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Allegro -1st Vn.- 春香side

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「…本当にすみません。有賀さんは私なんかには勿体無いくらい素敵な方で…。きっとこんな良いご縁は二度とないだろうなって思います。ですが、有賀さんが素敵な方だからこそ、私は申し出を受ける訳にはいかないんです。
私はずっと昔に一生分の『恋』をしました。だからもう誰とも『恋』はできないんです。それが分かっていながら有賀さんの申し出を受けるだなんて不誠実な真似、私にはできません。ごめんなさい!」

私は有賀さんに向かって深々と頭を下げた。


『彼』の前から姿を消す事を決めた私は、その日のうちから行動し始めた。
非常勤講師をしていた音楽教室に辞表を出し、個人で教えていた生徒さん達に大学時代の同級生新しい先生を紹介して、次に住む物件を探し、今まで住んでいたマンションを解約をした。  

引っ越しを終えて一息ついた頃、有賀さんの事を思い出した。きっと何も言わずに消えた私の事をすごく心配しているだろう。それに一度きちんとお話ししなければ。
そう思って連絡を取り、有賀さんの自宅近くの喫茶店で待ち合わせをしたのだ。


きっちりとした性格通り、有賀さんは約束の5分前に現れた。休日という事もあり、ラフな格好をしているせいか、普段とは大分印象が違った。こんな素敵な人を袖にするなんて罰が当たりそうだと思いながらも、私は有賀さんが席に着くなり頭を下げたのだ。

テーブルに額をぶつける勢いで頭を下げた私を見て、有賀さんは「まあ大体予想はしていましたけどね」と苦笑した。

「それにしても春香さんは馬鹿正直っていうか、真面目過ぎるというか。もし僕がそれでもいいと言ったらどうします?
貴女が『恋』ができないというのなら、別に無理して『恋』なんかしなくていい。しっかりとした信頼関係を築きあげ、二人で一緒に穏やかな『愛』を育んでいけばいいんです。『恋』なんて激しく燃え上がる分、冷めるのも早いじゃないですか?
僕の年でそんな不確かなものなど求めませんよ。穏やかで確固とした『愛』でいいんです。いや、それいいんです」

柔和な笑みを浮かべていたけれど、表情とは裏腹に、その眼差しはとても真剣なものだった。


有賀さんの言う通り、『恋』は不安定で儚いものなのかも知れない。けれど、有賀さんの瞳の奥に見える熱は、私への恋情ではないだろうか?
私に『恋』など必要ないと言いながら、有賀さんは私に『恋』している。同じ気持ちを返す事ができない私に、彼を受け入れる権利はない。

何より、私は有賀さんに裏切ってしまった。有賀さんは私が答えを出すのを急かさず真摯に待ってくれていた。それなのに私は再会したばかりの『彼』にあっさり抱かれてしまったのだ。こんな私じゃ有賀さんに相応しくない。

「…私も有賀さんとなら、穏やかな家庭を築けるのではないかと考えました。けれど、そもそも私には幸せになる権利がないんです。私は貴方に相応しくない。
ですから、私の事なんかさっさと忘れて、有賀さんは有賀さんに相応しい女性かたと幸せになって下さい」

「……僕に|相手ですか?春香さんがいう、相手というのは誰が決めるんですか?春香さんが決めるんですか?それとも別の人?
そうじゃないですよね?僕にかどうかなんて、が決める事でしょう?
以前から不思議に思っていたのですが、春香さんはどうしてそんなに自己評価が低いのですか?僕はずっとそれが気になっていました。貴女は貴女が思っている以上に素敵な女性なのに。そうでなければ、僕は貴女を生涯の伴侶として求めたりしない」

そう言って、有賀さんはテーブルの上にある私の手の上に自分の手を重ねた。



――どうして自己評価が低いのか?

逆に知りたい。どうしたら自分を高く評価できるのか。
私だって、小さい頃から誰にも負けないくらいヴァイオリンの練習を重ねてきた。本当は他の子みたいに友達と遊びたかったけれど、それを我慢してヴァイオリンに打ち込んできた。

けれど、どんなに頑張っても、結果を残す事ができなかった。当たり前だ。コンクールに出れば、自分よりも上手い子だらけなのだから。
世の中には、努力だけではどうにもならない『才能』の差、『センス』の差というものがある。それに気付いたのは幾つの時だっただろう。

それでも、私にはヴァイオリンこれしかなかったから、これで食べて行けるようになろうと、憧れの芸大を受験した。合格した時は信じられないくらい嬉しかった。 
国内最難関と呼ばれる大学の音楽学部に入学できたのだ。私の実力ではソリストは無理だとしても、プロオケの団員にならなれるのではないかと期待した。

しかし、入学後すぐにその期待は打ち砕かれた。
当然の事ながら、芸大生のレベルは驚くほど高かった。それなのに、この大学の卒業生であっても、実際にプロオケの団員になれるのはほんの一握りしかいない。そう授業で聞かされたのだ。

事実だった。あれだけ厳しいレッスンに耐え抜き、青春時代を棒に振って、終わりのない受験戦争のような生活の中で血の滲むような努力を重ねても、プロオケの団員や大学の先生になれる人なんて一握りもいない。

卒業後、とても優秀だったり、裕福な家庭出身の人間は、そのまま大学院に進んだり、留学したりする。 
中には、中学や高校の音楽の教師になる者や、一般企業に就職する者もいるけれど、音大卒の人間の間には、そういう選択をする者を『犬』だととらえる変な風潮がある。
だから、その『負け犬』になりたくない人間は、フリーの演奏家という名のプーになる事を選択する。


私もフリーの演奏家という名のプーになる道を選択した人間の一人だ。
プロオケのトラ(エキストラ奏者)として呼んでもらったり、音楽教室の非常勤講師としたり、個人的にレッスンを受け持ったりして、どうにか自分の食い扶持を稼いでいる。けれど、常にカツカツの生活だ。

それに引き換え、『彼』レベルのソリストとなると、想像もつかないような額…多分1ステージあたり50~100万円くらいは稼げるのではないだろうか?

現在の稼ぎがこんなにも違うのにもかかわらず、親が投資してきた金額は『彼』も私も然程変わらないのだから、両親には申し訳なくて堪らない。

音大を目指す為に一流の師匠せんせいにレッスンを見てもらうとなれば、月々10万円近くはかかる。その他にソルフェージュやピアノのレッスン代。コンクールや発表会の参加費、衣装代、メンテナンス代。それらを含めると恐ろしい額になる。
それが小さい頃からずっと私にかかっているのだ。

何よりもヴァイオリン本体と弓が高い。
ヴァイオリンの音色は値段に比例するから、私は大学受験前に五百万のヴァイオリンと百万の弓を買ってもらった。
私のが飛び抜けて高いだけでは?と思われるかも知れないが、そんな事はない。音大生の中で私の愛器ヴァイオリンは平均的な価格だ。私の周りの友人が使っているもので一番安価な物が三百万。高価な物だとゆうに一千万を超える。 

それだけの額のお金が費やされているというのに、私の実力では両親から受けた恩を返す事など一生かかってもできないだろう。 
投資回収率がゼロに等しい私は、ただの不良債権でしかないのだ。

そんな私がどうしたら自分を高く評価できるというのか?



「……春香さん。そんなに強く唇を噛まないで下さい。血が滲んでいますよ」

労わるような言葉とともに有賀さんの指が私の唇に触れた。
反射的に私は身を反らした。まるで触れられるのを拒むかのような行動に、有賀さんは傷ついたよう顔をした。

「すみません」

「いえ僕の方こそ。配慮に欠けた発言をしてしまってすみませんでした。きっと貴女には貴女の事情があるんですよね。
けれど、これだけは覚えておいて下さい。貴女は、貴女が思っている以上に素敵で魅力的な女性です。
僕は初めて貴女と会った時、貴女の笑顔に一目惚れしたんです。この人だと思いました。少しストーカーじみていると思いながらも、貴女を捜すのをやめられなかった。そうまでしてでも、貴女にもう一度会いたかったんです。
貴女を見つけ出し、生徒として共に時間を過ごしていく中で、貴女の優しさ、清廉さ、生真面目さ、ヴァイオリンへの情熱…様々な面を知れば知るほど、僕は更に貴女に惹かれていきました。
もし貴女が、僕の事を素敵な人間だと思ってくれているのならば、僕が好きになった貴女じょせいを軽んじないで下さい。僕にとって貴女は特別なんです。他のどの人間よりも価値がある存在なのですから。
……あまり引き際が悪いとみっともないですね。それでは僕はもう行きますね。
春香さん。幸せになってはいけない人間なんてこの世に存在しません。当然貴女にも幸せになる権利はある。だから絶対に幸せになって下さい。貴女の幸せを願っています。
それと、もし気が変わったら、いつでも連絡下さい。僕は大歓迎ですから!それではまた」

私に負い目を感じさせない為か。有賀さんは茶目っ気たっぷりにそう言うと、笑顔で席を立った。私は去って行く有賀さんの姿を見つめながら「…幸せになってはいけない人間なんていない、か…」と小さく呟いた。


……ジージー。季節外れの蝉時雨が、今でも私の頭の中で響き渡っている。



***


 
あの暑い夏の日から1カ月半程前の『彼』の誕生日。『彼』はダイヤの指輪を差し出しながら私に求婚プロポーズをしてくれた。 

今思えば、あの時には既に『彼』の留学は決まっていたのだ。だから私を恋人という曖昧なものではなく、という明確な形で縛り付けておきたかったのかも知れない。
その時はまだ何も知らなかった私は、大好きな『彼』から求婚プロポーズされた事がとても嬉しくて、完全に浮かれていた。


だが、その半月後、大学の練習室前の廊下で、同じ楽器専攻の子達が噂しているのを偶然耳にした。もうすぐ『彼』が留学するらしいと。
無責任な噂話だと思った。そんな話があるなら婚約者である私に話さない訳がない。私はほんの軽い気持ちで、たちの悪い噂が立っているようだと『彼』に話した。

くだらない噂だね。そう言って笑ってくれると思っていた。それなのに…『彼』は顔を強張らせ、「ごめん。その話は本当なんだ」と苦し気に呟いたのだ。
私にどう思われるか怖くて言い出せなかったと『彼』は言った。そして、既に手続きは全て済んでいるいる事、出発も一月ひとつき後に迫っている事を、目を逸らしたまま白状した。

その事実に目の前が真っ暗になった。

――一月ひとつき後に日本を発つ?
すぐに離れ離れになる事が分かっていながら、何故『彼』は私に求婚プロポーズして来たのだろう。婚約だけして、私を放置するつもりだったのだろうか?
私は『彼』の不誠実さに憤りを覚えた。

まるで道化師ピエロだ。何も知らずに一人浮かれて喜んで。そんな私を『彼』はどんな目で見ていたのだろう。何故私に一言も相談してくれなかったのか。
私が頼りないから?それとも最初からあてにされてない?

聞けば、桃花や律君は留学話が持ち上がった段階から相談を受けていたらしい。 
彼等が口をつぐんでいたのは、『彼』が自分の口から直接伝えたいと口止めしていたからだという。

「本当に全く気が付かなかったの?」

困惑顔で桃花にそう訊ねられた時、私は恥ずかしくて、情けなくて、号泣してしまった。

確かに『彼』の事をちゃんと見ていたら、いくら『彼』が隠そうとしていても、気付く事ができた筈だ。それなのに私は気付けなかった。『彼』からの求婚プロポーズに浮かれ、周りが見えなくなっていたのだ。
そんな自分の愚かさが恨めしかった。


一方で、『彼』への不信感も募っていた。
すぐに露見するような事実を、何故隠していたのか?こんな状態で私に求婚プロポーズして、この後どうするつもりだったのか?

一人になって頭を冷やしたかった。
『彼』との関係の在り方を。自分自身の在り方を。一度一人になって冷静に見つめ直したかった。
だから私は距離を置くべく、『彼』を避け始めたのだ。

けれど『彼』は、私が距離をとろうとする事を良しとはしなかった。
きっと『彼』は日本を発つまでに、どうにかして私との関係を修復したかったのだろう。
 
なりふり構わず、『彼』は何度も謝罪してきた。
私を失うのが怖かったのだと。別れを切り出さたくなくて言い出せなかったのだと。それ程私の事を愛しているのだと。言い訳を並べながら何度も許しを請うてきた。

けれど、私は『彼』の言葉を信じられなくなっていた。
例えば、『彼』が言っている事が事実だったとして、『彼』が近々日本を離れる事もまた事実なのだ。
私を失いたくないから言い出せなかったと『彼』はいうけれど、じゃあどうするつもりだったのか。日本を発つ直前に、今から留学するからと告げるもりだったのだろうか?そんな仕打ちをして、私との関係が変わらないと本気で思っていたのだろうか?
もしそんな事がまかり通ると本気で思っていたのだとしたら、私はとんでもなく軽んじられていたものだ。 
彼の言動全てが私を愚弄しているように思えて、酷く裏切られた気分だった。 


何も留学する事自体を責めている訳ではない。
『彼』程の才能の持ち主ならば、寧ろもっと早くに留学するべきだったとすら思っていた。
隠さずに相談してくれれば、喜んで『彼』の背中を押した。心から応援した。
『彼』が別れたくないと言ってくれたなら、いつまででも待った。
私だって『彼』を愛していたし、別れたくなどなかったのだから。
だが『彼』は、私の愛情おもいを踏み躙ったのだ。そんな『彼』をどうして信じられようか。


どんなに突き放そうと『彼』はしつこく追いかけてきた。場所が何処であろうが気にもとめず、恥も外聞もかなぐり捨てて追い縋ってきたのだ。そんな情けない姿を見れば見る程『彼』への苛立ちが募り、私は態度を硬化させていった。
 
そんな攻防が二週間以上続いたある日。同じ門下の先輩から、私のせいで『彼』が練習不足になっているからどうにかしろと苦言を呈された。
どうにかしろと言われても、私自身、どうするべきなのか、どうしたいのか、分からなくて、私はひどく混乱した。


そんな最悪のタイミングで、私はお腹の中に新しい命が宿っている事に気付いた。

堕ろすという選択肢は最初からなかった。 
どんな状況であろうとも、愛しい『彼』との子供なのだから産みたいと思った。

けれど同時に、絶対『彼』に知られてはいけないと思った。
留学を目前に控えた『彼』に、もしこの事を知られてしまったら大事になる。責任感の強い『彼』の事だから留学を取りやめると言い出すかも知れない。
もしそうなったら…『彼』の才能を潰すような真似をしてしまったら…私は一生自分を許す事が出来ないだろう。

私は『彼』の足枷にはなりたくなかった。だから私は『彼』に内緒でお腹の子を産んで育てる決心をした。
当時私は大学4年だったので、幸いにも、大学を休学する事なく出産する事が可能だった。卒業後はフリーの演奏家として活動する予定だったので、仕事上の問題もない。

問題は経済面だった。
出産予定日は卒業式の翌月。出産費用もあるし、ベビー用品も買い集める必要がある。けれど、卒論もあるし、バイトをこれ以上増やすのは難しい。
悩むに悩み、結局私は両親に頼る事にした。ただすぐに相談するわけにはいかない。堕胎できない月齢になってからでないと堕胎するよう迫られるだけだ。産むしかないとなれば、両親も折れざるを得ないだろう。孫は可愛いというし、もしかしたら子育ても協力してくれるかも知れない。


数日後、麗華さんから呼び出された時、私は『彼』と決別する覚悟を固めた。 
例え『彼』と二度と会えても、『彼』と愛し合った『こども』が手元に残る。もう二度と『彼』に愛を伝えられなくても、その分だけ、いやそれ以上の愛情を生まれてくる子に注げばいい。

大丈夫。私にはこの子がいる。
私が今『彼』にしてあげられる事は、『彼』を解放してあげる事だけだ。私にもこの子にもとらわれず、『彼』が自由に羽ばたいていけるように。


――そう思って私は、『彼』に別れを切り出したのだ。あの蝉時雨が響き渡っていた暑い夏の日に。
 
彼に背を向けた瞬間、必死に堪えていた涙が止め処なく溢れ出した。こんな未練たらしい涙を『彼』に見せなくて、私は前だけを向いて駅まで歩いた。
涙のせいで視界は歪み、徐々に見え辛くなっていく。妊娠を覚られないように久々に履いたヒールの高い華奢なサンダルもよくなかったのかも知れない。

ホームに続く階段を下りる途中でバランスを崩し、私はそのままホームへと転落してしまったのだ。

それが切っ掛けだったのかどうか分からない。
だが、激しい腹痛とともに履いていたスカートが赤く染まった。そしてその後、駆けつけた病院で私は『完全流産』していると診断された。

ショックで涙も出なかった。頭が真っ白になり、医師の言葉も看護師の言葉も入って来なかった。ただ、お腹の中の子が、『彼』と愛し合った証の子が、消えてしまった事だけは理解していた。

『完全流産』は特に治療の必要がない為、そのまま帰宅できた。けれど、どうしても一人ではいたくなかった私は、桃花に電話をして泊めて欲しいと頼みこみ、そのまま桃花の家へと向かった。


ジージー。ジージー。
もう日が暮れかけてるというのに、未だに止む事のない蝉時雨がまるで私の後を追いかけて来るように響き渡っていた。



桃花の顔を見た瞬間、ずっと抑え続けてきた感情が一気に溢れ出した。
私は幼子のように声を上げて泣いた。胸のつかえていた物を全て吐き出すように、洗いざらい胸の内をさらけ出した。
桃花は一晩中私に付き合ってくれた。一緒に泣き、一緒に怒り、ずっと寄添ってくれた。

それから三日程、流産したばかりの私には休息と安静が必要だという言葉に甘えて、桃花の家でお世話になった。


そして『彼』が日本を発つ前日の深夜、私は自分のマンションに戻った。
翌日、早朝のフライトで『彼』が日本こっちを発つ事を把握していたから、この時間ならば、彼と顔を合わせずに済むと思ったのだ。
 
しかし、予想は見事に外れた。『彼』は私の部屋の玄関に背を預け、私の帰りを待ち構えていたのだ。

「な…何で?どうしてハル君がこんな所にいるの?」

「何でって…それはこっちの台詞なんだけど。……桃先輩に聞いたよ。身体は大丈夫?………あのさ。僕は…」  

複雑そうな『彼』の顔を眺めながら、余計な事を言ってくれたもんだと桃花を恨めしく思った。 
日本を発つ直前にこんな事を知らされて、『彼』はさぞ困っただろう。私が妊娠した事すら知らなかったのだから困惑して当然だ。
私は『彼』が逡巡しているうちに、会話を打ち切るべく口を開いた。

「私達もう別れたんだから帰ってもらえる?こういうの迷惑だよ。桃に何を聞いたか知らないけど、ハル君には関係ないから」

「関係ないって何!?僕に関係ないって…。その子は僕の子でもあったんだよね?それなのに僕が無関係な訳がないじゃないか!」
  
『彼』は激昂して声を荒げた。
確かに『彼』の言う通り、父親なのだから『彼』は無関係ではない。けれど、私は『彼』に蟠りも心残りもなく旅立って欲しかった。
だから私は『彼』の視線から逃れるように俯いて、『彼』が負い目を感じないで済む方法を考えた。

私は『彼』に恨まれてもいい。憎まれてもいいのだ。
『彼』が心置きなく羽ばたいてくれれば、それでいい。

私は最低の女を演じる事にした。
徐に顔を上げ、私は不遜な笑みを浮かべながら『彼』を見た。

「…あの子の父親がハル君だなんて、私言った?あの子の父親はハル君じゃないわ」

突き放すように言い放ち、嘲るように言葉を重ねた。

「父親がハル君だったら、言わないわけないでしょう?あの子の父親が他の人だったから、言わなかったのよ。
……こんな誰にも望まれない子なんて、流れてくれて良かったわ…。
これでハル君も心置きなくNYあっちでヴァイオリンに集中できるわね!ハル君の成功を心から祈ってるから頑張って。それじゃあね。バイバイ。ハル君」

そう言うと、私は『彼』を押しのけるようにして部屋に入り、鍵をかけた。

「ちょっ!春ちゃんっ!春香!君は自分が何を言ってるのか分かってるのか?君が僕以外の男と寝たとでも言うのかよ!君にそんな事が出来るわけないだろ?」

「……出来ないなんて思ってるのはハル君くらいよ!実際に私、他のひとに寝たもの。ハル君よりもずっと大人な男性ひとで、とっても上手だったわ。
私はこういう女なの!分かった?だから、ハル君は私の事なんかさっさと忘れて、ハル君に相応しい人を見つけてよ。それでその人とさっさと幸せになってよ!
もう二度と私の前に現れないで!ウザったらしくて迷惑なのよ!」

そう言い切った時、体に衝撃が走った。背を預けていた玄関のドアを外側から思い切り蹴られたのだ。
私は涙を流しながら、荒々しい足音が遠ざかって行くのが聞いていた。


――いなくなってしまったあの子は、望まれなかった子なんかじゃない。私は誰よりもあの子を望んでいた。私に残された、唯一の希望だった。

――『彼』以外の男性ひとに抱かれた事など一度もない。あの子は確かに『彼』の子供だった。

走って追いかけ、『彼』の前でそう叫んでしまいたかった。

『彼』は、私を尻の軽い女だと軽蔑しただろうか?憎んだだろうか?
……それでいい。どんなに『彼』に軽蔑されようと、憎まれようと、私はそれを甘んじて受け入れなければ。だって私は『彼』との間の愛し子を守りきる事が出来なかったのだから。

これからは陰から『彼の活躍』を見守っていこう。
私は『彼』の一番のファンであり続けるだけでいい。
『彼』が私の事を忘れてしまう日が来たとしても、私は『彼』の事を決して忘れない。喪われてしまった私達の愛し子の事も決して忘れない。
もし今後、私が他の誰かと結婚する事があったとしても、心の奥深くでこの二人の事を愛し続けよう。

そうあの時、私は心に誓ったのだ。



***



過去の経緯を顧みれば、『彼』が私を憎んでいるのは至極当然だ。確かに私はどう扱われても仕方ない身ではあるけれど、愛人扱いされるのだけは耐えられなかった。 

『彼』に抱かれるのは嬉しくもあったけれど、気持ちが伴わない行為は、哀しく虚しい。
これ以上『彼』といたら、自分が壊れてしまう気がした。

だから、私は『彼』から逃げ出したのだ。
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