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22.代償
しおりを挟むキオが目覚めてからそう時間を置くこともなく、ジルヴェストの寝室を訪れたのはディークの傍系にあたる医師の女だった。
長袖の黒いワンピースドレスは貴婦人の喪服を思わせるが、抑えられたスカートの広がりやレースの装飾も僅かな袖口など、見た目よりも動きやすさを重視した装いをしている。
品のある柔らかな雰囲気を纏った、そのふくよかな中年女性とキオは初対面ではあったが、人好きのする顔にくっきりと笑い皺を浮かべた女医師は、非常にてきぱきとしていた。
「お目覚めと聞き、一安心いたしましたわ。それではお体を確認させていただきますわね」
おっとりとした口調だというのに、キオが錆びついたような鈍い体を彼女に支えられながら上体を起こした途端、その薄い白の寝間着をさっさと剥ぎ取ると、肌に直接掌を触れさせ始めたのだ。
女性とはいえ、一族の中でこういった役に就いているのだから躊躇いがなくても当然だろう。
キオはそう理解しつつも、思わず腰が引けていた。
素っ裸の体のいたる所を、じっくりと撫でるように少しずつ柔らかな掌が移動するのだ。
侍女に着替えを手伝ってもらうのとは、わけが違う。
その異質な感覚に居心地の悪さを覚えるな、という方が無理である。
「はい大丈夫でございますよ。もっと楽に、らく~になさってくださいね」
だというのに、慣れた手つきで体を弄り回す熟女からは優しく声を掛けられ、にこやかに微笑まれる始末。
キオは小さく頷きながらも、ベッド脇で仁王立ちしながらじっと自分たちを注視しているこの部屋の主へ、つい、助けを求めるように視線を合わせてしまった。
しかし、いつもの冷淡な無表情顔へと戻った美貌の異母兄からも、淡々と言い切られる。
「腕は確かだ。くまなく診てもらえ」
「……はい」
そうしてキオが過ごした落ち着かないしばしの時間は、ジルヴェストと女医師の双方から自分の状態について説明を受ける機会でもあった。
フレンが襲われた日から、今日でもう八日目になること。
一時は生死の境にいたものの、ジルヴェストが率いていた部隊の治療能力に秀でた異能を持つ一族たちの尽力もあり、こうして命を繋ぎとめたこと。
ただし――。
「やはり左足の完治は無理ですわね。初期段階で重点的に異能治療を施せていれば、まだ可能性はあったのですが……」
「あの場では、生命維持に関わる傷の治療を優先させた。いずれは歩けるようになる――はずだ」
肩も、腕も、腹も、見た目だけは足も、体のどこにも傷跡一つ残っていないというのに、キオの左足は使い物にならないのだという。
なぜか歯切れの悪いジルヴェストの言葉を不思議に思いながらも、キオはあまりショックを受けることもなく、わかりましたとただ頷いた。
たかが足一本で主を守りきれた、その幸運を感謝こそすれ嘆くつもりはない。
それよりも今のキオが僅かに気に掛けていたのは、いくら耳元へかき上げてもはらりと落ちてくる自分の髪だった。
戦闘中は気にする余裕はなかったが、項で一つに括っていた長い蒼黒髪は結び目からほとんど切り落とされていたらしく、横髪と後ろ髪の不揃いさがとんでもないことになっている。
再び寝間着を着こむ過程になって、ようやくそのことに気付いた自分の呑気な鈍さにこそ、キオは小さくため息を零した。
(兄上の前で、いつまでもこんな……みっともない……)
そんな患者の仕草を、片足が不自由となったがゆえの動揺と捉えた女医師は、一瞬気遣わしげに眉を下げたものの、すぐにその顔に柔和な笑みを浮かべ直す。
そしてキオへ、というよりはジルヴェストへと進言した。
「御命については、もう問題はありませんわ。ですが、この度の処置の弊害もございましょうから、三日ほどは安静のまま、その後は御静養を続けながら御体の御回復に努められればよろしいかと」
その言葉にオルデアス家当主が軽く頷いた後、一族の女は貴婦人らしく優雅に一礼すると足早に室内から姿を消した。
再び異母兄弟二人きりとなった空間で、キオは乱れた髪を整えるのを諦め、何とはなしにジルヴェストを見上げる。
だが視線が絡むことはなく、
「――髪も整えなければな。それより疲れたか?まだ起きていられるならば、食事をしてみるか?果実水あたりから口にしてみるか……」
異母兄はそう呟きながら、まるでそこが定位置であるかのようにベッド脇に置かれた肘掛椅子へ腰を下ろす。
自分への気遣いに満ちたその言葉が、部屋を満たす兄の気配に包み込まれている感覚が、否応なく失ったはずの愛されていた日々をキオに思い起こさせる。
今ならば、このまま甘えるような言葉を言っても許されるのだろうか。
「……ジル兄様」
この男の下から逃げ出したいと思ったことも、一度や二度ではない。
本気で嫌いになりたかった。
「なんだ?」
その一方で自分の死が迫るなか、あの場へ駆けつけてくる男の姿に気づいた瞬間は、状況も何もかも忘れて歓喜したのだ。
飼い主の下で死ねる、と。
振り子のように揺れる感情が胸に渦巻き続けるなかで、夕焼け色によく似たその瞳と今度こそ視線が絡んだ。
けれど自分がディークの血統、ひいてはジルヴェストにとって恥ずべき欠陥品であるという自覚が、キオの口を塞ぐ。
ただ、キオの飼い主はその沈黙を別の意味で捉えてしまった。
「……気づいたのか。お前が払った代償は、片足だけではないと」
(え……)
動揺を覚えながらも、キオがかろうじてそれを顔に出さずに済んだのは、単に今までの経験が生きただけだ。
「どうせお前のことだ。言って聞かせるだけでは、納得しないのだろう……」
そう頬杖をつきながら足を組むジルヴェストの言葉と共に、ナイトテーブルに用意されていた水差しと空のグラスが一つ、音もなく宙を移動するとキオの目前で静止した。
「今は一度だけ許す。お前の異能で、グラスへ水を移せ。勿論、私が干渉しているのは器だけだ」
淡々としたその低い声音は、普段と大して変わりないようにキオにも思えた。
だからこそ、突然提示された課題に嫌な予感しかしないのだ。
それでもジルヴェストに命じられるまま、キオは間近に浮かぶ器たちに意識を集中した。
表面に幾何学模様が施された繊細なガラス細工、その中に湛えられた水を操ることなど造作もない――幼い頃ならいざ知らず、少なくとも今は。
けれど、ピタリと宙へ留まったままの透明な水差しの中では、その小さな水面に波紋一つ浮かばない。
確かに異能を行使している確かな感覚もキオにはあるのに、最も相性のいい媒体を操るだけだというのに。
(――まさ、か……)
顔から血の気が引いていくような感覚に、思わずキオが重い腕を伸ばして掌を水差しに翳そうとも、何の変化も生まれないまま時だけが刻々と過ぎていく。
やがて、ジルヴェストから「もういい、やめろ」と静かに声を掛けられたが、キオにはそれが宣告のように聞こえていた。
欠陥品の自分は、ついには『オルデアス』というかろうじて保持していた唯一の価値すら、失ったのだと。
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