旦那様は魔法使い

なかゆんきなこ

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幼馴染は魔法使いの弟子

黄色い薔薇の物語編 18

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アニエス視点です。
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 クレス島で過ごす日々は、アニエスにとって忙しくも充実したものとなった。
 朝昼夜の食事時、宿泊先の宿屋の手伝いをし、空いた時間でパン屋の開店準備をする。
 店舗を魔法使いの店の真下にある空き店舗に定めて、現在は地元の大工と改装に当たっての費用や期間を話し合っているところだ。
 そしてさらにその合間に、幼馴染の所へ持っていく食事を用意する。市場へ行って新鮮な食材を見ながら一日分のメニューを考えるのは、良い息抜きにもなった。
 差し入れを持っていくのは、決まって昼の仕込みの前。その日の昼と夜の食事と、次の日の朝の食事をまとめて持っていくのだ。
 夕方になると、空いたバスケットに使い終わって綺麗に洗った食器を詰めて、サフィールの使い魔猫が宿屋にやって来る。日替わりで猫達が来るので、アニエスはすっかり彼らの名前を覚えた。そして猫達は、いつも決まってどのメニューがいかに美味しかったかを話してくれるので、アニエスも張り合いがある。猫達のそれぞれの味の好みも、段々わかってきた。
 そうして毎日通っていても、アニエスはサフィールとあまり顔を合わせることは無かった。差し入れを持っていくと、いつも来客中か研究中で、差し入れを受け取るのは使い魔猫達。言葉を交わすことすら無い。
 やはり迷惑だったろうか。
 アニエスは宿屋までの帰り道、いつも思う。
 それでも、サフィールの使い魔猫達はいつも「ご主人様も完食されましたにゃ」と、「美味しいって言ってましたにゃ」と言ってくれるので。
 それが彼らの優しい嘘であっても、アニエスはその言葉を信じようと思う。
 それはまるで、三年前の。
 彼に告白した頃のようだと、思いながら。


「おはよう! アニエス」
 朝食の仕込みをする、早朝の宿屋の厨房。
 夫妻を手伝って食材を切るアニエスに、声が掛けられる。
「あら、ジャックさん。おはようございます」
 それはよく陽に焼けた若い男だった。この宿屋に魚を卸している漁師の一人である。
「ごめんなさい。まだ朝食は…」
 漁から戻った漁師達、こと朝食を用意して待つ妻のいない独身の漁師達は、よくここの食堂を利用している。ジャックもまた、常連の一人だった。
「いや、今日は良いものが獲れたから、アニエスに差し入れようと思って…」
「私に?」
 宿屋にではなく、アニエス個人への贈り物だという。
 アニエスは首を傾げる。その可愛らしい仕草に満面の笑みを浮かべて、ジャックは持ってきていた籠をアニエスに差し出した。
「まあ! 立派なエビだわ!!」
 それは大きなエビが、六尾。
 その赤々とした甲殻には、さぞぎっしりと身が詰まっていることだろう。
「ありがとう! ジャックさん」
 店で使うには少量なので、これは宿屋の主人夫妻との朝食で食べようとアニエスは思う。
(そうだわ! サフィールもエビが大好きだったから、彼の所にも持って行こう…!)
「本当に嬉しい」
 アニエスはにっこりと微笑んだ。
 ジャックは頬を赤らめて、「いやあ…」と口元を緩める。
(この島の人達って、本当に親切ね)
 彼の贈り物に込められた下心など微塵も察せず、アニエスは無邪気に微笑む。
「今度から、ジャックさんの食事は大盛りにするわね」
 せめてもの御礼に、とアニエスが微笑めば。
「うん。ありがとう、アニエス。喜んでもらえて嬉しいよ」
 ジャックはにこにこと笑って、照れくさそうに頭を掻いた。


 アニエスは朝食時の仕事を終えると、さっそく貰ったばかりのエビを調理し始める。
 新鮮なエビは身がぷりぷりしている。それを切り分けてトマトや玉ねぎ、マッシュルームとセロリと一緒に煮込めば、エビのトマト煮の出来上がりだ。
 夫妻にも大好評となったこのエビのトマト煮を始め、たくさんの料理をバスケットに詰めて、アニエスは今日もサフィールの店へと向かう。
 相変わらず開いているのかいないのかわからない店の扉をノックすれば、名乗らずとももうアニエスとわかるのか、茶色い髪の少年が扉を開けて出迎えてくれた。
「おはようございますにゃ。アニエス様」
「おはよう、ネリー。今日はあなた達に、美味しい鶏のリゾットを作って来たわよ」
「にゃー! 嬉しいですにゃー」
 人型になった茶色猫の使い魔、カーネリアンは諸手を上げて喜ぶ。
 アニエスはいつも、使い魔猫である自分達用に薄味で猫に害の無い食材を使った美味しい料理を作って来てくれるのだ。そして毎回、前日バスケットを届けた猫が好物だと言っていた食材を使ってくれる。鶏肉は、昨日バスケットを届けたカーネリアンの好物だった。
「鶏肉大好きですにゃ」
「ふふ。たくさん召し上がれ」
 アニエスはカーネリアンの頭を撫で、その手にバスケットを手渡す。
 そしてちらと、店内を窺った。
 相変わらず薄暗い店内の、いつもサフィールが客の対応をするテーブルには誰もいない。奥のカーテンが閉め切られたままになっているので、まだそこで寝ているのかもしれなかった。
「サフィールはまだ寝ているの?」
「はいですにゃ…。昨日も遅くまで本を読まれていて…」
「もう、相変わらず不規則な生活を送っているのね…」
 食生活は大分改善できたと思うが、それ以外は…。
(…これ以上うるさくしたら、嫌われちゃうかもしれない…)
 今でさえ、彼にどう思われているのかわからないのだ。
 ただの幼馴染である自分が、どこまで踏み込んで良いのか。
 こんなこと、子供の時分には考えもしなかったことだ。
 昔は、「もっと早く寝なきゃだめよ」「あんまり夜更かししないの」「ちゃんと眠れているの?」なんてこと。当たり前のように、言えていたのに。
「アニエス様…?」
「…なんでもないわ。ねえネリー。少しだけ、サフィールの顔を見て行っても良いかしら?」
 アニエスはふと、そんなことを口に出した。
 今まではろくに顔も合わせぬまま、店を出ていたから。
 ちゃんと、彼の顔を見たいと思った。
 眠っている時なら、きっと前のように嫌な顔や迷惑そうな顔はしないだろう。
(…ちょっとだけ…)
「? もちろん、良いですにゃ」
 ネリーはにぱっと笑って、アニエスの手を引く。
 そして奥へと連れて行き、カーテンを引いて、
「どうぞですにゃ」
 と言って、バスケットを手に店を出た。
 きっと、隣の自宅の方に置きに行ったのだろう。
 アニエスはそれを見送ってから、たくさんあるクッションの一つをとって、床に座り込む。たくさんのクッションの上、薄い布を一枚被っただけのサフィールが、そこですうすうと寝入っていた。
(……気持ちよさそうに寝てる……)
 再会した当初よりも、血色の良い顔。
 食事を差し入れている甲斐があったと、アニエスは思う。
 彼女はふと、その頬に手を触れた。
 温かい、頬。
 伏せられた銀の睫毛。
 さらりと揺れる、銀の髪。
 自分とは何もかも違う、褐色の肌と銀の色彩。
 トクリと、胸が高鳴る。
 やけに大きく聞こえる鼓動は、自分のものなのか。
 それとも、肌越しに伝わる彼の鼓動、なのか。
(…私、やっぱりサフィールの事が…)
 好きなのだと、思う。
 彼が愛しい。彼に触れたい。触れられたい。
 愛されたい。
(だから、私は…)
 毎日食事を作るのだろう。彼に、必要とされたくて。
 彼に、想われたくて。
(嫌な女だわ…。私は…)
 想いを告げる勇気も無く。
 彼のため、猫達のためと大義名分を掲げて。
 結局は、自分の想いのためにやっていることなのに。
(…それでも…私は…)
 アニエスがふっと、サフィールの寝顔に近付く。
 まるで口付けるような、距離になって。
(…そうすることしか、できないの…)
「大好きよ、サフィール…」
 囁いた。
 そして、ゆっくりと身を離そうとするアニエスの手が、
「っ!?」
 突然ぎゅっと、掴まれる。
 そうしてぐいっと引き寄せられ、
「んっ」
 アニエスの唇に、何かが触れた。
 驚きに目を見張るアニエスの瞳のすぐ前には、閉じられたままの銀の睫毛。
 それが口付けだと。
 サフィールにキスされているのだと気付くのに、アニエスはしばしの時間を要した。
 ただ互いの唇を合わせるだけの、キス。
 それでもアニエスには、衝撃的で。
「っ! サフィールっ…」
 手を掴む力が緩んだ隙に身を離し、アニエスは、一体どういうつもりでとサフィールを見る。
 しかしサフィールは、すやすやと寝息を立てるだけ。つまり、
(寝ぼけて…)
「~っ!! サフィールの馬鹿っ!!」
 アニエスはクッションを両手で掴むと、ありったけの力でサフィールの胸を打った。
 そしてそのまま、脱兎の如く店を飛び出す。
(信じられない…。あんな、寝ぼけて、キ、キスをするなんて…)
 坂の道を駈け下りながら、アニエスは涙が滲んでくるのを必死に堪えた。
(一体、誰と間違えたのよ…!!)
 夢の中でキスをするほど想う相手がいるのだろうか。
 その相手とは、目覚めのキスをするほどの仲なのだろうか。
(…初めて…だったのに…っ)
 異性と交わす初めてのキスは、寝惚けた幼馴染に不意打ちで奪われてしまった。
 それが悔しくて、恥ずかしくて。
 間違われたのが、腹立たしくて。
 もう彼に合わせる顔が無いと、アニエスは思った。
 
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