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春の章
2 G=肉球 × 新郎②
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今度こそ耳がおかしくなったのかと思った。出会って五分ほどの女子高生に「ゴキブリ食べたいですか?」と尋ねられてからの「素敵ですね」である。
しかも「素敵ですね」を言うとき、ちょっと恥ずかしそうに顔をそむけたの、なんで? どうしてそこだけかすかに感情を見せたのか? 急に凜ちゃんのことが歳相応の女子高生に見えてきて、僕は生つばを飲み込んだ。果たしてこれは本当に現実なのだろうか? 何か大事な隠された真意を僕が見逃しているだけなのか? 皮肉なのか?
僕が困惑と混乱の極みをさまよっていると、先輩が助け舟を出してくれた。
「虫オタじゃない普通の人が来てくれてよかったねー。凜ちゃん、それが嬉しいんだよね?」
「はい」凜ちゃんは一瞬だけ僕を見たかと思うと、すぐに視線をそらした。「うれしいです」
それでようやく僕は理解した。なんのことはない、凜ちゃんにとって「素敵ですね」とは「平凡ですね」「普通ですね」という意味だったのだ。オタクかという質問も、「虫オタクなのか?」という意味だとか。それからゴキブリの件について。凜ちゃんは僕がゴキブリを食べたいと思っているかどうか、本気で確認したくて尋ねたらしい。なぜかといえば、恐ろしいことに、ここ『虫の輪』に集まる人たちは、その質問に対してYESと答えたり、YESかNOかを真面目に検討するらしいのだ。だから凜ちゃんは、あの質問に対して僕がどう答えるか、きちんと確かめたかったらしい。そんなありえない問答が意味をなす世界が存在するとは、カルチャーショックである。このサークルのメンバーは全員宇宙人なのか?
三時を数分回った頃、男性二名が同時に部屋に入ってきた。
「うーっす。待たせたな」
と気だるげに入ってきた小太りにメガネの男性は、恐らく僕よりかなり年上に見えた。無精ヒゲが目立つ。
「すみません遅れましたっす」
いくらか申し訳なさそうなもう一人は長身痩躯で、シャープな顔立ちをしている。ホストでもやっていそうな雰囲気だが、年齢的には僕と一つか二つくらいしか違わないと見えた。
「はい二人とも遅刻。さっさと着席する」
部屋の中央の机を囲み、全員が席に着いた。僕はめちゃくちゃ緊張して背筋を伸ばした。
先輩が着席したまま指揮をとる。
「では本日も虫の輪、活動を始めます。本日の予定はLINEで連絡した通りです。まずは新規メンバーとの顔合わせ。終わり次第、斎藤くんの家におもむき、冬に採取しておいたカマキリ関連の処理。十八時から朱雀(すざく)で歓迎会。予約してあるので時間厳守。二十時解散予定。二次会は各自でお願いします。何か質問ある人っ?」
誰も手をあげない。
「ではさっそく……。ついに! ついに待ち焦がれた新規メンバーがッ!! 我らが虫の輪にやって参りましたアッ!!!」
それまでの事務的な口調が一転。先輩は一人椅子から立ち上がって選挙の立候補者のように訴えかけた。
「石橋(いしばし)くん以来だから、二年ぶりです! 私は感激を禁じえない! 私たちの心と共鳴する同士が現われたことに感動だよ! ありがとう渡辺くん! 君は本当に素晴らしい!」わけの分からない賞賛と皆の視線を浴びて、僕は身じろぎした。パイプ椅子がギコッと鳴った。「私たちはもう紹介が済んでいるので、遅れた二名、自己紹介をどうぞ」
先に手をあげたのは長身痩躯のホストっぽい人だった。切れ長の目は、甘い笑みの形。黒のシャツとチノパンで、シンプルにキメている。オシャレには気を遣うタイプと見える。女性にモテそうだ。
「どうも、理学部数学科三年エースにしてダークホース、石の橋をたたかず渡る、石橋渡(いしばしわたる)です。趣味はゴム銃とFPS。よろしくっす!」
鉄板ネタだったのか、颯爽と吹き抜ける風のように華麗にして鮮やかな自己紹介であった。続いてもう一人の小太り無精ヒゲ男。こちらはヤクザの事務所に出入りしていそうな雰囲気がある。
「化学科M2の斎藤だ。よろしく頼む」
あっさりした自己紹介だった。ちなみにMというのは修士課程、2は二年生らしい。単純計算で僕より五歳上だ。
「ちなみに斎藤くんは同じ研究室の後輩からゲスと呼ばれているそうです!」
「余計なコメントせんでいい!」
斎藤さんが先輩をたしなめた。
「では渡辺くんどうぞ」
「渡辺悠一です。地球科の一年です。趣味とか特技とかないですが、よろしくお願いします……」
これでも頑張ったほうだ。家で練習したからな。言い終わったところで斎藤さんから質問を受けた。
「どうしてこんなサークルに入ろうと思った? 普通、入ろうと思わんぞ?」
先輩以外がうんうんと頷いている。先輩は闇討ちにあった戦国武将みたいに驚愕していた。
「みんな反応おかしくない!?」
誰一人先輩に返事をしなかった。斎藤さんが続けて僕に尋ねる。
「無類の虫好きか?」
「そういうわけでは……」
僕は言い淀む。確かに僕もこんなサークルに所属することになるとは思ってもみなかった。虫が特別好きというわけでもないし、むしろ虫は気持ち悪いと思う。
四年間ぼっちになりたくなくて、藁にも縋(すが)る思いで入ったわけで。そんなんじゃやっていけないぞ、帰れ、とか言われるかもしれない。言いそうな顔してるし。だが他に言えることもなかったので、おずおずと口を開く。
「僕がこのサークルに入ろうと思った理由は……そこの壁にある写真です」
みなの視線が僕の視線の先に集まる。
「僕は何も取り柄がないですし、好きなこともやりたいこともないです。でも何かをして、何かになりたかったんです。そんなとき、猪俣先輩に出会って、正直よく分からないままここに来て、その写真を見ました。それでこのサークルの人たちに憧れました。理由はそれだけです、すみません」
本当に申し訳なさが募る。たぶんこの人たちは先輩ほどでないにしろ、かなりの虫好きなのだ。明確な興味、探求心、知的欲求――そういったものに裏付けられた選択をした人たち。僕だけが違う。それこそ虫が良すぎると言われるかもしれない。
僕は非難や失望の言葉を恐れて身構えた。
「謝ることねえよ」
小太りに無精ヒゲの斎藤さんは、意外にも優しい声で言った。
「自分がそう思ってそうしたなら、悪いことなんかねえんだよ。自信持て」
「さすが斎藤くん、良いこと言う」
「おまえはいちいちいらんコメントをせんでいい」
先輩から茶々を入れられ、ぶっきらぼうに返す斎藤さん。見た目は一歩間違えれば浮浪者かヤクザみたいで怖そうだけど、いい人なのかもしれない。
ほかに質問する人はなく、会は次の段階へ進んだ。
「渡辺くんを迎えるにあたって、虫の輪の活動目的や基本理念を確認しておきたいと思います。この理念に賛同できない人は、残念ながら虫の輪のメンバーになることはできません。というか、なられても困ります」
基本理念ってなんだろう? 会社や学校でいう創立者の思い、創業精神みたいなものだろうか? やはり大学という場所はすごいな、と僕は身を引き締める。
先輩は空咳を打つと、神妙に語り始めた。
「虫の輪の活動内容は、ご存じの通り、虫を探し、捕まえ、絞(し)め、料理し、食べること。基本はこれ! しかし正確に言うなら、自分で虫を探し、自分で捕まえ、自分で絞め、自分で料理し、自分で食べる! 『自分で』っていうところが超大事だからね」
と先輩はほとんど僕だけを見て念を押した。しかも机から身を乗り出して僕のほうに接近している。
「つまり現代社会における『食』は他人が捕まえ、他人が絞め、他人が料理し、私が食べる――こういうふうになりがち。例えば牛丼もお刺身も自分の代わりに誰かが生き物を育てたり、捕まえたりして、殺してくれてるっていう事実が実感しづらい! 牛丼やお刺身を見て牛やマグロが絞められてるところを想像する人なんていません! というか見たこともない! 誰も牛がぶち殺されるリアルなシーンを想像しながら牛丼食べたりしない! いたらよっぽど変人だ!」
先輩が座っていたパイプ椅子が派手に倒れた。「だよね!? 農家か漁師でもない限りそうだよね!?」と先輩はさらに前かがみになって顔も接近してくる。というかいつの間にか先輩の両手は僕の上着をすごい力でつかんでいる。なんだこのプレッシャーは!? 緊張のあまり先輩の話も質問も聞いたそばから抜けていってしまうので、僕はわけも分からず首を縦に振る。
「だからこその昆虫食なんだよ! 自分が食べるものは自分で捕まえて、自分の手で命を奪うんだよ! 命を奪うことの苦しさを、痛みを、残酷さを知るんだよ! 感じるんだよ! そして奪った命に感謝していただく! さらに私という人間が生きているということに思いを馳せる! 生(せい)の実感だよ!」
先輩の顔が近い。豊満な胸が自然と視界に入ってくるけど顔をそむけるのもどうかと思う。どうしたらいいんだ!? 斎藤さんパズドラやってるし! 凜ちゃんあくびしてるし! 石橋さんよだれ垂れてるし! 須藤教授電話してるし! 僕以外誰も聞いてねえ!?
「小さきもの、愛しきものの命をこの手で、他ならぬ私の手で奪う! 死をもって生を知る! ゴキブリだって、ハエだって、ウジムシだって生きているんだよ! 私も生きているんだよ! そして渡辺くん、君も! みんなも! 有限の命を、今この瞬間を、必死に生きてるんだよ! 巡り巡る命の繋がり――食物連鎖、食物網(しょくもつもう)の中に! どんな生き物も、単体で存在しているわけじゃないんだよ! 環境や他者との複雑な関係性の中に存在しているんだよ! 生きるために命を奪って! この場所に立っているんだよ! この宇宙に浮かぶ奇跡の星! 46億年の歴史を持つ! 宇宙船地球号の! 一員としてッ!!」
先輩の腕力がすさまじい。首が絞まる。僕の有限の命が途絶えそうになる。まさしく虫の息。
「んで、一言で言うとなんなんだ?」
斎藤さんが横やりを入れたおかげで、僕は一命を取りとめた。
「一言で言うと……?」
先輩が平常通りの先輩に戻り、倒れた椅子を起こして座りなおした。
「小さな命の存在を感じながら、大切にいただきましょう! 虫を食べることは、世界と私たちの未来について考えることです!」
最後はなんだか壮大すぎて、僕にはよく分からない。世界? 未来? どちらも虫とは関係なさそうだけど……。
「よくやった。最初からそうしろ」
斎藤さんはまったく心のこもっていない賛辞を送った。パスドラしながら。そして勝手に「会議は以上」と宣言した。
しかも「素敵ですね」を言うとき、ちょっと恥ずかしそうに顔をそむけたの、なんで? どうしてそこだけかすかに感情を見せたのか? 急に凜ちゃんのことが歳相応の女子高生に見えてきて、僕は生つばを飲み込んだ。果たしてこれは本当に現実なのだろうか? 何か大事な隠された真意を僕が見逃しているだけなのか? 皮肉なのか?
僕が困惑と混乱の極みをさまよっていると、先輩が助け舟を出してくれた。
「虫オタじゃない普通の人が来てくれてよかったねー。凜ちゃん、それが嬉しいんだよね?」
「はい」凜ちゃんは一瞬だけ僕を見たかと思うと、すぐに視線をそらした。「うれしいです」
それでようやく僕は理解した。なんのことはない、凜ちゃんにとって「素敵ですね」とは「平凡ですね」「普通ですね」という意味だったのだ。オタクかという質問も、「虫オタクなのか?」という意味だとか。それからゴキブリの件について。凜ちゃんは僕がゴキブリを食べたいと思っているかどうか、本気で確認したくて尋ねたらしい。なぜかといえば、恐ろしいことに、ここ『虫の輪』に集まる人たちは、その質問に対してYESと答えたり、YESかNOかを真面目に検討するらしいのだ。だから凜ちゃんは、あの質問に対して僕がどう答えるか、きちんと確かめたかったらしい。そんなありえない問答が意味をなす世界が存在するとは、カルチャーショックである。このサークルのメンバーは全員宇宙人なのか?
三時を数分回った頃、男性二名が同時に部屋に入ってきた。
「うーっす。待たせたな」
と気だるげに入ってきた小太りにメガネの男性は、恐らく僕よりかなり年上に見えた。無精ヒゲが目立つ。
「すみません遅れましたっす」
いくらか申し訳なさそうなもう一人は長身痩躯で、シャープな顔立ちをしている。ホストでもやっていそうな雰囲気だが、年齢的には僕と一つか二つくらいしか違わないと見えた。
「はい二人とも遅刻。さっさと着席する」
部屋の中央の机を囲み、全員が席に着いた。僕はめちゃくちゃ緊張して背筋を伸ばした。
先輩が着席したまま指揮をとる。
「では本日も虫の輪、活動を始めます。本日の予定はLINEで連絡した通りです。まずは新規メンバーとの顔合わせ。終わり次第、斎藤くんの家におもむき、冬に採取しておいたカマキリ関連の処理。十八時から朱雀(すざく)で歓迎会。予約してあるので時間厳守。二十時解散予定。二次会は各自でお願いします。何か質問ある人っ?」
誰も手をあげない。
「ではさっそく……。ついに! ついに待ち焦がれた新規メンバーがッ!! 我らが虫の輪にやって参りましたアッ!!!」
それまでの事務的な口調が一転。先輩は一人椅子から立ち上がって選挙の立候補者のように訴えかけた。
「石橋(いしばし)くん以来だから、二年ぶりです! 私は感激を禁じえない! 私たちの心と共鳴する同士が現われたことに感動だよ! ありがとう渡辺くん! 君は本当に素晴らしい!」わけの分からない賞賛と皆の視線を浴びて、僕は身じろぎした。パイプ椅子がギコッと鳴った。「私たちはもう紹介が済んでいるので、遅れた二名、自己紹介をどうぞ」
先に手をあげたのは長身痩躯のホストっぽい人だった。切れ長の目は、甘い笑みの形。黒のシャツとチノパンで、シンプルにキメている。オシャレには気を遣うタイプと見える。女性にモテそうだ。
「どうも、理学部数学科三年エースにしてダークホース、石の橋をたたかず渡る、石橋渡(いしばしわたる)です。趣味はゴム銃とFPS。よろしくっす!」
鉄板ネタだったのか、颯爽と吹き抜ける風のように華麗にして鮮やかな自己紹介であった。続いてもう一人の小太り無精ヒゲ男。こちらはヤクザの事務所に出入りしていそうな雰囲気がある。
「化学科M2の斎藤だ。よろしく頼む」
あっさりした自己紹介だった。ちなみにMというのは修士課程、2は二年生らしい。単純計算で僕より五歳上だ。
「ちなみに斎藤くんは同じ研究室の後輩からゲスと呼ばれているそうです!」
「余計なコメントせんでいい!」
斎藤さんが先輩をたしなめた。
「では渡辺くんどうぞ」
「渡辺悠一です。地球科の一年です。趣味とか特技とかないですが、よろしくお願いします……」
これでも頑張ったほうだ。家で練習したからな。言い終わったところで斎藤さんから質問を受けた。
「どうしてこんなサークルに入ろうと思った? 普通、入ろうと思わんぞ?」
先輩以外がうんうんと頷いている。先輩は闇討ちにあった戦国武将みたいに驚愕していた。
「みんな反応おかしくない!?」
誰一人先輩に返事をしなかった。斎藤さんが続けて僕に尋ねる。
「無類の虫好きか?」
「そういうわけでは……」
僕は言い淀む。確かに僕もこんなサークルに所属することになるとは思ってもみなかった。虫が特別好きというわけでもないし、むしろ虫は気持ち悪いと思う。
四年間ぼっちになりたくなくて、藁にも縋(すが)る思いで入ったわけで。そんなんじゃやっていけないぞ、帰れ、とか言われるかもしれない。言いそうな顔してるし。だが他に言えることもなかったので、おずおずと口を開く。
「僕がこのサークルに入ろうと思った理由は……そこの壁にある写真です」
みなの視線が僕の視線の先に集まる。
「僕は何も取り柄がないですし、好きなこともやりたいこともないです。でも何かをして、何かになりたかったんです。そんなとき、猪俣先輩に出会って、正直よく分からないままここに来て、その写真を見ました。それでこのサークルの人たちに憧れました。理由はそれだけです、すみません」
本当に申し訳なさが募る。たぶんこの人たちは先輩ほどでないにしろ、かなりの虫好きなのだ。明確な興味、探求心、知的欲求――そういったものに裏付けられた選択をした人たち。僕だけが違う。それこそ虫が良すぎると言われるかもしれない。
僕は非難や失望の言葉を恐れて身構えた。
「謝ることねえよ」
小太りに無精ヒゲの斎藤さんは、意外にも優しい声で言った。
「自分がそう思ってそうしたなら、悪いことなんかねえんだよ。自信持て」
「さすが斎藤くん、良いこと言う」
「おまえはいちいちいらんコメントをせんでいい」
先輩から茶々を入れられ、ぶっきらぼうに返す斎藤さん。見た目は一歩間違えれば浮浪者かヤクザみたいで怖そうだけど、いい人なのかもしれない。
ほかに質問する人はなく、会は次の段階へ進んだ。
「渡辺くんを迎えるにあたって、虫の輪の活動目的や基本理念を確認しておきたいと思います。この理念に賛同できない人は、残念ながら虫の輪のメンバーになることはできません。というか、なられても困ります」
基本理念ってなんだろう? 会社や学校でいう創立者の思い、創業精神みたいなものだろうか? やはり大学という場所はすごいな、と僕は身を引き締める。
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「虫の輪の活動内容は、ご存じの通り、虫を探し、捕まえ、絞(し)め、料理し、食べること。基本はこれ! しかし正確に言うなら、自分で虫を探し、自分で捕まえ、自分で絞め、自分で料理し、自分で食べる! 『自分で』っていうところが超大事だからね」
と先輩はほとんど僕だけを見て念を押した。しかも机から身を乗り出して僕のほうに接近している。
「つまり現代社会における『食』は他人が捕まえ、他人が絞め、他人が料理し、私が食べる――こういうふうになりがち。例えば牛丼もお刺身も自分の代わりに誰かが生き物を育てたり、捕まえたりして、殺してくれてるっていう事実が実感しづらい! 牛丼やお刺身を見て牛やマグロが絞められてるところを想像する人なんていません! というか見たこともない! 誰も牛がぶち殺されるリアルなシーンを想像しながら牛丼食べたりしない! いたらよっぽど変人だ!」
先輩が座っていたパイプ椅子が派手に倒れた。「だよね!? 農家か漁師でもない限りそうだよね!?」と先輩はさらに前かがみになって顔も接近してくる。というかいつの間にか先輩の両手は僕の上着をすごい力でつかんでいる。なんだこのプレッシャーは!? 緊張のあまり先輩の話も質問も聞いたそばから抜けていってしまうので、僕はわけも分からず首を縦に振る。
「だからこその昆虫食なんだよ! 自分が食べるものは自分で捕まえて、自分の手で命を奪うんだよ! 命を奪うことの苦しさを、痛みを、残酷さを知るんだよ! 感じるんだよ! そして奪った命に感謝していただく! さらに私という人間が生きているということに思いを馳せる! 生(せい)の実感だよ!」
先輩の顔が近い。豊満な胸が自然と視界に入ってくるけど顔をそむけるのもどうかと思う。どうしたらいいんだ!? 斎藤さんパズドラやってるし! 凜ちゃんあくびしてるし! 石橋さんよだれ垂れてるし! 須藤教授電話してるし! 僕以外誰も聞いてねえ!?
「小さきもの、愛しきものの命をこの手で、他ならぬ私の手で奪う! 死をもって生を知る! ゴキブリだって、ハエだって、ウジムシだって生きているんだよ! 私も生きているんだよ! そして渡辺くん、君も! みんなも! 有限の命を、今この瞬間を、必死に生きてるんだよ! 巡り巡る命の繋がり――食物連鎖、食物網(しょくもつもう)の中に! どんな生き物も、単体で存在しているわけじゃないんだよ! 環境や他者との複雑な関係性の中に存在しているんだよ! 生きるために命を奪って! この場所に立っているんだよ! この宇宙に浮かぶ奇跡の星! 46億年の歴史を持つ! 宇宙船地球号の! 一員としてッ!!」
先輩の腕力がすさまじい。首が絞まる。僕の有限の命が途絶えそうになる。まさしく虫の息。
「んで、一言で言うとなんなんだ?」
斎藤さんが横やりを入れたおかげで、僕は一命を取りとめた。
「一言で言うと……?」
先輩が平常通りの先輩に戻り、倒れた椅子を起こして座りなおした。
「小さな命の存在を感じながら、大切にいただきましょう! 虫を食べることは、世界と私たちの未来について考えることです!」
最後はなんだか壮大すぎて、僕にはよく分からない。世界? 未来? どちらも虫とは関係なさそうだけど……。
「よくやった。最初からそうしろ」
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