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1巻
1-3
父親のスティングレー伯爵は眉をひそめながら、思案するクリフォードを見た。
「クリフォード、お前はどう思う?」
「そうですね、殿下の恋人という噂は何か事情があると思います。この六年間、ジャスティンは父上たちから言われたことを忠実すぎるほど守り、アメリアと話をするどころか、視線も合わせないほど徹底して避けていました。それでもアメリアを想い続けています。僕にはうるさいほど、アメリアのことを聞いてきましたから」
「そうか、お前は彼と連絡をとっていたのか」
「父上、ジャスティンは本当によく耐えました。男の獣人が幼少期に番に会うと、女性の身体が成長する前に襲ってしまうことがあると危惧していましたが、ジャスティンはアメリアに指一本触れていませんよ」
「う、うむ」
「僕に言わせると正直すぎるほど、約束をずっと守っています」
「うむ、そのようだな」
「もう、アメリアも成人したのですから、父上。いいかげん、二人を会わせてあげましょう」
「……っ、そうだな」
伯爵は押し黙ったまま、硬い表情を崩さずにソファーに腰かけた。
それを見たクリフォードも、向かい合う席に腰を下ろす。
二人は同時にため息を吐くと、どうすればアメリアが元気になるか、まずはそのことを話し合うことにした。
「クリフォード、確かアメリアは幼い頃、獣化したジャスティンが傍にいると寝つきが良かったな」
「そうでしたね。一緒に昼寝する姿をよく見ましたよ」
「アメリアはもふもふした動物が好きだからな」
「父上、まずは寝かしつけるために、ということでジャスティンを呼ぶのはどうですか?」
「そうか、その手があったか。だが、仮にも未婚の娘の部屋に彼を招くなど……」
「ジャスティンには、獣化したままでいるように伝えますよ。さすがに彼も、狼のままではアメリアに何もしないでしょう」
「それが守れればいいが……」
「父上、もうアメリアも成人しました。何かあったらそれこそ彼に責任を取らせれば済む話です。ジャスティンの両親にも伝えておけば、話は早いでしょう」
「それもそうか。……はぁ、時がたつのは早いものだな」
「えぇ、では僕から連絡するということで、よろしいですか?」
「あぁ、クリフォード、ジャスティンのほうはお前に任せよう。私はルーセル伯爵に連絡をとっておく」
父親の言葉に頷いたクリフォードは幾分か安心して立ち上がると、一刻も早く伝えようと部屋を出ていった。
残された伯爵はソファーに深く座り直すと額に手を当て、「アメリアも成人したからな」と、弱々しい声で呟いた。
「よし、できたわ」
今夜は折しも満月で月の力もたくさんある。アメリアは本の説明の通りに紙へ魔法陣を描くと、バルコニーの月の光を浴びるところに置き、中央にジョイを寝かせた。
「ジョイ、あなたと話せるのが楽しみだわ!」
アメリアは鈍く光る銀色の魔石を持つと呪文を唱え始めた。
ところどころ難しい発音の箇所があり、つっかえながらも最後までできた。
「あれ、魔石が光らない」
魔法を使う時、大抵の場合は魔石が熱を持つか光を放つのだが、今回はどう見ても魔石に変化はなかった。
「失敗しちゃったのかなぁ」
アメリアが夜空を見上げると煌々と月が輝いていた。
溢れるばかりの月の光をぬいぐるみのジョイは受けている。
「もう少し、待ってみようかな」
もしかしたら、月の力が足りないのかもしれない。呪文を唱え間違えた可能性もある。
一晩に一回しか魔法の効果はないと書いてあるから、やり直すこともできない。
冷たい風がサーッと吹いてきて、アメリアは思わず身体をぶるりと震わせた。
肩にかけていたショールをぎゅっと掴む。
「寒くなってきちゃった。部屋に入っておこう」
バルコニーに出るための窓を少し開けておいて、アメリアは身体を縮めながら部屋の中に入った。
屋敷の二階に位置するアメリアの部屋のバルコニーは広い芝生のある庭に面しており、高い木も近くにない。外からバルコニーに到達するのは至難の業だ。
アメリアは窓をそのままにして、寝るための用意を始めた。
豊かな金髪をブラシで梳き終わると、肌に化粧水をつける。
いつもはぬいぐるみのジョイを枕元に置いておしゃべりをするのに、今日はまだバルコニーに置いてある。
取りに行こうか、もう寝てしまおうかと思ったところで、カタン、と窓が開く音が聞こえた。
「風で開いたかな?」
さすがに寝る時間に開けたままでは不用心だからと振り返ると、そこには月の光を受けて青銀の毛をなびかせる狼がいた。
(狼!)
小さな頃に見た、まだ子どもの狼と違い、身体はアメリアよりも大きい。
鳴くことも、吠えることもなく部屋にそっと忍び込んでくる狼を、アメリアは息を止めて凝視した。
「ジョイ!」
「ワフォ?」
アメリアは名前を叫ぶと嬉しそうに顔をほころばせ、手を広げて近寄っていく。
「ジョイ! ジョイ! あぁ、嬉しい、ジョイが生きている!」
膝を屈めてアメリアは狼の首をしっかりと抱きしめた。
そして毛の中に顔を埋めると、そのもふもふとした毛ざわりを確かめる。
「ジョイ……、お日様の匂いがする」
「ワォン」
「ふふっ、鳴き声も素敵。私のジョイ、とってもお利口さんみたいね」
突然部屋の中に入ってきた狼を恐れることなく、ジョイと呼んで抱きしめる。
アメリアは嬉しさを抑えきれない様子で屈託のない笑顔を見せた。
「嬉しい、ジョイ。私でも上級魔法が使えたのね」
「ワフォ?」
「私でも頑張れば、できるんだ!」
強く首を抱きしめたまま、アメリアは顔中をくしゃくしゃにして泣き笑いをする。
さっきまで青白い顔をしていたのに、一気に頬を紅潮させて喜んだ。
「ジョイ、私のジョイ!」
「ワォォン」
狼は戸惑いながら何度も目をしばたたいた後で、アメリアを気遣ってか小さく吠えた。
しばらくすると、落ち着いてきたアメリアは鏡台からブラシを持ってきて狼の傍に座った。
「ジョイ、今からブラッシングしてもいい?」
「クゥーン」
狼はまるでアメリアの言葉を理解しているみたいに、足を折って床に寝そべった。
背を撫でてブラシをかけ始めると、気持ちいいのか狼は目を細める。
「ふふっ、夢だったの。こうして狼にブラシをかけるの。ジョイ、気持ちいい?」
「グルルゥゥ」
気持ちいい、と答えるように狼は喉を鳴らした。
目を閉じてじっとしつつも、しっぽをパタパタと振って喜んでいる。
「今度、獣毛ブラシも用意しなくっちゃね。ジョイのために何が必要かなぁ?」
アメリアはブラッシングを終えると、再び狼の毛を手で撫で始めた。
「ねぇ、ジョイ。私、あなたがこうして来てくれてすごく嬉しいの。あなたの温もりがあれば、嫌なことを思い出さないで眠れそうな気がする……」
「ワォン」
「ふふっ、ジョイもそう思ってくれるの? じゃ、ベッドに行こう」
立ち上がったアメリアに従い狼もスッと立ち上がった。
アメリアの後をついて歩いていたが、いざ寝室に入ろうとしたところで狼は立ち止まってしまう。
「ジョイ? どうしたの?」
何か悩んでいるのか、その場でぐるぐると円を描いている。
アメリアが「おいで」と言った途端、ぴたりと動きを止めた狼は迷いを捨てたのか、金色の瞳をキラリと光らせ手を広げて待っているアメリアのほうへ駆け寄った。
「ワォォォン」
「きゃぁっ、ジョイ! もうっ」
勢いをつけて飛びついてきた狼と一緒に、アメリアはベッドに倒れ込んでしまった。
狼は寝ころんだアメリアの上に跨ると、顔を近づけてくんくんと匂いを嗅ぎ始める。
「ジョイ? もう、そんなところの匂いを嗅いじゃダメだよ、くすぐったいよ」
しっとりと濡れた黒い鼻をアメリアの耳もとに近づけて、首筋の匂いを念入りに嗅いでいる。
次第にハァハァと息を乱した狼は長い舌を出して、ぺろりとアメリアのうなじを舐めた。
「きゃっ」
そのぬるりとした感触に、思わず声を上げてしまう。
狼はアメリアが抵抗しないのを見て、再びうなじの匂いを嗅ぎ始めた。
「ジョイ、もう終わりだよ。ほら、一緒に寝よう」
狼を避けながら寝具の中に入ったアメリアは、狼も一緒に入るように促した。
「ワォン」
まるでアメリアの言葉を理解しているかのように返事をする狼が嬉しい。
アメリアは寝具の中に入ってきた狼の胴体をギュッと抱きしめた。
「ジョイ、大好き!」
アメリアが顔を埋めると狼も静かに身体を伏せた。
もふもふとした毛の感触を確かめ何度も手で毛を梳いていたが、その動きがぱたりと止まる。
アメリアはすー、すーっと静かな寝息をたてていた。
◆
昼間、アメリアの兄のクリフォードが突然騎士団の詰所に来たかと思うと、「狼姿でアメリアを寝かしつけてほしい」と言い始めた。
どうやらアメリアは夜に眠ることができず、このままでは倒れてしまうかもしれないという。
「だが、スティングレー伯爵に見つかったら問題になる」
「大丈夫だ、父上も了承済みだ。ジャスティン、良かったな。ようやくアメリアと会うことができるぞ」
「……それは、本当なのか?」
「あぁ、アメリアももう成人したことだし、お前が嫁にもらってくれるなら我が家はいつでも歓迎だ」
「クリフォード!」
ガタン、と音が鳴るほどの勢いで立ち上がり、目を見開いてクリフォードを見る。
すると彼も立ち上がり手を差し出した。
「ジャスティン、長かったな。お前はよく耐えたよ。相手が妹だから複雑な気分だが、とにかく良かった。これで俺はお役ごめんだな」
「あ、あぁ、クリフォード! 世話になった」
両手を添えて握手をすると、長い冬が終わりを告げて春が来たことに嬉しさが込み上げてくる。
これまでクリフォードにはアメリアの様子を逐一報告してもらっていた。
彼女からの手紙が来なくなってからは特に、アメリアがほかの男にこころを寄せていないか気になって仕方がなかった。
その不安を払拭できたのは、クリフォードがくれる情報のおかげだった。
彼にはいくら感謝してもしたりないくらいだ。
喜びにこころが震えるが、これで問題が全て解決した訳ではない。
「ジャスティン、ところでナサナエル殿下のことだが」
「クリフォード、言うな。少し時間はかかるが、大丈夫だ」
「そうか、やはり何か事情があるんだな。いや、これ以上は聞かないでおくよ」
「すまない、そうしてくれると助かる」
マクゲラン一味の手がかりは少ないが、必ず確保してみせる。
この事件が解決すれば、殿下の恋人役という茶番もすぐに終わる。
クリフォードはアメリアが自分の番であることを知り、長年協力してくれていた。
だからこの恋人役が嘘であることを見抜けたのだろう。
その上で、アメリアの詳細な様子を伝えてくれた。
「とにかくアメリアは今、かなり寝不足になっている。どうにかして寝かしつけたくて、お前を思い出したんだよ。覚えているか? 幼い頃、狼姿になったお前が隣に寝そべると、アメリアがすぐに昼寝したことを」
「あぁ、もちろん覚えている」
彼女の匂いも体温も全て、この肌で覚えている。
番であるアメリアが隣で寝ている幸せを、忘れることなどできない。
「昼間は難しくても、夜に狼姿でアメリアの部屋に忍び込んで、あいつを寝かしつけてくれ」
「……本当に、いいのか?」
「お前以外にこんなことを頼める奴はいないよ、そうだろう?」
「あ、あぁ。ほかの男がしたら、その者に未来はないな」
「まぁ、僕はジャスティンを犯罪者にはしたくないからね。よろしく頼むよ、未来の義弟」
クリフォードはニカッと笑うと、後は頼んだよ、と言って帰っていく。
思いがけない内容すぎて、すぐには信じられないが、わざわざクリフォードが出向いてきたからには、スティングレー伯爵が認めてくれたのは本当なのだろう。
ジャスティンは両方の拳をきつく握ると、「よしっ」と言いながら小躍りせんばかりに喜んだ。
夜にアメリアを訪問するとして、彼女に会うのは六年ぶりだ。
夜会で見かけるたびにその姿を目で追っていたが、話しかけることも目を合わせることもしなかった。
アメリアに婚約を申し込んだときに両親に約束させられた。
アメリアが成人して伯爵の許しが出るまでは接触しないことを。
――だが、それも今夜までだ。
ジャスティンが滾る想いを胸に午後の訓練に参加すると、彼の後ろには生ける屍となった騎士が続出したという。
クリフォードに寝かしつけに来てほしいと言われたが、本当にアメリアの部屋に入れるか不安だった。
獣化した姿であれば二階のバルコニーには簡単に上ることができる。ジャスティンが胸を弾ませて二階に上がると、部屋に入るための窓が少し開いていた。
(本当だ、本当に部屋に入ることができる!)
喜び勇んで窓から身を滑らせて中に入ったところ、アメリアがネグリジェ姿でそこに立っていた。
「ジョイ!」
頬を紅潮させたアメリアがジャスティンを違う名で呼んだ。
一瞬、誰と間違えているのかわからず焦ってしまう。
「ワフォ?(誰だ?)」
ジョイ、ジョイ、と記憶をたどり、そういえば以前、狼のぬいぐるみをジョイと名付けたと手紙に書いてあったことを思い出す。
(だが、私のことをぬいぐるみの名で呼ぶのはなぜだ?)
疑問はアメリアの放った言葉から解消された。「私でも上級魔法を使うことができた!」と喜んでいる。
きっと、ものに命を吹き込む魔法を試したのだろう。
たまたま、そこに狼となったジャスティンが来たために上級魔法が成功したと勘違いをしている。
(まいったな……)
これでは、実は狼姿のジャスティンだと名乗ることができない。
だが、喜んでいる彼女を見ているだけで嬉しくなる。
それにいきなり訪ねて来たことを驚かれるよりは、いいのかもしれない。
アメリアが抱きついてきただけで脳が痺れる。
ネグリジェ姿の彼女から、石鹸の匂いと番特有の官能的な匂いが押し寄せてきて、ジャスティンは動けなくなった。
(それに、この柔らかい感触が……いい……)
低い背に似合わず大きな胸が、ジャスティンの肌に触れている。
これまで肌の触れ合いを許した女性はいなかったから、驚くほどに柔らかい胸の感触に全身が喜んでいる。
体中を巡る血が沸騰するようだが今は狼の姿のため、激情のまま触れて、鋭い爪でアメリアの肌を傷つける訳にはいかない。
獣姦をする獣人もいるが、そんな痛々しいことをアメリアに強いるつもりはなかった。
ジャスティンが希望通りに寝そべると、アメリアは今度はブラシをかけてグルーミング、毛づくろいを始めた。
(あぁ、気持ちがいい)
アメリアは狼獣人が毛づくろいを許すのは番だけだということを、知らないのだろう。
無邪気にブラシをかけるアメリアの手が、ジャスティンに言いようのない快感を与えてくれる。
(このまま、ずっとアメリアと一緒にいたい)
これまで抑えてきた欲求が高まるが、アメリアの顔は青白く目の周りはくぼんでいる。
寝不足と聞いていたものの、ここまで体調を悪くしているとは思わなかった。
(アメリアは早く休んだほうがいいな)
その思いが通じたのか、アメリアはブラッシングを終えるとジャスティンに「ベッドに行こう」と誘ってきた。
だが、寝室に入る前に思わず足が止まる。
まだ結婚していない女性と共に寝室に行くことは、ジャスティンにとって戸惑いのほうが大きい。
それでも手を広げて迎えてくれるアメリアを見た途端に理性がプチッと切れてしまう。
アメリアを押し倒す形となり興奮で頭が茹で上がる。
うなじから放たれる番の魅惑的な香りに引き寄せられ、何度もアメリアの匂いを嗅いだ。
それだけでは飽き足らず、うなじを舐めて自分の匂いをこすりつける。
(もっと自分の匂いを馴染ませて、アメリアは私のものだと知らしめたい)
番への欲望は尽きないが、アメリアも休む時間が必要だ。
そもそも、彼女を寝かしつけるために狼となってこの部屋に来た。
ジャスティンが隣で座り込むと、アメリアは狼を抱いて体温を確かめる。
毛並みを梳いていた手はすぐに止まり、寝息をたてて眠ってしまった。
嬉しいような、残念なような、何とも言えない気持ちになるがもう戻る時間だ。
(アメリア、ようやく君に会えたよ)
アメリアの寝室で、隣にいる彼女の寝顔を見ながらジャスティンは幸せを噛みしめた。
寝入ったのを確認すると、ジャスティンは寝具から出てトンッと床に飛び降りる。
本物のジョイを探そうと辺りを見回すが、狼の姿のままでは難しい。ジャスティンは顔を上に向けると全身に力を入れ、獣毛をフルッと震わせた。すると獣化していた身体が人間に戻る。
「はぁ、狼姿だと喋ることができないのが辛いな」
本当は彼女が落ち着いたところで獣化を解き、話をしようと思っていた。
狼のままでは鋭い爪で彼女を傷つけてしまいそうで、触れることも抱きしめることもできない。
せっかく六年ぶりに会えたというのに、謝ることも会話もままならない。
ナサナエルのことで誤解があればすぐにでも解きたかった。
そして許しを乞い、どれだけ愛しているかを伝えたい。だがアメリアは自分のかけた魔法が成功したことを、ことのほか喜んでいたからジャスティンは人の姿に戻ることを躊躇した。
今は狼の姿で会うほうがアメリアのためになる。
そう判断したが、本能は彼女に触れたいと暴れている。
今すぐ彼女をさらって、密かに準備している新居に連れて行き愛を交わしたい。
その想いに蓋をすると、ジャスティンは立ち上がり、すたすたと歩いてバルコニーに出る窓を開けた。そこには月の光を浴びる小さなぬいぐるみが置いてある。
六年前にジャスティンがアメリアに贈ったものだ。
「これだな」
魔法陣の上に置かれたジョイを手に持つと、アメリアの匂いが染みついている。
毎晩ぬいぐるみと一緒に寝ていると聞いていたから、不思議ではない。
ジャスティンが贈ったものを大事にしていたとわかり、嬉しさが込み上げてくる。
アメリアはずっとジャスティンを待っていたことを改めて思い、腰の辺りに血が集まってくる。
ただでさえ、番の匂いが充満する部屋にいた身体は興奮しやすくなっていた。
ここに来る前に獣人用の抑精剤を飲んできて正解だった。
ふーっと息を吐いて、気持ちを落ち着かせると、ジャスティンはぬいぐるみを持ち、また部屋の中に入って寝室へ向かった。
「アメリア……、愛しい番」
人間姿のジャスティンはアメリアに顔を近づけ、うなじに唇をそっと当てた。
明日の夜もここに来ればアメリアに会える。
今は睡眠不足で弱っている心身を十分に癒してほしい。
「今夜はゆっくりと、休んで」
優しい目をアメリアに向けてジャスティンは微笑むと、ジョイをその枕元に置いた。
寝室を出て再び獣化し、足音を立てずに部屋から出る。
二階の高さをものともせずにバルコニーから飛び降りると、闇夜に紛れて走り去っていった。
◆
次の日の朝、アメリアは射し込んでくる光を受けて目を覚ました。
久しぶりにぐっすりと眠れて、気分がいい。
「うぅん……、あ、ジョイ、ぬいぐるみに戻っちゃった」
枕元にはぬいぐるみのジョイがいる。
せっかく命を吹き込む魔法が成功したのに、一晩しか効力がなかった。
(もっと、ジョイと触れ合いたかったのに)
寂しさが胸に迫るが、月の光の力がないと生きた姿を保てないのかもしれない。
また今夜も月が出たら魔法を試してみよう。
一度成功したのだから、きっと今夜も会うことができる。
ジョイをそっと手にとると、昨晩の狼の毛の感触が肌に蘇る。
「でも、久しぶりにゆっくり寝ることができたわ」
ジョイに軽く唇を当てたアメリアは、ジョイを棚の定位置に置いた。
昨夜は嫌なことを思い出すこともなく深く眠ることができた。
(ありがとう、ジョイ)
アメリアは狼となったジョイを今夜も抱きしめようと、こころに決めた。
いつものように朝食の席に着くと、食卓に座る家族全員がアメリアの顔色を見てホッとしている。
「おお、アメリア、おはよう。昨日はよく眠ることができたかい?」
「え、ええ。お父様、夕べはよく眠ることができました」
「アメリア、顔色も随分と良くなったわね」
「お母様、気分も良いので今日は刺繍の続きをしますね」
家族と会話を楽しみつつ、アメリアは「そういえば」と話し始めた。
「夕べ、実は上級魔法を試してみました。そうしたら、ジョイに命を吹き込む魔法に成功しました」
「な、なにっ? 上級魔法だと?」
「ええ、お父様。私も驚いたのですが、ぬいぐるみのジョイと私の絆が強かったおかげで成功しました。だから、夕べは狼になったジョイが私を寝かしつけてくれたんです」
「……狼になった、ジョイ?」
「はい、ぬいぐるみのジョイです」
「……」
父親とクリフォードは互いに顔を見合わせた。
アメリアはどうやら、ジャスティンのことをぬいぐるみと勘違いしている。
「それで、その狼は今どうしている?」
「はい、朝になるとぬいぐるみに戻っていました。多分、夜になって月の光がないと魔法が完成しないのだと思います」
「そうか、狼は悪さをしなかったか?」
「え? 悪さですか? とんでもない! ジョイはとってもお利巧でしたよ。寝るときに抱きしめると、モフモフして本当に気持ち良くてすぐに寝ることができました」
「そ、それは良かったな」
「はい、とっても良かったです」
屈託なく笑うアメリアを見て、父親とクリフォードは互いを見合うと何とも言えない顔をした。
「……父上、この調子であれば、ジャスティンも何もできないでしょう」
「あ、あぁ、これはこれで安心だな」
二人はひそひそとアメリアに聞こえないように会話すると、その日の朝食を終えてナプキンで口元を拭いた。
部屋に戻るところで、アメリアはクリフォードに引き留められた。
「アメリア、最近その……、ジャスティンとは話をしていないのか?」
「お兄様。相変わらずです、目も合わせてくれなくて」
「そうか。ナサナエル殿下のことはお前もショックだったよな」
「えぇ」
「あまり思い詰めるなよ。きっと理由があるはずだ」
「……そうでしょうか」
「クリフォード、お前はどう思う?」
「そうですね、殿下の恋人という噂は何か事情があると思います。この六年間、ジャスティンは父上たちから言われたことを忠実すぎるほど守り、アメリアと話をするどころか、視線も合わせないほど徹底して避けていました。それでもアメリアを想い続けています。僕にはうるさいほど、アメリアのことを聞いてきましたから」
「そうか、お前は彼と連絡をとっていたのか」
「父上、ジャスティンは本当によく耐えました。男の獣人が幼少期に番に会うと、女性の身体が成長する前に襲ってしまうことがあると危惧していましたが、ジャスティンはアメリアに指一本触れていませんよ」
「う、うむ」
「僕に言わせると正直すぎるほど、約束をずっと守っています」
「うむ、そのようだな」
「もう、アメリアも成人したのですから、父上。いいかげん、二人を会わせてあげましょう」
「……っ、そうだな」
伯爵は押し黙ったまま、硬い表情を崩さずにソファーに腰かけた。
それを見たクリフォードも、向かい合う席に腰を下ろす。
二人は同時にため息を吐くと、どうすればアメリアが元気になるか、まずはそのことを話し合うことにした。
「クリフォード、確かアメリアは幼い頃、獣化したジャスティンが傍にいると寝つきが良かったな」
「そうでしたね。一緒に昼寝する姿をよく見ましたよ」
「アメリアはもふもふした動物が好きだからな」
「父上、まずは寝かしつけるために、ということでジャスティンを呼ぶのはどうですか?」
「そうか、その手があったか。だが、仮にも未婚の娘の部屋に彼を招くなど……」
「ジャスティンには、獣化したままでいるように伝えますよ。さすがに彼も、狼のままではアメリアに何もしないでしょう」
「それが守れればいいが……」
「父上、もうアメリアも成人しました。何かあったらそれこそ彼に責任を取らせれば済む話です。ジャスティンの両親にも伝えておけば、話は早いでしょう」
「それもそうか。……はぁ、時がたつのは早いものだな」
「えぇ、では僕から連絡するということで、よろしいですか?」
「あぁ、クリフォード、ジャスティンのほうはお前に任せよう。私はルーセル伯爵に連絡をとっておく」
父親の言葉に頷いたクリフォードは幾分か安心して立ち上がると、一刻も早く伝えようと部屋を出ていった。
残された伯爵はソファーに深く座り直すと額に手を当て、「アメリアも成人したからな」と、弱々しい声で呟いた。
「よし、できたわ」
今夜は折しも満月で月の力もたくさんある。アメリアは本の説明の通りに紙へ魔法陣を描くと、バルコニーの月の光を浴びるところに置き、中央にジョイを寝かせた。
「ジョイ、あなたと話せるのが楽しみだわ!」
アメリアは鈍く光る銀色の魔石を持つと呪文を唱え始めた。
ところどころ難しい発音の箇所があり、つっかえながらも最後までできた。
「あれ、魔石が光らない」
魔法を使う時、大抵の場合は魔石が熱を持つか光を放つのだが、今回はどう見ても魔石に変化はなかった。
「失敗しちゃったのかなぁ」
アメリアが夜空を見上げると煌々と月が輝いていた。
溢れるばかりの月の光をぬいぐるみのジョイは受けている。
「もう少し、待ってみようかな」
もしかしたら、月の力が足りないのかもしれない。呪文を唱え間違えた可能性もある。
一晩に一回しか魔法の効果はないと書いてあるから、やり直すこともできない。
冷たい風がサーッと吹いてきて、アメリアは思わず身体をぶるりと震わせた。
肩にかけていたショールをぎゅっと掴む。
「寒くなってきちゃった。部屋に入っておこう」
バルコニーに出るための窓を少し開けておいて、アメリアは身体を縮めながら部屋の中に入った。
屋敷の二階に位置するアメリアの部屋のバルコニーは広い芝生のある庭に面しており、高い木も近くにない。外からバルコニーに到達するのは至難の業だ。
アメリアは窓をそのままにして、寝るための用意を始めた。
豊かな金髪をブラシで梳き終わると、肌に化粧水をつける。
いつもはぬいぐるみのジョイを枕元に置いておしゃべりをするのに、今日はまだバルコニーに置いてある。
取りに行こうか、もう寝てしまおうかと思ったところで、カタン、と窓が開く音が聞こえた。
「風で開いたかな?」
さすがに寝る時間に開けたままでは不用心だからと振り返ると、そこには月の光を受けて青銀の毛をなびかせる狼がいた。
(狼!)
小さな頃に見た、まだ子どもの狼と違い、身体はアメリアよりも大きい。
鳴くことも、吠えることもなく部屋にそっと忍び込んでくる狼を、アメリアは息を止めて凝視した。
「ジョイ!」
「ワフォ?」
アメリアは名前を叫ぶと嬉しそうに顔をほころばせ、手を広げて近寄っていく。
「ジョイ! ジョイ! あぁ、嬉しい、ジョイが生きている!」
膝を屈めてアメリアは狼の首をしっかりと抱きしめた。
そして毛の中に顔を埋めると、そのもふもふとした毛ざわりを確かめる。
「ジョイ……、お日様の匂いがする」
「ワォン」
「ふふっ、鳴き声も素敵。私のジョイ、とってもお利口さんみたいね」
突然部屋の中に入ってきた狼を恐れることなく、ジョイと呼んで抱きしめる。
アメリアは嬉しさを抑えきれない様子で屈託のない笑顔を見せた。
「嬉しい、ジョイ。私でも上級魔法が使えたのね」
「ワフォ?」
「私でも頑張れば、できるんだ!」
強く首を抱きしめたまま、アメリアは顔中をくしゃくしゃにして泣き笑いをする。
さっきまで青白い顔をしていたのに、一気に頬を紅潮させて喜んだ。
「ジョイ、私のジョイ!」
「ワォォン」
狼は戸惑いながら何度も目をしばたたいた後で、アメリアを気遣ってか小さく吠えた。
しばらくすると、落ち着いてきたアメリアは鏡台からブラシを持ってきて狼の傍に座った。
「ジョイ、今からブラッシングしてもいい?」
「クゥーン」
狼はまるでアメリアの言葉を理解しているみたいに、足を折って床に寝そべった。
背を撫でてブラシをかけ始めると、気持ちいいのか狼は目を細める。
「ふふっ、夢だったの。こうして狼にブラシをかけるの。ジョイ、気持ちいい?」
「グルルゥゥ」
気持ちいい、と答えるように狼は喉を鳴らした。
目を閉じてじっとしつつも、しっぽをパタパタと振って喜んでいる。
「今度、獣毛ブラシも用意しなくっちゃね。ジョイのために何が必要かなぁ?」
アメリアはブラッシングを終えると、再び狼の毛を手で撫で始めた。
「ねぇ、ジョイ。私、あなたがこうして来てくれてすごく嬉しいの。あなたの温もりがあれば、嫌なことを思い出さないで眠れそうな気がする……」
「ワォン」
「ふふっ、ジョイもそう思ってくれるの? じゃ、ベッドに行こう」
立ち上がったアメリアに従い狼もスッと立ち上がった。
アメリアの後をついて歩いていたが、いざ寝室に入ろうとしたところで狼は立ち止まってしまう。
「ジョイ? どうしたの?」
何か悩んでいるのか、その場でぐるぐると円を描いている。
アメリアが「おいで」と言った途端、ぴたりと動きを止めた狼は迷いを捨てたのか、金色の瞳をキラリと光らせ手を広げて待っているアメリアのほうへ駆け寄った。
「ワォォォン」
「きゃぁっ、ジョイ! もうっ」
勢いをつけて飛びついてきた狼と一緒に、アメリアはベッドに倒れ込んでしまった。
狼は寝ころんだアメリアの上に跨ると、顔を近づけてくんくんと匂いを嗅ぎ始める。
「ジョイ? もう、そんなところの匂いを嗅いじゃダメだよ、くすぐったいよ」
しっとりと濡れた黒い鼻をアメリアの耳もとに近づけて、首筋の匂いを念入りに嗅いでいる。
次第にハァハァと息を乱した狼は長い舌を出して、ぺろりとアメリアのうなじを舐めた。
「きゃっ」
そのぬるりとした感触に、思わず声を上げてしまう。
狼はアメリアが抵抗しないのを見て、再びうなじの匂いを嗅ぎ始めた。
「ジョイ、もう終わりだよ。ほら、一緒に寝よう」
狼を避けながら寝具の中に入ったアメリアは、狼も一緒に入るように促した。
「ワォン」
まるでアメリアの言葉を理解しているかのように返事をする狼が嬉しい。
アメリアは寝具の中に入ってきた狼の胴体をギュッと抱きしめた。
「ジョイ、大好き!」
アメリアが顔を埋めると狼も静かに身体を伏せた。
もふもふとした毛の感触を確かめ何度も手で毛を梳いていたが、その動きがぱたりと止まる。
アメリアはすー、すーっと静かな寝息をたてていた。
◆
昼間、アメリアの兄のクリフォードが突然騎士団の詰所に来たかと思うと、「狼姿でアメリアを寝かしつけてほしい」と言い始めた。
どうやらアメリアは夜に眠ることができず、このままでは倒れてしまうかもしれないという。
「だが、スティングレー伯爵に見つかったら問題になる」
「大丈夫だ、父上も了承済みだ。ジャスティン、良かったな。ようやくアメリアと会うことができるぞ」
「……それは、本当なのか?」
「あぁ、アメリアももう成人したことだし、お前が嫁にもらってくれるなら我が家はいつでも歓迎だ」
「クリフォード!」
ガタン、と音が鳴るほどの勢いで立ち上がり、目を見開いてクリフォードを見る。
すると彼も立ち上がり手を差し出した。
「ジャスティン、長かったな。お前はよく耐えたよ。相手が妹だから複雑な気分だが、とにかく良かった。これで俺はお役ごめんだな」
「あ、あぁ、クリフォード! 世話になった」
両手を添えて握手をすると、長い冬が終わりを告げて春が来たことに嬉しさが込み上げてくる。
これまでクリフォードにはアメリアの様子を逐一報告してもらっていた。
彼女からの手紙が来なくなってからは特に、アメリアがほかの男にこころを寄せていないか気になって仕方がなかった。
その不安を払拭できたのは、クリフォードがくれる情報のおかげだった。
彼にはいくら感謝してもしたりないくらいだ。
喜びにこころが震えるが、これで問題が全て解決した訳ではない。
「ジャスティン、ところでナサナエル殿下のことだが」
「クリフォード、言うな。少し時間はかかるが、大丈夫だ」
「そうか、やはり何か事情があるんだな。いや、これ以上は聞かないでおくよ」
「すまない、そうしてくれると助かる」
マクゲラン一味の手がかりは少ないが、必ず確保してみせる。
この事件が解決すれば、殿下の恋人役という茶番もすぐに終わる。
クリフォードはアメリアが自分の番であることを知り、長年協力してくれていた。
だからこの恋人役が嘘であることを見抜けたのだろう。
その上で、アメリアの詳細な様子を伝えてくれた。
「とにかくアメリアは今、かなり寝不足になっている。どうにかして寝かしつけたくて、お前を思い出したんだよ。覚えているか? 幼い頃、狼姿になったお前が隣に寝そべると、アメリアがすぐに昼寝したことを」
「あぁ、もちろん覚えている」
彼女の匂いも体温も全て、この肌で覚えている。
番であるアメリアが隣で寝ている幸せを、忘れることなどできない。
「昼間は難しくても、夜に狼姿でアメリアの部屋に忍び込んで、あいつを寝かしつけてくれ」
「……本当に、いいのか?」
「お前以外にこんなことを頼める奴はいないよ、そうだろう?」
「あ、あぁ。ほかの男がしたら、その者に未来はないな」
「まぁ、僕はジャスティンを犯罪者にはしたくないからね。よろしく頼むよ、未来の義弟」
クリフォードはニカッと笑うと、後は頼んだよ、と言って帰っていく。
思いがけない内容すぎて、すぐには信じられないが、わざわざクリフォードが出向いてきたからには、スティングレー伯爵が認めてくれたのは本当なのだろう。
ジャスティンは両方の拳をきつく握ると、「よしっ」と言いながら小躍りせんばかりに喜んだ。
夜にアメリアを訪問するとして、彼女に会うのは六年ぶりだ。
夜会で見かけるたびにその姿を目で追っていたが、話しかけることも目を合わせることもしなかった。
アメリアに婚約を申し込んだときに両親に約束させられた。
アメリアが成人して伯爵の許しが出るまでは接触しないことを。
――だが、それも今夜までだ。
ジャスティンが滾る想いを胸に午後の訓練に参加すると、彼の後ろには生ける屍となった騎士が続出したという。
クリフォードに寝かしつけに来てほしいと言われたが、本当にアメリアの部屋に入れるか不安だった。
獣化した姿であれば二階のバルコニーには簡単に上ることができる。ジャスティンが胸を弾ませて二階に上がると、部屋に入るための窓が少し開いていた。
(本当だ、本当に部屋に入ることができる!)
喜び勇んで窓から身を滑らせて中に入ったところ、アメリアがネグリジェ姿でそこに立っていた。
「ジョイ!」
頬を紅潮させたアメリアがジャスティンを違う名で呼んだ。
一瞬、誰と間違えているのかわからず焦ってしまう。
「ワフォ?(誰だ?)」
ジョイ、ジョイ、と記憶をたどり、そういえば以前、狼のぬいぐるみをジョイと名付けたと手紙に書いてあったことを思い出す。
(だが、私のことをぬいぐるみの名で呼ぶのはなぜだ?)
疑問はアメリアの放った言葉から解消された。「私でも上級魔法を使うことができた!」と喜んでいる。
きっと、ものに命を吹き込む魔法を試したのだろう。
たまたま、そこに狼となったジャスティンが来たために上級魔法が成功したと勘違いをしている。
(まいったな……)
これでは、実は狼姿のジャスティンだと名乗ることができない。
だが、喜んでいる彼女を見ているだけで嬉しくなる。
それにいきなり訪ねて来たことを驚かれるよりは、いいのかもしれない。
アメリアが抱きついてきただけで脳が痺れる。
ネグリジェ姿の彼女から、石鹸の匂いと番特有の官能的な匂いが押し寄せてきて、ジャスティンは動けなくなった。
(それに、この柔らかい感触が……いい……)
低い背に似合わず大きな胸が、ジャスティンの肌に触れている。
これまで肌の触れ合いを許した女性はいなかったから、驚くほどに柔らかい胸の感触に全身が喜んでいる。
体中を巡る血が沸騰するようだが今は狼の姿のため、激情のまま触れて、鋭い爪でアメリアの肌を傷つける訳にはいかない。
獣姦をする獣人もいるが、そんな痛々しいことをアメリアに強いるつもりはなかった。
ジャスティンが希望通りに寝そべると、アメリアは今度はブラシをかけてグルーミング、毛づくろいを始めた。
(あぁ、気持ちがいい)
アメリアは狼獣人が毛づくろいを許すのは番だけだということを、知らないのだろう。
無邪気にブラシをかけるアメリアの手が、ジャスティンに言いようのない快感を与えてくれる。
(このまま、ずっとアメリアと一緒にいたい)
これまで抑えてきた欲求が高まるが、アメリアの顔は青白く目の周りはくぼんでいる。
寝不足と聞いていたものの、ここまで体調を悪くしているとは思わなかった。
(アメリアは早く休んだほうがいいな)
その思いが通じたのか、アメリアはブラッシングを終えるとジャスティンに「ベッドに行こう」と誘ってきた。
だが、寝室に入る前に思わず足が止まる。
まだ結婚していない女性と共に寝室に行くことは、ジャスティンにとって戸惑いのほうが大きい。
それでも手を広げて迎えてくれるアメリアを見た途端に理性がプチッと切れてしまう。
アメリアを押し倒す形となり興奮で頭が茹で上がる。
うなじから放たれる番の魅惑的な香りに引き寄せられ、何度もアメリアの匂いを嗅いだ。
それだけでは飽き足らず、うなじを舐めて自分の匂いをこすりつける。
(もっと自分の匂いを馴染ませて、アメリアは私のものだと知らしめたい)
番への欲望は尽きないが、アメリアも休む時間が必要だ。
そもそも、彼女を寝かしつけるために狼となってこの部屋に来た。
ジャスティンが隣で座り込むと、アメリアは狼を抱いて体温を確かめる。
毛並みを梳いていた手はすぐに止まり、寝息をたてて眠ってしまった。
嬉しいような、残念なような、何とも言えない気持ちになるがもう戻る時間だ。
(アメリア、ようやく君に会えたよ)
アメリアの寝室で、隣にいる彼女の寝顔を見ながらジャスティンは幸せを噛みしめた。
寝入ったのを確認すると、ジャスティンは寝具から出てトンッと床に飛び降りる。
本物のジョイを探そうと辺りを見回すが、狼の姿のままでは難しい。ジャスティンは顔を上に向けると全身に力を入れ、獣毛をフルッと震わせた。すると獣化していた身体が人間に戻る。
「はぁ、狼姿だと喋ることができないのが辛いな」
本当は彼女が落ち着いたところで獣化を解き、話をしようと思っていた。
狼のままでは鋭い爪で彼女を傷つけてしまいそうで、触れることも抱きしめることもできない。
せっかく六年ぶりに会えたというのに、謝ることも会話もままならない。
ナサナエルのことで誤解があればすぐにでも解きたかった。
そして許しを乞い、どれだけ愛しているかを伝えたい。だがアメリアは自分のかけた魔法が成功したことを、ことのほか喜んでいたからジャスティンは人の姿に戻ることを躊躇した。
今は狼の姿で会うほうがアメリアのためになる。
そう判断したが、本能は彼女に触れたいと暴れている。
今すぐ彼女をさらって、密かに準備している新居に連れて行き愛を交わしたい。
その想いに蓋をすると、ジャスティンは立ち上がり、すたすたと歩いてバルコニーに出る窓を開けた。そこには月の光を浴びる小さなぬいぐるみが置いてある。
六年前にジャスティンがアメリアに贈ったものだ。
「これだな」
魔法陣の上に置かれたジョイを手に持つと、アメリアの匂いが染みついている。
毎晩ぬいぐるみと一緒に寝ていると聞いていたから、不思議ではない。
ジャスティンが贈ったものを大事にしていたとわかり、嬉しさが込み上げてくる。
アメリアはずっとジャスティンを待っていたことを改めて思い、腰の辺りに血が集まってくる。
ただでさえ、番の匂いが充満する部屋にいた身体は興奮しやすくなっていた。
ここに来る前に獣人用の抑精剤を飲んできて正解だった。
ふーっと息を吐いて、気持ちを落ち着かせると、ジャスティンはぬいぐるみを持ち、また部屋の中に入って寝室へ向かった。
「アメリア……、愛しい番」
人間姿のジャスティンはアメリアに顔を近づけ、うなじに唇をそっと当てた。
明日の夜もここに来ればアメリアに会える。
今は睡眠不足で弱っている心身を十分に癒してほしい。
「今夜はゆっくりと、休んで」
優しい目をアメリアに向けてジャスティンは微笑むと、ジョイをその枕元に置いた。
寝室を出て再び獣化し、足音を立てずに部屋から出る。
二階の高さをものともせずにバルコニーから飛び降りると、闇夜に紛れて走り去っていった。
◆
次の日の朝、アメリアは射し込んでくる光を受けて目を覚ました。
久しぶりにぐっすりと眠れて、気分がいい。
「うぅん……、あ、ジョイ、ぬいぐるみに戻っちゃった」
枕元にはぬいぐるみのジョイがいる。
せっかく命を吹き込む魔法が成功したのに、一晩しか効力がなかった。
(もっと、ジョイと触れ合いたかったのに)
寂しさが胸に迫るが、月の光の力がないと生きた姿を保てないのかもしれない。
また今夜も月が出たら魔法を試してみよう。
一度成功したのだから、きっと今夜も会うことができる。
ジョイをそっと手にとると、昨晩の狼の毛の感触が肌に蘇る。
「でも、久しぶりにゆっくり寝ることができたわ」
ジョイに軽く唇を当てたアメリアは、ジョイを棚の定位置に置いた。
昨夜は嫌なことを思い出すこともなく深く眠ることができた。
(ありがとう、ジョイ)
アメリアは狼となったジョイを今夜も抱きしめようと、こころに決めた。
いつものように朝食の席に着くと、食卓に座る家族全員がアメリアの顔色を見てホッとしている。
「おお、アメリア、おはよう。昨日はよく眠ることができたかい?」
「え、ええ。お父様、夕べはよく眠ることができました」
「アメリア、顔色も随分と良くなったわね」
「お母様、気分も良いので今日は刺繍の続きをしますね」
家族と会話を楽しみつつ、アメリアは「そういえば」と話し始めた。
「夕べ、実は上級魔法を試してみました。そうしたら、ジョイに命を吹き込む魔法に成功しました」
「な、なにっ? 上級魔法だと?」
「ええ、お父様。私も驚いたのですが、ぬいぐるみのジョイと私の絆が強かったおかげで成功しました。だから、夕べは狼になったジョイが私を寝かしつけてくれたんです」
「……狼になった、ジョイ?」
「はい、ぬいぐるみのジョイです」
「……」
父親とクリフォードは互いに顔を見合わせた。
アメリアはどうやら、ジャスティンのことをぬいぐるみと勘違いしている。
「それで、その狼は今どうしている?」
「はい、朝になるとぬいぐるみに戻っていました。多分、夜になって月の光がないと魔法が完成しないのだと思います」
「そうか、狼は悪さをしなかったか?」
「え? 悪さですか? とんでもない! ジョイはとってもお利巧でしたよ。寝るときに抱きしめると、モフモフして本当に気持ち良くてすぐに寝ることができました」
「そ、それは良かったな」
「はい、とっても良かったです」
屈託なく笑うアメリアを見て、父親とクリフォードは互いを見合うと何とも言えない顔をした。
「……父上、この調子であれば、ジャスティンも何もできないでしょう」
「あ、あぁ、これはこれで安心だな」
二人はひそひそとアメリアに聞こえないように会話すると、その日の朝食を終えてナプキンで口元を拭いた。
部屋に戻るところで、アメリアはクリフォードに引き留められた。
「アメリア、最近その……、ジャスティンとは話をしていないのか?」
「お兄様。相変わらずです、目も合わせてくれなくて」
「そうか。ナサナエル殿下のことはお前もショックだったよな」
「えぇ」
「あまり思い詰めるなよ。きっと理由があるはずだ」
「……そうでしょうか」
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