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冬の章

12 赤の他人、黄色の他人⑤

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「先輩、今から僕のプランを聴いてください」
「プラン……?」
「そうです。驚かないで聴いてください」
 僕は息を吸って吐いて、もう一つの覚悟を決めた。考えるな、行動しろ……!
「先輩はすぐに社会人になりますが、僕は学生のままです。僕、先輩のために、料理もするし、掃除も洗濯も買い物も、家事は全部します! 先輩が仕事から疲れて帰ってきたら、部屋は綺麗に片づけて、先輩の好きな料理を作って、お風呂も沸かして待ってます! 料理スキルはちょっとずつ上がってるんで心配ないです! とにかくめんどくさいことは先輩が何一つやらなくていいようにします! 先輩は仕事から帰ってきたらダラダラしてください! 社会人の先輩は時間がなくてできないことがたくさんあるけど、学生の僕には時間だけはあるから。それに仕事の愚痴だって何時間でも聴きます! そうだ、朝ご飯だって作ります! 最高においしいコーヒーを毎朝淹れます。虫が食べたいって言われたら、頑張って捕まえに行きます! あと……仕事の送り迎えもできます! 僕、実は免許の教習に通ってるんです! バイト代貯めれば中古車くらいならきっと買えます! 休みの日に行きたいところがあったら、僕が運転します! 先輩はいつも助手席で座っているだけでいい! 全部、全部……先輩が仕事に集中できるように! 会社で昇進できるように! 趣味に時間が使えるように! 人生が少しでも素敵になるように! 虫の輪の活動が続けられるように! この国でもっと虫食いの文化が受け入れられるように! そのくらい、僕は先輩が好きなんです! だから、一緒にいてください! ご検討、お願いします!」
 つっかえつっかえだけど、言葉に力を込めて語った。考えずに言葉が口から出るのに任せてしゃべり続けたので、息が苦しいし、途中から何を言っていたか定かではない。愚かなことを口走った可能性もある。それでも構わない。
 僕の再告白を聞いた先輩は……ぽかんとしていた。
「ぷははははっ! 何それっ!? なんなの!?」先輩が腹を抱えて爆笑している……。「渡辺くん、家来か奴隷みたいじゃん!? ていうか、それってもう夫婦かよ!? 同棲前提!?」
「ま、まあ、確かに家来みたいですが……」
 先輩はヒイヒイ言いながら、やっと笑いをおさめた。人差し指で目尻の涙をぬぐっている。
「社会人になる先輩に、僕ができるのは、そのくらいのことなので……」
「君、私が好きな料理、知ってるっけ? 虫料理じゃなくて」
「すみません、知りません」
「ローメン」
「ラーメン?」
「いや、ローメンっていうの。長野の料理」
「それも絶対にマスターします!」
 先輩は嬉しそうに笑って、「じゃあ、一度本場を食べてみないとね」と、右手を差し出す。
 僕はその手の意味が分からなくて、先輩の顔を見た。
「あ、あの、これって……」
「握って?」
 ちょっと恥ずかしそうな先輩の微笑み。現実感が伴わないまま、僕は震える手で、先輩の手を握った。あの日、初めて先輩と出会って、虫の輪に入会したときのように。だけど今度は、僕の方から先輩の手を握ったんだ。
「そこまで言うなら、付き合おう? ホントに私なんかでいい?」
 そのセリフを聞いた瞬間は、僕はぽかんとしていたけど、だんだんと理解できてきて、喜びが体中にあふれた。
「は、はい!」
 ああ、これは夢じゃないんだ。いや、夢かも。握っていた手を放した後も、体も心もふわふわして、やっぱりまだ現実感がない。
「なんだか変な感じ」
「僕もです」
「私たち、恋人?」
「そうですよね? そういう理解で合ってますよね?」
「うん。合ってると思う」
「僕、嬉しいです」
「私も」
 嬉しいのだけど、嬉しさが大きすぎて、うまく受け止められないんだ。
「そろそろ帰りませんか」
「そうだね。帰ろうか」
 僕らは並んで歩いた。歩いたことがある道なのに、初めて歩く道のように感じる。
「渡辺くんに言われて思い出したけど」
 帰りのバスを待っているとき、先輩が言った。
「マダゴキの卵のこと忘れるくらい忙しかったみたい。秋にみんなの前でおねだりしたのが最後かな」
「先輩もマダゴキを育てたいんですか?」
「私は育てるのは趣味じゃないよ。たらこ、いくら、数の子、キャビア……卵のおいしさは自明だから」
「ゴキブリの卵を同列にしないでください。それ全部魚類ですから」
「まあまあ。きっとあれは珍味だよ。私のカンが言ってるもん。あー、食べてから卒業したい! 斎藤くん、くれないかなー。もらったら渡辺くんにもちょっとあげるね」
「か、考えておきます……」
 お腹の中でGが大量に生まれてきそうで怖い。
 でも、これが僕の好きになった人なのだ。
 美人ではあるけど、あえて選びたくはないと評される、虫食い女子大生。
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