獣の幸福

嘉野六鴉

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27.「えへっ」

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 キオが第五王子の離宮からオルデアス家本邸に身を置くようになってから、あっという間に半年が過ぎていた。

 その時間は、平穏極まりない日々の積み重ねだった。
 午前中は人目の少ない中庭で歩行訓練、午後はで淡々と作業をこなし、空いた時間は雑多な分野の専門書を読み漁るか、なかなか回復しきらない体力の訴えに負けて短時間の午睡。
 夕刻から侍女の手を借りながら沐浴で身を清めた後、品数も量も希望した通り少なめだがやけに栄養価の高そうな夕食をできる限り腹に収めれば、次にすべきことは早めの就寝か夜更かしの読書くらい。

 朝目覚めてから夜眠るまで、常に二名以上の侍女を始めとする使用人が傍に控えていることもあり、その暮らしには何一つ不自由はない。
 完治することはないと言われた左足も、今では少しの距離ではあるが杖を頼れば自分一人で移動できるようにもなり、任される量は少なくとも、本邸内で発生する事務処理の手伝いも難なくこなせている。

 だが異能だけは、ほんの少しも取り戻せなかった。

 いつまで経ってもオルデアスの証左たる力すら戻らない『弟』のことを、半分だけ血の繋がる兄はどう考えているのか。
 自分で口にするには抵抗のある疑問を抱え続けていたキオだったが、この状況がその答えなのだと察するようになったのは最近のことだ。

 キオが一日の大半を過ごす場所は、半年という時間が流れてさえ異母兄の寝室から変わっていないのだから。

 勿論、キオも一度は遠回しに進言したこともある。
 ジルヴェストが一カ月と少しばかりの謹慎期間を終え、再び王宮へ足を運ぶようになったのを契機に、自分がいつまでも兄上の寝室にいるのは邪魔ではないか、と。

 同じ本邸内、それもジルヴェストが好むこの私室に近い位置に、キオが自室として与えられていた部屋も変わらず存在している。
 とうに体調も安定している以上、誰が考えてもそちらへ移るのが自然であるし、ただでさえ多忙な当主がゆっくりと一人寝する時間を奪うのも気が引けた。

 だがキオの飼い主は、その言葉には頷かなかった。

 代わりに、いつもの平淡な――聞きようによっては冷たい声音で「欠陥品から目を離せと?」と逆に問いかけられ、返答に窮してしまった。
 しかもその翌日には広い寝室の隅に、キオ用にと新しく小型の事務机まで設置される始末。

 この部屋から出るな、という無言の命令に逆らうほど強い意志もなかったキオは、結局大人しく今日までジルヴェストの寝室で寝起きしている。

 ただそれは、異母兄の寝室に囲われるという異常な日々であるというのに、その時間が苦痛ではなかったからでもある。

 毎夜その腕に柔らかく囲われながら朝を迎えれば、時折言い聞かせるように放たれる「欠陥品」と自分を評す言葉にも、大して心は悲鳴を上げない。
 自分が生きるために必要で、相手にとっては義務でしかないはずの行為も同じだ。
 何かの儀式であるかのように必ず何度も動かない足へ口づけされ、過ぎる快楽に啼けば労わられ、優しく抱きしめられる。

 二人きりでいれば、まるで愛されているようで心地良い。
 欠片だけでも昔のように接してくれるならば、こうして飼われていても逃げ出したいとまでは思わない。
 たとえそれが一族オルデアスとしても血統ディークとしても不出来な存在を、やはり二度と表に出したくないだけだとしても――。

(……っといけない。また余計なことを、考えてたな……)

 机上を照らすランプの炎が僅かに揺らめいたことで、手元の書類とは全く関係のない考え事から我に返ったキオは、小さく息を吐きながら柔らかな椅子の背もたれに身を預けた。

 今日も夜にしては多少早い時刻のうちから既に寝る仕度まで終わっていたが、どうにも眼が冴えていて寝付く気にはなれなかった。
 そこで侍女たちにも下がってもらった後、明日の仕事分として渡されていた異国の言葉で綴られた文章に目を通していたのだが、静かすぎる夜のせいかつい物思いに沈んでいたようだ。

 それもこれも、今夜は珍しくジルヴェストが王宮で開催される夜会に出席しているせいだ。
 大貴族の当主ともなれば、そういった社交の場への誘いは膨大であるし、会に参列するのもまた仕事のうちではある。

 それでも付き合い程度に顔を出した後は、早々に席を辞するのがキオの知る普段のオルデアス家当主だった。
 謹慎を終えてからもその行動が特に変わることはなく……いや、参加時間自体は心なし更に短縮されたようにも思えていた。

 ただ、今宵は余程特別な夜会なのだろう。
 昼前に本邸から王宮へと出立する兄の口から直接、戻る予定は明日になると聞かされたくらいなのだから。

(夜に兄上がいない日なんて、初めてだ)

 異母兄の寝室で暮らし始めてから、その主が一夜を不在にしたことはなかった。
 だからうまく寝付けないし、また不毛なことを考え始めてしまうのだ。

 キオはそんな自分にため息をついた後、机上の書類を簡単に整理し、気分転換とばかりに引き出しの奥に仕舞い込んでいる手紙の束を取り出した。

「……ふふ……。最初の頃に比べたら、かなりまとも・・・になりましたね?」

 綺麗にまとめられた手紙の山、その一番上は先週キオへ届いた最新の頼りだ。
 淡い緑の地を深い青で縁取られた上質な封筒の中には、白が美しい紙の隅に金の花が捺された五枚ほどの便箋が納められている。
 もう三度は読み返したそれは勿論、キオのかつての小さな主からのもの。

「たった一度の返書もしない男相手に、本当に律儀な王子様ですねぇ」

 口では揶揄するように呟きながらも、ランプの柔らかな光を映した薄紫の瞳は緩く細められていく。

 今では月に二度ほどの頻度で届けられるフレンからの手紙は、必ず元護衛の体調を気遣う言葉から始まり、当たり障りのない近況報告と、恋情寄りの好意を柔らかに伝える言葉の数々で終わる。
 そのほぼ恒常化した形式の文面にさえ、キオは時折忍び笑いを堪えきれなくなる衝動に駆られてしまうのだが。

 それだけ、フレンからの最初の一通は衝撃が強かったのだ。
 まだ年端もいかない少年から「愛しています」という直接的な言葉はもとより、「同じベッドであなたの温もりを確かめたい」だの「夜明けの空を共に眺められたなら」だの、果ては「僕を褥に眠ってほしい」という閨への誘い言葉を乱発されるなど、誰が想像できるだろうか。

 しかもキオの得ている知識において、その口説き文句は一昔か二昔前に貴族間で流行した古風なもので……はっきり言えば、カビの生えた古臭さだった。

 いったい誰がこんな言葉を、自分の大切な主へ吹き込んだのか。
 将来、本当に意中の存在を口説く時までに是が非でも正されていなければ、貴族子女相手の恋の成就など到底夢物語になってしまう。 

 人知れずそう危ぶんではいたものの、最初の手紙から一か月程でその文面が改善されたことで、キオもほっと胸をなでおろしたのだ。
 とはいえ、心配事は尽きない。

「……毎度毎度、兄上がこれに目を通してさえいなければ、オレももっと笑えるんですけどね……」

 いかに影響力のない第五王子とはいえ、王族は王族だ。
 単なる一時的な護衛として仕えていただけの貴族位もない一族の人間へ、王族から名指しで書簡が届くとなれば、当主として内容を検めるくらいは当然のこと。

 それがジルヴェストにとって、果てしなくどうでもいい内容がつらつらと綴られた手紙であろうとも。

 あの聡い王子なら、自分と肉体関係がある男の目に触れるだろうことは簡単に予測もできるだろうに。
 あるはずがないが仮にもし、それでオルデアス家当主の不興を買うことにでもなれば、困るのはフレン自身だ。
 一族の名に懸けて第五王子を守ると誓ってくれた異母兄だが、それは身体しんたいへの危害からはという意味で、決して政治的にもというわけではない。

 ジルヴェストがフレンのことを不快に思うようなら、もう手紙を受け取ることすら拒否した方がいいかもしれない。

 キオはそう悩みながらも、毎回自分へ直接手紙を渡してくれる異母兄の様子を緊張しながら窺っているのだが……。

(兄上が何を考えているかなんて、オレにわかるはずもないし。子供相手にいったい何をやっていた、と蔑まれてはいそうだが……)

 軽く首を振ることで、脳裏にちらつく飼い主の姿を今は意図的に思考から追い出したキオは、広げていた便箋を元通り丁寧に折り畳んで封筒に戻す。
 そうして今度は束となった書簡の中から適当な一通を選び取ると、その中からまた便箋を広げた。

 精一杯の背伸びで綴られた甘美な言葉も、大まかにしか語られずとも時を追うごとに知識と体力をつけているのがよくわかる主の日々も、必ず添えられる「愛しています」の文字も――。
 キオはその全てを、微笑ましく思う。
 だから、決して返事はしないと決めている。

 あの離宮にいたフレンの傍には、自分しか寄り添う者がいなかった。
 それがあんな別れ方になったせいで、心を開いていた身近な男に対する思慕が、今は異様に大きくなっているだけ。
 このまま刺激することなく時間が経てば、きっと熱が冷めるように想いも元の形に落ち着くだろう。

 誰よりも慕っていた年上の男と強制的に体を繋がれるようになってから、純粋な親愛だったはずの想いが、その愛を請うまでに歪んだ自分のようにはならない。なっては、いけない。
 大切な主がその将来に必要とする存在は、決して欠陥品のオルデアスなどではないのだから。

 そこまで考えていながらも、こうして一方的に送られる手紙は確かに、キオを支えてくれてもいるのだ。

 昔夢見ていたような、異母兄の役に立てる――誇りに思ってもらえる自分で在ることは、きっともうこの先も叶わない。
 けれど、こんな自分へ一時とはいえ惜しげもなく好意を寄せてくれた小さな主がいる。
 もしもいつかどこかで、一目だけでもまみえることがあるとしたならば、その時にはせいぜい綺麗な思い出を汚さない程度の自分でいたい。

 その想いこそが今のキオが足を動かす原動力であり、絶えず知識を求める理由になっている。

(……殿下がこんな手紙を寄こしてこなければ、簡単に全部諦められたのに……)

 そう自嘲気味に口元を吊り上げた後、元の引き出しに大切そうに手紙の束を仕舞い込んだキオは、今夜はここまでと机上のランプの灯を落とした。

 いくら飼い主の珍しい不在とはいえ、夜更かしが過ぎればあっさり勘づかれるだろうし、その結果なけなしの仕事まで取り上げられ、強制的な休養を取らされるだろうことが目に見えているのだから。

 キオは事務机の脇に固定されている黒い杖を慣れた手つきで取り外すと、数歩の距離をゆっくりと移動し、一人で寝るには広すぎるベッドの端へ上がり込む。
 そうしてどうにか一人で体勢を整え、幾つもある枕を背もたれに上半身を預けた状態でほっと息をついた時だった。

 部屋の外から扉を控えめにノックする音が、小さく室内に響いた。

「――どうぞ?」

(兄上ではない。侍女は呼ばない限り来ないし、用があるならまず声を掛けてくれる。何か緊急事態か?…………誰だ?)

 ノックに答えながらもキオの手は無意識に枕の下をまさぐるが、いくら護身用とはいえ刃物を忍ばせる許可など当然ジルヴェストに貰っていないのだから、そこには何もない。
 それを急に心許なく感じるのは、この半年の間に周囲への警戒心も鈍化してしまっていたせいだろう。

 そう自覚すると共に、キオは否応なく緊張感を味わいながら夜更けの訪問者が扉から姿を見せるまでを、固唾を呑んで見つめていた。

 その視線の先では、今まさに扉が静かに開き――大人にしては小柄過ぎる体躯を頭からすっぽりと黒の外套で覆った人影が、ひょこりと顔を出すや否や、

「こんばんは、キオ。来ちゃった……えへっ」

 目深に被っていたフードを脱ぎながら、そうはにかむように笑ってみせた顔は、つい先程まで元護衛が脳裏に思い浮かべていた小さな主に他ならなかった。


 零れ落ちんばかりに薄紫の瞳を見開いたキオは、たっぷりと数秒固まってから、やがて右手で自分のこめかみを抑えるように俯きながら唸るように声を絞り出した。


「何が『えへっ』だ、何が…………本当に何やってんですか、この馬鹿殿下」


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