獣の幸福

嘉野六鴉

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30.その意味は

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 懐かしい小さな主との束の間の邂逅を終えた翌日、キオが目を覚ましたのは昼近くになってのことだった。
 それも久しぶりに体を苛める強い疲労感と虚脱感を疑問に思いながら、ぼんやりと目を開けてからやっと寝過ごしたことに気づくというていたらくで。

 窓のカーテンも開け放たれ室内が自然な明るさで満ちているなか、慌てて身を起こしかけたキオのすぐ傍から聞き慣れた低い声音が響いた。

「起きるな。横になっていろ」

「っに、兄上。お戻りで――」

「起きるなと言った」

「……はい」

 横向きになっていた体の背中越しから聞こえた異母兄の声に振り向けば、さすがに上着は脱いでいるものの、黒を基調とした貴族らしい装いをした男がキオの隣にいた。
 起こした上体は背中の枕に預け、長い足は軽く組まれたまま伸ばされているが、汚れ一つないブーツはきっちりと深紅のベッドスロー上に収まっている。

 中途半端に起き上がりかけたものの、結果的にもぞもぞと寝返りを打ちながらジルヴェストの方へと体を向け再びベッドへ身を沈めたキオは、そんな行儀の良い異母兄を物言いたげに見上げていた。

 昨夜の予期せぬ来訪者のことなど、当然既にその耳に入っているはずなのだから。

 しかし、手元の分厚い書類を追っていた夕焼け色の瞳がちらりとキオへと向けられた後、その形のいい唇から出て来た言葉は別の話題だった。

「昨夜、雨が降ったのは知っているか」

「……?ぼんやりとなら、覚えていますけど……兄上は降られ……っ」

 なぜ急に、天候の話を振ってくるのか。
 もっと重要な話題があるだろうが、と内心でつい愚痴を零しながらも会話をしようとしたキオだったが、波のようにぶれのある苦痛に邪魔をされる。

(なんで……急に今日に限って、こんな?……抱いてもらってから、まだ三日も……くそっ)

 呻き声を上げるほどではなかったが、眉根を寄せて耐える程度には辛い痛みを改めて疑問に思うなか、ため息交じりの小さな吐息が頭上から降ってきた。

「だから無理はするなとあれ程……いや、私の落ち度か」

 また自分は何か、この飼い主を呆れさせることをしでかしたのだろうか。
 それは、もしかしなくとも昨夜の主の訪問に関することなのか。

 ジルヴェストの気配一つにそう身を固くしかけたキオだったが、自嘲するような言葉がその口から続けて零れたことに胸の内で小さく首を傾げた。
 だが、すぐにまた手元の書類へと視線を戻した男はそれ以上語らず、

「日中は所用が立て込んでいる。治療は夜まで待てるな?」

 と、キオが生きていく為に必要な行為の時間を、事務的に確認するだけだった。
 その問いに小さく首を縦に振ったところで痛みの波が引いてきたこともあり、キオは自分から主の無事を尋ねようと決めて、小さく息を吸った。

 ただそれよりもほんの一呼吸早く、再びジルヴェストの声が静かに響いたのは、急な体調悪化を起こした弟のことを誰よりも把握しているからか。

「フレデリック殿下ならば、今朝も王宮にて陛下と朝食の席を共にされた。護衛役からは、そう報告を受けている」

「…………ありがとう、ございます……」

 子供とはいえ王族の訪問があった事実には頑なに触れないまま、望む情報だけはそう与えてくれる異母兄の心情など、キオには到底推し量れない。
 けれど、淡々と語る飼い主の様子が酷く不機嫌ではないことくらいなら、充分に感知できる程度には傍に置いてもらっているのだ。

(殿下がオレを訪ねに本邸ここへ忍び込もうが、兄上にとっては取るに足らないことで……。どうでもいい子供の遊びに付き合われたようなもの、か……) 

 あの後フレンがきちんと無事に王宮へ戻れたことにほっとしながらも、自分一人だけが気を回し過ぎていた――いや思い上がっていたのだと羞恥めいた感情を覚えて、キオは横になったままそっと目を伏せた。

 よくよく考えてみれば、かつての主が自分の下を訪ねるくらいで、この異母兄の感情が左右されるはずもない。
 他の一族との兼ね合い上、表立って動かれると面倒なだけで、侵入自体は条件付きで許容できる範囲のことだったに過ぎない。
 やろうと思えば、いくらでも簡単に阻止できたのだから。

(……確かに、殿下がやって来た時点で兄上の黙認状態だとはわかってはいた。それはそう……なんだが……。なんだこの、微妙な気持ちは……)

 別に自分はこの異母兄に愛されているわけではないし、本当の意味で大切にされているわけでもない。
 今もそう正確に自覚できているはずなのに、いったい何をこの飼い主に期待したというのか。

 キオがそんな不毛でしかない思考に陥っていると、おもむろにジルヴェストから名を呼ばれた。

「キオ」

 その声に答えて、キオはベッドの中から視線だけを異母兄へ向ける。
 当の飼い主の目は変わらず紙面の上に落とされたままだったが、すぐに次の言葉は語られた。

「どう思っている」

「……?」

 短すぎる言葉それが問いの形をしていることは理解できても、何に対してなのかを察することは難しい。

 昔はもっと言葉を尽くしてくれたことをキオは覚えているし、それこそ聡明な異母兄は小さな子供でも理解しやすいように話せる人間だと知っているからこそ、こういう時はいつも試されているような気がして落ち着かないのだ。

 そんな緊張を誤魔化すように微かに眉根を寄せて首を傾げてみせるキオに、膨大な報告書から目を逸らすこともなくジルヴェストはまた短く問いかけた。

「お前は、あの王子に恋慕れんぼしているのか」

「は?」

 間髪を入れずキオの口から間の抜けた声が上がったのは、まさかこの異母兄から『恋慕』などという単語を聞かされる羽目になるなど、想像すらしたことがなかったからだ。
 それもよりにもよって、かつての主と自分との関係性についてまつわる話で。

 キオはしばし固まったまま、相も変わらず機械的に書類へ目を通し続けている異母兄の美しい横顔を見上げていたが、やがて深いため息と共に言葉を選びながら口にした。

 まずは昨夜のことといい、毎度検閲されなければならない手紙といい、フレンのことで当主としてのジルヴェストを煩わせている事態を詫び。
 口約束を反故ほごにすることなく、たった一年と少し程度、自分が傍に仕えただけの主を今もオルデアスとして守ってくれていることに礼を言い。
 第五王子からの過ぎたる好意を寄せられている現状は、自分でも理解していることを告げ――。

 そのうえで、キオは言った。

「子供相手に、そんな感情を持つはずがないでしょう。それにオレは――」

 そこで一度言葉を切ったのは、金に赤を一滴溶かした色の瞳が自分へ向けられるのを待つためだ。
 そうして数秒も過ぎることなくキオの願い通り、先を促すように飼い主の流し目が向けられる。

 感情を見せることなく凪いだその目を見つめながら、作り物の笑みを浮かべるでもなく、ただの事実を確認するようにキオは平淡な声音で、残りの言葉を口にした。


「オレは、兄様のものでしょう」


 年下の主から惜しげもなく恋い慕われること自体は、嬉しくないはずがない。
 欠陥品で出来損ないの存在を、それでも必要としてくれるなんて夢のような幸せだろう。

 けれど、キオには絶対の飼い主がいる。

 愛憎も執着も恩讐も、時としてどこへ針が振れるかわからない感情に振り回されながらも、キオにとってジルヴェストは不可欠の存在であることに変わりはない。
 今までも、これから先も。

 それは単に命を繋ぐため、などよりも途方もない大きさと意味を持っている。

 だから、他の誰かを恋い慕うことなど有り得ない。
 そんな資格など、あるはずもない。 

(オレは兄様のものだから、殿下はオレを思い出にして幸せになればいい。ただそれだけのこと、だろう?)

 キオはその思考を肯定してくれる飼い主からの言葉を、待った。

 異母兄弟の視線が絡んだまま部屋を満たす静寂は、やがてジルヴェストが書類の束をシーツの上へと置いた微かな音で打ち切られる。
 そうして伸ばされた腕に軽く肩を押され、仰向けの体勢に変えられたキオは、自分の上へ影を落とす男の顔が近づく前に目を閉じた。

(……何か、一言くらい言えよ。その口はキス専用か……で、結局今からするのか)

 唇を柔らかく塞ぐ熱を享受しながらも、胸の内では本音を呟いたキオだったが、覆い被さっていた男の気配がすぐ離れたことに少し驚きながら、再び目を開けた。

 自分と異母兄の口づけなど、躰を重ねる時でなければ行われない行為だったのだ。
 だが、恒例化していたはずのそれをあっさり変えた男は、書類を掴んでベッドからも下りながら、いつもと変わらぬ声音で決定事項だけをキオへと告げる。

「二週間後に、遠征討伐でガレン領へ向かう。お前も連れて行くが、可能ならば現地で財務監査の手伝いにあたれ」

「…………承知しました、当主」

 フレンに関する話はこれで終わりなのか、自分の答えには満足したのか、何か他に言うことはないのか。
 ジルヴェスト相手に湧き上がる言葉を押し殺すのは慣れ切っているとはいえ、ぶり返し始めた苦痛もあって、キオは小さな嘆息を漏らさずにはいられなかった。

 雪のような長い銀髪が揺れる背を見送り、一人きりとなった飼い主の寝室で仰向けのまま、何とはなく自分の前髪を右手で掻き上げる。
 その後にふと、キオは掌をまじまじと見つめていた。
 こんな自分へ恋心を寄せる主が昨夜そこへ灯した熱、その感覚はもうとうに消え失せているというのに。

 それがなんだか惜しくて、主が触れたのと同じ場所へ自分の唇をそっと押し付けてみたキオだったが、我に返った途端にそんな自分を鼻で嗤ってしまった。

 とにもかくにも、これで自分と小さな主の繋がりは終わった。
 あとはこの欠陥品の体を抱えながら、過度な期待も分不相応な夢を見ることもなく、飼い主の下で与えられた生を独り送るだけ。
 それがこの自分に相応しい、誰の邪魔にもならない生き方だと納得して。


 掌に落とされた口づけも、躰を重ねることなく唇にだけ触れた熱の本当の意味も、キオが知るのはまだ先――七年の歳月が必要になる。


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