深川 花街たつみ屋のお料理番

みお

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1巻

1-3

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「……ややができた途端、男に逃げられて」

 相手の男が商家の一人息子であると知ったのは、娘が死んだあとのことだ。

「俺を困らせるとでも思ったか、俺に相談もなく」

 善治郎は白く染まる木を見上げた。春になれば不動参りで賑わうこの道も、冬のさなかは誰もいない。
 遠くに聞こえる読経の音と、雪が降り落ちる音だけがうるさい。
 ……五年前のあの日も、そうだったのだろう。

「ここで首をくくった。遺書だけ残して」

 こんな静かな場所で、娘は腹の子と二人で逝った。
 どれだけ苦しんだ結果だったのだろう。母が生きていれば母に相談をしただろう。しかし哀れなことに、生きていたのは甲斐性のない父だけだ。
 誰にも相談せず、捨てた男に泣き言も言わず、残された遺書には娘の字で父への謝罪だけが並べられていた。
 どれだけ娘が悩み抜いたのか、善治郎は何も気づかなかった。

「武家の作法だといって文字を教えたのが間違いだ。そのせいで、娘の遺書なんてもんを拝む羽目になっちまった」

 善治郎は懐をきつく握りしめる。そこにあるのは、幾度も捨てようと思った手紙だ。
 ちょうど五年前、ここで遺書を破り捨てようとした時に、羽織姿の玄人女くろうとおんな(水商売の女)に殴って止められた。
 それが、たつみ屋の遣手の婆さんだ。妙な出会いがきっかけで、善治郎はあの店の台所を任されるに至ったのである。

「おい、ぜんじろ。破くんじゃねえぞ」

 気がつくと懐から薄い紙を取り出して、善治郎はそれを破り捨てようとしていた。その手を猿が殴りつける。懐かしい痛みに思わず、善治郎は緩く微笑む。

「……もう何年も前の話だ。とっくの昔の話さ。ただ……慣らいだ。なに、同情はいらねえよ」
「爺、掴まんな」

 座り込んだ善治郎の肩を猿が掴み上げる。男衆かと思うほどに強い腕である。
 猿は善治郎を軽々と抱え、まるで引きずるように歩き始めた。

「お前、女にしとくにゃもったいねえくらいの腕っぷしだな」
「口を閉じてろ。雪ん中に放り出されたくないならな」

 猿が道を進むごとに、光が見えた。不思議なことに、猿が足を進めると、空が晴れていくのである。光が差し込むのである。
 熱に溶かされた枝の雪が、音をたてて地面に落ちる。

「なあ。ぜんじろ。間もなく春だ」

 猿はふと、真剣な顔で善治郎を見つめる。

「春になったら、いくらでもあの木の下で酔い潰れたらいい。でも今はだめだ。今は帰るぞ」

 猿は善治郎の頭に積もった雪を、乱雑に払う。

「てめえの娘が、今の姿見て喜ぶと思うか、くそ爺」


 見世に着いたのは、その後すぐのことである。
 猿は無言で善治郎を玄関先の火鉢の前に座らせると、すぐに台所へと飛んでいった。
 冷えた頬が、体が、一気に心地よく温まっていく。
 温まりすぎて、体中が痛いほどだ。

「ああ、あったけえ。おい猿、なにしてやがる」
「粥だ。里芋を入れた」

 猿が持ってきたのは大きな茶碗である。中を覗けば、とろとろにとろけた白い粥が見えた。粥の中には茶色の里芋の固まりがいくつも沈んでいる。
 味噌を加えて甘辛く炊いた芋を、粥と一緒に煮込んでいるのだ。
 しっとりとしたその湯気を浴びながら、善治郎は目を細める。
 甘い、優しい香りだ。そして鍋から聞こえる音がいい。ことことと、眠たくなるような優しい音だ。

(……生きていてこそ、か)

 生きている、と善治郎は震える指を握りしめた。

「……歌さんには、もう朝餉の支度をしてやったのかい」

 温かいその粥に鼻を近づけると、善治郎は妓楼の珍客を思い出す。彼の名前を口にすれば、猿は太い眉をガリガリとかきむしる。苛立いらだった時の癖のようだった。

「もう食わせたさ。あいつはすっかり、あたしの飯しか食わねえ。困ったもんだ。それにまた猫の子を拾ってやがったから、大事に飼えと説教したら、すっかりふてくされちまって……」

 歌は偏屈へんくつだ。好き嫌いも多い。
 食いたくないものは一口だって食べやしない。そのくせ不思議なことに、なぜかこの身元不詳な娘が作った飯だけは食べるのだ。
 文句を言いながら、それでも猿は毎日毎日飽きもせず、歌に飯を作り続けている。

「あっついから気をつけな」

 茶碗の湯気が鼻をくすぐり、善治郎の腹が小さく鳴った。
 箸を手に取りとり粥を啜れば、熱い液体が喉に流れ込む。せそうになるのを堪えて、一口、二口。合間に芋を噛みしめれば、とろりとした甘みが口の中に広がった。

「ふん、ふん。まあまあだな。煮炊きは父さんからか」
「庖丁のいろはから親父に習ったよ。親父は吉原の料理番だ」
「できた親父さんじゃねえか。俺はどうも無粋でよ、吉原を知らねえんだが……吉原の見世ってのはどこも料理がうまいのかい」
「親父だけさ」

 ひざをむきだしにして胡座あぐらをかいて、猿も粥を啜る。善治郎の言葉に、彼女は鼻先で笑った。

「普通は見世じゃ酒のさかなくらいしか作らねえ。料理は仕出し屋から取り寄せんだ。でも親父の料理は評判がよくってな。だからその見世じゃ、飯から肴まで親父が作ってた」

 猿は自慢げに鼻を鳴らす。口の横に米粒がこびりついていても一向に気にしない。

「外の仕出し屋が商売上がったりだと、親父を引き抜こうとしたが、がんとして見世の台所を動こうとしなかった男さ」
「立派なもんだ」
「……ま、本当の親父じゃねえけどよ。あたしは、ててなし子だ。どこぞの遊女が産んで溝に捨てたがしぶとく生き残ってたのを、親父が米汁とあめで育ててくれたんだとよ」

 猿は芋を一口、豪快ごうかいに噛みしめた。

「顔がまずいんだから、飯くらいうまく作れと、ちいせえ時から仕込まれた。庖丁使いも煮炊きも全部親父譲りだい」

 彼女は粥を啜り上げ、満足そうに帯を叩く。その様は見ていて気持ちがいい。

「親父どのはどうしてる」
「死んだよ、半年も前にな」

 猿はあっさりとそう言った。その声は明るいが、どこか湿っぽい響きがある。
 それは彼女が初めて漏らした、過去話。

流行はやりやまいでぽっくりよ。いきなりすぎて悲しむ間もありゃしねえ」
「できた親父さんだよ」
「どこがだ」
「親が先に死ぬのがこの世のならいよ。順を守って先に死ぬ。しかも悲しませないってのは立派なもんだ」

 善治郎はしみじみとそう言った。

「……おめえの料理の腕は立派だよ」
「ふん。酔っぱらいにめられてもうれしかねえや……でも」

 ふと、思い立ったように猿は善治郎の背後に立つ。

「娘の代わりに肩くらい揉んでやらあな」
「……おい、おい猿よ」

 大きな手のひらが善治郎の肩を掴んだ。いや、猿の手が大きいだけではない。善治郎の肩は昔に比べて随分と細くなったのである。
 思い切り揉まれると痛いほどだ。しかし、寒さに固まった体がほぐれていく。

「うめえもんだ」

 娘の手はもっと小さく細く、か弱かった。しかし時折こうやって、肩を撫でさすってくれた。
 あの時なぜ、もう少し優しい声をかけてやれなかったのか。男のことを、腹の子のことを気づいてやれなかったのか。悔やむたびに、善治郎は懐におさめた紙を握りしめてきた。
 しかし今日は不思議とそのような感情が湧き上がらない。
 ただ、善治郎は猿の顔を横目に見上げる。
 彼女は雪の中を走って善治郎を捜しにきたのだろう。髪はほどけ、情けのない姿だ。

「猿よ。俺が金出してやるからよ。馴染みの髪結いの、ほれ、いるだろ。あの色男。あいつに髪を一つ、結ってもらいな」
「いらねえ世話だ、くそ爺」
「俺はよ、娘に親らしいことなんざ一つもしなかった、だめな親父だよ。せめて、娘の代わりに受けてくれ。もちろん、俺の娘のほうがてめえより別嬪べっぴんだけどよ」

 先ほど飲んだ酒と、猿の作った粥。そして肩を揉む猿の体温のおかげで善治郎のまぶたが重くなる。
 どこかで、時を知らせるかねが鳴った。昼九ツの鐘、正午の鐘だ。
 この雪だ。今日の昼見世に来る客は少ないだろう。なに、もし立て込んでも猿に任せればいいだけのこと……。

「それと」

 善治郎は猿を押しのけ、ぬるい床にごろりと寝転がる。

「……今回の礼じゃねえが、猿が伏見の樽酒をこっそり拝借はいしゃくしてることは黙っておいてやる。ただし今度から、その秘密の晩酌ばんしゃくに俺も混ぜろ」

 横目に見たのは、台所の片隅に置かれている立派な樽だ。上客にしか出さない、とっておきの酒。確かに最近減りが早いとは思っていた。
 その言葉を聞くと猿はふん、と鼻を鳴らして善治郎に半纏を投げつける。

「いい酒は、年寄りにゃ毒にならあ」

 そしてこっそりと、善治郎に耳打ちした。

「……ま、一杯ならわけてやる。ただし今度だ。最近は遣手の目がうるせえからよ」

 猿は気まずそうに顔をそらして、こそこそと台所に戻っていった。
 彼女が水を使う音が聞こえる。なにかを切る音、鍋のたてる湯気の音、湯が沸く音、三味線の音。
 それに混じって雪の溶ける音も耳に届く。
 なるほど、猿が言う通りだ。春は近い。善治郎は天井に浮かんだ茶色い染みを見上げながらそう思う。
 花が咲いて世間が賑やかになる頃、お不動の森へ行ってみよう。そこで酒でも飲んで寝転がろう。
 これまで、雪の日にしか足を運ばなかったあの場所は、春になれば人で賑わい、花が咲く。
 きっと、そのほうが娘も喜ぶはずである。

(……なんで気づかなかったかねえ)

 ことことと煮込まれる温かい音を聞きながら、善治郎は晩冬のまどろみを楽しむことにした。




貝鍋かいなべ白酒しろざけ


 男の手のひらは大きい。指も太く、力強い。しかし、その見た目に反して動きは繊細だ。細いくしを動かし、女の髪を撫で、油を塗ってひもで器用にまとめて縛る。


 男は自分の手をじっと見つめた。
 この手に握るものといえば、櫛と油と紐に赤や金銀細工の繊細な髪飾り。
 そのせいか、同年代の男に比べると、手の色は抜けるように白い。
 男の職業は髪結師である。
 女髪を派手に結うことは最近では奢侈しゃし、といわれて禁じられている。
 ……が、花街では黙認されていた。見世には髪結師が定期的に通っては、娘たちの髪をいて解いて直していく。
 洗い髪の女たちは、信用しきって髪結師の前で白い首を晒す。透けるような首だ。そこに濡れ髪が黒い水面のように広がる。その美しさを髪結師の指がすくい上げ、そうして綺麗に形作るのである。
 男は、この瞬間が一番好きだった。


「ヤスっ! てめえの髪結いの腕は立派だと思うけどよ、自分が……されるのは別だい! いってえ! やめろ!」
「暴れんじゃねえよ、この猿! じぃっとしてろ! ああ、もうやりにくいったら」

 ヤスは、暴れる娘の髪をぐっと掴み上げて怒鳴った。

「……ありゃあしねえ!」

 ヤスは深川の花街を巡る髪結師だ。大黒の花街にある、たつみ屋はお得意の一軒である。もう一年以上、この妓楼で女の髪を結ってきた。
 ここの女は皆心優しく、遣手も正直者だ。金払いが良いこともあって、やりやすい見世の一つだった。
 ただほんの先月あたり、一人の女が住み着くようになってから若干、勝手が変わった。

「てめえの髪はかてえな。まるで女の髪じゃねえみたいだ」

 娘……猿の体を足で押さえながらヤスはため息をつく。
 彼女は遊女ではない。とても遊女にはなれないだろう。彼女の顔はお世辞せじにも美しいとはいえず、性根も優しいとはいえない。口も悪ければ足癖も悪い。
 今もまた、ヤスの足を蹴り上げながら、小猿のようにきいきいと叫び声をあげている。

「このっ! ヤス坊! はなせっ! なら、結わなきゃいいだろ。あたしの髪なんざ」

 大声でわめき散らすものだから、遊女たちが面白がって部屋を覗いていく。
 猿にあてがわれた部屋は、一階の一番奥。昔は行灯あんどんを収納する行灯部屋だったそうである。
 昼なお暗い行灯部屋は、いつ見ても薄気味悪い。
 今の遣手がここを引き取るより前、行灯部屋は悪さをした遊女を折檻せっかんする部屋だった……という噂がある。そのせいか、夜になったら遊女の幽霊が出ると、もっぱらの噂だ。実際に目にしたといって、病んだ娘もいる。
 しかし猿は気にもしない。どうせ夜なぞ寝るだけだ、というのである。
 おかげで、たたみの青さも瑞々みずみずしい。そんな部屋を猿は手に入れた。
 その部屋で今、彼女は暴れちぎっている。

「歌さんから! 言われ……てんだよ! ちったあ猿を身綺麗にしてやんなってな」
「てめえ、この間は厨房のぜんじろが金払ったって言って、結いやがっただろ! あん時は結わしてやったが、ここんとこ毎回じゃねえか! その後は全部、歌の野郎が払ってやがんのか! くっそう、あとで怒鳴りこんでやらあ!」
「歌さんだけじゃねえよ。ここの遣手も、あとほれ、門番の片目と、他にも皆から先に金もらってんだ。あと五度は結えるぞ。諦めておとなしくしてやがれ」

 ヤスは怒鳴って猿を無理矢理、机の前に座らせる。
 机の上に置かれた鏡には、ふてくされたような娘の顔と疲れ果てた自分の顔が映っていた。
 遊女たちには良い男っぷりと褒められる顔も、こうなればかたなしである。

「全く、鏡もねえ女の部屋なんぞ初めて入ったぞ。この鏡、くれてやるから大事に使えよ」
「自分の顔を見て何が楽しいってんだ」

 ヤスの言葉にも、猿は口を尖らせ目尻をつり上げる。
 不思議なことにこの娘、周囲からの評判は高い。鼻っ柱が強くすぐに突っかかってくるというのに、やたらと周囲の人間が彼女を持ち上げる。
 といっても、面と向かって褒めるわけではない。ヤスにこっそりと金を渡して「あの娘の髪を結ってやってくれ」なぞと頼みに来るのである。

「猿、俺の髪結いの腕は花街一だぞ! 俺が来るのを待ち焦がれる娘もいるくらいだってのに」
「あたしは、てめえの腕のことを悪く言ってんじゃねえ、髪を結われんのが嫌いだってんだよ!」
「ああ、もう黙ってろ。仕事になりゃしねえ」

 ヤスはやけになって猿の着物の裾を踏みつけて、髪を高く掴み上げる。
 ここまで自分の仕事を嫌がる女は滅多にいない。こうなれば意地だ。誰より綺麗に結い上げてやる、とそう思った。

「しかしヤス、深川じゃ男の髪結いが女の髪を結うんだな」

 観念したのか、猿がしゅん、とおとなしくなる。

「吉原じゃあ、禿かむろの髪は男が結ったが、遊女の髪は女の髪結いが巡ってきたもんさ。深川と吉原、同じ花街でこんなに違うかねえ……」

 珍しく、猿が静かに語る。しかしこれは罠だ。これまで数回結っているヤスには分かる。気を抜いた瞬間、腹や足のスネを殴って逃げていくのだ。
 ……春の心地よい風が格子窓から吹き込んでくる。
 猿が暖かな風に気を取られた瞬間を狙い、ヤスは彼女の腕をねじり上げて床に叩きつける。罵声が飛んでくる前に彼女の背をまたいで座り、髪をしっかと掴んだ。

「くそっ、てめえ……」
「ふん。もう騙されねえぞ、俺は……そうさ。深川は気っ風のいい姉さんが多いからな。髪結いは男じゃねえと務まらねえのさ」

 猿の髪は女のものとは思えないほどに太く、硬く、量も多い。怒るとますます髪が逆立つ。なるほどこれは確かに猿である。
 しかもこの娘、感謝を知らない。
 こうして結い始めてもう何度目になるだろうか。おとなしかったのはたった一回だけだ。なにか悲しいことでもあったのか、その時は神妙そうに結われていた。
 しかしそれ以外は、毎回このように満身創痍まんしんそういで結う羽目になる。

「それに俺ぁ、髪結いの中じゃ色男だ。そんな俺に結われて喜ぶことはあっても嫌がる女なんざ……」
「ちょいと、そこの色男」

 ふ、とヤスの背に暖かな風が吹く。
 上方のなまりがかすかに混じったその声に、ヤスの背が知らずに伸びた。

「……お。は……はなか」

 顔を上げれば、廊下に一人の女が立っていた。
 男物の羽織をまとい、洗い髪を垂らした女だ。小さな顔に鋭い猫目、唇は薄く肌の色は白い。彼女がそこに立っているだけで空気が引き締まるようだった。
 彼女は煙管を指でもてあそびながら、ヤスを見つめる。

「次、俺ん部屋だ」
「おう」

 ぷらぷらと煙管を揺らし、花は奥の部屋を指し示した。
 まだ見世も茶屋も始まらない朝早く。髪結いが来る日は朝から女たちが騒がしい。
 髪を洗い、首を長くして髪結を待っているのだ。
 実際ヤスは、猿にばかり手間取っている場合ではない。

「俺の次は、隣の部屋の娘だとよ。ヤス、流石の色男は人気者だな……じゃ、あとで」

 花は小首を傾げて薄く笑うと長い裾を引きずって、しかし音もなく去っていく。ただ煙管の煙が紫色の雲になり、朝ぼらけの室内にふわりと浮かんだ。
 最近は春の雨が続く。湿度が高いせいか、煙もなかなか霧散むさんせず、残り香のように余韻よいんを漂わせる。

「……てめえ、あいつに惚れてんのかい」

 ぼうっと花の残り香を見つめていたヤスに気づいたか、猿が思い切り起き上がる。油断をしていたヤスは、そのまま後ろに転がった。
 ヤスは情けない悲鳴を噛み殺し、急いで櫛を握り直す。しかし指先には、かすかな動揺どうようが残っていた。

「……別にそうじゃねえよ」
「花って呼んだな。あの女は玉五郎だぜ」
「見世の名前はな……」

 深川遊女の心意気は、その名前にも表れる。男羽織をまとって三味線を叩く女たちは皆、男の名前で男に抱かれるのである。

「花とは同じ村の出よ。だからついつい幼名おさななを呼んじまう。もう故郷を離れて、訛りもすっかり忘れちまったが」

 先ほどの花の顔を思い出しながら、ヤスは笑う。
 幼い頃から、花とは仲が良かった。同じ村の同い年。男勝りの花とは昔からよく遊んだものである。
 しかし、ある時日照り続きで田畑をやられ、小さな村は貧困にあえぐこととなる。
 食うに困った花の親は、花を江戸に売るのだと、そう言った。
 ヤスが風邪を引いて寝込んでいた間に、花は女衒ぜげん(女を遊郭などに斡旋あっせんする業者)に連れていかれた。それを聞いたヤスは親が止めるのも振り切って、江戸へと飛び出したのである。
 花が売られた先など知らぬ。それにまだ幼いヤスが見世を巡って花を捜し出すなど無謀むぼうな話であった。
 だから髪結い婆さんの弟子となり、腕を磨いたのだ。吉原を巡り、夜鷹を訪ね、他の岡場所をいくつも巡った。
 花を見つけたのは一年前。ここ、深川の地である。

「幼なじみだから、気にかけてるだけだ」

 ヤスの指が震える。
 久々に出会った花は相変わらずだった。花もヤスを見て、すぐに気づいてくれた。しかし、特別な会話はかわしていない。
 結う男。
 結われる女。
 それだけである。ただ、それだけでも幸せだった。髪を通じて、花の心が伝わるのである。
 二人はきっと、好き合っている。

「まあ、てめえも、女を身請けできるほどの金は稼いでねえか……なら、奪えばいいのにさ」

 猿は口を尖らせて、ヤスを見上げた。

「あたしが遣手の婆さんの気を引いてる間に、ぱっと手ぇ取って逃げちまいなよ。てめえの腕なら何も女の髪なんざ結わなくても、八丁はっちょうぼりの兄さん相手でもやっていけるだろ」
「そうは問屋がおろさねえのよ」

 ヤスは思わず苦笑する。
 猿は鈍感なように見えて、存外鋭い。ヤスの気持ちなど、とうに見破っているのだろう。

「……ほら、桃の節句だからって婆が桃の枝をよこしやがった。桃を飾りで頭に挿すぜ」

 盆に積んでおいた桃の枝を一本引き抜いて、猿の硬い髪に添える。
 ぽってりと開いた桃の花は、あとは散るばかりの悲しい定めだ。そんな花を、今宵こよい遊女たちは髪に飾る。

「てめえ、洒落たもん、あたしには」
「身分違いの恋なんざ、とうに諦めきってらあな」

 ヤスは呟いて、猿の髪をぐるっとまとめる。
 その手元で、猿がまた悲鳴のような罵声をあげた。

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