さよなら、君はゾンビな彼女

吉田定理

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第一章

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 心臓が飛び上がり、胃がひっくり返る思いだった。
「またか」
「誰なんだ?」
 同じ教室で寝起きしている男性たちが言葉を交わす。
 まさか陽菜の秘密がバレたのか。頼むからそれだけはやめてくれ。
 光太郎は廊下に飛び出し階段のほうへ向かった。居住スペースは男性が二階、女性が三階になっており、どうやら問題が起きているのは三階だ。そこには陽菜がいるはずで、不吉な胸騒ぎが止まらなかった。
 階段を駆け登ると、三階の廊下の奥、女子トイレの前に人が集まって騒然となっていた。誰かを取り囲んでいる。
「今すぐ追放して! 早く!」
「落ち着いて。まだ彼女がゾンビと決まったわけじゃ」
「いいえゾンビよ! だからこそこそしてたに決まってるじゃない! 早く追放しないと全員感染して死ぬわ! 今日すでに一人、噛まれたことを隠してた感染者がいたじゃないの! こいつも同じよ!」
 人の円の中心でヒステリックに喚き散らす中年女性を、複数の男女が押さえつつ落ち着かせようとしている。中年女性の怒りの矛先は、怯えたように立ち尽くす陽菜へと向いていた。
「陽菜……っ!」
 光太郎は瞬時にこの状況を理解した。恐れていたことが起きてしまったのだ。早鐘を打つ心臓を落ち着かせようと思っても、うまく息ができない。
 一方、悠一は不可解な状況について、先に来ていた男性に尋ねる。
「すみません、今来たんですが、何が起こっているのですか」
「いや、誤報じゃないか? どうやらあっちの女性が、あの子の怪我を見て、感染者だと早とちりしたらしいが。ゾンビはいないよ」
「早とちりということは、実際は感染者ではないんですね?」
「どうだかな。とにかくあの女性が、ゾンビだゾンビだと叫ぶものだから、こんな大事(おおごと)になっちまったんだな」
 ここを取り仕切っている男性が、ようやく落ち着いてきた女性から話を聞いている。一方、陽菜も女性とは離れたところへ移動させられ、別の人たちに何かを話している。昼間ゾンビに噛まれた腕は服の袖に隠れて見えないが、もし傷を調べられてしまったらお仕舞いだ。どうしてあんな傷が腕にあるのか説明できないし、なんとか説明できたとしても疑わしさは残る。しかも今日スーパーで光太郎たちがゾンビに襲われた事実は同行した大人たちが知っている。あのときに噛まれたと解釈するのが自然だ。
 光太郎は陽菜がよく見え、会話も聞こえる位置に移動した。陽菜は親切そうな若い女性から質問を受けている。陽菜と一瞬だけ目が合ったが、すぐに逸らされてしまった。
「それで、あなたはトイレで、この血の付いた布を取り換えていたところ、あの人に見られて、こうなったと」
「……そうです」
「その傷っていうのは、どこ? 治療のためにも見せてもらえないかしら?」
「…………」
 陽菜は口ごもった。当然だ。あの歯形のような傷を見せれば感染者だという疑いは強まる。かといって見せないのも不自然だ。
 どうすればいい? どうすれば陽菜を救える?
「どうしたの? 気分がよくない?」
「いえ、その、たいしたケガではないので……」
「念のためよ。恥ずかしかったら向こうで私だけに見せてくれる?」
「……ここで大丈夫です」
 誤魔化しきれないと悟ったのだろう。陽菜はゆっくりと袖をめくった。取り替えたばかりの綺麗な布が腕に巻かれている。その結び目をほどき、布を巻き取っていく。
 ダメだ、見せちゃダメだ。だがどうしようもない。傷を見せずにこの場をやり過ごす手段が思いつかない……。
 不甲斐なさと悔しさに唇を噛み締め、拳を握る。あの中年女性が騒ぎ立てなければ陽菜は明日の夕方までは平穏にここで過ごせたのに。余計なことをした女性に憎しみが湧いた。
 陽菜が布を巻き取り終わり、噛み傷が現れた。陽菜を取り囲む人垣が小さくざわつく。
「新しい傷ね。これはいつ、どこで、どうやってできたの?」
「……これは、……ええと」
 また陽菜は口ごもる。うつむきがちの顔に浮かぶ表情は見えなかったが、絶望に喘ぎ歪んだ顔が見えるかのようだ。
 事実をしゃべってしまったらお仕舞いだ。嘘をつくしかない。うまくすればこの場を切り抜けられるかもしれない。
 そんな無責任でなんの救いにもならないことを胸中でつぶやくことしかできない。自分の無能さを呪った。
「この傷は、今日……」
「今日のいつごろ?」
「午前中に……」
「うん、それで?」
 どうして嘘をつかないんだ。光太郎は口出ししたいのを必死でこらえる。
「場所は?」
「スーパーで……」
「陽菜っ!」
 光太郎は見ていられなくなり、人の群れをかき分けて円の中に進み出た。その先のことは何も考えていなかったが。
「陽菜、何かあったのか? この騒ぎはなんだ?」
 とにかく時間を稼ぐしかないと思い、何も知らないふうを装って取り調べを中断させる。
「ちょっと、邪魔をしないでくれる? 今は大切な話をしているの」
 陽菜と話していた女性が露骨に顔をしかめた。
「だけど陽菜は悪いことなんてしないし、ここに来てからだって一度も問題なんて起こしたことがないですよ」
「分かったから関係ない人は向こうに行ってなさい」
「いや、でも、俺、関係あるんです。幼馴染だから陽菜のこと誰よりもよく知ってるんで!」
「今はそんなのは関係ないわ。とにかく邪魔。誰かどこかに連れていって」
 大人四人がかりで歯がいじめにされてしまえばどうしようもなかった。それでも光太郎は喚き散らし、暴れ、抵抗を試みた。
 すると今度は陽菜のほうがじっとしていられなくなり、つい大声を張り上げた。
「こーちゃん! 聞いて!」
 みんな驚いてぽかんとし、光太郎もやかましく喚くのを忘れた。束の間の静寂。
「な、なんだ?」
 何か妙案でも浮かんだのだろうか。陽菜の表情はどこかさっぱりとしていて、まるで大荷物を下ろしたばかりの旅人のようだった。その目尻に、涙が光ったような気がした。
「私のためにありがとう」
 陽菜は光太郎を真っ直ぐに見えて微笑んだ。だがその笑顔は今までに見た笑顔の中で一番悲しそうな笑顔だった。
 それを見た瞬間、もう暴れて抵抗するのはやめようと思った。心にぽっかりと穴が空いたように感じ、強張っていた手足から力が抜けていった。
「私、今日の昼間、ゾンビに噛まれました。黙っててごめんなさい。……すぐ出ていきます」
 周りで見ていた者たちも、聞き取りをしていた女性も、反射的に陽菜から後ずさった。陽菜に向けられる恐れ、侮蔑、同情、怒り、様々な視線。
 陽菜が下り階段に向かってゆっくりと歩き出すと、人の輪が割れて道を開けた。振り返りもせず廊下を歩いていく。
「マジか」「本当にゾンビだったんだ」「こんな夜に出ていくのか」「可哀想に」「あれは死ぬぞ」「ここに居させるわけにもいかないだろう」
 無数の声が重なって光太郎の耳に届くが、全部無意味なノイズだ。
「本当に出ていくのか」「今日二人目だ」「全員キズがないかチェックするか?」
「おい光太郎。知っていたのか」
 悠一に胸倉をつかまれ、我に返った。いつも冷静な悠一の顔には怒りがにじむ。
「知っていて言わなかったな?」
「言ったら追放するんだろ?」
「他に選択肢はない!」
「……お前っ!」
 どうしてそんなに冷酷になれるんだ。胸倉をつかみ返して殴ってやりたかったが、思ったように力が入らない。それに何もできない自分はここにいる全員と同罪であり、誰かを責める資格はないのだ。
「ちっ……」
 悠一は光太郎を放し、陽菜に背を向けた。光太郎はふらついて床に尻もちをつき、うなだれる。
「陽菜ぁッ!」
 よく通る声が陽菜を呼んだ。陽菜は振り返った先に沙紀を見つける。
「行かないで、陽菜。何かの間違いだよ。ここに残ろう?」
「あの馬鹿……!」
 悠一は沙紀のほうへ走った。
「下手に肩入れすると自分がここに居づらくなるのが分からないのか!」
 悠一の言っていることは正しい。陽菜はもうゾンビに噛まれたことを認めてしまったわけで、今さら感染者をかばっても立場を悪くするだけだ。明日からの生活を考えれば黙って陽菜が去るのを見送るのが最善。
 そんなことは分かっている。だが沙紀の気持ちも痛いほど分かる。
 陽菜はやはり微笑んだ。
「さよなら。噛まれたのが沙紀ちゃんじゃなくて私で良かった」
 それだけ言い残し、もう振り返ることなく階段を降りていく。追いかけようとする沙紀の両腕を悠一はがっしりとつかんで放さない。
 沙紀の悲痛な呼びかけが夜の校舎にこだまする。
 やがて沙紀はその場に泣き崩れた。
「何人か付いてきてくれ。確実に門を出たことを確認しなきゃならない」
 リーダー格の男がメンバーを集める。数人の男が返事をして動いた。光太郎も付いていこうとしたが、止められた。
「君は来るな」
「幼馴染なんです。兄妹みたいに育って……。見届けさせてください。お願いします」
 柄にもなく深々と頭を下げた。
 自分は何をやっているのだろうか。こんなことなら最初からあちこちに頭を下げていれば、別の結末もあり得たのではないか。
「……絶対に邪魔はするなよ」
「……ありがとうございます」
 みじめでたまらなくて、相手の顔を見られなかった。
 北高校が生活の拠点として機能している理由は、食料調達のスポットに近いなどの理由もあるが、外から敷地内に簡単には入れない点が大きい。敷地は高いフェンスとコンクリートの塀に囲まれており、出入りできるのは正門と裏門の二か所だけ。裏門をバリケードで完全に封鎖したことにより、正門だけ見張っていればゾンビや侵入者に対して堅牢と言える。つまり一度正門を出てしまえば戻ってくることはできない。そこをしっかり見届けようというわけだ。
 うつむいて歩く陽菜はいっそう小さく哀れに見えた。その五メートルほど後ろを光太郎も他の男たちと一緒に進む。誰も口を開かない。
 付いてきたはいいが、何ができるわけでもなかった。自分が情けなく苦しくてグラウンドを一歩踏みしめるごとに胸がヂリヂリと痛む。外はすでにかなり暗く、電気の供給が止まった町は闇に包まれている。大人の男であっても歩き回るのは心細いと感じるだろう。襲われたときも発見が遅れるし、見えなくても耳と鼻が利くゾンビのほうが有利な世界だ。
 一歩一歩が処刑台へ向かう道のように感じられる。
 まずグラウンドの途中にあるバリケードを越える必要がある。陽菜はバリケードの通行用の扉にたどり着いた。チラッと振り返る陽菜と目が合ったが、陽菜はすぐに視線を外す。
「鍵を開けて出てくれ」
 指示通り鍵を操作して扉を押し開き、バリケードを抜けた。男たちと光太郎も後に続く。
 数分後には正門に着いた。錆びた頑丈そうな鉄の門。その両端に作った物見台に今日の見張り番が立ち、ロウソクを灯して外界に目を凝らしていた。
「何かあったんですか」
 その一人が尋ね、リーダー格の男が答える。
「彼女はゾンビに噛まれたため、ここを去る」 「なんてことだ……」
 驚きと同情はすぐに消え、自分の役割に徹する真面目な顔に戻った。
「異常は?」
「なしです」
「門を少しだけ開けられるか」
 見張りの二人は門の向こう側に目を凝らす。
 そばでゾンビがうろついていれば門を開けることはできない。状況次第では長く待たされる可能性もある。
「そうですね……見える範囲にはゼロ。今でしたら、大丈夫かと」
「彼女が通れるくらい開けて、出たらすぐ閉めてくれ」
「承知しました」
 見張りの一人は物見台の上で見張りを続け、もう一人が台から降りて門を動かす。慎重に、大きな音を立てないようにゆっくりゆっくりと門が開いていく。
 これでは言葉通り見届けに来ただけになってしまう。いや、見苦しい抵抗はやめてそうするつもりだった。
 いくつもの思い出が走馬灯のように頭の中を駆け巡った。
 家が隣同士で兄妹のように育ち、家族を失った今、唯一特別だと思える存在が陽菜だ。きっと進学先は別々のところになると思っていたが、それでも陽菜とは連絡を取り合うだろうし、何年か経って会うときも当然のように笑い合える気がしていた。そばにいるのが当たり前。これからもなんだかんだで、そばにいるんだろうと思っていた。あの日までそんな未来を疑っていなかった。
 門が三十センチほど開いたところで止まった。
 見張りが無言で陽菜を促し、陽菜は前に進む。
 このまま陽菜を見送れば自分には安全な明日が約束されている。だがそんな未来に何の価値がある?
 夜空を見上げると、星のない真っ暗な闇に覆われていた。
 死ぬのは怖い。だが一人ぼっちでこの漆黒の空の下を歩くのはもっと怖いのではないだろうか。
 ゾッとして背筋が震えた。だがそのおかげで目が覚めたような気がした。
 陽菜を一人にしてたまるか。陽菜のいる明日こそ俺が選びたい明日だ。
「感染者が外に出た。閉めろ」
 門がゆっくりと静かに閉まっていく。
「もう一人感染者がいる」
 考えるより先に言葉が出ていた。
 光太郎が突然言い放ったひと言に、全員がギョッとして注目した。陽菜も門の向こうで立ち止まり、振り返っている。その瞳が大きく見開かれ、頬に一筋の涙が線を引く。
「君は何を言い出すんだ」
 リーダー格の男も驚愕して見つめてくる。
 バカなことを言ってしまった、と光太郎は思う。だが意外なことに心が急に軽くなり、長いトンネルを抜けたかのように目の前が開けた。
「それは俺です。俺もゾンビに噛まれた。だから出ていきます」
 唖然としている男たちを置いて駆け出し、陽菜の元へ。たった数メートルの距離を越えるのには一秒も要らない。
「行こうぜ」
 重厚な門の閉じ切った音が低く響き渡る。
 二人の目と目が合ったとき、光太郎は門の外、陽菜の隣に立っていた。
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