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二度目の春の章

13 僕らの走光性(終)

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 春。静岡大学のメインストリートは、夢と希望にあふれる登山者たちで大変賑わっていた。
「こんにちは! 一緒に虫を食べませんか?」
 しんどそうに定年坂を登ってくる登山者――もとい新入生たちに、僕はチラシを配る。惰性で受け取ってくれる人もいるし、ギョッとして避けていく人もいる。
「渡辺くん、配れたっすか?」
「はい、二十枚くらいですかね」
「昨日より声が出せてますよ。確実に良くなってるっす」
「慣れたらだんだん恥ずかしくなくなってきました」
 長身でイケメンの石橋さんは、僕より多くのチラシをさばいていた。ためらわずにとにかく声をかけていくのがコツだという。なんだかコミュ力が鍛えられているような実感がある。
 これ以上やると一限目の講義に遅れるので解散した。満開の桜の木を眺めつつ、走って理学部棟へ向かう。坂と階段にも慣れたので、息切れせずに講義室までたどり着いた。
「おはよう、井上」
 時間ギリギリで滑り込んだ僕は、数少ない友人に挨拶をして隣に座った。窓際の良いポジションだ。
「うっす、渡辺。今日もギリだな」
「今日もチラシ配ってたんだけど、なかなか入ってくれそうな人がいなくて。一人くらい入ってくれるといいんだけど……」
 淡い期待を呟いて、カバンからノートや筆箱を取り出す。
「俺は入らないぞ。マンガ描くので忙しいから」
「マンガのネタが転がってるかも」
「それは……確かに。だが渡辺から話だけ聞ければいい」
 彼はマンガ研究会に所属している井上。漫画家を目指しているらしい。ゲームも好きで話がよく合うし、描いたマンガを見せてくれることもある。前髪は長くて邪魔そうで、メガネで、ぱっと見は陰キャで、中身も陰キャである。
 僕はいかにも陽キャな人物に声をかける度胸はないが、そうでない相手になら少しは声をかけることができようになった。
 教授が入ってきて、専門科目の講義が始まった。僕は講義の時間が好きだ。何の科目であっても、教授の話はたいてい面白い。静かに専門家の話に耳を傾け、ノートを取り、テキストを読む。そんな何気ない時間の愛しさ。
 窓から春風が舞い込んで、ふわりとテキストのページをめくった。
 窓の外に目を向ければ、桜、それから静岡の街並みと、富士山も見える。
 入学し立ての頃はこの景色にこんなにも親しみは感じなかったけれど、今はここが僕のいるべき場所だと感じられる。それもこれも、先輩に出会えたからだ。
 今、先輩は西に80キロ離れた浜松の本社にいて、新人研修で忙しくしているそうだ。たまに愚痴のようなメッセージが来ることがある。今週末には研修が終わって、静岡の支店に配属となるそうだ。
 講義が終わると、次は選択科目なので、学生はそれぞれの教室へ移動していく。井上は先に席を立った。
 僕はチラシ配りのほかに、メンバー獲得のために何かできないかと考えながら教室を出る。
 無意識のうちに足が須藤教授の研究室のほうへ向かい、ひと気のない三階に来ていた。廊下はしんとしている。……次の講義はこっちじゃない。いかんいかん。
 引き返そうとしたとき、談話スペースに一人の女性がいることに気付いた。
 テーブルの上に勧誘チラシの山を広げて、一枚一枚、目を通しているから、たぶん新入生だ。黒縁メガネ越しの眼差しは真剣で、希望、不安、焦り、緊張、迷いなど、多くの感情が渦巻いているように見えた。一年前の僕も、きっとあんな様子だったのだろう。
 そう、あれはもがいていたときの僕と同じ。
 今だって、もがいている。僕は自分を知るために、雑多なジャンルの本を読んだりして、がむしゃらに勉強することにした。あの日の僕が先輩という光を見つけたように、未来の僕がたくさんの光を見つけられるように。
 そして、いつか僕が先輩の光になれるように。
 チラシがテーブルの上からひらりと舞い落ち、彼女の視線がそれを追って僕に向いた。
「あのー、もしかして、どこのサークルに入るかで迷ってますか?」
 チラシを拾い上げつつ声をかけると、メガネの奥の瞳が警戒の色を示した。
「もし何も決まってないなら、うちのサークルに見学に来ないかな、と思いまして」
「な、なんのサークルですか?わたし、スポーツとかは、ちょっと」
「えっと、実は、虫を食……いや、そうじゃなくて……」
 虫を食べるのは単に活動内容の一つであって、サークルの表面的な情報に過ぎない。ならば、『虫の輪』の本質は他にあるわけで。なぜ僕らは虫を食べるのか? そうだ、いつか先輩が言ってたじゃないか。
 僕は精一杯ぎこちない笑顔を作った。
「昆虫食を通じて、世界と僕ら自身の、明るい未来を考えるサークルです」


 僕は駅の送迎レーンに車を停めて、車内の時計を見た。19時を少し過ぎている。ちょうどいい時間だ。
 駅の入り口のほうに目をやると、部活帰りの高校生や疲れた顔のサラリーマン、タクシーを待つ人の姿が目に映った。この街に住み始めて一年。平凡な日常の風景だけど、闇に浮かび上がるネオンや信号、車のライトさえも、一つ一つが宝石のように美しく見えて、ずっと眺めていても飽きない。
 やがて小雨が降り始め、傘を差す人がちらほらと目に付くようになった。
 まだかな……と、はやる気持ちを抑えて、じっとその時を待つ。
 駅の入り口に、一人のスーツ姿の女性を見つけたとき、僕は思わず車内から大きく手を振った。それに気付いたわけではないだろうが、その女性はカバンを雨除けにしながら、まだ慣れないであろうヒールの危なっかしい足取りで、真っ直ぐに駆けてくる。
 助手席のドアが開いた。
「渡辺くん、ありがとー!」
 飛び切りの笑顔で乗り込んできたのは、研修帰りの先輩だ。大学生の頃には見たことのない、フレッシュでパリッとしたスーツ姿。スカートから伸びるすらりとした脚が健康的かつセクシーで、真っ白なシャツを押し上げる胸元も、少々刺激的である。こんな魅惑的なお姉さんがやってきて「ウォーターサーバー、契約してくれませんか?」とお願いしてきたら、僕みたいなチョロい男は即決してしまうだろう。
「けっこう待たせちゃった?」
「いえ、全然です。それより先輩、おつかれさまでした」
 見慣れぬスーツ姿の先輩に、不覚にもドキドキした僕は、まっすぐ前を向いてハンドルを握った。
「いやー、疲れた疲れた。ああもう渡辺くん会いたかったよー!」
 運転席のほうへ体を傾けて肩に頭を乗せてくるので、サラサラの髪に首筋をくすぐられ、心臓の鼓動がさらに速まる。まだまだ僕は、先輩に甘えられることにも慣れていない。
「ぼ、僕も会いたかったです。ところで、先輩がどいてくれないと運転できないのですが……」
 それと、僕の太ももに置かれた先輩の片手が……いろいろとやばくてこれ以上言えない。
「だはーっ! あいかわらず硬いよ渡辺くん。りょーかいだけどー」
 先輩は助手席に座り直してシートベルトを締めた。すでにカバンは後ろの座席に放り投げた上に、ヒールも脱ぎ散らかしている。付き合う前から予想はしていたけれど、オンとオフの差が激しい人なのだ。
「じゃあ行きますね」
「ん、よろしくー」
 僕はエンジンをかけて、車を発進させた。
「夕飯の準備はできてるんですけど、どうします?」
「一回私のうちに寄ってくれる? シャワー浴びて着替えたいから」
「分かりました」
「ねえねえ、聞いてよ。入社式で私、一番手に挨拶したんだけど、なんかみんな笑っててねー」
「初日から何かやらかしたんですか!?」
「んー、私的には何もやらかしてないんだけど。むしろ張り切ってしゃべったのに」
「それ聞いたら、なんとなく想像が付きました……」
 そんな話をしながら、僕は先輩のアパートに向かって車を走らせる。
 僕らはまだ同棲はしていないけれど、あの告白のときに宣言した通り、先輩の送迎をしたり、ご飯を作って持っていったり、掃除を手伝ったりしている。
 これから先輩との生活がどうなるか分からないし、不安がないわけではないけど、僕らの未来は明るいと信じている。昆虫食の未来だって、まだまだこれからだけど、僕らは光に向かって、地道に羽ばたき続けていきたい。
「そういや、サークルに入ったっていう女の子、どんな子なの? 可愛い?」
「えっと……今のところ僕みたいに地味なタイプですけど……次回も来るって言ってたので、先輩も来ます?」
「そこは『先輩のほうが断然可愛いですね』とか言ってくれないかなー!」
「それは、もちろん先輩のほうが素敵です」
「うむ、よろしい」
「それで、来週の虫の輪はどうしますか?」
「行く行く! 名誉会長として、その娘にも虫食いの心得を伝授しないと!」
「話は短めにお願いします」
「任せといてよ」
 そうは言っても、結局忘れて熱弁するんだろうな、と僕は苦笑する。
 先輩はそんなことには気付かず、隣で間の抜けた鼻歌を歌いながら窓の外を眺めている。
 今年もまた、美人の先輩と虫を食べられると思うと、僕まで鼻歌を歌いたくなるのであった。


<終わり>
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