袖振り縁に多生の理

みお

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【晦日】

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 一年が終わろうとするその日、江戸に静かな雪が降った。



「源さん、精がでるねえ」

 日が落ちて、しんしん冷え込む夕刻の井戸端。一人で菜を洗う源五郎に声をかけた女がいる。

 振り向けば、それは大家のお富である。彼女は両袖を寒そうにすりあわせて源五郎の隣に腰を落とした。

「年の暮れに雪とは、酷い話じゃあないか。冷え込んで正月の支度だってまともに進みゃしない」

 そう言う彼女の口からは白い息が漏れている。水を使う源五郎の指も赤く染まっていた。

「お袖ちゃんはまた風邪かい」

「ああ、なかなか熱が下がらない。済まない。食事まで都合してもらい……」

「やだよ水くさい。今年の風邪はたちがよくないというから心配だね」

 彼女は抜け目のない女であった。いつも笑っているようなふくふくしい目の奥で、常に長屋を管理している。 

 最初はそれが面倒にも感じられたものだが、今となれば嬉しくもある。父も母も無い源五郎にとって、それは疑似的ではあるが家族の温かみであった。

「あとで薬のいいのを分けてあげるから、取りにおいで。小さな子は風邪でもかわいそうだろう」

「……ありがたい」

 源五郎は小さく頭を下げる。

「そういや、源さんがきてもう、一年経つねえ」

 冷たい井戸の水を汲み上げては青い葉を洗う、そんな源五郎の手元を見つめながら女はしみじみつぶやいた。

 そもそもこの女が源五郎を受け入れなければ、彼は一年前にいずこかで野たれ死んでいたはずである。

「いやね最初は人相の悪い浪人に長屋に来られちゃ困るなんて……やだよ、怒らないで頂戴よ。しかしね。怪しい人がきたもんだって長屋中、それはもう蜂の巣でも突いたように大騒ぎでねえ」

 女の息が白い。白い筋となって、暮れの空に流れていく。

「しかも、訳ありの……化け物がでるなんて噂のある、この家を借りるというだろう。いやね、私にすりゃあ、ありがたい話なんだよ。この家は化け物がでるといって、誰もかれもすぐに出て行くし、稲荷の札も利きやしない。いずれ取り壊すつもりだったんだ」

 お富が見上げているのは源五郎の家である。そこは長屋の中でも一番奥。日差しの当たらない、薄寒い家である。化け物屋敷と呼ばれ、誰も住み着かない。

 ここにたどり着いた日のことを、源五郎は覚えている。

 それはちょうど一年前、正月の明けた雪の日であった。

 雪を踏みしめ歩く源五郎の身体は、怒りと憎しみだけでできていた。足に触れる冷たさも、切られた目の痛みも、なにもかもが怒りの中に埋没していた。

 しかし今、源五郎に降り注ぐ雪は暖かい。

 この家に足を踏み入れなければ、源五郎は憎しみの中で死んでいたはずだった。

「でもよく聞いたら怪我してお勤めもできなくなったっていうじゃない。それにあんな小さな妹さんを男で一つで育てるなんてあんた、なかなかできたもんじゃない」

 お富はすっかり源五郎の横に腰を落ち着けて、にこにこと笑っている。

 源五郎は苦笑を浮かべた。実際、源五郎自身がお袖のことを妹とも娘とも言ったことはない。ただ、噂が噂を呼んで、知らぬ間にそうなっていたのだ。

 銀次などは、お袖のことを轆轤に生ませた娘だとも思っているらしい。

「それにね、こうやって話してみたら、源さんも無口だけどもいい人だしね……いやね、だらだらとごめんよ。ただね、私はずっと源さんたちにここに住んでいてもらいたいと、そう言いにきたのさ。なんだかねえ、雪が降ると、あんたがここに来た日を思い出して」

 源五郎の指が震えた。しかしそれは、水の冷たさにごまかされる。

「……そうだな、ありがたい」

 青菜を洗い終わり篭に積むと、水が垂れて草鞋をぬらす。お富が手拭きで、それをさっと拭った。

「だからね。困ったことがあったらなんでもお言いなさいよ。一度ここに住み始めたら、みんなあんた家族みたいなものなんだから」

「げんご!」

 冷たい空気の中、幼い声が響いた。

「お袖?」

 振り返ると、長屋の戸が薄く開いて、裸足のままのお袖が駆けだしてくるところである。

「げんご!」

「どうした、厭な夢でもみたのか」

 なかなか風邪の治らないお袖はこんこんと眠っていたはずだ。起き出したのは、厭な夢でも見たのか、それとも源五郎の帰りが遅く、待ちきれなかったのか。

 熱のせいか、頬に泣き濡れた跡がある。素足を赤く染めて駆けて来る少女を、源五郎は慌てて抱き上げた。 

 篭に積まれた菜が音を立てて地面に散る。雪の上に緑の葉が広がったが、それよりお袖の体温に源五郎は驚かされた。

 お富もお袖の顔を覗き込み、慌ててその顔に掌を当てる。

「あらやだ、お袖ちゃんひどい熱」

 一ヶ月ほど前の酉の市以来、お袖の体調は一向によくならない。熱は下がらず、顔色も悪い。

 ふうふうと息も荒いが、それでも源五郎の顔を見られたことがうれしいのか、笑顔で源五郎の袖を握るのである。

「げんご、起きたら居なくなってたから、怖かった」

 しかし、その握る力もどこか弱々しかった。

「すまない。医者にいくので、薬はまた……今度だ」

 今度、と呟く声が震えた。しかしお富はその些細な声音には気付かない。ただ不安そうに眉を寄せて慌てた風に道を指すのである。

「それなら角に曲がったところの先生がいい、あそこは腕がいい」

「いや行きつけがある」

 羽織を脱いでそれをお袖の体に巻き付ける。そして駆け出す。

 お袖を人の子の医者など見せてはどうなるかわからない。しかしあやかし専門の医者など、聞いたこともない。

 ただ思い浮かんだ場所は一つだけだった。





「轆轤」

 にぎやかな花街の女たちも、子供を抱え顔色を変えて走る源五郎に声をかけることはしなかった。

 疾風のごとき早さで奥の茶屋に滑り込むと、轆轤が目を丸めて源五郎を見上げる。

 彼女は化け猫を膝に乗せ火鉢の付喪神に火を入れて、半纏姿で丸くなっていたところである。

 突然飛び込んできた源五郎を見て、彼女は驚いたのか首をひゅるりとのばした。

「やだ、源さん、こんな年の瀬にいったいどうしたの」

「お袖が熱を」

 源五郎は抱きしめていたお袖を火鉢の側に寄せておろす。

 熱は先ほどよりも高くなっているようだ。堅く閉じられた両眼から涙があふれている。顔は赤く、苦しげに時折うめくのが哀れである。

「ああ、仕方ないわねえ。お薬を飲みなさいって、渡してあるのに飲まなかったんだわ」

 轆轤はその様子をみて素早く立ち上がった。化け猫は彼女の膝から飛び降りて、お袖の足を包むように丸くなった。

「はぐれた妖怪はね、弱いのよ。自分の力の及ぶところを離れると、途端に弱くなっちまう」

「及ぶところ……」

 源五郎は眉を寄せる。思えば、稲荷や酉の市。この一年、お袖が求めるがままにいくらでも遠出した。人の子である源五郎ならばいざ知らず、お袖にとっては相当な無理であったのだろう。

「轆轤も、そうなのか」

「あたしははぐれてないもの。自分の意思で人の世に紛れ込めるの。もちろん、行列が来れば参加はするけど。この子は置いていかれた子だから力が弱いのよぅ。ちょっと待ってて」

 轆轤は茶棚から小さな筒を出し、中の粉を湯飲みに落とす。ほんの、耳掻きの先ほどだ。火鉢にかけられた湯をそれに注ぎ手早く混ぜ、湯を冷ますように数回息を吹きかけた。

「だからね、はじめてお袖と会った時からこの薬を渡してあるの。飲めば、そんな障りもましになるから……でもねえ、この子、妙に意固地なところがあるから」

 そっとお袖の頭を持ち上げ、小さな口に湯飲みを押し当てる。お袖は少し嫌がるように頭を振ったが、やがておとなしく口に含んだ。 

「お袖は……もしかすると、源さんとおんなじ人の子だって、どこかでそう信じたがってたのかもしれない」

 小さな喉が何度か動く。轆轤が顔を撫でてやると、心地よいのか目を細めた。熱のせいか息が苦しそうなのが哀れであった。

 轆轤は素早く綿入りの着物を火鉢の側に広げ、そこにお袖を休ませる。

「これで少し眠ればもう大丈夫。残りは持って帰って、夜に飲ませれば、明日には元気になる」

「中身は」

「源さんが聞いたら気味悪くなっちまうものだよ」

 轆轤はくすくすと笑って、それをそっと袖の内側に隠した。

 筒は中身が見えないようにすぐさま閉められた。手のひらに収まるほどの小さなものだが、鼻についたのは血のような香りであった。

「わかった。では、このままお袖を休ませてやってくれ」

 頷いて立ち上がろうとする源五郎の手を押さえ、轆轤はにこりと笑う。

「お袖ちゃんが落ち着くまで、もう少しここにいて。ね、約束」

「……明日の明けには、百鬼夜行がくるのだろう」

 そんなに呑気にしていてよいのか。と源五郎は溜息を吐いた。それは自分を責める溜息でもあった。

 年末が来るというのに、自分は相変わらず青菜を洗い、お袖の世話ばかり焼いている。いかにも普通の一日のように過ごしている。しかしあと数刻もすれば源五郎は刀を取る。

 優しく声をかけてくれたお富や長屋の人間、そしてお袖に轆轤。誰一人、行き先を告げず立つ。

 そんな彼の最後の気がかりは、百鬼夜行のことだけであった。

 轆轤に引きずられ、源五郎は仕方なく腰を下ろす。火鉢に手をかざすと、冷えた手に熱が走った。

「……本当にくるのか、百鬼夜行は」

「来る。次は、江戸のここいらが通り道だもの。というよりも、もうすでに」

 轆轤は長い煙管を指で弄び、源五郎に肩を寄せた。

「源さんも、分かってるくせに」

 源五郎は片目を細める。今朝から江戸の空気は騒がしい。それはけして、年末の忙しさだけではない。空気の中に人ならざるものの声が聞こえる。

 小さな妖怪が足下を過ぎて行くのを幾度も見た。

 子供の頃に比べると、ずいぶん勘は薄れたが、それでも目で見て耳に聞き気配が感じられる。いかほどの妖怪が江戸に集まりつつあるのか。

 行列がやってくる。大きな気配が、じわりじわりと近づいている。

 時折、不気味な気配が源五郎を覗くこともある。今もまた、部屋の天井から巨大な目が源五郎を見下ろしている。

「帰れるか、お袖は」

「熱なんて、なんの問題も無いわ。息をするのと同じだもの、行列に戻るのは」

「それを聞いて安心した」

 ほうっと息を吐き、張っていた肩を緩める。と、轆轤が小さな悲鳴をあげた。

「源さん。やだ……血」

「ああ、急いで駆けてきたので切ったらしい」

 彼女の白い手が源五郎の腕を掴む。どこで切ったのか、腕に薄い傷がある。そこから血があふれ、着物に赤い円を作っている。

 痛みはないが、血がどんどんと溢れてくるのが奇妙であった。

「ひとつ覚えておいて、人間とあかやしは根本が違うのだからともに暮らすと、弊害も多いってこと……なんて、源さんにつきまとっているあたしが言うのもおかしいけれど……」

 轆轤は甲斐甲斐しく布を歯で割き、源五郎の腕に巻く。血がじわりと滲んだ。

「あやかしの深みに人が踏み込むと、血が止まりにくくなったり病を得やすくなったりするの」

「……しかし、もう関係はない」

 どうせ今宵死ぬ。と、言いかけた言葉を飲みこみ、代わりに眠るお袖を見た。お袖が仲間の元に戻ると思えば、もう源五郎に思い残すものなどひとつもない。

「深みにならば、すでにはまっている……このような小さな妖怪に、俺はどれだけ救われたか」

 眠るお袖は、やはり源五郎の袖をきつくつかんだままである。

「だから俺のできることであれば、なんでもしてやりたかったのだ……もちろん轆轤、お前にも救われた」

 このような小さなあやかしが、源五郎のことを兄とも父とも思って頼っているのである。

 その頭をなでながら、轆轤は目を細めた。

「そうね。源さんに出会わなければ、この哀れな妖怪は、もう死んでいたかもしれない。もちろん、あたしだって、源さんにあわなけりゃ、つまらない一年だったろう」

 轆轤はお袖を哀れという。しかしそれは物の哀れといだけの哀れみであり、たとえば夏の虫が死にかけている様を眺めて哀れと思うに似ている。

 一刻もすれば忘れてしまう。そんな一過性の哀れみである。長く生き続ける轆轤の気持ちを源五郎は理解できない。また轆轤も、短く生きる源五郎のことを理解できないだろう。

「でも、哀れといえばあまりにも、源さんのほうが、ずっと哀れだ」

 轆轤の声が、不意にとがった。

「……源さん。今日、死ぬ気だろう」

「分かるのか」

「分かるわよ」

 轆轤が袖で源五郎を打った。二度、三度。彼女の袖は幾度でも源五郎を打つ。

 ただの布だ。無論、痛みなどない。ただ、打たれている源五郎より打つ彼女の方が辛い顔をしている。

「馬鹿な人」

「ああ、馬鹿だ」 

「格好付けの死にたがり。馬鹿な男」

「……ああ、そうだ」

「馬鹿」

「なんとでも」

「ほんとうに、馬鹿な人」

 轆轤がまるで倒れるように、源五郎の肩に顔を埋める。じわりと、肩口が濡れた。轆轤の涙が、源五郎の肩を濡らす。

「……生きて」

 最後はまるで囁くように、言った。

「まだ、あたしの手も握ってないうちに、死ぬなんて」

「また……」

「また今度はもうないって、分かってる癖に」

 轆轤はわざとらしいほど明るい声をあげて、源五郎から離れる。

「嗚呼、厭だ。あたしほどの妖怪が、なんだってこんな男に惚れちまったんだろう」

 細い指で目元を拭って、彼女は何事も無かったかのように煙草を吸う。化け猫が轆轤を哀れむように、その小さな額で彼女の腰を撫でた。

「暮れってのは毎年くるけど、今年の暮れは、特に厭な暮れ」

 轆轤が寒そうに呟いて息を吐く。寒がっていても彼女が白い息を吐くことはない。

 しかし長い首を通って吐き出されたその息は、人間よりも深いものであるのだろうか、と源五郎はふと思った





 夜を告げる鐘が、一度鳴った。

 晦日の鐘はいつもより長く響く。外は雪が降り積もり、雪が鐘の音を吸い込んでいるのである。

 源五郎は長屋に戻り、その部屋の真ん中に座り込んでいた。

 部屋は薄暗い。光は全て落としてあった。机の上には短い書き置きを一枚。その上には、今あるだけの金を置いてある。筆も墨も片付け、部屋は隅々まで綺麗に磨き上げた。

 ただ、残されるのは静かに眠るお袖だけである。薬が効いているのか、一度は目覚めたが花街から家に戻るとまたこんこんと眠りはじめた。

 ただ顔色はいい。熱は薬のおかげでずいぶん落ち着いてきているらしい。

 源五郎は静かに顔を上げた。目の前には、一年間、壁に下げたままの羽織がある。ぴん、と布が張ったままの羽織である。

 それを静かに下ろし、今まとっている羽織の代わりに着込む。この美しい羽織は、主が源五郎のためにしつらえたものである。

 一年、ここにあった。ここにあり、源五郎を見つめていた。

 小さな鏡を覗き込めば、一年振りに髪を結った自分の姿が見える。長らく髪に刃など当てていなかった。風呂に入り、髪をしっかりと結った。髭も剃り落としてある。

 一年振りに見た若武者らしい自分の顔である。ただ、片目だけがない。

 腰に刀を差し込み、源五郎はお袖の側に座る。頬に触れると、ほどよく暖かい。彼女は小さな寝息を立てている。ふっくらとした頬は、安らかに上下している。

 その頬を撫で、源五郎は宙に向かって囁いた。

「そこにいるか。いるだろう。朝から、ずっとそこにいた」

 源五郎が声をかけたのは、宙にまとわりつく気配にである。

「俺の話を聞いて欲しい。ただ、一言でいい」

 天井から、壁からなにがしかの気配がする。それは瓢箪のような化けものであったり、舌の長い猫であったりした。

 呼びかけると少しの間が開いたが、数匹のあやかしが顔を出す。それは、にやにやと源五郎を見つめているのである。

 百鬼夜行に参加する妖怪だろうか。今朝は江戸のあちこちにそんな妖怪が集い、晦日で急ぐ人を小馬鹿にするように見つめているのである。

 源五郎の家にも、朝から数匹の妖怪が張り付いていた。妖怪は死に向かう人間が分かるのだという。ならば、彼らは源五郎の様子を見に来たのだろう。

 しかし、その中の一匹は、どこか他の妖怪とは様子が異なる。話が分かる、話ができる、そんな気がする。

「妖怪に、願い事はできるだろうか」

「……驚いたな。声をかけてくるなど」

 源五郎の声に驚いたのか、しばらくの無言の後、天井から声が湧いた。

「妖怪に願うといえば、代償があることをしっているか」

「知っている。これまで、幾度も誘いかけられてきた」

 源五郎は天井に向かってはっきりと、いった。

 幼い頃、何度も妖怪に声をかけられた。願いを叶えてやろうとささやかれた。若い衆にいじめられたとき、飯も食えず飢えていたとき。

 ……憎いか、その恨みを晴らしてやろうか、願いを叶えてやろうか小僧。

 そういって、妖怪は何度も源五郎を誘った。

 しかし彼は知っている、妖怪に願いを叶えて貰うには代償が必要なのだ。

 それは己が命である。

「命を喰うぞ」

「分かっている。それでもいい。ひとつ、叶えて欲しい願いがある」

「仇を討てと、そういうか。それとも金か、いや、女か」

 狂ったように妖怪が笑う。命を食えるのが嬉しいのか、それとも人が引っかかった事が嬉しいのか。

 かまわず源五郎は続けた。

「……お袖を」

 名を呼ぶと、隣に眠るお袖が無意識に口を動かす。その小さな唇は、源五郎の名をつぶやいたようだ。

 源五郎はその顔をそっとなでる。

「不幸な目には遭わせたくない。無事に行列に戻れるとは聞いたが、後が不安だ。妖怪の世界に、無事戻してやってくれ」

 妖怪が、しん。と言葉を失った。狂ったような笑いを納め、ひそひそと宙でささやく声がする。

「……人間の癖に、おかしいな男」

 低い声が源五郎の上に降り落ちる。顔を上げれば、一つ目の巨大な顔が、天井いっぱいに張り付いていた。

 そ容貌は恐ろしいが、性根まで化け物ではない。年経た妖怪は眠るお袖をじっと見つめているのである。

「その妖怪を、そのあやかしを、お前は一年、守ってきたな」

「守ってきた。いや、俺が守られていたのか」

「俺は、その小さなあやかしを知っているぞ」

 一つ目はぐいと近づき、源五郎の顔を覗き込む。血と肉の香りがした。

「数年前の行列にはぐれて転び惑い、俺のちょうど目の前で」

 闇に飲まれ、人の世においていかれた。と、一つ目は呟いた。

 お袖はまだ眠る。妖怪の気に当てられたせいだろうか。先ほどよりも、幸福そうに眠るのである。

 その幼い顔を覗き込み一つ目はほうっと小さな息を吐いた。

「いずれ死んだと思ったが、元気でここにあるとはな」

「お前もまた、気にかけていてくれたか」

 その言葉に源五郎は救われた心地となる。お袖は、一人きりではなかったのである。

「……分かった。お前がそう願うのならば、我らはそれを拒めない」

 一つ目は、お袖と源五郎を交互に眺めると、やがて天井に吸い込まれていく。

「叶えよう、お前の願いを」

「有り難い」

 源五郎は安堵するように息を吐き、ようやく笑みを浮かべた。

 そして腰に差した刀を軽くたたいてみせる。

「ただ命を喰うのは、しばし、まってほしい。命を惜しむわけではない。俺はいまから、斬り殺されにいく。ただし肉体は残るだろう。それを喰うがいい」

「算段までするとは、愚かな人間」

「お袖を頼む」

 夜を告げる鐘が再び鳴る。外の雪はいよいよ強いのか、音がゆがんで聞こえるほどだ。

 その音を聞いて、源五郎は立ち上がる。……と、袖を引かれて身が揺らめく。

「お袖……」

 お袖が眠ったまま、源五郎の袖を掴んでいるのである。小さな手で、新しい羽織の袖を必死に掴んだまま離さない。

 源五郎は小刀で、右の袖を切り落とす。袖は、彼女の小さな手に捕まれたまま床に静かに落ちた。

「……幸せに」

 その顔を見ないように顔をそらし、源五郎は立ち上がる。

「幸せになれ、お袖」 

 外は風雪。痛いほどに冷える右腕を振るって、源五郎は音もなく雪の中に駆けだしていく。





 約束の地は武家屋敷の一角。気配を消すように駆けていくと、すでにそこに先客があった。

 ……銀次である。彼もまた、髪を結い上げ羽織を着込んでいる。ただ、片袖だけむなしく風に吹かれてはいるが。

 並べば、まるで若武者二人である。

 二人は顔を見合わせ、苦笑した。

「おい源五郎、右袖をどうした」

「形見分けだ」

 むき出しになった腕を銀次がおかしそうにたたく。が、その顔が真剣なものに染まった。

「そんなことよりも、敵に見つかった」

「もとより、覚悟の上」

 場所は武家屋敷の隅である。年の暮れは皆、静まりかえっている。ただ雪の降る音だけがうるさいほどだ。

 その奥に、旧主の屋敷がある。今日、決着をつけねばならない。今日、決着をつけねば、旧主の血筋は途絶えてしまう。悪が大手をふって歩くことになる。

 いや、悪だろうと善だろうと源五郎たちには何ら関係ないのである。

 ただ、旧主の仇を討てるのはただこの日のみなのである。

 一年前の旧主の死。切られた目の痛み。苦しいほどに仇を討ちたいと願った苦しみ。今は不思議と、なんの感情もわき上がらない。

 ただ刀を持つ手の感覚だけが鋭い。

「誰が来るかと思いきや、一人は目なし袖なし、一人は腕なし」

 銀次とふたり、雪道を歩いてただ数歩で声がかかった。

 見上げれば、道をそれた場所にある橋の上に一人の男の影がある。それは、顔にふくふくしい笑みを浮かべた男である。暖かそうな羽織をまとい、雪の上に堂々と立っている。

「知らせを受けてきてみました。やはりあなたたちでしたか。これまでは命まで取るのは哀れかと見逃しておりましたが、明日の正月は、我が家にとって大事な日」

 それは、商人の伊勢屋である。いや、いまや源五郎と銀次の敵となった男である。

 ぬけぬけと、我が家と言い放つその言葉に銀次が舌打ちをした。

「たかが商人崩れが」

「とはいえ、遅すぎましたね、お二人とも。あなたたちが阻止しようとしている新しい主の届け願いはもうすでに出されています。明け方になれば、願いは届けられ、新しい主が立つこととなりましょう」

 彼の背後には、刀を持った男達の気配がする。刀は気配を隠しきれないのだ。冷たい気配があちこちから漂う。

 中には、かつては共に暮らした中間の男達も見える。

「恥を知れ」

 銀次が吐き捨てるも、男達はせせら笑うのみである。彼らからすれば、命を賭して忠義を尽くす方が馬鹿に映るのだろう。

 源五郎、銀次の手にも抜き身の刀だ。お互い様だ、と二人はゆっくり刀を構えた。

 伊勢屋はもう笑みを浮かべていない。血走った目を見開き、壮絶な顔で二人を睨む。

「ですから、ここでおとなしく帰るのであれば命だけは助けてあげましょう。そこまで、私も非情ではない」

「どの口がいう。蛇のように暗躍をしていたくせに。俺たちはもう、お前等の願いがかなおうがかなうまいが、どうでもいいのだ。主のために、一矢報いることができればそれでいいのだ」

 銀次の叫んだ言葉に伊勢屋の笑みが消えた。

 あれほど、優しげに見えた男の顔はいまや醜悪である。いや、これが本性なのか。源五郎は見抜けずにいた。

「邪魔立てするなら、その身体刻んで食べてしまいましょう。私もずいぶん美食家ですが、人の身体だけはとんと食ったことがない」

「いや、残念だがそれには先約がある」

「なに」

 源五郎の言葉に、伊勢屋が戸惑いを見せたが、かまわず数歩踏み込んだ。

「覚悟を決めた男は強いぞ」

 きん。と空気が鳴き声を挙げた。

 銀次の刀が、白刃を受けたのである。気が付けば周囲を包まれている。

 銀次と二人、背を合わせる。背の温もりは一瞬だ。同時に飛び離れ、刀を振るう。雪を切り宙を裂く刀の音は鋭い。身を転がして白刃を避ける。同時にこちらの刀も避けられる。 

 敵の返す刀で、頬が裂けた。痛みよりも熱さに驚いて一歩、下がる。足が雪に取られてたたらを踏んだ。片手で刀を振るう銀次が源五郎の名を叫ぶが、彼もまた白刃に襲われている。

「銀次!」

 駆けて刀を振り下ろす。源五郎の刀は若い中間の腹から肩を切り上げて、悲鳴が雪路に溶けた。

 足で男の身体を蹴り上げ、刀を抜けば血がさっと雨のように降る。白い大地に、源五郎の腕に、顔に、身体に、血がかかった。それは、驚くほどに熱い。

「……っ」

 一息付くまもなく足下をねらわれ、跳びずさる。足が雪に絡んで、情けなく大地に転がった。

 振り下ろされた刀を刃で受ける、流す、蹴り上げる。切りつける。雪が散る。しかし、伊勢屋には一歩も近づけない。

 伊勢屋はせせら笑うように二人を見下げている。

「一人二人切ったところで、どうします。全然減っていませんよ。ほら、明け方を告げる鐘もまもなくです」

 源五郎は大地を転がりながら、橋の上の伊勢屋を睨む。そして、叫んでいた。

「俺たちはもう、死ぬ覚悟はできている。ゆめゆめ、油断などしないことだ」

「そうだな。油断は大敵だ……ほうら」

 雪が、止んだ。

「ほうら、ほうら」

 音が、止んだ。

「……油断大敵、大敵大敵。おそろし、おそろし」

 あれほどまでに白かった世界が、黒一色となる。雪も敵も味方も、自分の手の先も、何も見えなくなる。闇の隙間から、聞いたこともない声が滲み出る。

 まるで目眩のように地が揺れて、源五郎は思わず腰を落とす。刀を大地にさして支えとするも、敢えなく転がった。

「人の子の首など、こんなにも柔らかい」

 その声は大地から響いているようであり、空から降り落ちてくるようでもある。

 転がりながら、何とか顔を上げた。その目に映ったのは、伊勢屋の背後に立つ巨大な黒い影。

 影から伸びた鬼の手が、伊勢屋の首をもぎ取った瞬間である。





 そこからのことは、全てが一瞬であった。

 目に見えない風が源五郎を地面にたたきつけ、転がした。

 あたりは一面、獣のうなり声である。どこかから、調子外れの三味線のうなり声、叩きつけるような太鼓の音。

 そして生臭い、血の香り。

「百鬼夜行か!」

 強い風に吹き付けられ、源五郎は叫んだ。闇の隙間に様々な妖怪が見える。まさに今、ここは百鬼夜行の通り道。 

 源五郎は百鬼夜行のただなかで翻弄されているのである。

 振り返れば、道のそこそこに血が飛び散っている。それは伊勢屋をはじめとした、屋敷の男達である。

 真後ろから襲われ、なすすべもなく爪に牙に食い破られた。散らかった死骸に群がるあやかしが、一瞬でその血ごとすすり上げていく。

 恐らく、彼らは自分が死んだ事にさえ気付いていないだろう。

「銀次!」

 その真ん中に、友人の姿をみとめて源五郎は叫んだ。

 あわてて身を支えるが、彼はまだ生きている。傷はない。当て身に気を失っただけだろう。

 源五郎は吹き付ける風から彼をかばうように立つ。

「仇を討ってくれとはたのんでいない!」

 闇に向かって叫ぶと、狂ったような笑い声がそれに応えた。

 ぼう、と浮かんで見えたのは一つ目の姿である。彼は血走った目を見開いて、狂ったように笑った。

 その口元には、どこで食いちぎったものか、長い髪をくわえている。髪は風に揺れ、一つ目の身体を包み込むようだ。

「お前の命をもらい受けると決まったときから、我らは一心同体。我らが敵を喰らった。それはお前が食ったも同じこと」

「ならば命を」

 くれてやると、叫んだその喉を見えない手が掴む。痛みにもがくと、それは戯れのように源五郎の身体を突き飛ばす。

「それは先の話だ。お前が死んだ日にもらいにこよう」

「なぜ」

「そういう、約束だ。約束は違えられない。それに今日は、もう腹もいっぱいだ」

「何の約束だと……」

「馬鹿なやつとの約束よ」

 血なまぐさい息を吐き出す闇を凝視すれば、それは一匹の影ではない。二匹、三匹、いや、もっとだ。百を数える異形のものが、闇の中をうごめいている。

 もう雪の姿も屋敷の並ぶ風景も、そこらに転がる侍の肉体も、そこから流れる血もなにも見えない。ただ、大地を踏みしめ死骸を踏みしめ百鬼夜行が踊るのだ。楽しげに狂ったように笑い声をあげながら、草履の神に茶壺の神、鬼に一つ目、河童に姑獲鳥。さまざまな妖怪たちが、かくも楽しい祭りのごとく踊りながら進むのだ。

 源五郎は気を失った銀次の身体を支えたまま、呆然とその風景を見つめていた。

「……げんご!」

 らんちき騒ぎの中、その声が聞こえたのは、奇跡だろう。

「げんご!」

 声の場所を必死に見つめると、闇の中に小さな少女の姿が見える。

 彼女は、切り捨ててきた源五郎の袖を抱きしめたまま、名を叫んでいる。その顔は泣き濡れているが、もう熱の色は見えない。他の妖怪に混じり、行列の中を駆けている。

「げんご……いや、いや…!」

 小さな身体で、彼女は源五郎に手を伸ばす。源五郎も手を伸ばすが、それはあえなくすれ違う。

「げんごと、離れるの、いや!」

 彼女の身体は百鬼夜行に巻き込まれるように、闇の中に吸い込まれていった。

 源五郎はそれを見て、安堵の息をはいた。

「お袖、無事に……仲間の元へ」

 帰れたのだ。一年前、必ず行列に返そうと、そう交わした約束を違えることなく守れたのだ。

 それが安堵となったか、ふらついたところを闇が包み込む。百鬼夜行のらんちき騒ぎに踏み込まれ、源五郎は不意に意識を失った。 





 どこか遠いところで、名を呼ばれている。

 自分の名を、幼い声が呼んでいる。

 それは優しい声であり、泣いている声でもあった。

 源五郎は闇の中にいた。誰が名を呼んでいるのか周囲を見渡しても、分からない。

 闇雲に歩けば、何者かの気配に辿りついた。手を伸ばしてみれば、そこにあたたかいものがある。

(お袖か)

 口を動かしたが、声にはならなかった。

(お袖、泣いているのか)

 目の前の影が、ゆっくりと振り返る。

 その顔を見て、源五郎は息を飲み込む。

(……一之介……様)

 それは、かつて源五郎の仕えた主である。幼き主である。

 彼は一年前と変わらぬ優しい顔で、源五郎を見つめている。ようやく成人を迎えた、立派な若武者の顔、その腰には源五郎が守り抜いたお召しこじり。

(源。これは返して貰う。よく守ってくれた)

 懐かしい声が、源五郎に降り注ぐ。体の自由が利かない中、源五郎は必死に腰を落とした。まるで水の中にでもいるように、身体がうまく動かない。

(一之介様)

 源五郎は恥いるように、頭を大地に押しつける。一年前であれば、主の気配を見過ごすことなどなかったはずだ。

 幼い気配があれば、彼の名を呼んだはずだ。しかしなぜか、今はお袖の名を呼んだ。

 しかし主は、優しく微笑んだまま。かつてのように源五郎の頬を小さな手で撫でるのである。

(源はもう、大丈夫だね)

 声が遠ざかる。一目、もう一度だけでもその姿を見ようともがいた源五郎の前で、彼の姿はゆっくりと消えていく。

(源。生きなさい)

 その声だけが、闇の中に残された。



「……ご」

 どこかから、また声が聞こえる。

「げん……」

 それは必死に紡がれる、幼い声である。

「げんご!」

 ……そうだ。これは、今度こそお袖の声である。その声に引きずられるように源五郎は飛び起きる。

「……っ」

 飛び起きると同時に、身体のあちこちが悲鳴をあげた。百鬼夜行に踏みつけられたせいか、それとも白刃を受けた傷か。

 痛みに息を飲む源五郎に、小さな身体が飛びついてくる。

「げんご! 痛くない!? 怪我はもう、痛くない!?」

「お袖!」

 源五郎の身体にしっかと抱きついてきたのは、お袖である。彼女は先ほど見たときと変わらぬ姿でそこにある。手にはまだ、源五郎の袖を持ったままだった。

「ここは……いや、あれからどれだけたった」

 源五郎は痛む身体をひねってあたりをみる……そこは、武家屋敷の片隅。橋の側。伊勢屋と立ち会った場所のまま。

 ただ、違いがあるとすれば、そこにはもう誰もいない。白刃の気配も、伊勢屋の嫌らしい笑い声も、百鬼夜行の行列も、なにもない。ただ、雪だけが全てを隠して積もっている。

 そして、その雪を輝かせるのは、眩しいほどの朝日である。朝がきたのだ。

 源五郎はお袖の身体を無理矢理剥がし厳しい口調で言った。

「お袖、なぜ、行かなかった。この行列を逃せば次はいつになるか」

 百鬼夜行が同じ場所を走るのは、数年に一度。逃せばまたはぐれる。そういっていたのはお袖自身である。またはぐれたのでは、元も子もないではないか。

 責める源五郎を別の声が優しくたしなめた。

「もうはぐれた妖怪でもなんでもない。この子はここに残ると決めて、許された。あたしとおなじ、ここで生きられる」

「……轆轤?」

 側に、轆轤の姿があった。正月らしい艶やかな赤の着物を身にまとい、襟を引いて白いうなじを見せている。

 いや、その白いうなじに解けた髪がだらしなく、かかっている。

「轆轤、お前、髪は」

「いや。はずかしいから、あまりみないで」

 轆轤は照れたように、うなじにかかる髪を手で隠した。轆轤の長く美しい黒髪は、彼女の自慢だ。それを高く結って白いうなじを見せつけるように歩く、それが彼女の常であった。

 しかし今、その髪は肩ほどで切られている。無理矢理に引きちぎられたような無惨な残り髪は、冬の空気の中で寒そうに揺れている。

「代償がいると、そういったでしょう、馬鹿な人」

 雪の中にすっと立つ轆轤は、多くは語らない。しかし、その意味を理解した瞬間、源五郎の目に涙が浮かんだ。

 その涙を轆轤の指がぬぐう。

「……こんな良い女に惚れられて、源さんは幸せ者」

「百鬼夜行は……いや、伊勢屋は、それに銀次は」

「源さんのお友達は、花街に送り届けておいたよ。まだ寝てるだろうが、目が覚めたら綺麗どころの女の膝の上でさぞや極楽。それにね、百鬼夜行は暴れに暴れて散っていったよ。あたしたちも、さんざ暴れた。ねぇ源さん。不思議なお話をしてあげるわね」

 轆轤が寒そうに手をすりあわせながら、東の方角をみる。いまや、太陽のまぶしい光が溢れるその方角。

「明け方に、武家屋敷の一つだけが火事で全焼したそうだよ。不思議なことに、煙もでないのに、突然その屋敷だけが真っ黒焦げになって崩れ落ちた。中からは死体の一つもあがらなかったんだって」

「それ……は……」

「原因不明の出火。屋敷には生き残りさえ、いやしない。とはいえ、そのうち詮議も入るだろうし、そうなれば過去の事件も洗い出し。ねぇ源さん。源さんが手を下すまでもなく、全部明るみにでてしまうわねえ」

 口を手で押さえ、彼女は楽しげに笑う。その指の先ににじんだ赤は血の赤だ。今や黒に変わりつつある血の色だ。源五郎の手にもべっとりと張り付いている。それだけが、昨夜に起きた惨劇の証人である。

「げんご、げんご」

 その血にまみれた手を、お袖がそっと握った。

 小さく白い無垢な手で、彼女は源五郎の手を大地に積もった雪に誘う。いつの間にか彼女が雪に穴を掘っていたのである。穴をのぞき込めば、小さな赤い花が見えた。

「げんご、花があるよ」

 これほど寒い中でも、咲く花があるのだ。

「げんごげんご、雪の下に花があるよ」

 お袖は今にも泣きそうな声でいう。そして花を根ごと土ごと、小さな手のひらですくうと、源五郎の手に乗せた。

「……綺麗ね、げんご」

 凍った土に根を張り、雪にまみれながらも花は、生きている。

 冷たく閉ざされた大地の中で生きる命があるのならば、自分もまた生きていていいのではないか。源五郎の耳に、夢うつつでみた主の声がよみがえる。

 生きよと、確かにその声は言った。

「……明日、墓参りへ、いこう」

 主の墓へ。と、花を抱きしめたまま呟く。そしてこの花を墓の前に植えよう。

「明日だけではなく、春に、夏に、秋に冬に」

 そのつどに花を植えよう。主の墓が、いつか花にまみれる日まで。

「……げんご」

 その言葉を聞いて、お袖の顔が華やいだ。大きな目から、大粒の涙が転がり落ちる。

「源さん」

 轆轤が源五郎の後ろから、腕を絡めて背に額を押しつける。暖かい涙が、背に感じられた。

「ねぇ源さん。ここは冷えるわ。早く帰りましょう」

 花をお袖に持たせると、そのまま彼女の身体を抱き上げ、逆の手で轆轤を引き寄せる。

「帰るか」

 歩き始めると、空からは新しい雪が降る。どこかで子供たちのはしゃぐ声が聞こえる。万歳の舞う声が聞こえる。

 それは新春を言祝ぐ、正月の穏やかな風景である。

 美しい春の雪の上、三人がひとつになったような影がまっすぐに伸びた。
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みんなの感想(1件)

堅他不願(かたほかふがん)

 以前にも感想を述べたような気もしますが、どうも五十路が近づくとあやふやで。
 改めまして。
 お家騒動に絡んだ妖怪ハードボイルド時代劇、腹いっぱい味わいました。
 お袖のモデルは袖引き小僧でしょうか。純情可憐な姿に誰もが惹かれます。自分から動き回るタイプではないので演出しにくいと拝察しますが、見事最後まで描かれていました。
 主人公のひたむきなクソ(失礼)真面目さも愛でる一方、轆轤首の妖艶さも物語を引き立て、ミステリーをも含む展開には読む気持ちが途切れませんでした。
 ご作品との出会いを大変嬉しく思います。

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