獣の幸福

嘉野六鴉

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3.兄と弟

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 完全な実力主義である、オルデアス家の当主という座。
 代々その大半を担ってきたのが、『ディーク』の名を持つ血族だった。
 彼らは必ず同じ一族オルデアスの中から婚姻相手を選び、その血統と強大な異能の力を保持し続けてきた。

 だというのに、先代当主ですらあったディークのある男が、禁忌を犯した。
 一族ではない女との間に密かに子を作り、あまつさえそれを隠蔽していたのだ。

 オルデアスの中でも殊更価値のある血統を、市井へ流出させた。
 その暴挙が明るみになったことで男は当主の座を追われ、一族からも事実上排斥され、今では辺境の領地の一つへ幽閉処分となっている。

 それがキオの父であり、そして同じく、ジルヴェストの父でもある。


「では、聞こうか。なぜあの場に、お前の異能の気配があった?」


 フレンの住まう小さな離宮、その中で唯一の貴賓室に腰を落ち着けて人払いをし、兄弟だけの二人きりとなった瞬間、ジルヴェストはただ静かにそうキオへ問いかける。

 年代は感じるものの、ベージュの地に色鮮やかな草花の刺繍があしらわれた小綺麗なソファーへ長い足を組み、悠然と座す、飼い主。
 そんな異母兄の姿を、五歩ほど離れた場所で立ったまま見下ろしながらも、キオは僅かに視線を逸らした。

 この一年の間、変わることなく繰り返されてきた月に一、二度ほどの男の来訪。
 今更ながら、それに緊張しているわけではない。
 ただ、今までは一度たりともこんな明るい時間帯に、多忙を極めるジルヴェストが尋ねてくることなどなかった。

 捨て置かれている主従が、楽しく共にする毎日の夕食。
 まるでそれが終わる頃合いを見計らったかのように、姿を現すというのが恒例だったのだ。
 だというのに、なぜ今日――キオが初めてフレンの前で異能を披露した日――に限って、よりにもよって、その場にやって来るのか。

 そんな誤魔化しようのない居心地の悪さを覚えるなかで、窓からの光を背に負った黒衣のジルヴェストが、重々しい気配を携えてじっと見据えてくるのだ。
 その兄の瞳を直視しながら口を開くことは、さすがのキオにも躊躇われた。

「別に、兄上が気にするようなことは何も――」

「キオ」

「っ……」

 声を荒らげることも、不快さを滲ませるわけでもなく、ただただ平淡な低い声音で、自分の名を紡がれただけ。
 たったそれだけで、意味のない弁明を続けることは許されなくなる。
 それは、キオも理解しているからだ。

 この異母兄あにはオルデアスの血族を束ねる当主であり、一族の者へどんな務めを割り振るかは彼の裁量に任されている。
 国防の為の国境守備部隊への従軍、魔獣への備えとして主要都市への赴任、外交カードとしての国外視察、要人警護……。
 王や有力貴族、軍部、行政を司る宰相府など、様々な者たちからの要請を受けて働く一族の仕事は多岐にわたる。

 その務めが滞りなく果たされているかを確認する義務が、当主にはあるのだ。
 たとえそれが、ジルヴェスト自身がわざわざこの離宮へ足を運ぶことの、表向きの理由に過ぎなくとも。

 何にせよ、この場において重要かそうでないかの判断を下すのは、最高責任者たる当主で、そこにキオの心情だけによる主観的意見は必要とされない。

「もう一度、問おう。あの庭園で、フレデリック殿下と何をしていた」

(ほんっとうに、間の悪い!どうして今日だけ、こんな真っ昼間からここに来るんだ……もっとマシな仕事しろよ、くそっ)

 金に紅が溶けこんだ色の瞳は、凪いだ水面のように一見静かなままだ。
 けれど、その奥で微かに灯る剣呑な光の気配を察したキオは、胸の内では悪態をつきながらも事実だけをジルヴェストへ白状した。

 どうせこの後のことは、何を言おうと、どう取り繕おうと、さして変わりはないのだから。

「――……それで、請われるままに異能を見せてやったというわけか」

 キオの予想通り、彼からの聴取を終えたジルヴェストは、その美しい顔の眉間にくっきりと皺を刻んだ後、深いため息を零しながらも指先だけで弟を手招きする。
 目立つ傷もなく、短く切り揃えられた爪の先までもが美しいそれに、反射的に喉が鳴りそうになる。
 そんな自分を抑えるよう平静さを装いながらも、重く感じる足を進め、キオはその足元へ跪いた。

 直後、顎を掴まれ喰らいつくような口づけを与えられるのもまた、いつものことだった。

「……っ、んぅ……ぅ……っく」

 体のバランスが崩れるせいで咄嗟にジルヴェストの足に手をつきながら、途端に膨れ上がる嫌悪感と羞恥に眉根を寄せる。
 だが、目を閉じることは許されていない。
 再び凪いだ冷たい瞳に至近距離から全てを観察されながら、生暖かく、ぬるついた物が好き勝手に口内を荒らし回るのを耐える。

 交じり合う体液を今すぐ吐き出したくとも、更に顎を高く持ち上げられ、自分のではない舌で上顎を内側からぞろりと撫で上げられれば、否応なくそれも嚥下してしまう。
 そこでようやく、強引で深く長いキスは一度終わりを迎えた。

 だというのに、キオが乱れかけた息を整えるよりも先に、今度は低く静かな声で追い打ちをかけられる。

「キオ、お前は私がいなければ生きられない。自分がそんな欠陥品であることを、一瞬たりとも忘れるな」

「――ッだったら……っ!」

 哀れみも侮蔑もなく、ただ諭すように語る美しい異母兄は、何も間違っていない。
 だからこそ顔を歪めて声を荒げかけたキオは、その先の言葉を口にする寸前で飲み込んだ。

『だったらいっそ、殺してくれればいい』

 そうジルヴェストへ口ごたえした日の夜のことは、もう三年近くも前だというのに今でも鮮明に思い出せるほど、辛い時間となったのだから。

「どうした、キオ」

 するりと頬を撫でる、しっかりとした男らしい手から伝わる、低い体温。
 再び名を呼ぶ、誰よりも耳に馴染んだ声。 

 自分の内側に侵食してくるかのような、その感覚に、は、と一つ大きな息を吐く。
 そうすることで、振り子のように揺れ出す感情を抑えたかった。

 何でもない、とかろうじて答えた自分を見下ろす男にとって、この行為もその先も、ただの義務でしかないのだから、と。

「そうか。……では、選べ。ここか、それともベッドか」

 自分はただ心を押し殺して、この美しい異母兄あにに課せられた義務に、おとなしく従うだけ。
 何度もそう頭の中で繰り返しながら、キオは視線だけでジルヴェストへ答えた。
 その後を追うように、橙の瞳がちらりと扉続きの寝室へと逸れる。

 そして、ゆっくりと立ち上がった男に緩く腕を引かれて、キオもまた腰を浮かせた。

 痛みはない、されど決して弱くもない力で捕らわれた腕と、迷いなく歩を進める兄の黒い背を流れる、汚れのない銀雪の髪。
 それを交互に見つめながら、キオは諦めたように口を引き結んだ。

(何も……知らないくせに……)

 そう、この男はきっと知らないし、興味もないだろう。 
 オルデアスの歴史の中でも稀代の当主と評される彼にとって大切なものは、その血統と、一族の未来だけ。

 どれほど自分が支配者飼い主であるこの異母兄を嫌悪し、逃れたがっていようとも意にも留めないはずだ。

 その一方で、誰よりも何よりも、それこそ世界の全てであるかのように恋い慕っていても……。
 きっと、この兄にとっては些末な事に過ぎないのだから。

 だからキオは、寝室へと続く扉が軋む音を立てるのを聞きながら目を伏せた。
 そして、これからの時間が一秒でも早く終わりを迎えることを、いつものように願った。


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