金沢友禅ラプソディ

逢巳花堂

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第二話 輪島の塗師

謎の男

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 その日は朝からパン屋のバイトがあった。

 駅構内にあるので、出勤前のサラリーマンやOLが次から次へと訪れては、朝食や昼食用のパンを買っていく。

 藍子は、途中までレジ打ちをしていたが、店長の指示もあり、三日前に入ったばかりの新人アルバイトへとバトンタッチした。

「上条さんは、外の黒板を直してきて。今日はクイニアマン、まだ焼き上がってないから」
「はーい」

 言われた通り、店の外に出て、黒板に書かれている「今日のパン」の中身を修正した。
 ついでに、ちょっとした悪戯心で、花の絵をあしらった。
 チョークなので少し形は崩れているが、花びらまで丁寧かつ詳細に描いた、加賀友禅調のイラストだ。

「よしっ」

 我ながらイラストの出来映えに満足していると、背後から、声がかかった。

「見事な形だな。椿を描いたのか。綺麗だ」

 聞き覚えのない声だ。

 振り返ると、やはり、知らない男だった。
 黒く焼けた肌に、筋骨隆々とした肉体。一八〇センチ以上はありそうな身長。その面構えだけでも防犯になりそうな強面。

 あまりの迫力に、藍子は身構えてしまった。

「な、なんでしょうか」

 もしかしてナンパだろうか。この日焼けした感じ、サーファーとかかもしれない。だとしたら、サーファー=遊び人という藍子の先入観的には、まず間違いなく、これはナンパだ。

「いや、ただ単に、綺麗な椿だと思って、感想を述べたまでだ」
「あ、ありがとうございます」

 違った。悪い人ではないが、変な人のようだ。

 顔立ちはかなりの男前で、黙っていればかなりモテることだろう。でも、挙動がちょっとおかしなところがある。表情にほとんど変化はなく、しかも、距離感が欠如しているのか、藍子のパーソナルスペースに遠慮なく入ってきている。

 目の前に、男のたくましい胸板があり、ここまで男性に接近されたことのない藍子はドギマギしてしまう。

(やめて、離れて、男に慣れてないんだから!)

 実のところ、藍子は男性との交際経験が一切ない。
 中学生の時は真面目に勉強していたし、卒業後はすぐに加賀友禅の修行を始めたので、男性と交際するような余裕なんて皆無だった。

 だから、晃といい、いまのこの男といい、精神的でも肉体的でも、無駄に距離を詰めてくるようなタイプの男性とは、どう接していいのかわからない。
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