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1巻
1-3
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私は普段経験と空想を織り交ぜて小説を書いている。経験していないものについては想像して書くけれど、ラブシーンに関してはうまくいかなかった。男性経験がなくてもすらすら書ける作家さんもいるかもしれないが、私の場合はやはり経験が必要なのだ。というか、もうそうするしか方法がない。
「努力はしたんですけど、なにも浮かばないんです。はっきり言って苦手で、想像もできなくて」
今日も漫画を読んでイメージを膨らませようとしたけれど、一行も書けなかった。
時間がない。今夜もまたあの倶楽部へ行かなきゃ。
「またあそこへ行くつもりだよね?」
理人さんに自分の思考を読まれ、青ざめる。
「なんで……?」
「なんでわかるって? 顔に書いてある。行ったって無駄だよ。柚葉はまた怖がってできない」
彼に決めつけられてついカッとなって言い返した。
「今度はちゃんとうまくやります」
「ねえ、愛のないセックスでラブシーン書ける? それに、裕貴から過去にいろいろあって男性が怖いって聞いてる。だったら、男性に慣れるところから始めたら?」
彼の言うことも一理あるけれど、この二十七年間まともに男性と接したことがないからどうしていいのかわからない。
「慣れるってどうやって?」
藁をも掴むような思いで私が聞き返したら、彼はフッと微笑した。
「俺が協力するよ。裕貴の妹だし。もう俺に少し慣れてきたじゃないか。俺がレッスンしてあげる」
「全然慣れてませんし、レッスンなんていいです」
理人さんを見据えて断ると、彼は面白そうに目を光らせた。
「昨日は俺の目もちゃんと見なかったのに、今はこうして目を合わせて話もしてる。それに、一緒にご飯も食べてるよ」
「あっ……」
言われてみれば、ふたりきりになったのに彼と会話のキャッチボールができている。
「大丈夫。俺は襲いかかったりしない。柚葉が誰かをちゃんと好きになれるよう手助けするから」
「理人さんにはなんのメリットもないじゃないですか」
こんなハイスペックな人が無償で私に協力してくれるなんて信じられなかった。
兄になにか頼まれたからなのであれば断ろうと思ったのだけれど、彼は違う理由を口にする。
「柚葉がいてくれると、女避けになって助かるんだけどな」
女避けか。確かにこの容姿なら女性が放っておかないよね。
「ああ。なるほど。モテるのも大変ですね」
「同情してくれてありがとう。それじゃあ、契約成立ってことで」
パチッとウィンクする理人さんを見て少し引いてしまう。
「あの……私相手に魅力を振りまかなくていいですから。さっきみたいにズケズケ言うブラックな理人さんのままでいてください」
そのほうが緊張しなくて済む。
「へえ、ブラックな俺がいいんだ? まあ俺もこっちが素だから楽だけどね」
ニヤリとする彼を見て、ハハッと苦笑いした。
思えば昨日、一人称が『僕』から『俺』に変わった時点で、私は女として対象外と判断されたのだろう。
「あの……理人さんはどうして昨日あの倶楽部にいたんですか?」
昨日の彼はどこか傍観者のような感じだった。
「久々に友人に会ったら、半ば強引に連れていかれたんだよ。俺は誘いを適当にかわして帰ろうと思ったけど、とんでもなく手がかかる子に捕まったわけ」
私のことを弄るので、少し拗ねるように返した。
「私を放っておいて帰ればよかったのに」
「狼の中に子羊置いて帰るわけにいかないだろ?」
ハーッと溜め息交じりの声で言う彼に反論した。
「私を襲う狼なんていません」
「俺がいなかったら、確実に他の男にお持ち帰りされて襲われてたよ」
理人さんの話を聞いても怖いとは思わなかった。
それはそれで処女を卒業できてよかったのでは?
チラッとそんなことを考えていたら、彼にギロッと睨まれた。
「こら。今そのほうが経験できてよかったって思っただろ?」
この人には私の考えなんてなんでもお見通しらしい。
「え? あ、あの……その……すみません」
狼狽えながら素直に謝ったら、理人さんは真剣な目で私をたしなめた。
「仕事も大事だけど、自分も大事にしないとダメだ。好きでもない男と寝たら、柚葉みたいな子は精神が壊れるよ」
その言葉にしゅんとなっている私に、彼は極上の笑顔を見せる。
「お説教はここまで。ほら料理が冷めるから食べよう」
普通なら家族でもない男性と食事なんてとんでもなく緊張する。
だが、恥ずかしい自分を知られてある意味開き直ったせいなのか、料理を楽しめた。
「この仔牛の赤ワイン煮込み、すごく美味しい」
「確かに。柔らかくてうまい。肉が好きなら今度、鉄板焼食べにいく? 美味しい店知ってるよ」
去年お兄ちゃんに鉄板焼に連れていってもらったことがあるけど、とても美味しかったな。
「いいんですか……って、鉄板焼高いですよね? 次の印税入ったら考えます」
急にトーンダウンする私に、彼は不思議そうに尋ねた。
「作家なのにお金の心配?」
「作家といっても売れっ子ではないので、贅沢はできません。コミカライズの原作を何本も書いてれば別でしょうけど。結構厳しい世界なんです」
濃厚なラブシーンが書けなければ、私の作家生命だって終わる。お金、貯めないといけないな。
今はおばあちゃんのマンションにただで住まわせてもらっているので多少生活に余裕があるけれど、それも来年の三月いっぱいまでだ。おばあちゃんがマンションを売却すれば、どこか別の場所に引っ越さなくてはならない。となると、引っ越し代や月々の家賃がいる。今の収入ではカツカツの生活になるだろう。
「なるほどね。まあ、お金の心配はしなくていいよ。俺の食事に付き合ってもらうんだから」
彼の言葉に素直に頷けなかった。
「そんな恋人でもないのにご馳走してもらうわけにはいきませんよ」
「柚葉って律儀だよね。あのホテルに残していったメモ見ても思ったけど」
あっ、メモのことすっかり忘れてた。
「だって顔を合わせる勇気もなかったし、そのまま帰るのは気が引けて……」
また昨夜のことを責められるかと思ったが、違った。
「筆ペンの字綺麗だった。柚葉の字って柔らかい感じで好きだな。習字でもやってたの?」
字を褒められたことが嬉しくてはにかみながら答える。
「祖母が教えてくれました。昔習字の先生をしてて」
「へえ。そういえば、裕貴が『下の妹は祖母の家に住んでる』って言ってたな」
フォークとナイフを動かしていた手を止め、彼が思い出したように言う。
「中学の時に祖母の家に預けられたんです。でも、今、祖母は老人ホームに入居していて、ひとりで住んでますけど」
祖母は今年の九月に足を悪くして、私には迷惑をかけたくないということで、老人ホームの入居を決めた。
「それは寂しいね」
私を気遣う彼に、明るく笑って見せた。
「もう慣れました。それに祖母にはいつでも会いに行けるので」
会って二度目の相手にここまで自分の話をするのは初めてだ。
それはきっと彼が素の自分を私に見せてくれたからかもしれない。
「ひとり暮らしだとついつい食事とか抜いたりしない?」
「そうですね。食事だけでなく生活も不規則になっちゃって。夢中になって小説書いてたら朝になってたり」
今の生活をおばあちゃんに見られたら絶対に怒られそう。
「夢中になれるってある意味才能なんだろうな。やっぱり小説家ってすごいね」
理人さんが私を見てしみじみと言うが、私は才能というものとは無縁だと思う。
趣味が仕事になっただけだ。
「外交官のお仕事のほうがすごいですよ。試験だって難しいし、頭がいいだけじゃできないですよね。パーティーとかもあって社交性も必要でしょう?」
小説家だから、外交官にはとても興味がある。
誰もが憧れるハイスペックな職業なので、いつか外交官がヒーローの小説を書いてみたい。
少し興奮しながら尋ねる私とは対照的に、彼は落ち着いた様子で答えた。
「まあね」
「アメリカでは、どんなお仕事をされてたんですか?」
ここぞとばかりに理人さんを質問攻めにするが、彼は嫌な顔ひとつせず笑顔で返す。
「ワシントンDCにある日本大使館で働いていたんだけど、お偉いさんの通訳やアメリカ政府との交渉、それに文化交流事業に携わっていたよ。まあ文化交流事業ってのは、主にパーティーだけどね」
理人さんならなんでも完璧にこなすんだろうな。エリートの中のエリートって感じがする。
「そうなんですね。ビッグな人との出会いがいっぱいありそう」
「それなりにあるけど、サインを強請ったのは柚葉だけだから」
ニヤリとしてからかってきた彼をキッと睨みつけた。
「私、そんな有名人じゃありませんから!」
「柚葉が睨んでも全然怖くないよ。よかったら俺のプディング食べる?」
理人がクスクス笑いながらデザートの皿を私に差し出した。
「いただきます!」
ムスッとしながらもデザートを受け取って口にする私を彼は楽しげに眺める。
それから食事を終えて「では、これで」と店の前で別れようとしたが、理人さんに腕を掴まれた。
「送ってくよ」
「いいですよ。今日は素面ですから」
丁重にお断りすると、彼はなぜか私の足に目を向けた。
「足、引きずってる。まだ痛いんだろ? 送る」
つくづく人のことをよく見てるなって感心する。
理人さんがタクシーを拾い、手を差し出して私を優しくエスコートするのでドキッとした。
顔も王子さまだけれど、行動も王子さまだね。こんな風にお姫さま扱いされたの初めて。
ううん、考えてみたら、彼に昨日お姫さま抱っこもされたんだっけ。
「慌てなくていいよ」
彼のお陰で足にあまり負担をかけることなく後部座席に座ることができた。
このスマートな振る舞い、本物の紳士だ。
「柚葉、どこに住んでいるの?」
理人さんに住所を聞かれ、「麻布十番一丁目です」と祖母のマンションの住所を伝えたら、少し驚いた顔をされた。
「麻布十番なんだ」
「え? なにか?」
怪訝に思って尋ねると、彼が長い足を組みながら答える。
「俺も麻布だから」
「そうなんですね」
なにも考えずに相槌を打ち、マンションが近づくと運転手さんに「あっ、そこ右に曲がって止まってください」と指示を出す。
タクシーが三十階建てのタワーマンションの前に停車すると、隣に座っていた理人さんがボソッと呟いた。
「……同じマンションとはね」
「嘘? 理人さんもここに住んでるんですか?」
私が住んでいるこのマンションは各国の大使館や大学のキャンパスなどが建つ麻布でも閑静な場所にある。ラウンジやゲストルーム、フィットネス、屋上庭園、パーティールームなどを備え、二十四時間対応のコンシェルジュがいる超高級マンションだ。
理人さんの言葉に驚いて確認したら、彼は私の目を見てコクッと頷く。
「まあね。一昨日引っ越してきたんだけど、柚葉とはなにかと縁があるね」
タクシーを降りて彼と一緒にマンションに入りエレベーターに乗ると、彼に「何階?」と聞かれた。
「二十七階です」
私の返答を聞いて彼は楽しげに「俺も」と笑って【27】と書かれたボタンを押す。同じマンションで同じ階。
「こんな偶然あるんですね」
少し心臓がバクバクするのを感じながら二十七階で降りて、理人さんと目を合わせた。
「送っていただいてありがとうございました」
ペコッと頭を下げて自分の部屋に向かおうとしたら、彼もついてきた。
「俺もこっちなんだよね」
まさか隣ってことはないだろう。
少し歩いて二七〇六号室の前で立ち止まったら、理人さんがハハッと笑った。
「俺は隣の二七〇七。よろしく。お隣さん」
ここまでくるとなんだか狐につままれたような感じだ。
「こちらこそよろしくお願いします……きゃっ!」
勢いよく頭を下げたせいで転びそうになる私を、彼が咄嗟に動いて支えてくれた。
「大丈夫?」
「だ、大丈夫です。ちょっと驚いちゃって」
彼に抱きしめられているような体勢になってしまい、落ち着かなくてあたふたする。
「隣なら会うのも簡単だな。これからは毎晩一緒に食事をしよう」
「ええ~!! そんないいですよ」
彼は外交官だし、仕事も忙しいだろう。
「食事もレッスンのうちだよ。男に早く慣れたいんじゃないの? なんなら朝食まで一緒でもいいよ」
それって一緒に寝るってこと?
昨日はお酒を飲んでいた勢いもあるけど、素面じゃ絶対に無理だ。
「晩ご飯だけでいいです!」
動揺する私を見て、彼は楽しげに目を光らせる。
「遠慮しなくていいのに」
「あ、あの……もう離してください」
身体が密着していてこの体勢でいるのが恥ずかしい。
理人さんの胸に手を当てて離れようとしたら、彼は残念そうな顔で抱擁を解いた。
「柚葉、結構抱き心地いいのにな」
「理人さん!」
顔を赤くして怒るが、彼は気にすることなく、研究者のように私の反応を分析する。
「照れてるけど怖がってはいないな。だったらいい。少しずつスキンシップ増やしていこう。はい、これうちの鍵」
理人さんはジャケットのポケットから鍵を取り出し、私の手に握らせる。
「え? 鍵?」
話が見えずキョトンとする私に、彼はニヤリとして告げた。
「明日は日中予定があるけど、夕方には帰れると思うから、家で待ってて」
「そんな無理ですよ。勝手に入るなんて」
男性の部屋なんて入ったことない。兄の部屋だって小学生の頃にちょっと入ったきりだ。
首を振って鍵を返そうとしたけれど、彼は受け取らない。
「親友の妹だから信用してるし、なにかあったら昨夜のこと裕貴にバラすからね」
理人さんが軽く脅してきて思わず言葉に詰まった。
「うっ! ……でも、無理なものは無理なんですよ」
「なに言ってんの。俺たちほぼ裸で抱き合ったんだよ」
「わー、わー、通路でそんなこと言わないでください! 誰かに聞かれたらどうするんですか!」
周囲を気にしながら理人さんの口に咄嗟に手を当てたが、彼がその手を外して私の頬にチュッと口づける。
「今……なにを?」
驚きで口をパクパクさせる私に、理人さんはしっとりと落ち着いた声で告げた。
「無理じゃない。早く俺に慣れろよ、柚葉」
第三章 放っておけない
「加賀美、アメリカのオーウェル大統領と首相の電話会談のドラフトはできたか?」
会議を終えて自席に戻ると、出張から戻ってきた上司の田中局長がこちらにやってきた。外務省ではナンバー5の実力者で、彼は将来の外務事務次官との呼び声が高い。
年は四十九歳。学生時代に柔道をやっていたせいかがたいが大きく、髪はセットいらずの短髪。いつもニコニコ笑っていて一見人のいいおじさんに見えるが、人使いが荒い。
「二時間ほど前に、田中さんにメールで送りましたよ。ちゃんと両国のパートナーシップ、安全保障、貿易問題中心にまとめました」
俺は加賀美理人、三十歳、独身。職業は外交官――
今、俺がいるのは霞が関にある外務本省で、ここは三千人近い職員が働いている日本の外交の拠点。先月まではアメリカのワシントンDCにある日本大使館にいたが、十二月から急遽外務省の総合外交政策局に異動になり帰国した。局長の補佐役として外交政策の企画や立案を担当している。
ちなみに俺を日本に戻したのは、この田中局長。アメリカとの強いパイプが欲しいということで俺が選ばれた。なんでも俺がアメリカの高官と何度も折衝を重ねて信頼関係を築き、日米同盟と日米安保体制の強化に貢献したことが高く評価されたらしい。
プリントアウトした原稿を局長の田中さんに見せると、彼はサッと目を通し、俺の頭をポンと叩いた。
「持つべきものは有能な部下。加賀美がうちに来てくれて本当に助かるわ。あと、あれはできてるか?」
田中さんの質問に表情を変えずに返した。
「渡部外相の国連のスピーチ原稿ですか?」
『あれ』と言われたが、その原稿で間違いない。田中さんはわざと曖昧に言って俺が本当に使える人間か試している。
「そうそう」
キラリと目を光らせて頷く彼を見て、やはり怖い人だと思った。だが、俺を見くびらないでほしい。
「できてますよ。はい、これ。このファイルもメールで田中さんに送っています」
デスクの上にあった緑のファイルを渡したら、彼は満足げに笑った。
「さすが加賀美。できる男は違うね」
こういう時に俺を褒める田中さんは要注意だ。
「そんなに持ち上げるなんて、なにか怪しいですね。なんですか?」
笑顔の仮面を貼り付けて上司に問えば、彼は俺を見据え、急にキメ顔で告げた。
「来月来日するアメリカの副大統領のアテンドを頼みたい。お前、副大統領とも面識があるそうじゃないか」
頼みたいと言っているが、これはもう決定事項なのだろう。
「まあ安全保障の会議でよく顔を合わせましたからね」
俺が受ける姿勢を示すと、彼はニンマリした。
「各方面と調整して来日スケジュール組んでくれ。頼むよ。なんたってお前は加賀美元総理の孫。お前がいればあちらさんにも舐められずに済むからな」
オフィスでガハハッと豪快に笑う局長を見て、苦笑いしながら返事をする。
「わかりました」
ふんふんと鼻歌を歌って去っていく田中さんの後ろ姿を見送り、内閣官房の担当者と電話で打ち合わせをすると、副大統領の来日スケジュールを練った。
午後七時半に仕事を終えて帰宅しようとしたら、友人から【今夜飲まないか?】とメッセージが届いた。
特に予定もなく【OK】と返事をして、オフィスを出ると、待ち合わせの赤坂のホテルへ向かう。
てっきりホテルのバーで飲むのかと思ったら、友人はホテル内にあるとある倶楽部へ俺を連れていく。
「ここって例の会員制の社交場だろ? 女遊びをする気分じゃないんだけど」
外科医をしている友人に冷ややかに言えば、彼は「まあまあ、たまにはいいじゃないか、理人」と俺を宥めた。
この倶楽部は会員制で、上流階級の若い男女の社交の場。その実態は、一夜限りの相手を求める男女が集まる場所になっている。
仕方なくテーブルに着き、彼と酒を飲んでいたら、十分も経たないうちにスラッとしたボブヘアの女性に「すみません。ここいいですか?」と声をかけられた。
その女性の横にはロングヘアの女性が少しおどおどした様子で立っている。
俺の友人が「どうぞ」と応じると、ボブヘアの女性は優雅な動きで友人の前に座った。
常連なのか、慣れた様子だ。
一方、ロングヘアの女性は迷子になった子猫のような目をして突っ立っていた。
明らかにここへ来たのは初めてだとわかる。一緒にいる女性に強引に連れてこられたのだろう。
顔に〝帰りたい〟って書いてある。可哀想に。
同情しつつも優しく声をかけて、彼女を座らせた。
「どうぞ、座って」
彼女の強張った顔がなんだかかわいく思える。
昔飼っていた猫に彼女がどことなく似ているからかもしれない。
うちで飼っていた猫も最初うちに来た頃は彼女のようにビクビクしていた。
普段女性からしつこくアプローチを受けている俺としては、そんな彼女に興味をそそられた。
「なにか飲む?」
メニューを見せた時、ボブヘアの女性が彼女になにやら注意していた。
ボブヘアの女性が悩まずに「マティーニをお願い」とウェイターに言うと、彼女も同じものを頼む。
「私も同じものをお願いします」
もうこのやり取りを見ただけで、彼女の危なっかしさがわかった。
お酒、飲み慣れてなさそうだな。
しばらく観察していると、彼女はマティーニを口にして顔をしかめた。
どうやらお気に召さなかったようだ。
それでも、彼女は俺たちの会話には積極的に加わらず、ちびちびお酒を飲み続ける。
早く帰らせてあげたいが、連れの女性が文句を言いそうだし、どうするか……
そんなことを考えていたら、彼女が俺の腕時計をジッと見ていて不思議に思った。
「僕の時計がなにか?」
にこやかに尋ねたら、彼女はマズいというような顔でつっかえながら答える。
「い、いえ、兄と同じ時計だと思いまして」
「へえ、お兄さんがいるんですか? いくつ年が離れてるんです? 僕にも兄がいるんですよ」
緊張を解そうとさらに突っ込んで聞くと、彼女は俺の顔は見ずに返した。
「三つです。とても出来のいい兄で」
男に慣れていないのか、俺と目を合わせてくれない。
「こんな綺麗な妹がいたら、かわいくて仕方ないでしょうね」
容姿をそれとなく褒めたのだが、暗い表情で否定された。
「いえ、全然綺麗じゃないですし、むしろ不安の種くらいに思って……あっ、なんでもないです。忘れてください」
彼女の自虐的な物言いがすごく気になる。
「あなたは綺麗ですよ。なんていうか透明感があって、心が安らぐ」
お世辞ではなく心からそう思って言ったのに、彼女は瞳を翳らせた。
「照明が暗いからそんな風に見えるんですよ。あの……まつ毛が目に入ったみたいでちょっと失礼します」
居心地悪そうに彼女は俺に一言言って席を立つ。
褒めたのは逆効果だったか。今まで俺の周りにいなかったタイプで扱いが難しい。
リラックスさせてあげたかったんだけどな。
彼女の後ろ姿を見つめていたら、ボブヘアの女性に話しかけられた。
「彼女のことお願い」
フッと笑みを浮かべ、俺の返事も聞かずにボブヘアの女性は俺の友人と共に席を立って、どこかに消えた。
面倒を避けたければ、ここで帰ればよかったのだが、彼女を置いて帰るのは心配だった。
俺がいなくなったら別の男に掴まってホテルの部屋に連れ込まれる可能性がある。
しばらくして彼女が戻ってきたが、酔っているのかよろけて転びそうになったところを助けた。
「足、痛めたの? それに酔ったみたいだね。送っていくからちょっと待って」
会計をして、彼女に家がどこか聞くがまともに答えてくれない。
「私の家は……ないれす」
呂律が回っていない。
「家がないって……いつもどこで寝てるの?」
「ベッド……れす」
俺の質問に彼女は据わった目で答え、ソファに身を預ける。
今にも寝そうな彼女に声をかけるが、フフッと笑って動こうとしない。
仕方がないので彼女を抱き上げ、近くにいたスタッフに声をかけてホテルの部屋を取ってもらった。
「努力はしたんですけど、なにも浮かばないんです。はっきり言って苦手で、想像もできなくて」
今日も漫画を読んでイメージを膨らませようとしたけれど、一行も書けなかった。
時間がない。今夜もまたあの倶楽部へ行かなきゃ。
「またあそこへ行くつもりだよね?」
理人さんに自分の思考を読まれ、青ざめる。
「なんで……?」
「なんでわかるって? 顔に書いてある。行ったって無駄だよ。柚葉はまた怖がってできない」
彼に決めつけられてついカッとなって言い返した。
「今度はちゃんとうまくやります」
「ねえ、愛のないセックスでラブシーン書ける? それに、裕貴から過去にいろいろあって男性が怖いって聞いてる。だったら、男性に慣れるところから始めたら?」
彼の言うことも一理あるけれど、この二十七年間まともに男性と接したことがないからどうしていいのかわからない。
「慣れるってどうやって?」
藁をも掴むような思いで私が聞き返したら、彼はフッと微笑した。
「俺が協力するよ。裕貴の妹だし。もう俺に少し慣れてきたじゃないか。俺がレッスンしてあげる」
「全然慣れてませんし、レッスンなんていいです」
理人さんを見据えて断ると、彼は面白そうに目を光らせた。
「昨日は俺の目もちゃんと見なかったのに、今はこうして目を合わせて話もしてる。それに、一緒にご飯も食べてるよ」
「あっ……」
言われてみれば、ふたりきりになったのに彼と会話のキャッチボールができている。
「大丈夫。俺は襲いかかったりしない。柚葉が誰かをちゃんと好きになれるよう手助けするから」
「理人さんにはなんのメリットもないじゃないですか」
こんなハイスペックな人が無償で私に協力してくれるなんて信じられなかった。
兄になにか頼まれたからなのであれば断ろうと思ったのだけれど、彼は違う理由を口にする。
「柚葉がいてくれると、女避けになって助かるんだけどな」
女避けか。確かにこの容姿なら女性が放っておかないよね。
「ああ。なるほど。モテるのも大変ですね」
「同情してくれてありがとう。それじゃあ、契約成立ってことで」
パチッとウィンクする理人さんを見て少し引いてしまう。
「あの……私相手に魅力を振りまかなくていいですから。さっきみたいにズケズケ言うブラックな理人さんのままでいてください」
そのほうが緊張しなくて済む。
「へえ、ブラックな俺がいいんだ? まあ俺もこっちが素だから楽だけどね」
ニヤリとする彼を見て、ハハッと苦笑いした。
思えば昨日、一人称が『僕』から『俺』に変わった時点で、私は女として対象外と判断されたのだろう。
「あの……理人さんはどうして昨日あの倶楽部にいたんですか?」
昨日の彼はどこか傍観者のような感じだった。
「久々に友人に会ったら、半ば強引に連れていかれたんだよ。俺は誘いを適当にかわして帰ろうと思ったけど、とんでもなく手がかかる子に捕まったわけ」
私のことを弄るので、少し拗ねるように返した。
「私を放っておいて帰ればよかったのに」
「狼の中に子羊置いて帰るわけにいかないだろ?」
ハーッと溜め息交じりの声で言う彼に反論した。
「私を襲う狼なんていません」
「俺がいなかったら、確実に他の男にお持ち帰りされて襲われてたよ」
理人さんの話を聞いても怖いとは思わなかった。
それはそれで処女を卒業できてよかったのでは?
チラッとそんなことを考えていたら、彼にギロッと睨まれた。
「こら。今そのほうが経験できてよかったって思っただろ?」
この人には私の考えなんてなんでもお見通しらしい。
「え? あ、あの……その……すみません」
狼狽えながら素直に謝ったら、理人さんは真剣な目で私をたしなめた。
「仕事も大事だけど、自分も大事にしないとダメだ。好きでもない男と寝たら、柚葉みたいな子は精神が壊れるよ」
その言葉にしゅんとなっている私に、彼は極上の笑顔を見せる。
「お説教はここまで。ほら料理が冷めるから食べよう」
普通なら家族でもない男性と食事なんてとんでもなく緊張する。
だが、恥ずかしい自分を知られてある意味開き直ったせいなのか、料理を楽しめた。
「この仔牛の赤ワイン煮込み、すごく美味しい」
「確かに。柔らかくてうまい。肉が好きなら今度、鉄板焼食べにいく? 美味しい店知ってるよ」
去年お兄ちゃんに鉄板焼に連れていってもらったことがあるけど、とても美味しかったな。
「いいんですか……って、鉄板焼高いですよね? 次の印税入ったら考えます」
急にトーンダウンする私に、彼は不思議そうに尋ねた。
「作家なのにお金の心配?」
「作家といっても売れっ子ではないので、贅沢はできません。コミカライズの原作を何本も書いてれば別でしょうけど。結構厳しい世界なんです」
濃厚なラブシーンが書けなければ、私の作家生命だって終わる。お金、貯めないといけないな。
今はおばあちゃんのマンションにただで住まわせてもらっているので多少生活に余裕があるけれど、それも来年の三月いっぱいまでだ。おばあちゃんがマンションを売却すれば、どこか別の場所に引っ越さなくてはならない。となると、引っ越し代や月々の家賃がいる。今の収入ではカツカツの生活になるだろう。
「なるほどね。まあ、お金の心配はしなくていいよ。俺の食事に付き合ってもらうんだから」
彼の言葉に素直に頷けなかった。
「そんな恋人でもないのにご馳走してもらうわけにはいきませんよ」
「柚葉って律儀だよね。あのホテルに残していったメモ見ても思ったけど」
あっ、メモのことすっかり忘れてた。
「だって顔を合わせる勇気もなかったし、そのまま帰るのは気が引けて……」
また昨夜のことを責められるかと思ったが、違った。
「筆ペンの字綺麗だった。柚葉の字って柔らかい感じで好きだな。習字でもやってたの?」
字を褒められたことが嬉しくてはにかみながら答える。
「祖母が教えてくれました。昔習字の先生をしてて」
「へえ。そういえば、裕貴が『下の妹は祖母の家に住んでる』って言ってたな」
フォークとナイフを動かしていた手を止め、彼が思い出したように言う。
「中学の時に祖母の家に預けられたんです。でも、今、祖母は老人ホームに入居していて、ひとりで住んでますけど」
祖母は今年の九月に足を悪くして、私には迷惑をかけたくないということで、老人ホームの入居を決めた。
「それは寂しいね」
私を気遣う彼に、明るく笑って見せた。
「もう慣れました。それに祖母にはいつでも会いに行けるので」
会って二度目の相手にここまで自分の話をするのは初めてだ。
それはきっと彼が素の自分を私に見せてくれたからかもしれない。
「ひとり暮らしだとついつい食事とか抜いたりしない?」
「そうですね。食事だけでなく生活も不規則になっちゃって。夢中になって小説書いてたら朝になってたり」
今の生活をおばあちゃんに見られたら絶対に怒られそう。
「夢中になれるってある意味才能なんだろうな。やっぱり小説家ってすごいね」
理人さんが私を見てしみじみと言うが、私は才能というものとは無縁だと思う。
趣味が仕事になっただけだ。
「外交官のお仕事のほうがすごいですよ。試験だって難しいし、頭がいいだけじゃできないですよね。パーティーとかもあって社交性も必要でしょう?」
小説家だから、外交官にはとても興味がある。
誰もが憧れるハイスペックな職業なので、いつか外交官がヒーローの小説を書いてみたい。
少し興奮しながら尋ねる私とは対照的に、彼は落ち着いた様子で答えた。
「まあね」
「アメリカでは、どんなお仕事をされてたんですか?」
ここぞとばかりに理人さんを質問攻めにするが、彼は嫌な顔ひとつせず笑顔で返す。
「ワシントンDCにある日本大使館で働いていたんだけど、お偉いさんの通訳やアメリカ政府との交渉、それに文化交流事業に携わっていたよ。まあ文化交流事業ってのは、主にパーティーだけどね」
理人さんならなんでも完璧にこなすんだろうな。エリートの中のエリートって感じがする。
「そうなんですね。ビッグな人との出会いがいっぱいありそう」
「それなりにあるけど、サインを強請ったのは柚葉だけだから」
ニヤリとしてからかってきた彼をキッと睨みつけた。
「私、そんな有名人じゃありませんから!」
「柚葉が睨んでも全然怖くないよ。よかったら俺のプディング食べる?」
理人がクスクス笑いながらデザートの皿を私に差し出した。
「いただきます!」
ムスッとしながらもデザートを受け取って口にする私を彼は楽しげに眺める。
それから食事を終えて「では、これで」と店の前で別れようとしたが、理人さんに腕を掴まれた。
「送ってくよ」
「いいですよ。今日は素面ですから」
丁重にお断りすると、彼はなぜか私の足に目を向けた。
「足、引きずってる。まだ痛いんだろ? 送る」
つくづく人のことをよく見てるなって感心する。
理人さんがタクシーを拾い、手を差し出して私を優しくエスコートするのでドキッとした。
顔も王子さまだけれど、行動も王子さまだね。こんな風にお姫さま扱いされたの初めて。
ううん、考えてみたら、彼に昨日お姫さま抱っこもされたんだっけ。
「慌てなくていいよ」
彼のお陰で足にあまり負担をかけることなく後部座席に座ることができた。
このスマートな振る舞い、本物の紳士だ。
「柚葉、どこに住んでいるの?」
理人さんに住所を聞かれ、「麻布十番一丁目です」と祖母のマンションの住所を伝えたら、少し驚いた顔をされた。
「麻布十番なんだ」
「え? なにか?」
怪訝に思って尋ねると、彼が長い足を組みながら答える。
「俺も麻布だから」
「そうなんですね」
なにも考えずに相槌を打ち、マンションが近づくと運転手さんに「あっ、そこ右に曲がって止まってください」と指示を出す。
タクシーが三十階建てのタワーマンションの前に停車すると、隣に座っていた理人さんがボソッと呟いた。
「……同じマンションとはね」
「嘘? 理人さんもここに住んでるんですか?」
私が住んでいるこのマンションは各国の大使館や大学のキャンパスなどが建つ麻布でも閑静な場所にある。ラウンジやゲストルーム、フィットネス、屋上庭園、パーティールームなどを備え、二十四時間対応のコンシェルジュがいる超高級マンションだ。
理人さんの言葉に驚いて確認したら、彼は私の目を見てコクッと頷く。
「まあね。一昨日引っ越してきたんだけど、柚葉とはなにかと縁があるね」
タクシーを降りて彼と一緒にマンションに入りエレベーターに乗ると、彼に「何階?」と聞かれた。
「二十七階です」
私の返答を聞いて彼は楽しげに「俺も」と笑って【27】と書かれたボタンを押す。同じマンションで同じ階。
「こんな偶然あるんですね」
少し心臓がバクバクするのを感じながら二十七階で降りて、理人さんと目を合わせた。
「送っていただいてありがとうございました」
ペコッと頭を下げて自分の部屋に向かおうとしたら、彼もついてきた。
「俺もこっちなんだよね」
まさか隣ってことはないだろう。
少し歩いて二七〇六号室の前で立ち止まったら、理人さんがハハッと笑った。
「俺は隣の二七〇七。よろしく。お隣さん」
ここまでくるとなんだか狐につままれたような感じだ。
「こちらこそよろしくお願いします……きゃっ!」
勢いよく頭を下げたせいで転びそうになる私を、彼が咄嗟に動いて支えてくれた。
「大丈夫?」
「だ、大丈夫です。ちょっと驚いちゃって」
彼に抱きしめられているような体勢になってしまい、落ち着かなくてあたふたする。
「隣なら会うのも簡単だな。これからは毎晩一緒に食事をしよう」
「ええ~!! そんないいですよ」
彼は外交官だし、仕事も忙しいだろう。
「食事もレッスンのうちだよ。男に早く慣れたいんじゃないの? なんなら朝食まで一緒でもいいよ」
それって一緒に寝るってこと?
昨日はお酒を飲んでいた勢いもあるけど、素面じゃ絶対に無理だ。
「晩ご飯だけでいいです!」
動揺する私を見て、彼は楽しげに目を光らせる。
「遠慮しなくていいのに」
「あ、あの……もう離してください」
身体が密着していてこの体勢でいるのが恥ずかしい。
理人さんの胸に手を当てて離れようとしたら、彼は残念そうな顔で抱擁を解いた。
「柚葉、結構抱き心地いいのにな」
「理人さん!」
顔を赤くして怒るが、彼は気にすることなく、研究者のように私の反応を分析する。
「照れてるけど怖がってはいないな。だったらいい。少しずつスキンシップ増やしていこう。はい、これうちの鍵」
理人さんはジャケットのポケットから鍵を取り出し、私の手に握らせる。
「え? 鍵?」
話が見えずキョトンとする私に、彼はニヤリとして告げた。
「明日は日中予定があるけど、夕方には帰れると思うから、家で待ってて」
「そんな無理ですよ。勝手に入るなんて」
男性の部屋なんて入ったことない。兄の部屋だって小学生の頃にちょっと入ったきりだ。
首を振って鍵を返そうとしたけれど、彼は受け取らない。
「親友の妹だから信用してるし、なにかあったら昨夜のこと裕貴にバラすからね」
理人さんが軽く脅してきて思わず言葉に詰まった。
「うっ! ……でも、無理なものは無理なんですよ」
「なに言ってんの。俺たちほぼ裸で抱き合ったんだよ」
「わー、わー、通路でそんなこと言わないでください! 誰かに聞かれたらどうするんですか!」
周囲を気にしながら理人さんの口に咄嗟に手を当てたが、彼がその手を外して私の頬にチュッと口づける。
「今……なにを?」
驚きで口をパクパクさせる私に、理人さんはしっとりと落ち着いた声で告げた。
「無理じゃない。早く俺に慣れろよ、柚葉」
第三章 放っておけない
「加賀美、アメリカのオーウェル大統領と首相の電話会談のドラフトはできたか?」
会議を終えて自席に戻ると、出張から戻ってきた上司の田中局長がこちらにやってきた。外務省ではナンバー5の実力者で、彼は将来の外務事務次官との呼び声が高い。
年は四十九歳。学生時代に柔道をやっていたせいかがたいが大きく、髪はセットいらずの短髪。いつもニコニコ笑っていて一見人のいいおじさんに見えるが、人使いが荒い。
「二時間ほど前に、田中さんにメールで送りましたよ。ちゃんと両国のパートナーシップ、安全保障、貿易問題中心にまとめました」
俺は加賀美理人、三十歳、独身。職業は外交官――
今、俺がいるのは霞が関にある外務本省で、ここは三千人近い職員が働いている日本の外交の拠点。先月まではアメリカのワシントンDCにある日本大使館にいたが、十二月から急遽外務省の総合外交政策局に異動になり帰国した。局長の補佐役として外交政策の企画や立案を担当している。
ちなみに俺を日本に戻したのは、この田中局長。アメリカとの強いパイプが欲しいということで俺が選ばれた。なんでも俺がアメリカの高官と何度も折衝を重ねて信頼関係を築き、日米同盟と日米安保体制の強化に貢献したことが高く評価されたらしい。
プリントアウトした原稿を局長の田中さんに見せると、彼はサッと目を通し、俺の頭をポンと叩いた。
「持つべきものは有能な部下。加賀美がうちに来てくれて本当に助かるわ。あと、あれはできてるか?」
田中さんの質問に表情を変えずに返した。
「渡部外相の国連のスピーチ原稿ですか?」
『あれ』と言われたが、その原稿で間違いない。田中さんはわざと曖昧に言って俺が本当に使える人間か試している。
「そうそう」
キラリと目を光らせて頷く彼を見て、やはり怖い人だと思った。だが、俺を見くびらないでほしい。
「できてますよ。はい、これ。このファイルもメールで田中さんに送っています」
デスクの上にあった緑のファイルを渡したら、彼は満足げに笑った。
「さすが加賀美。できる男は違うね」
こういう時に俺を褒める田中さんは要注意だ。
「そんなに持ち上げるなんて、なにか怪しいですね。なんですか?」
笑顔の仮面を貼り付けて上司に問えば、彼は俺を見据え、急にキメ顔で告げた。
「来月来日するアメリカの副大統領のアテンドを頼みたい。お前、副大統領とも面識があるそうじゃないか」
頼みたいと言っているが、これはもう決定事項なのだろう。
「まあ安全保障の会議でよく顔を合わせましたからね」
俺が受ける姿勢を示すと、彼はニンマリした。
「各方面と調整して来日スケジュール組んでくれ。頼むよ。なんたってお前は加賀美元総理の孫。お前がいればあちらさんにも舐められずに済むからな」
オフィスでガハハッと豪快に笑う局長を見て、苦笑いしながら返事をする。
「わかりました」
ふんふんと鼻歌を歌って去っていく田中さんの後ろ姿を見送り、内閣官房の担当者と電話で打ち合わせをすると、副大統領の来日スケジュールを練った。
午後七時半に仕事を終えて帰宅しようとしたら、友人から【今夜飲まないか?】とメッセージが届いた。
特に予定もなく【OK】と返事をして、オフィスを出ると、待ち合わせの赤坂のホテルへ向かう。
てっきりホテルのバーで飲むのかと思ったら、友人はホテル内にあるとある倶楽部へ俺を連れていく。
「ここって例の会員制の社交場だろ? 女遊びをする気分じゃないんだけど」
外科医をしている友人に冷ややかに言えば、彼は「まあまあ、たまにはいいじゃないか、理人」と俺を宥めた。
この倶楽部は会員制で、上流階級の若い男女の社交の場。その実態は、一夜限りの相手を求める男女が集まる場所になっている。
仕方なくテーブルに着き、彼と酒を飲んでいたら、十分も経たないうちにスラッとしたボブヘアの女性に「すみません。ここいいですか?」と声をかけられた。
その女性の横にはロングヘアの女性が少しおどおどした様子で立っている。
俺の友人が「どうぞ」と応じると、ボブヘアの女性は優雅な動きで友人の前に座った。
常連なのか、慣れた様子だ。
一方、ロングヘアの女性は迷子になった子猫のような目をして突っ立っていた。
明らかにここへ来たのは初めてだとわかる。一緒にいる女性に強引に連れてこられたのだろう。
顔に〝帰りたい〟って書いてある。可哀想に。
同情しつつも優しく声をかけて、彼女を座らせた。
「どうぞ、座って」
彼女の強張った顔がなんだかかわいく思える。
昔飼っていた猫に彼女がどことなく似ているからかもしれない。
うちで飼っていた猫も最初うちに来た頃は彼女のようにビクビクしていた。
普段女性からしつこくアプローチを受けている俺としては、そんな彼女に興味をそそられた。
「なにか飲む?」
メニューを見せた時、ボブヘアの女性が彼女になにやら注意していた。
ボブヘアの女性が悩まずに「マティーニをお願い」とウェイターに言うと、彼女も同じものを頼む。
「私も同じものをお願いします」
もうこのやり取りを見ただけで、彼女の危なっかしさがわかった。
お酒、飲み慣れてなさそうだな。
しばらく観察していると、彼女はマティーニを口にして顔をしかめた。
どうやらお気に召さなかったようだ。
それでも、彼女は俺たちの会話には積極的に加わらず、ちびちびお酒を飲み続ける。
早く帰らせてあげたいが、連れの女性が文句を言いそうだし、どうするか……
そんなことを考えていたら、彼女が俺の腕時計をジッと見ていて不思議に思った。
「僕の時計がなにか?」
にこやかに尋ねたら、彼女はマズいというような顔でつっかえながら答える。
「い、いえ、兄と同じ時計だと思いまして」
「へえ、お兄さんがいるんですか? いくつ年が離れてるんです? 僕にも兄がいるんですよ」
緊張を解そうとさらに突っ込んで聞くと、彼女は俺の顔は見ずに返した。
「三つです。とても出来のいい兄で」
男に慣れていないのか、俺と目を合わせてくれない。
「こんな綺麗な妹がいたら、かわいくて仕方ないでしょうね」
容姿をそれとなく褒めたのだが、暗い表情で否定された。
「いえ、全然綺麗じゃないですし、むしろ不安の種くらいに思って……あっ、なんでもないです。忘れてください」
彼女の自虐的な物言いがすごく気になる。
「あなたは綺麗ですよ。なんていうか透明感があって、心が安らぐ」
お世辞ではなく心からそう思って言ったのに、彼女は瞳を翳らせた。
「照明が暗いからそんな風に見えるんですよ。あの……まつ毛が目に入ったみたいでちょっと失礼します」
居心地悪そうに彼女は俺に一言言って席を立つ。
褒めたのは逆効果だったか。今まで俺の周りにいなかったタイプで扱いが難しい。
リラックスさせてあげたかったんだけどな。
彼女の後ろ姿を見つめていたら、ボブヘアの女性に話しかけられた。
「彼女のことお願い」
フッと笑みを浮かべ、俺の返事も聞かずにボブヘアの女性は俺の友人と共に席を立って、どこかに消えた。
面倒を避けたければ、ここで帰ればよかったのだが、彼女を置いて帰るのは心配だった。
俺がいなくなったら別の男に掴まってホテルの部屋に連れ込まれる可能性がある。
しばらくして彼女が戻ってきたが、酔っているのかよろけて転びそうになったところを助けた。
「足、痛めたの? それに酔ったみたいだね。送っていくからちょっと待って」
会計をして、彼女に家がどこか聞くがまともに答えてくれない。
「私の家は……ないれす」
呂律が回っていない。
「家がないって……いつもどこで寝てるの?」
「ベッド……れす」
俺の質問に彼女は据わった目で答え、ソファに身を預ける。
今にも寝そうな彼女に声をかけるが、フフッと笑って動こうとしない。
仕方がないので彼女を抱き上げ、近くにいたスタッフに声をかけてホテルの部屋を取ってもらった。
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