ただ指にキスをされているだけなのに、どうしてこんなにも身体がおかしくなるのだろう。
理人さんはじっと私を見つめたままだ。
「り、理人さん、そんな見ないでください」
こんな美形に見つめられるなんて、自分の容姿に自信がない私にとってはある意味拷問。
つっかえながらお願いする私に、彼は「見ないで抱くなんて無理だよ」と小さく笑いながら却下した。
「柚葉の手、すごく綺麗だね。白くて、指も長くて。ピアノでもやっているの?」
不意に彼に聞かれるが、胸がドキドキして言葉が途切れ途切れになる。
「ち、小さい頃に……ちょっとだけ。でも、手なんて……みんな同じですよ」
「そんなことない。マニキュア塗ってないのに、桜貝みたいに綺麗な爪してるし。なんだか新鮮でいい」
今度は手の甲にチュッとキスを落とすと、彼は自分が着ていたスーツのジャケットを脱ぎ捨ててネクタイも外した。その仕草があまりにカッコよくて見ていてうっとりする。
なにをやっても絵になる男って実在するんだ。
ひとりで感動していたら、彼がシャツのボタンを外し始めたのでハッとした。
首筋、鎖骨、胸板、割れた腹筋……と、少しずつ露わになっていく彼の肌。
シャツも脱いで上半身裸になった理人さんが私に覆い被さってきたが、その均整の取れた引き締まった体躯を見て目が釘付けになる。
なんて綺麗なの。
言葉が出ないくらい見惚れていたが、彼の顔が間近に迫ってきて……
頭がパニックになり、どう呼吸していいかわからなくなった。
いよいよ彼に抱かれるんだ。こういう場合、目は閉じているべきなのだろうか?
それともずっと開けているべき? TL漫画ではどうだったっけ?
ひとり考え込んでいたら、理人さんの吐息が首筋に当たってビクッとした。
私を見つめてフッと微笑すると、彼は首筋に唇を這わせる。
ドキッとしたものの、彼の唇と髪が肌に触れてなんだかくすぐったくなった。
「あっ……フフッ……フフフ」
もともと私は首に触れられるのが弱い。
「笑うなんて余裕だな」
理人さんが顔を上げて私を見る。
「違います。くすぐったくて……」
私の言い訳を聞いて、彼はニヤリとしながら訂正する。
「それは感じているんだよ」
感じてる? 私が?
じっくり考える間もなく、理人さんが私の鎖骨を舌でゆっくりとなぞりながら背中を撫でる。
彼の舌の生暖かい感触がなんとも淫らで、身体がゾクッとした。
だが、理人さんの愛撫はそれで終わらない。
彼の手は私の身体を探求するように、背中から腰に移動し、それから私のお尻を撫で回す。
身体がぞくぞくして「んっ」と変な声が出てしまう私を見て、彼が楽しげに言った。
「ほら、感じてる」
「ち、違……あっ……んん!」
否定しようとしたら、今度は彼が私の太腿に触れてきて言葉にならなかった。
「柚葉って感じやすいね」
悶える私を面白そうに眺め、彼は私の太腿をゆっくりと撫で上げる。
「それはあなたが……んっ……触れる……から」
「あなたがじゃない。理人だよ」
呼び方を訂正しながら、彼は下着の上から私の足の付け根に触れてきた。
「ダメ!」
咄嗟に足を閉じて声をあげる。誰も触れたことのない場所に触れられ、身体が強張った。
知識はあるから触れられるとは思っていたけれど、いざとなると拒否反応が出る。
「初めてだから怖いよね?」
目を合わせて私を気遣う言葉をかける彼。
「だ、大丈夫。続けてください」
私はもう大人なんだ。戸惑うな。これは誰だって経験すること。
平気な振りをして言ったけれど、私が怖がっているのは彼にはバレバレだった。
「震えてるのに? 無理だよ」
優しく言われたが、その言葉で急に冷静になり自分のやったことが恥ずかしく思えてきた。
理人さんに背を向け、胸を隠す。
私……ホント……なにをやっているんだろう。
バカみたい。……無様だ。
きっと彼も最後までする気はなかったに違いない。私が強引に迫ったからちょっと付き合ってくれただけ。
その証拠に彼は途中でやめても平然としている。
私相手では欲情なんてしないんだろうな。
なんの魅力もないもの。やっぱり私は朝井家の落ちこぼれ。なにをやってもダメ。
「ううっ……」と嗚咽が込み上げてきて、手で口を塞ぐ。
彼はそんな私にそっと布団をかけると、背後から私を抱き寄せた。
「慌てなくていい。柚葉の心の準備ができてなかっただけだ。本当に好きな人ができたら、きっと怖くなくなる」
この上なく優しい声。
彼にいっぱい迷惑をかけてしまった。
「ごめん……なさい。ごめん……い」
理人さんはしゃくり上げながら何度も謝る私を振り向かせ、胸に抱き寄せる。
「大事なものだから好きな人のためにとっておいてほしい」
頭を撫でる彼にコクッと頷いてみせたが、心の中ではそんな人は現れないと思った。
多分、私は一生誰も好きにならず、ひとり寂しく死んでいくのだろう。
今夜のことでよくわかった。お酒の力を借りて迫ったものの、やはり私はまだ男性が怖いのだ。
深雪ちゃん、いろいろお膳立てしてくれたのにごめんね。失敗しちゃった。
それに、人と身体を重ねるのは相手があってできること。
相手の思いも大事。自分だけでどうこうできるものではない。
私の考えが足りなかった。自分の都合ばかり彼に押しつけてしまった。
「ごめんなさい……」
理人さんには何度謝っても足りない。
軽蔑されてもおかしくないのに、彼は私を包み込むように抱いて、頭をずっと撫でてくれた。
まるで言葉の代わりに「落ち込むな」って私に伝えているみたい。
身内でも恋人でもないのに優しい人だ。それに……あったかい。
段々心が落ち着いてきて、意識が遠くなる。
人の体温がこんなにあったかいって、初めて知った――
「う……ん、深雪ちゃん、もうケーキ食べられないよ」
自分の寝言でパッと目が覚める。
キングサイズの見知らぬ大きなベッドに寝ていて、一瞬思考が停止した。
え? ここはどこ?
白と茶色を基調とした二十畳くらいの大きな部屋。
ベッドがふたつあって、私はドアに近いほうのベッドにいた。
……私の部屋ではない。
「なんでここに……?」
そう呟いて、昨夜のことを思い出した。
あっ……倶楽部に行ってお酒飲んで、その後理人さんとベッドで……
最悪な記憶が蘇ってきて顔から血の気が引いていく。
ベッドに理人さんはいない。
「彼は帰ったの?」
帰ってくれていたほうが私にとっては都合がいい。
ベッドサイドの時計を見たら、午前六時を過ぎている。
状況がわからぬままベッドを抜けて、床に落ちていた下着や服を素早く身につけた。
理人さんは先に帰ったのかと思ったが、まだ彼の服があって、隣の部屋からシャワーの音が聞こえる。
う……そ。理人さん……まだいる!
とてもじゃないけど、彼と顔を合わせる勇気はない。
そのまますぐに部屋を出ようかと思ったが、彼に面倒をかけたのが申し訳なくて、自分のバッグを探して筆ペンとメモ用紙を取り出し、一筆書いた。
【昨夜はごめんなさい】
メモをベッドのサイドテーブルに置き、ホテル代も置いていこうと財布を見たらクレジットカードしかなかった。
なにか金目のものはないだろうか。
そうだ、時計。
出版社の小説大賞でもらった副賞の腕時計を取ってメモの上に置く。
ブランドものだから売ればホテル代くらいにはなるはずだ。
いつ彼がシャワーを浴び終えるかとビクビクしながら、メモに【ホテル代です】と付け加え、静かに部屋を出る。
ホテルを出てタクシーで家に帰ると、深雪ちゃんからLINEのメッセージが来ていた。
【昨夜はどうだった?】
その文面を見て、乾いた笑いが込み上げてくる。
【とてもいい人だったけど、失敗しちゃった。いろいろ心配してくれてありがとう。自分でなんとかやってみるよ】
メッセージを送ったが、すぐに既読にはならなかった。
いつか昨夜のことを笑ってネタにできる日がくるかな?
もっと前向きに生きなきゃ。
頑張れ、私。もっと強くなれ。私には小説しかないんだもん。
帰宅してシャワーを浴びたあと、パソコンを立ち上げて仕事をする。
ここは祖母の持ち家で、間取りは3LDK。今いる部屋は、私の仕事部屋兼寝室。広さは六畳ほどで、シングルベッドと作業机、それに本棚が置いてある。必要なものしか置かない主義なので、祖母にはよく『殺風景な部屋ね』と言われる。リビングとダイニングを除く他の二部屋は祖母が使っているが、今はわけあって祖母がいないのでほとんど物置状態。
TL漫画を読みながらラブシーンを考えていたら、兄から電話がかかってきた。
「お兄ちゃん、どうしたの?」
兄は私のことを心配して月に二回ほど電話をかけてくる。
《柚葉、今日時間あるか? なにか美味しいもの食べに行こう》
兄の誘いに数秒考えた。
二週間後の締め切りに、「書けませんでした!」と担当編集の杉本さんに深々と頭を下げて謝る光景が目に浮かぶ。
普通の修正作業なら全然問題ないけれど、今ははっきり言って締め切りを守れる自信がない。
でも、いいラブシーンが思い浮かばないのだから、ずっと家にいても無駄のような気がしてきた。兄と会って気分転換するのもいいかもしれない。
「いいよ。お店はお兄ちゃんに任せるね」
兄は会うといつも食事をご馳走してくれるのだが、お洒落な店や会員制の店が多く、私の小説のネタになっている。
《じゃあ、あとで店の詳細をメッセージで送るよ》
「うん、わかった」
電話を切ってしばらくすると、兄からLINEが届いた。
場所は恵比寿にあるイタリアン。今年オープンしてセレブで賑わっている店だ。
待ち合わせの午後七時に店に向かい、「朝井の名前で予約をしてるんですが」と告げると、奥の個室に通された。
お店の外観は迎賓館みたいに豪華絢爛だった。中もきらびやかでどこかの外国の宮殿に見学に来たかのようだ。
兄に恥をかかせてはいけないと、兄が以前プレゼントしてくれた真っ赤なカシミアのコートに白のフリル衿のブラウスと紺のフレアスカートを合わせてきた。私の数少ないワードローブの中で一番イケてる服だが、コートに比べると中が地味すぎたかもしれない。
個室は四人がけのテーブルになっていて、奥の席に兄が座っていた。
短髪のウルフカットに鋭角な顔立ちをした兄は、身長が百八十センチもあって、妹の私が言うのもなんだけれど正統派のハンサム。今日はキャメル色のジャケットにインナーは白いシャツ、下はグレーのパンツとお洒落に決めている。
兄はイケメンという軽い言葉では言い表せない雰囲気があり、性格は俺様だけど私には優しい。
私のよき理解者でもあり、小説家になるよう勧めてくれたのも兄だ。
席に近づくと、私に気づいて兄が軽く手をあげる。
「柚葉、すぐここわかったか?」
「ごめんなさい。ちょっと道に迷って少し遅れちゃった」
本当は昨夜捻った足が痛くて遅れてしまったのだが、兄が心配すると思って言わなかった。
私に背を向けて兄の前に座っている人がいて、そちらに目を向ける。
顔は見えないけど、兄の友人だろうか。
ダークグレーのジャケットに黒のパンツとなんだかシンプルながらもノーブルな雰囲気を釀しているその後ろ姿を見て背筋を正した。
「あの……お友達も一緒なら私は別の日でも……」
兄にそう声をかけたら、笑顔で返された。
「いや、柚葉に紹介したくて連れてきたんだ。彼は加賀美理人」
理人?
え? まさかね。
名字は聞かなかったけれど、昨夜会った理人さんと同一人物ってことはないだろう。
「はじめまして」と挨拶しながら兄の隣に座り、向かい側にいる人の顔を見て私は固まった。
う、う、嘘でしょう~!?
理人さんがどうしてここに? こんな偶然ある?
衝撃的な再会をして言葉をなくす私に、彼は王子スマイルで挨拶した。
「やあ、また会ったね」
第二章 重なる偶然
「やあ、また会ったね」
理人さんの顔を見て血の気がサーッと引いていく。
彼の王子スマイルがどこかダークなものに思えるのは、昨夜のことがあるからだろうか。
マズいよ、非常にマズい。お兄ちゃんに昨夜のことを知られたら軽蔑される。
「なんだ。すでに知り合いなのか?」
兄が意外そうに私と理人さんを見る。
理人さんが言う前になにか言わないと。
「あの……昨日会ったの。ええと、その……助けてくれて」
頭が真っ白で、全然説明になっていない。
だが、本当のことは言えない。かといってこの状況で嘘もつけない。
激しく動揺する私をチラッと見て、理人さんが補足説明した。
「柚葉が転びそうだったところを助けたんだよ」
倶楽部で会ったとも、酔った私を介抱したとも伝えず、笑みを浮かべる理人さん。
私としてはかなり助かったが、心臓がお化け屋敷に入る時よりもバクバクしている。
なぜ兄に事実を言わないのだろう。彼の意図が読めない。
「ふーん、昨日会ったのにもう名前呼びなんだ?」
兄の突っ込みにギクッとして、必死になんて言い訳するか考えていたら、理人さんが何食わぬ顔で返した。
「雅な名前だったから、呼んでみたくてね。かわいい子だったから、柄にもなく俺から声をかけて名前を聞いたんだ。でも、彼女がまさか裕貴の大事な妹だとは思わなかったよ。偶然ってすごいね」
私はその偶然が怖いです。
理人さんが口を開く度にびくびくしてしまって、席に着いても彼をまともに見ることができない。
「ホントだな? 柚葉、理人は幼稚舎からの俺の親友で、外交官をしてるってのは聞いたか?」
兄の説明に驚かずにはいられなかった。
外交官……とはまたすごい職業だ。
「ううん。今初めて知った。外交官の方に会ったのは初めてです」
少し緊張しながらそんなことを言うと、兄は私の職業にまで触れた。
「理人、柚葉は小説を書いているんだ。今度買ってやって」
「ちょっ……お兄ちゃん、やめて! 男の人向きじゃないし、恥ずかしいよ」
思わず声をあげて兄の腕を掴んだら、理人さんが小さく笑ったのでつい彼に目を向けてしまった。
「出版業界って言ってたから、編集者かと思った。作家先生なら言ってくれたらよかったのに」
「いえ、その……自慢できるようなものは書いてないんです。高尚なものではなく、軽いもので」
ゴニョゴニョと口ごもりながら謙遜するが、理人さんは私の職業にまだ食いついてくる。
「俺にはそんな才能ないからすごいと思うよ。本名で書いてるの? それともペンネーム?」
「ペンネームですけど、本当に買わなくていいですから」
私が書いているライトノベルの表紙を見たら、彼だって買うのを躊躇するはずだ。
若い男女が抱き合っているんだもの。
「でも身近に作家がいたら気になって買うよね?」
理人さんの言葉に反論しようとしたその時、また兄が余計なことを言った。
「あやめって名前で書いてるよ。ネットでも買えるから」
「お兄ちゃん! いいよ。私のことは……って、理人さん、スマホで検索しないでください!」
兄を注意していたら、理人さんがスマホを出して私の作品を調べ出してしまった。
「すごいね。三十冊くらい出てきたよ。どれがお勧め? いや、最初から全部読んでいくのがいいかな。今度サインしてくれる?」
理人さんに真顔でそう言われておろおろする。
「か、買わなくていいです。外交官に読まれるなんて恥ずかしくて死にます!」
「結構サクサク読めて面白いよ。あっ、親父から電話だ」
兄がスマホを手に取り個室の隅で父と話し出したかと思ったら、すぐに通話を終えて私と理人さんに告げた。
「悪い。急用ができた。理人、柚葉のこと頼むよ。ここの支払いは俺がしておくから」
「了解」
理人さんがにこやかに返事をすると、兄は「じゃあ、柚葉また連絡する」と私の頭を軽く撫でる。
「お兄ちゃん、ちょっと待って! 急にいなくならないでよ」
引き止めようとしたけれど、兄は聞き入れてくれない。
「大丈夫。理人をお兄ちゃんだと思って一緒に食事しな」
保護者口調で言って兄はこの場から去った。
全然大丈夫じゃないよ。できれば全員解散にしてもらいたかった。
この状況どうすればいいの? 絶対に理人さんは昨夜のことに触れるはず。
兄がいなくなって不安になる私に、彼はメニューを見せてきた。
「柚葉、なに頼む? コースとかもあるよ」
普通に話をされると余計に不気味だ。
「あの……休日ですし、恋人と過ごされたほうが。兄に強引に誘われてきたんですよね?」
いつまでも恋人を作らず家に引きこもっているから、兄は私の行く末を心配して彼を連れてきたのだろう。
兄は前も違う友人を連れてきたことがあった。
結局話が弾まず、もうその兄の友人に会うことはなかったけど。
「俺を気遣って言ってくれるのはわかるけど、逆に失礼だと思うよ」
優しそうな彼から思わぬ言葉が返ってきて啞然とする。
「え?」
「だいたい恋人がいたら昨夜一緒にホテルなんて泊まらなかった。つまり、柚葉は俺がそういう不実な真似をする男だと決めつけてるってことだよね?」
口調は穏やかだが、言っていることはなかなか手厳しい。
でも、確かに私……彼にひどいこと言ってる。
「ごめんなさい。そんなつもりで言ったんじゃないんです。私に付き合わせるのは申し訳なくて」
頭を下げて謝る私の手を彼が掴んだので、ハッとして顔を上げた。
「ズケズケ言っちゃってごめん。だけど、俺たちいろいろ話さなきゃいけないことがあるよね?」
理人さんは私が今朝ホテルの部屋に置いていった時計を握らせる。
「これはお金がなくて宿泊代に置いていったものです」
返そうとするが、彼は受け取ってくれない。
「俺はもう時計持ってるから。それに大事なものなんじゃないの?」
ホテル代が気になって彼の質問には答えなかった。
「でも、あのホテルの宿泊費結構しますよね? 受け取ってもらえないなら、お金を……」
バッグから財布を出そうとしたら止められた。
「お金はいいから、ご飯食べるの付き合ってよ。お腹空いてるんだ。でも、お酒はやめておこう」
ニコッと微笑む彼の笑顔に負けて、結局コース料理を一緒に食べることになった。
前菜を食べながら理人さんが昨夜のことを話題にする。
「どうしてあんな真似したの?」
「それは……忘れてください」
自分の小説のためだなんて言えない。
「正直に話してくれないと、裕貴に昨夜のこと言うよ」
急に表情を変えて私に説明を求める彼。
見た目は微笑みの王子だけど、実際は結構なドSかもしれない。
「それは困ります!」
咄嗟に声を張り上げる私を理人さんはジッと見据えた。
「だったら話して。君は男漁りをするようなタイプには見えないし、昨夜は明らかに無理してた」
脅しじゃなく、この人は私が説明しなければ兄に昨夜のことを言うだろう。
「二週間で濃厚なラブシーンを書かないといけないんです。でも、私には男性経験もないし、 身内以外の男性とまともに話をしたこともない。だから、友達が経験を積ませようと……」
素直に白状する私に、彼は温かい目でアドバイスをくれる。
「経験がなくても想像で書けばいいじゃないか」
「自分がなにを言ってるか、わかってる?」
呆れられているが、ここで引くわけにはいかない。
彼をその気にさせるにはどうしたらいいの? 裸になったら抱いてくれる?
着ていたキャミソールを脱いで、ブラを外したら、彼が慌てた様子で私の手を掴んだ。
「待った。君、こういうこと慣れてないよね? もっと自分を大切にしたほうが……!」
「私、もう二十七歳なんです! ずーっと処女で、男性の手を握ったこともなくて、大事にしてたらおばあちゃんになっちゃいます!」
彼をベッドに押し倒して一気に捲し立てた。
「お願いだから、抱いてください! 一度だけでいいんです。しつこく付きまとったりしません!」
胸が露わの状態だが、恥ずかしがっている場合ではない。
私の人生がかかっている。
「落ち着いて。自棄になってやるものじゃない」
彼が私の頬に手を触れてきてドキッとした。
「こういうのはムードが大事なんだ。名前はなんていうの?」
彼がゆっくりと起き上がり、私に優しい眼差しで問う。
その言葉でそれまでどこか張りつめていた空気が、一気に穏やかなものに変わった。
なんていうか王子さまオーラ全開。そのせいか夢を見ているように思える。
「柚葉です」
名前を教えると、彼も私の目を見つめて告げた。
「俺は理人」
あれ? 会った時は『僕』って言ってたような。
でも、最初に会った時よりも親しみやすさを感じる。
私がそんなことを考えている間に、理人さんは部屋の照明を暗くして私に顔を近づけてきた。
「柚葉もいい匂いがする。なんだか雅な感じ」
それは多分、お香の匂いだと思う。祖母が好きで私も気分転換によくお香を焚くのだ。
「お、お香だと……ぎゃっ!」
気持ちを落ち着かせながら言葉を返そうとする私を彼が押し倒し、首筋にキスをしてきた。びっくりして変な声をあげてしまったが、彼は気にした様子もなくキスを続ける。
「柚葉の匂い好きだな」
耳元で低くて甘い声で言われ、私はなんだか脳まで蕩けそうな感覚に陥った。
いつの間にか理人さんが私の手を掴んで指の一本一本にゆっくりと口づける。
彼の唇が指に触れるたびにトクンと跳ねる心臓の音が煩い。それに、キスされた指が熱く感じる。
てっきり胸とかに触れてくると思った。だって、指にキスする展開って漫画で見たことなかったから。
でも、これはこれでなんだかエロい。
ただ指にキスをされているだけなのに、どうしてこんなにも身体がおかしくなるのだろう。
理人さんはじっと私を見つめたままだ。
「り、理人さん、そんな見ないでください」
こんな美形に見つめられるなんて、自分の容姿に自信がない私にとってはある意味拷問。
つっかえながらお願いする私に、彼は「見ないで抱くなんて無理だよ」と小さく笑いながら却下した。
「柚葉の手、すごく綺麗だね。白くて、指も長くて。ピアノでもやっているの?」
不意に彼に聞かれるが、胸がドキドキして言葉が途切れ途切れになる。
「ち、小さい頃に……ちょっとだけ。でも、手なんて……みんな同じですよ」
「そんなことない。マニキュア塗ってないのに、桜貝みたいに綺麗な爪してるし。なんだか新鮮でいい」
今度は手の甲にチュッとキスを落とすと、彼は自分が着ていたスーツのジャケットを脱ぎ捨ててネクタイも外した。その仕草があまりにカッコよくて見ていてうっとりする。
なにをやっても絵になる男って実在するんだ。
ひとりで感動していたら、彼がシャツのボタンを外し始めたのでハッとした。
首筋、鎖骨、胸板、割れた腹筋……と、少しずつ露わになっていく彼の肌。
シャツも脱いで上半身裸になった理人さんが私に覆い被さってきたが、その均整の取れた引き締まった体躯を見て目が釘付けになる。
なんて綺麗なの。
言葉が出ないくらい見惚れていたが、彼の顔が間近に迫ってきて……
頭がパニックになり、どう呼吸していいかわからなくなった。
いよいよ彼に抱かれるんだ。こういう場合、目は閉じているべきなのだろうか?
それともずっと開けているべき? TL漫画ではどうだったっけ?
ひとり考え込んでいたら、理人さんの吐息が首筋に当たってビクッとした。
私を見つめてフッと微笑すると、彼は首筋に唇を這わせる。
ドキッとしたものの、彼の唇と髪が肌に触れてなんだかくすぐったくなった。
「あっ……フフッ……フフフ」
もともと私は首に触れられるのが弱い。
「笑うなんて余裕だな」
理人さんが顔を上げて私を見る。
「違います。くすぐったくて……」
私の言い訳を聞いて、彼はニヤリとしながら訂正する。
「それは感じているんだよ」
感じてる? 私が?
じっくり考える間もなく、理人さんが私の鎖骨を舌でゆっくりとなぞりながら背中を撫でる。
彼の舌の生暖かい感触がなんとも淫らで、身体がゾクッとした。
だが、理人さんの愛撫はそれで終わらない。
彼の手は私の身体を探求するように、背中から腰に移動し、それから私のお尻を撫で回す。
身体がぞくぞくして「んっ」と変な声が出てしまう私を見て、彼が楽しげに言った。
「ほら、感じてる」
「ち、違……あっ……んん!」
否定しようとしたら、今度は彼が私の太腿に触れてきて言葉にならなかった。
「柚葉って感じやすいね」
悶える私を面白そうに眺め、彼は私の太腿をゆっくりと撫で上げる。
「それはあなたが……んっ……触れる……から」
「あなたがじゃない。理人だよ」
呼び方を訂正しながら、彼は下着の上から私の足の付け根に触れてきた。
「ダメ!」
咄嗟に足を閉じて声をあげる。誰も触れたことのない場所に触れられ、身体が強張った。
知識はあるから触れられるとは思っていたけれど、いざとなると拒否反応が出る。
「初めてだから怖いよね?」
目を合わせて私を気遣う言葉をかける彼。
「だ、大丈夫。続けてください」
私はもう大人なんだ。戸惑うな。これは誰だって経験すること。
平気な振りをして言ったけれど、私が怖がっているのは彼にはバレバレだった。
「震えてるのに? 無理だよ」
優しく言われたが、その言葉で急に冷静になり自分のやったことが恥ずかしく思えてきた。
理人さんに背を向け、胸を隠す。
私……ホント……なにをやっているんだろう。
バカみたい。……無様だ。
きっと彼も最後までする気はなかったに違いない。私が強引に迫ったからちょっと付き合ってくれただけ。
その証拠に彼は途中でやめても平然としている。
私相手では欲情なんてしないんだろうな。
なんの魅力もないもの。やっぱり私は朝井家の落ちこぼれ。なにをやってもダメ。
「ううっ……」と嗚咽が込み上げてきて、手で口を塞ぐ。
彼はそんな私にそっと布団をかけると、背後から私を抱き寄せた。
「慌てなくていい。柚葉の心の準備ができてなかっただけだ。本当に好きな人ができたら、きっと怖くなくなる」
この上なく優しい声。
彼にいっぱい迷惑をかけてしまった。
「ごめん……なさい。ごめん……い」
理人さんはしゃくり上げながら何度も謝る私を振り向かせ、胸に抱き寄せる。
「大事なものだから好きな人のためにとっておいてほしい」
頭を撫でる彼にコクッと頷いてみせたが、心の中ではそんな人は現れないと思った。
多分、私は一生誰も好きにならず、ひとり寂しく死んでいくのだろう。
今夜のことでよくわかった。お酒の力を借りて迫ったものの、やはり私はまだ男性が怖いのだ。
深雪ちゃん、いろいろお膳立てしてくれたのにごめんね。失敗しちゃった。
それに、人と身体を重ねるのは相手があってできること。
相手の思いも大事。自分だけでどうこうできるものではない。
私の考えが足りなかった。自分の都合ばかり彼に押しつけてしまった。
「ごめんなさい……」
理人さんには何度謝っても足りない。
軽蔑されてもおかしくないのに、彼は私を包み込むように抱いて、頭をずっと撫でてくれた。
まるで言葉の代わりに「落ち込むな」って私に伝えているみたい。
身内でも恋人でもないのに優しい人だ。それに……あったかい。
段々心が落ち着いてきて、意識が遠くなる。
人の体温がこんなにあったかいって、初めて知った――
「う……ん、深雪ちゃん、もうケーキ食べられないよ」
自分の寝言でパッと目が覚める。
キングサイズの見知らぬ大きなベッドに寝ていて、一瞬思考が停止した。
え? ここはどこ?
白と茶色を基調とした二十畳くらいの大きな部屋。
ベッドがふたつあって、私はドアに近いほうのベッドにいた。
……私の部屋ではない。
「なんでここに……?」
そう呟いて、昨夜のことを思い出した。
あっ……倶楽部に行ってお酒飲んで、その後理人さんとベッドで……
最悪な記憶が蘇ってきて顔から血の気が引いていく。
ベッドに理人さんはいない。
「彼は帰ったの?」
帰ってくれていたほうが私にとっては都合がいい。
ベッドサイドの時計を見たら、午前六時を過ぎている。
状況がわからぬままベッドを抜けて、床に落ちていた下着や服を素早く身につけた。
理人さんは先に帰ったのかと思ったが、まだ彼の服があって、隣の部屋からシャワーの音が聞こえる。
う……そ。理人さん……まだいる!
とてもじゃないけど、彼と顔を合わせる勇気はない。
そのまますぐに部屋を出ようかと思ったが、彼に面倒をかけたのが申し訳なくて、自分のバッグを探して筆ペンとメモ用紙を取り出し、一筆書いた。
【昨夜はごめんなさい】
メモをベッドのサイドテーブルに置き、ホテル代も置いていこうと財布を見たらクレジットカードしかなかった。
なにか金目のものはないだろうか。
そうだ、時計。
出版社の小説大賞でもらった副賞の腕時計を取ってメモの上に置く。
ブランドものだから売ればホテル代くらいにはなるはずだ。
いつ彼がシャワーを浴び終えるかとビクビクしながら、メモに【ホテル代です】と付け加え、静かに部屋を出る。
ホテルを出てタクシーで家に帰ると、深雪ちゃんからLINEのメッセージが来ていた。
【昨夜はどうだった?】
その文面を見て、乾いた笑いが込み上げてくる。
【とてもいい人だったけど、失敗しちゃった。いろいろ心配してくれてありがとう。自分でなんとかやってみるよ】
メッセージを送ったが、すぐに既読にはならなかった。
いつか昨夜のことを笑ってネタにできる日がくるかな?
もっと前向きに生きなきゃ。
頑張れ、私。もっと強くなれ。私には小説しかないんだもん。
帰宅してシャワーを浴びたあと、パソコンを立ち上げて仕事をする。
ここは祖母の持ち家で、間取りは3LDK。今いる部屋は、私の仕事部屋兼寝室。広さは六畳ほどで、シングルベッドと作業机、それに本棚が置いてある。必要なものしか置かない主義なので、祖母にはよく『殺風景な部屋ね』と言われる。リビングとダイニングを除く他の二部屋は祖母が使っているが、今はわけあって祖母がいないのでほとんど物置状態。
TL漫画を読みながらラブシーンを考えていたら、兄から電話がかかってきた。
「お兄ちゃん、どうしたの?」
兄は私のことを心配して月に二回ほど電話をかけてくる。
《柚葉、今日時間あるか? なにか美味しいもの食べに行こう》
兄の誘いに数秒考えた。
二週間後の締め切りに、「書けませんでした!」と担当編集の杉本さんに深々と頭を下げて謝る光景が目に浮かぶ。
普通の修正作業なら全然問題ないけれど、今ははっきり言って締め切りを守れる自信がない。
でも、いいラブシーンが思い浮かばないのだから、ずっと家にいても無駄のような気がしてきた。兄と会って気分転換するのもいいかもしれない。
「いいよ。お店はお兄ちゃんに任せるね」
兄は会うといつも食事をご馳走してくれるのだが、お洒落な店や会員制の店が多く、私の小説のネタになっている。
《じゃあ、あとで店の詳細をメッセージで送るよ》
「うん、わかった」
電話を切ってしばらくすると、兄からLINEが届いた。
場所は恵比寿にあるイタリアン。今年オープンしてセレブで賑わっている店だ。
待ち合わせの午後七時に店に向かい、「朝井の名前で予約をしてるんですが」と告げると、奥の個室に通された。
お店の外観は迎賓館みたいに豪華絢爛だった。中もきらびやかでどこかの外国の宮殿に見学に来たかのようだ。
兄に恥をかかせてはいけないと、兄が以前プレゼントしてくれた真っ赤なカシミアのコートに白のフリル衿のブラウスと紺のフレアスカートを合わせてきた。私の数少ないワードローブの中で一番イケてる服だが、コートに比べると中が地味すぎたかもしれない。
個室は四人がけのテーブルになっていて、奥の席に兄が座っていた。
短髪のウルフカットに鋭角な顔立ちをした兄は、身長が百八十センチもあって、妹の私が言うのもなんだけれど正統派のハンサム。今日はキャメル色のジャケットにインナーは白いシャツ、下はグレーのパンツとお洒落に決めている。
兄はイケメンという軽い言葉では言い表せない雰囲気があり、性格は俺様だけど私には優しい。
私のよき理解者でもあり、小説家になるよう勧めてくれたのも兄だ。
席に近づくと、私に気づいて兄が軽く手をあげる。
「柚葉、すぐここわかったか?」
「ごめんなさい。ちょっと道に迷って少し遅れちゃった」
本当は昨夜捻った足が痛くて遅れてしまったのだが、兄が心配すると思って言わなかった。
私に背を向けて兄の前に座っている人がいて、そちらに目を向ける。
顔は見えないけど、兄の友人だろうか。
ダークグレーのジャケットに黒のパンツとなんだかシンプルながらもノーブルな雰囲気を釀しているその後ろ姿を見て背筋を正した。
「あの……お友達も一緒なら私は別の日でも……」
兄にそう声をかけたら、笑顔で返された。
「いや、柚葉に紹介したくて連れてきたんだ。彼は加賀美理人」
理人?
え? まさかね。
名字は聞かなかったけれど、昨夜会った理人さんと同一人物ってことはないだろう。
「はじめまして」と挨拶しながら兄の隣に座り、向かい側にいる人の顔を見て私は固まった。
う、う、嘘でしょう~!?
理人さんがどうしてここに? こんな偶然ある?
衝撃的な再会をして言葉をなくす私に、彼は王子スマイルで挨拶した。
「やあ、また会ったね」
第二章 重なる偶然
「やあ、また会ったね」
理人さんの顔を見て血の気がサーッと引いていく。
彼の王子スマイルがどこかダークなものに思えるのは、昨夜のことがあるからだろうか。
マズいよ、非常にマズい。お兄ちゃんに昨夜のことを知られたら軽蔑される。
「なんだ。すでに知り合いなのか?」
兄が意外そうに私と理人さんを見る。
理人さんが言う前になにか言わないと。
「あの……昨日会ったの。ええと、その……助けてくれて」
頭が真っ白で、全然説明になっていない。
だが、本当のことは言えない。かといってこの状況で嘘もつけない。
激しく動揺する私をチラッと見て、理人さんが補足説明した。
「柚葉が転びそうだったところを助けたんだよ」
倶楽部で会ったとも、酔った私を介抱したとも伝えず、笑みを浮かべる理人さん。
私としてはかなり助かったが、心臓がお化け屋敷に入る時よりもバクバクしている。
なぜ兄に事実を言わないのだろう。彼の意図が読めない。
「ふーん、昨日会ったのにもう名前呼びなんだ?」
兄の突っ込みにギクッとして、必死になんて言い訳するか考えていたら、理人さんが何食わぬ顔で返した。
「雅な名前だったから、呼んでみたくてね。かわいい子だったから、柄にもなく俺から声をかけて名前を聞いたんだ。でも、彼女がまさか裕貴の大事な妹だとは思わなかったよ。偶然ってすごいね」
私はその偶然が怖いです。
理人さんが口を開く度にびくびくしてしまって、席に着いても彼をまともに見ることができない。
「ホントだな? 柚葉、理人は幼稚舎からの俺の親友で、外交官をしてるってのは聞いたか?」
兄の説明に驚かずにはいられなかった。
外交官……とはまたすごい職業だ。
「ううん。今初めて知った。外交官の方に会ったのは初めてです」
少し緊張しながらそんなことを言うと、兄は私の職業にまで触れた。
「理人、柚葉は小説を書いているんだ。今度買ってやって」
「ちょっ……お兄ちゃん、やめて! 男の人向きじゃないし、恥ずかしいよ」
思わず声をあげて兄の腕を掴んだら、理人さんが小さく笑ったのでつい彼に目を向けてしまった。
「出版業界って言ってたから、編集者かと思った。作家先生なら言ってくれたらよかったのに」
「いえ、その……自慢できるようなものは書いてないんです。高尚なものではなく、軽いもので」
ゴニョゴニョと口ごもりながら謙遜するが、理人さんは私の職業にまだ食いついてくる。
「俺にはそんな才能ないからすごいと思うよ。本名で書いてるの? それともペンネーム?」
「ペンネームですけど、本当に買わなくていいですから」
私が書いているライトノベルの表紙を見たら、彼だって買うのを躊躇するはずだ。
若い男女が抱き合っているんだもの。
「でも身近に作家がいたら気になって買うよね?」
理人さんの言葉に反論しようとしたその時、また兄が余計なことを言った。
「あやめって名前で書いてるよ。ネットでも買えるから」
「お兄ちゃん! いいよ。私のことは……って、理人さん、スマホで検索しないでください!」
兄を注意していたら、理人さんがスマホを出して私の作品を調べ出してしまった。
「すごいね。三十冊くらい出てきたよ。どれがお勧め? いや、最初から全部読んでいくのがいいかな。今度サインしてくれる?」
理人さんに真顔でそう言われておろおろする。
「か、買わなくていいです。外交官に読まれるなんて恥ずかしくて死にます!」
「結構サクサク読めて面白いよ。あっ、親父から電話だ」
兄がスマホを手に取り個室の隅で父と話し出したかと思ったら、すぐに通話を終えて私と理人さんに告げた。
「悪い。急用ができた。理人、柚葉のこと頼むよ。ここの支払いは俺がしておくから」
「了解」
理人さんがにこやかに返事をすると、兄は「じゃあ、柚葉また連絡する」と私の頭を軽く撫でる。
「お兄ちゃん、ちょっと待って! 急にいなくならないでよ」
引き止めようとしたけれど、兄は聞き入れてくれない。
「大丈夫。理人をお兄ちゃんだと思って一緒に食事しな」
保護者口調で言って兄はこの場から去った。
全然大丈夫じゃないよ。できれば全員解散にしてもらいたかった。
この状況どうすればいいの? 絶対に理人さんは昨夜のことに触れるはず。
兄がいなくなって不安になる私に、彼はメニューを見せてきた。
「柚葉、なに頼む? コースとかもあるよ」
普通に話をされると余計に不気味だ。
「あの……休日ですし、恋人と過ごされたほうが。兄に強引に誘われてきたんですよね?」
いつまでも恋人を作らず家に引きこもっているから、兄は私の行く末を心配して彼を連れてきたのだろう。
兄は前も違う友人を連れてきたことがあった。
結局話が弾まず、もうその兄の友人に会うことはなかったけど。
「俺を気遣って言ってくれるのはわかるけど、逆に失礼だと思うよ」
優しそうな彼から思わぬ言葉が返ってきて啞然とする。
「え?」
「だいたい恋人がいたら昨夜一緒にホテルなんて泊まらなかった。つまり、柚葉は俺がそういう不実な真似をする男だと決めつけてるってことだよね?」
口調は穏やかだが、言っていることはなかなか手厳しい。
でも、確かに私……彼にひどいこと言ってる。
「ごめんなさい。そんなつもりで言ったんじゃないんです。私に付き合わせるのは申し訳なくて」
頭を下げて謝る私の手を彼が掴んだので、ハッとして顔を上げた。
「ズケズケ言っちゃってごめん。だけど、俺たちいろいろ話さなきゃいけないことがあるよね?」
理人さんは私が今朝ホテルの部屋に置いていった時計を握らせる。
「これはお金がなくて宿泊代に置いていったものです」
返そうとするが、彼は受け取ってくれない。
「俺はもう時計持ってるから。それに大事なものなんじゃないの?」
ホテル代が気になって彼の質問には答えなかった。
「でも、あのホテルの宿泊費結構しますよね? 受け取ってもらえないなら、お金を……」
バッグから財布を出そうとしたら止められた。
「お金はいいから、ご飯食べるの付き合ってよ。お腹空いてるんだ。でも、お酒はやめておこう」
ニコッと微笑む彼の笑顔に負けて、結局コース料理を一緒に食べることになった。
前菜を食べながら理人さんが昨夜のことを話題にする。
「どうしてあんな真似したの?」
「それは……忘れてください」
自分の小説のためだなんて言えない。
「正直に話してくれないと、裕貴に昨夜のこと言うよ」
急に表情を変えて私に説明を求める彼。
見た目は微笑みの王子だけど、実際は結構なドSかもしれない。
「それは困ります!」
咄嗟に声を張り上げる私を理人さんはジッと見据えた。
「だったら話して。君は男漁りをするようなタイプには見えないし、昨夜は明らかに無理してた」
脅しじゃなく、この人は私が説明しなければ兄に昨夜のことを言うだろう。
「二週間で濃厚なラブシーンを書かないといけないんです。でも、私には男性経験もないし、 身内以外の男性とまともに話をしたこともない。だから、友達が経験を積ませようと……」
素直に白状する私に、彼は温かい目でアドバイスをくれる。
「経験がなくても想像で書けばいいじゃないか」
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