絶対不要の運命論

小川 志緒

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現在、十五歳(もう、何度目かの)

「その当たり前が奇跡みたいなことだったから」

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 窓の外には海が見える。
 透き通る水面が陽の光を浴びてきらめいて、二階から見下ろすたび飛び込みたくなる。
 ここに越してきたばかりの頃に一度だけやってしまって、真里亜にひどく怒られたのでもうしない。危なくはないよ海で生まれたから。と、何度も言ってみたけど駄目の一点張りで、そんなに心配なら仕方ない、そう思って、海に入りたかったらちゃんとウッドデッキから桟橋を下りていくようにした。階段を下りて扉から外に出て、という少しの手間が増えるだけで、喧嘩をしてまで押し通したいことではなかったから。

 どっちでもいいと思っていることなら、いちばん大事な子がこっちにしてと願うほうを選ぶ。だって、どうしてちょっとの面倒をいやがることがあるの? 愛しているのに。
 好きなひとが願うささやかなことを叶えるのを億劫に感じるのなら、きっと本当には愛していないんだと思う。早く別々の道を歩き出すのがいい。何せ人間の寿命は短い。僕が人生に手を抜いてほんの少し居眠りをしている間に終わってしまいそうな儚さだ。だから自分にとって本当に大切なこと以外をしている暇なんてきっとないはずだ。

 開け放った窓から吹き込む風が、僕と真里亜の髪のあいだを優しくすり抜けていく。漣の音に耳を澄ませていると、まだ日が高いうちから瞼が落ちてくる。こればっかりは何百年経っても変わらない。ざざざ、という静かに響く波の音は、ありえないほど深くからだの奥に沁みて気持ちが凪ぐ。どんなに頑なに抗っても、そんな頑なさをふっと解いてしまう。窓際に置いたソファでうとうとするとき、僕の精神はするりと肉体から滑り出て波の狭間に浮かぶ。そうして自由自在に泳いでいく。
 潮のにおい。白い水飛沫。つま先をつけた瞬間のひんやりとしびれる感じ。頭のてっぺんをじりじりと灼く強い日差し。深く潜っていくほどに音や光が遠ざかって、そうなると自分のからだの境目も曖昧になって、そのままゆっくり溶けて消えていくような錯覚。すべてが僕の肌、遺伝子、そして魂に刻み込まれていて、だから僕は海のそばに棲みたかった。それ以外は何だっていい。ものすごく狭くてもとんでもなく古くても構わない。海に面した家であること。それだけが僕の唯一の条件だった。

 棲家を持たずに放浪した時期もある僕は、海が近くて雨風しのげる家なら十分だけど、お城で生まれた真里亜はそうもいかない。なるべく清潔で窮屈でなくて、空気がきれいなところを見つけてあげたい。いくつもの物件をしっかりと吟味してついにこれだと決めた。
 ふたりで棲むには大きすぎる家。
 赤茶の屋根に白塗りの壁で、童話に出てきそうなかわいさが素敵だった。内覧の日にひと目で気に入って、あと数軒見て回る予定だったのをすべてキャンセルし、僕らはあっという間にここに越してきたのだ。貯金はほとんど使い果たした。だけどそれがうれしい。真里亜のために貯めたお金を真里亜のために使えるのはしあわせなことだった。

 この海をずっと西に向かって進んだ先、いや南だったかもしれない、それとも東だったかしら。僕は長く生きているのに地理がどうにも苦手なので、正しい方角がわからない。でも海のいいところはぜんぶ繋がっているところ。ここから遠く離れた海の底に、僕の故郷がある。あったのだ。今はもうない。人間から身を隠すのに必死で、棲み慣れた家を僕らはみんな捨ててしまった。
 記憶のなかでは色褪せることなく、あの明るい音楽と輝きに満ちた場所がきらきらと光っているから、もうどこを探しても辿り着けないなんて嘘みたいだ。未だに僕はちょっと信じられない。ふつうにみんなあの場所に棲んでいて、僕におかえりと言ってくれる気がしてしまう。深く泳いでいくための尾びれを失い、透きとおる歌声を失い、水のなかでは息もできないからだになってしまった今でも。そんなはずないって頭ではわかっているのに、僕はまだ夢をみている。
 きっとかつての棲家を訪れて現状を目にすれば、こんな幻想も消えるんだろう。だけど僕は僕の生まれたふるさとが無残に壊されてしまったあとなんて見たくないし、真里亜も見なくていいよと言うから、僕は一生このまぼろしを抱えていこうと思う。もうどこにもない僕の国。だけど確かにあった。僕の寿命がとうとう尽きて海の藻屑となるそのとき、一緒に消えてなくなればいい。それまでは許してよねって僕は誰かに願う。夢を夢とわかりながら見続けることを許してくれる誰かがいることを信じて。僕以外の誰かがみる夢を許しながら僕は願っている。

 帰る場所を持たないというのは孤独だ。だから真里亜、――いいえ、あの頃はまだ「マリア」だった――あの子に手を引かれて連れて帰ってもらった日の感動を今でもはっきり思い出せる。誰にも何にも頼れなくて、本当の本当に心細かった僕を見つけてくれたマリア。強欲な人間の馬鹿馬鹿しい思い込みで執拗に追い詰められて、もうすっかり人間嫌いの僕は、警戒心をむき出しにしてマリアを叩いた。薄汚れたひょろひょろの手で引っかいて、少ない語彙で罵倒した。それでもマリアは怯むことなく僕を引き摺ってお城に連れ帰った。
 ちょうどいいあたたかさのお湯を張った猫足のバスタブに放り込まれて、おろおろしているあいだにお手伝いさんたちの手によって全身隈なくきれいに洗われたときの困惑。
 肌触りのいい上等な洋服を着せられて、おいしいものをたくさん食べさせてもらったときの、いつ見返りが要求されるのかしらと構えていたあの瞬間。
 与えられるだけ与えてもらって夜になり、ふかふかの寝床が与えられて、おやすみと優しく声を掛けられたこと。
 親切の対価を求められなかったことに衝撃を受けて、あてがわれたベッドに寝転がってもしばらく寝付けなかった。てっきり僕の正体を知っていて、だから優しいふりをするんだとばかり。命の危険に晒されることのない夜を過ごしたのはひさしぶりだった。

 翌朝になって目が醒めると涙が溢れて、僕はあの子のために、人間を憎むのはやめようと思った。すべてを愛することはできないけど、あの子とその周囲の幸福のためにできることをしたい。そう思った。彼女たちにとって特別でも何でもない行為なのだとしても、僕にはその当たり前が奇跡みたいなことだったから。
 もしかすると僕は最後の生き残りかもしれなくて、だとすると敵討ちができるのは僕だけということになるし、そうなればご先祖様は僕に復讐を望むのかもしれない。でも無理だ。マリアを愛してしまったし、愛したマリアが人間である以上、僕にはできない。恨む気持ちが大きすぎてすっかり忘れてしまっていたけど、僕に優しかった人間は、何もマリアだけじゃなかった。ここまで生き延びてきたのは危険を承知でそっと手助けしてくれるひとがいたからだということを思い出して、あのひとたちの優しい目を思い出してしまったらもう、剣も銃も握れなかった。
 マリアのもとで過ごすうちに、僕は尽きることのないように思われた怒りや恨みと引き換えに、つい涙ぐんでしまいそうになるほど心底しあわせだと感じる日々を手に入れた。奪われていくばかりでこれ以上はせめて失わないようにと必死だった僕の手に、毎日抱えきれないほどたくさんのものを与えられる。僕はうまく受け取れなくて何度もぽろぽろ取り落としてしまうけど、マリアはちっともいやな顔をせず、何度でも手渡してくれた。

 こんなはずじゃなかった。
 こんなはずじゃなかったのに。

 あんなに激しく燃え盛っていた憎悪がもうこんなにもか弱い炎でしかない。不意に訪れた平穏に僕は途方に暮れる。長年ひどく荒れ果てていた胸からはもうとっくに嵐が去ってしまって、なんだかすかすかして落ち着かない。ひどく寂しいような、安らいでいるような。唯一の心の支えだった憎しみが消滅してぼんやりとしている僕を、マリアはぐいぐい引っ張って光差す場所へと連れ出した。ひとりでいれば暗いほうへ悪いほうへ思考が沈んでいってしまう性質の僕に対して、「マリオンはほんとうに世話が焼けるのだわ」と呆れたように言って、マリアは僕と手を繋ぐのだ。

 そうやっていつも助けてくれたね。僕もいつか同じように、あなたを助けるんだと決めていた。それなのに僕はいつまで経ってもなんの役にも立てないまま。もらってばっかりで何ひとつ返せなくてごめんなさい。
 僕はあなたのためになりたくて、あなたのことばかり考えてしまうから、あなたの優しい気持ちを汲むことができないこともよくあった。あなたが誰に対しても愛をもって接しようとするから、僕はどうしたってはらはらしてしまうのだ。そんなに惜しみなく与えていいものじゃない。いつか根こそぎ奪おうとする悪いやつに傷つけられてしまうかもしれない。たとえ悪気がなくても傷つくことはある。だから僕は口うるさくマリアに言うこともあった。そう、あれはいつだったかしら。あの子猫。あのときも僕はずいぶん反対したものね。
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