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春の章
2 G=肉球 × 新郎①
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次の週の土曜日。午後三時五十五分。
僕は理学部C棟503研究室の前に立ち、深呼吸をして自分を落ち着かせる。大丈夫だ、アパートを出る前にきちんと発声練習はしてきた。コンビニでレシートは不要かと聞かれたときは、うまく声が出せなかったが、あれは不意を突かれたからにすぎない。心の準備さえできていれば、気持ちの良い挨拶くらいはできる。……できるはずだ!
ノックをすると須藤教授の声がした。スライド式ドアをあける。
「こんにちはぁっ!」
僕は少々うわずった声で挨拶した。普段の僕の三倍はあろうかという声量である。会話をほとんどしない日々が続くと、うまく声を出せないどころか、自分の声の大小の判断もできなくなるのだ。
「おっ、主役の登場だ」
須藤教授が柔和な笑みで僕を迎えてくれた。どうやら不自然に声が大きすぎたことを気にする人はいなかったようなので、僕はほっと胸をなでおろした。
先輩は「もう来ないんじゃないかと思って、昨日から眠れなかったよ! 来てくれてホントにありがとう」と涙を浮かべている。……過去に何かあったのだろうか?
須藤教授も先輩もラフな格好で、今日は白衣を身に着けていない。先輩はパーカー、教授はポロシャツ姿だ。土曜日は基本的に講義がないのだが、三年生以上は研究や論文執筆のために休みもなく大学へ来るのだという。
部屋の中にはもう一人の人物がいた。――女子高生だった!
淡い水色のワイシャツ。膝上のチェックのスカート。すらりと伸びる脚。学校の制服なのだろうか。しかしここは大学のはず。僕は男子校出身で、女子高生という生き物にはまったくと言っていいほど慣れていない。
女子高生は猪俣先輩とはまったく対照的な雰囲気をまとっている。先輩が太陽ならこの少女は月。一言で言うとクール系美少女だ。左右で結んだツインテールの髪、さっと細筆でひいたような眉。冷たく鋭い目ををしているが、瞳には理知的な光が宿っている。感情が見えないので少々近づきがたい雰囲気。僕みたいなヤツはゴミを見るような目で「キモい。死ね」と言われそう……。
怖い。先輩に「どなたでしょうか」と無言で尋ねる。
「凜ちゃんは先生の娘さん。現役女子高生だよ」
「須藤凜(りん)です。父がお世話になっております」
月光のように澄んだ声。
JKである凜ちゃんに丁寧なお辞儀をされて、慌てて僕も腰を折った。見た目の印象と違って、物腰が柔らかい。
「わ、渡辺悠一ですっ。こちらこそお世話になっております」
「渡辺さん、コーヒーいかがですか?」
「あ、あの、いえ、僕は……」
「遠慮しなくてもいいです」
「す、すみません、じゃあ、お願いします……」
「お砂糖とミルクはどうしますか?」
「どっちもお願いします」
僕は凜ちゃんがコーヒーを淹れているところをじっと恐縮して見守る。落ち着いていて、丁寧な動作。なんてしっかりした娘さんだろう。さすが大学教授だけあって家庭での指導もしっかりしているんだろうな、などと考える。
「どうぞ」
「ありがとうございます。なんか、わざわざすみません」
「いいえ」
先輩と二人並んでいるところを見ると、身長こそ先輩のほうが高いのだが、凜ちゃんのほうがしっかり者の姉に見えてしまうから不思議だ。もし「高校では生徒会長をやっています」と言われたら、すんなり納得できる。
「男性二名がまだ来てないから、くつろいで待っててね」と先輩も僕を気遣ってくれる。「コーヒーならいくらでもあるから! おかわりが欲しかったら言ってね、凜ちゃんに」
「は、はい」
僕の豆腐メンタルでは、女子高生におかわりを要求して働かせるなんて、できそうにない。
先輩と教授に会うのは今日でまだ二回目だ。ちょっと緊張するけど、温かいコーヒーを飲んでいると心が落ち着いてくる。僕はちびちびとコーヒーに口をつけた。
「渡辺さんは変人ですか?」
「ハッ!?」
僕の聞き間違いだろうか。今、凜ちゃんから脈絡もなく変な質問をされたような気がする。僕がうろたえていると、凜ちゃんがもう一度、薄い唇をひらいた。
「こんなサークルに入るなんて、渡辺さんは変人ですか? 正気ですか?」
気のせいではなかった!
「凜ちゃんひどい! まるでここのメンバーが変人みたいに!」と先輩がわめいたが、凜ちゃんは軽く無視した。先輩の扱い方を心得ている!?
「ええと、凜……ちゃん……も」僕は女の子の名前を呼ぶのがとても苦手なのだ。「『虫の輪』の……メンバーだったりするんですか?」なぜか僕は敬語で尋ねた。
「もちろんです」
もちろんなんだ!? 感情の見えない冷たい目が僕を不安にさせる。
「まだよく分からないんだけど……ま、まあ、僕も変人なのかも。ははは……」
曖昧な笑顔を返すことしかできなかった。そういうあなたも高校生なのにわざわざ大学のサークルに所属してるあたり、むしろ僕より変人ですよね? と言いたかったが、怖いので黙っていた。
「渡辺さん」
凜ちゃんは真顔である。視線が鋭いのでドキリとしてしまう。
「な、なんでしょうか?」
「オタクですか?」
「えっ?」
これまた唐突な質問に、僕は一瞬固まってしまう。凜ちゃんはなぜそう思ったのだろうか? 僕が挙動不審だから? コミュニケーションがぎこちないから? 服装がダサいから? 確かに高校時代に母親が『しまむら』で買ってきた服なんだけど。
「ゲームはけっこう好きだし、ゲームオタクと言えばオタクと言えるかもしれないですけど……」
これが僕に言える精一杯であった。
「僕、オタクっぽいでしょうか?」
「少し」
うぐっ……!! そうなのか、僕、オタクっぽいのか……。
それにしても凜ちゃんの表情はさっきから一ミリも変わらない。何を考えているのか分からん。冷たい視線が僕の胸に突き刺さる。次の一言が「キモい。死ね」だったら、僕は生きていけない。
会話はぶつりと途切れた。何をしゃべったらいいか分からない。だが横たわる沈黙をぶった切るように、クール系JKは唐突に口を開いた。
「ゴキブリ食べたいですか?」
背筋が凍るとはこのことだ。
「へ……?」
「ゴキブリ。食べたいですか?」
「あ、あ、あの、あの、あの、本当に、無理です、食べるのは、本当に、ごめんなさい、すみません、許してください……」
僕はマジでビビって泣きそうになった。これは死刑宣告なのだ。「ゴキブリ食べたいですか?」は相手がゴキブリを食べたいと思っているかどうか知りたくて発するセリフではないと思う。なぜならゴキブリが食べたい人などいないはずだからだ! つまりこのセリフは「文句言うとゴキブリ食わせるぞコノヤロー!」みたいな意味を柔らかくオブラートに包んで――包めていない気がするけど――発したセリフなのではないか。つまり凜ちゃんは内心ではキレているに違いない! しかしなぜ!? 僕が挙動不審だから? 会話が続かないから? それだけでキレちゃう?
「凜ちゃん、すごい質問するね……」驚くべきことに先輩も困惑していた。「私でも初対面でその質問はしないよ」
須藤教授もこめかみのあたりを押さえている。……自分の娘にあきれている?
いったい何が起きているのか? 僕には分からない。このツインテールの氷の人形のような女子高生のことがまったく分からない。凜ちゃんは止まらなかった。
「渡辺さん」
「は、は、はい……」
僕はぶるぶる震えながら、次はいったいどんな恐ろしい言葉が飛び出すのかと神判の時を待った。
「す……」
……す?
「……素敵ですね」
「えっ?」
僕は理学部C棟503研究室の前に立ち、深呼吸をして自分を落ち着かせる。大丈夫だ、アパートを出る前にきちんと発声練習はしてきた。コンビニでレシートは不要かと聞かれたときは、うまく声が出せなかったが、あれは不意を突かれたからにすぎない。心の準備さえできていれば、気持ちの良い挨拶くらいはできる。……できるはずだ!
ノックをすると須藤教授の声がした。スライド式ドアをあける。
「こんにちはぁっ!」
僕は少々うわずった声で挨拶した。普段の僕の三倍はあろうかという声量である。会話をほとんどしない日々が続くと、うまく声を出せないどころか、自分の声の大小の判断もできなくなるのだ。
「おっ、主役の登場だ」
須藤教授が柔和な笑みで僕を迎えてくれた。どうやら不自然に声が大きすぎたことを気にする人はいなかったようなので、僕はほっと胸をなでおろした。
先輩は「もう来ないんじゃないかと思って、昨日から眠れなかったよ! 来てくれてホントにありがとう」と涙を浮かべている。……過去に何かあったのだろうか?
須藤教授も先輩もラフな格好で、今日は白衣を身に着けていない。先輩はパーカー、教授はポロシャツ姿だ。土曜日は基本的に講義がないのだが、三年生以上は研究や論文執筆のために休みもなく大学へ来るのだという。
部屋の中にはもう一人の人物がいた。――女子高生だった!
淡い水色のワイシャツ。膝上のチェックのスカート。すらりと伸びる脚。学校の制服なのだろうか。しかしここは大学のはず。僕は男子校出身で、女子高生という生き物にはまったくと言っていいほど慣れていない。
女子高生は猪俣先輩とはまったく対照的な雰囲気をまとっている。先輩が太陽ならこの少女は月。一言で言うとクール系美少女だ。左右で結んだツインテールの髪、さっと細筆でひいたような眉。冷たく鋭い目ををしているが、瞳には理知的な光が宿っている。感情が見えないので少々近づきがたい雰囲気。僕みたいなヤツはゴミを見るような目で「キモい。死ね」と言われそう……。
怖い。先輩に「どなたでしょうか」と無言で尋ねる。
「凜ちゃんは先生の娘さん。現役女子高生だよ」
「須藤凜(りん)です。父がお世話になっております」
月光のように澄んだ声。
JKである凜ちゃんに丁寧なお辞儀をされて、慌てて僕も腰を折った。見た目の印象と違って、物腰が柔らかい。
「わ、渡辺悠一ですっ。こちらこそお世話になっております」
「渡辺さん、コーヒーいかがですか?」
「あ、あの、いえ、僕は……」
「遠慮しなくてもいいです」
「す、すみません、じゃあ、お願いします……」
「お砂糖とミルクはどうしますか?」
「どっちもお願いします」
僕は凜ちゃんがコーヒーを淹れているところをじっと恐縮して見守る。落ち着いていて、丁寧な動作。なんてしっかりした娘さんだろう。さすが大学教授だけあって家庭での指導もしっかりしているんだろうな、などと考える。
「どうぞ」
「ありがとうございます。なんか、わざわざすみません」
「いいえ」
先輩と二人並んでいるところを見ると、身長こそ先輩のほうが高いのだが、凜ちゃんのほうがしっかり者の姉に見えてしまうから不思議だ。もし「高校では生徒会長をやっています」と言われたら、すんなり納得できる。
「男性二名がまだ来てないから、くつろいで待っててね」と先輩も僕を気遣ってくれる。「コーヒーならいくらでもあるから! おかわりが欲しかったら言ってね、凜ちゃんに」
「は、はい」
僕の豆腐メンタルでは、女子高生におかわりを要求して働かせるなんて、できそうにない。
先輩と教授に会うのは今日でまだ二回目だ。ちょっと緊張するけど、温かいコーヒーを飲んでいると心が落ち着いてくる。僕はちびちびとコーヒーに口をつけた。
「渡辺さんは変人ですか?」
「ハッ!?」
僕の聞き間違いだろうか。今、凜ちゃんから脈絡もなく変な質問をされたような気がする。僕がうろたえていると、凜ちゃんがもう一度、薄い唇をひらいた。
「こんなサークルに入るなんて、渡辺さんは変人ですか? 正気ですか?」
気のせいではなかった!
「凜ちゃんひどい! まるでここのメンバーが変人みたいに!」と先輩がわめいたが、凜ちゃんは軽く無視した。先輩の扱い方を心得ている!?
「ええと、凜……ちゃん……も」僕は女の子の名前を呼ぶのがとても苦手なのだ。「『虫の輪』の……メンバーだったりするんですか?」なぜか僕は敬語で尋ねた。
「もちろんです」
もちろんなんだ!? 感情の見えない冷たい目が僕を不安にさせる。
「まだよく分からないんだけど……ま、まあ、僕も変人なのかも。ははは……」
曖昧な笑顔を返すことしかできなかった。そういうあなたも高校生なのにわざわざ大学のサークルに所属してるあたり、むしろ僕より変人ですよね? と言いたかったが、怖いので黙っていた。
「渡辺さん」
凜ちゃんは真顔である。視線が鋭いのでドキリとしてしまう。
「な、なんでしょうか?」
「オタクですか?」
「えっ?」
これまた唐突な質問に、僕は一瞬固まってしまう。凜ちゃんはなぜそう思ったのだろうか? 僕が挙動不審だから? コミュニケーションがぎこちないから? 服装がダサいから? 確かに高校時代に母親が『しまむら』で買ってきた服なんだけど。
「ゲームはけっこう好きだし、ゲームオタクと言えばオタクと言えるかもしれないですけど……」
これが僕に言える精一杯であった。
「僕、オタクっぽいでしょうか?」
「少し」
うぐっ……!! そうなのか、僕、オタクっぽいのか……。
それにしても凜ちゃんの表情はさっきから一ミリも変わらない。何を考えているのか分からん。冷たい視線が僕の胸に突き刺さる。次の一言が「キモい。死ね」だったら、僕は生きていけない。
会話はぶつりと途切れた。何をしゃべったらいいか分からない。だが横たわる沈黙をぶった切るように、クール系JKは唐突に口を開いた。
「ゴキブリ食べたいですか?」
背筋が凍るとはこのことだ。
「へ……?」
「ゴキブリ。食べたいですか?」
「あ、あ、あの、あの、あの、本当に、無理です、食べるのは、本当に、ごめんなさい、すみません、許してください……」
僕はマジでビビって泣きそうになった。これは死刑宣告なのだ。「ゴキブリ食べたいですか?」は相手がゴキブリを食べたいと思っているかどうか知りたくて発するセリフではないと思う。なぜならゴキブリが食べたい人などいないはずだからだ! つまりこのセリフは「文句言うとゴキブリ食わせるぞコノヤロー!」みたいな意味を柔らかくオブラートに包んで――包めていない気がするけど――発したセリフなのではないか。つまり凜ちゃんは内心ではキレているに違いない! しかしなぜ!? 僕が挙動不審だから? 会話が続かないから? それだけでキレちゃう?
「凜ちゃん、すごい質問するね……」驚くべきことに先輩も困惑していた。「私でも初対面でその質問はしないよ」
須藤教授もこめかみのあたりを押さえている。……自分の娘にあきれている?
いったい何が起きているのか? 僕には分からない。このツインテールの氷の人形のような女子高生のことがまったく分からない。凜ちゃんは止まらなかった。
「渡辺さん」
「は、は、はい……」
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