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1、暗き森からの使者

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 この街は夜でも眠らない。
 とうに日は落ちたが、通りにはネオンの下品な光があふれ、娼婦たちが酒臭い男どもに誘惑のまなざしを投げる。酔い潰れてゴミ箱の隣でくたばっている男から、別の男が財布を抜き取るところを、また別の男が煙草をふかしながらただ眺めている。どこかの酒場から大声で罵り合う声が聞こえるのは珍しいことではないし、酒瓶が派手に砕け散る音が続いても誰も気に留めない。警官の制服をまとった男がバーのオープンテラスにドカッと座っていて、浮浪者然とした老人から何か受け取り、パイプに火を点ける。
 路地を入ると真っ暗闇で、生ゴミやら犬のしょんべんやらの匂いが鼻を突く。ヒトにぶつかることはまずないが、犬の糞を踏んづけるかネズミの死骸を蹴飛ばすかしてお気に入りの靴を台無しにしないよう注意が必要だ。
 今、真っ暗の路地裏を、真っ黒のローブに身を包んで歩いている者がいる。時折表から差し込む灯かりにその姿が照らされる。身長は高くも低くもなく体格は痩せ型だ。コツコツコツという革製のブーツの音。
 靴音が止まった。行く手に大きな人影が現れたからだった。月明かりが巨体の上にちょこんと乗っかった出来損ないの饅頭みたいな頭を照らす。よく見ると巨体の左右には別の二人が控えていて、広くもない路地はそれだけでネズミ一匹通れなくなる。
「カネ、置いてけや」真ん中のでかいのではなく、横のが言った。「通行料じゃ」
 対する真っ黒のは何も言わないし動かない。目深なローブのせいで顔も見えないし、風の一つも吹かないので、ローブの中に生身が入っているかどうかさえ疑わしく思えるくらいだ。
「おい、聞いてんのか」同じ奴が声を張り上げた。それでも反応がないからナイフを抜いてギラリとした刃を見せつけ前に出る。「死にてえか?」
 そのままゆるゆる前進を続けてほんの二メールほどのところに来たかと思うと、いきなり地を蹴って切り掛かった。だがほんの一瞬の後、そいつは犬の糞を背中で潰した格好で月を見上げていた。当人も後ろでニヤニヤしながら見ていた二人も何が起こったか分からないといった様子だった。
「てめえッ!」犬の糞の野郎が憤慨して起き上がった。ただ突っ立っているだけに見える真っ黒の奴に再度切り掛かったが結果は同じ。同じ糞を今度は尻で潰すこととなった。というのも切り付けられたほうは切り掛かる勢いを最小限の動きで受け流すと同時に足を払っていたのだった。そのあまりに鮮やかな技は暗闇の中においては目を凝らしていてもほとんど察知不能なほどだ。
 無様に糞を二度潰した悪漢は、冷たい石畳に背中を付けたまま、ローブの中に光る赤い瞳を仰ぎ見て、目玉を見開き、背筋を震わせた。
「お、お、おまえは」
「次は顔だぞ」気だるげな声は男性のもので、比較的若い。決して脅すような調子ではなく、口を動かすのも面倒で仕方がないという印象だった。
「おまえは……カラス!?」糞の男が衝撃をもって尋ねると、後方の二人も「なんだと!?」と分かりやすいリアクションをした。
「おまえらみたいな野郎の顔を見たくないから、こんなクソまみれの道を通ってるんだ。分かるか?」カラスと呼ばれた男が赤い瞳に苛立ちの色を浮かべて見下ろすと、地面の男は怯えて「すすす、すみやせんでした」と尻で拭き掃除しながら後ずさった。三人組は称賛に値する速度でカラスの視界から消えた。
 カラスはフードを軽く引き下げると、またコツコツと静かな靴音を響かせて路地を歩いていく。表通りの賑やかさも華やかさも彼とは無縁だ。
 辿り着いた場所は廃れた雑居ビルが肩をすぼめて並んでいるエリアだった。そのうちの一つの、番地も看板もないビルに、カラスは入る。階段を上ると、ドアが一つあって、どうやらバーをやっているらしいが、看板の文字はくすんでしまって読めない。ギイイと音を立てて、中に入っていく。
 外観から想像するよりは案外綺麗な店内だ。控えめな照明が客のいないテーブルやカウンターを照らす。ちょび髭を生やした壮年の店主が煙草をふかしている。
「いらっしゃい。ご注文は?」
「ふざけるな。こっちはイラついてるんだ」
「なんだ? 珍しいじゃねえか。犬のうんこでも踏んだか?」
「犬のうんこに絡まれたんだ」
「そりゃ、お気の毒だ。犬のうんこが」店主は何が面白かったか、鼻で笑った。
「依頼は?」カラスは時間を無駄にした、とばかりに話題を変えた。「また殺しか?」
「いいや、俺も詳しく知らなんだ」店主は仕事の顔に戻った。「奥で待ってる。一番奥の部屋だ」
「いるのか!?」カラスの声には少しばかりの驚きが混じっていた。
「ああ、おまえが来るまで待つと言ったんでな。それにしても珍しい種類の客だぜ。口を聞いたのは俺も初めてだ」
「どういう意味だ?」
「会えば分かる」店主は顎で奥のドアを指した。
 カラスは店主の対応に目だけで不服を示し、渋々奥へ進んだ。廊下の左右にドアが並んでいるのは、ここがバーだけでなく宿でもあるからだ。突き当り左のドアをノックすると「どうぞ」と低い男の声がした。
 一瞬だけ店主の「珍しい種類の客」という言葉が脳裏をよぎったが、考えても仕方がない、とドアを開けた。ベッドと棚があるだけの小部屋に、二人の人物がいた。二人とも目深にフードを被っていたが、体格や気配から一人は年配の男、もう一人は若い女と見えた。
「ご足労、感謝致します」男が丁重に言って頭を下げた。それにならって、女も同様にした。「失礼ですが、あなた様がこの街一番の暗殺者――カラス様でいらっしゃいますか」
「カラスと呼ばれてはいるが、この街一番だと名乗ったことはない」
「ご謙遜なさらずに。無知なりにいろいろ調べさせていただきましたところ、あなた様の腕が最も信頼に足るとの結論に達しましたゆえ、こちらに足を運ばせていただきました」
「話は店主を通せば済むはずだ。どうして直接話す必要がある?」
「他人においそれと任せて帰れるような依頼ではないのでございます」
「殺しか?」
「いいえ、誘拐でございます。詳細をこれからお話致しますが、まずはご挨拶申し上げたいと存じます」男は淡々と述べ、そこで一呼吸置いて、フードを取った。女もそれに続いた。
 カラスは息を飲んだ。
 横にピンと伸びる尖った耳と、海色の瞳は、エルフ族の特徴だ。だがエルフ族が通常白い肌と金髪を持つのに対して、目の前の二人は青白い肌と銀髪を有していた。年配の男のほうは、生え際がだいぶ後退していたが。とにかくエルフ族と似ていながら、エルフ族ではない。
「ダークエルフか」
「その通りでございます。さすがはよくご存じで」嫌味ではなく素直な賛辞と見えた。実際にダークエルフというのはエルフと区別せずに語られることも多いのだ。
「……いや、ダークエルフと会うのは初めてだ。元来なら森の奥深くで、隠れるように暮らしていると聞くが……」
「ええ、我々はノースウッドの奥地で他種族との交流を避けて暮らしております。しかし、わけあってこの度は、こうしてカラス様のところまで足を運ばせていただきました」
 ノースウッドと言えばこの街から北へかなり行ったところの深い森だ。獣に襲われたり遭難したりする恐れがあるため、行商人も旅人も避けて通る。
 そんな場所に住んでいる者たちがわざわざ人間の暮らす街にまでやってきて、名のある暗殺者を訪ねたとなれば、特別な事情がないわけがない。
 ふとカラスは、話をしている男の隣で、ただ突っ立っているだけの女――というよりまだ少女――を見た。さっきから一言もしゃべっていないが、こいつは何のためにここにいるのか?
 嘘のように美しい少女だと思ったのは、彼女という存在の現実感の希薄さゆえかもしれない。まだカラスはこの少女の声を一度も聞いていないし、軽く引き結ばれた唇が動くところを見てもいないのだ。長いまつ毛に縁どられた瞳の青は、物寂しいような、孤高のような印象を与える。感情らしい感情も見えないし、見慣れぬ青白い肌をしているせいで、よく出来た人形を見ているような錯覚さえしてくる。
「失礼。大変申し遅れましたが、わたくしはロイド。こちらの娘はノーラと申します」
 ノーラは軽く頭を下げたが、相変わらずにこりともせず、感情の読めない瞳でカラスを見つめていた。
 カラスはとりあえず本題を進めることにした。 
「誘拐、と言ったな?」
「左様でございます」ロイドが背筋を伸ばした。「若いエルフの女性を、誘拐していただきたい。人数は多いほどありがたい」
「正気か?」カラスは思わず尋ねた。
「ええ。失礼ですが、ダークエルフとエルフの本質的な違いはご存じでございますか」
「いいや、知らない」
「聖樹の加護の中にあるかどうかだけでございます。エルフの村から何らかの理由で追放された者、自らの意思で村を出た者が集まり、聖樹の加護の届かぬところで暮らし始めました。すると次第に魔力は衰え、皮膚は青白く、髪は銀色へと変わっていきました。それがダークエルフと呼ばれる者たちの正体でございます」
「元は同じ種族だったと?」
「左様でございます。両者が地理的に分かれた要因からして、エルフとダークエルフは相容れない存在だと言えましょう」
「エルフが憎いだけで、わざわざ誘拐を依頼してくるとは思えん」
「ええ、我々も敵対する相手に進んで関わろうなどとは思いませぬ。ただ、我々は、聖樹の加護を失ったことで、繁殖能力もかなり失ってしまいました。自然というものは、弱者が滅び、強者が生き残るシステムでございますが、我々は自らの種が緩やかに滅びゆくのを、黙って受け入れるわけにはいかないのでございます」
「子種か」
「賢いお方でよかった。我々は種の存続のため、苗床を必要としております。しかし聖樹の加護を失い、魔力の衰えた我々が正攻法で戦っても、エルフには勝ち目がないのでございます。そこでやむを得ず他の種族にお力を拝借しようという結論に至りました」
「おまえたちの子作りのために、女をさらえと?」
「身も蓋もない言い方をすれば、そうなります」
 イカレた野郎だ、とカラスは思った。だがカラスに仕事を依頼する野郎で、真っ当なのなんて一人もいやしない。
「ダメだな」カラスは冷たく言い捨てた。「一人ならいい。偶然の事故、遭難、家出、なんとでも理由が付く。だが何人もとなると話は別だ。どんなにうまくやっても勘付かれて相応の報復をされる。エルフと戦争でもしたいなら別だが?」
「何もせずに滅ぶくらいなら喜んで戦争を起こす覚悟でございますし、あなた様のお力を借りることに、何ら引け目はございませぬ」
「ほう……」毅然とした回答に、カラスは少しだけ気持ちを動かされた。このロイドという男のことに、幾ばくかの興味を抱いたのだ。現代は戦争の時代ではない。剣や魔法よりカネが物を言う時代だ。だからこそ、かつて戦場に生きたカラスは――戦場の生き方しか知らないカラスは、世間から忌み嫌われ、昼間の表通りを歩くこともできず、こんなカビ臭い酒場の店主の仲介に頼って、安値で殺人を請け負っている。吹き溜まりのようなこの街しか、もう居場所はない。
 戦争が恋しいのだろうか? 戦場には居場所がある。居場所を作ることができる。もう一度、そんな時代がやってきたら――。だからロイドの馬鹿げた発言に、心が動いてしまう。
 とはいえ、ロイドがダークエルフという種の代表としてここにいるとしたら、ダークエルフという生き物はひどく時代遅れで、みんなイカレちまったのだと言っていい。世も末だ。
「誘拐の人数や質にも寄りますが、前金はこちらにございます」ロイドは懐から麻袋を取り出し、ティーテーブルに置いた。「金貨が十枚ございます」
「やるなんて一言も言ってない。それに報酬もこれっぽっちか? おまえたちのくだらない種族間戦争に巻き込まれるリスクを負うんだ。その程度なら、なおさら首を突っ込めるか」
「ノーラを」ロイドが背中を押すと、ノーラは一歩前に歩み出た。「この娘を付き人としてご自由にお使いください。この美貌に加え、賢く、従順で、魔法や戦闘にも優れた逸材でございます。全てカラス様の意のままにご使用ください」
 そのために連れてきたわけか。カラスは得心して改めてノーラを頭からつま先まで眺めた。やはり息を飲む美しさで、未だに精巧な人形のように思える。どんな声をしているのか気になり始めた。
「俺が仕事を受ければ、何でも言うことを聞くと?」
「はい」初めてノーラがしゃべった。その短い一言に、少女特有の涼やかさと仄かな甘さが感じられて、この腐敗した街から遥か遠いところにある古びた教会で、鐘が一つ鳴るのを聞いたかのような気分になった。
「本当だな?」
「はい」ノーラがこくりと頷いた。ロイドは『当然だ』という顔をしている。
「ならば今この場で自分の喉を切り裂いて死んでみせろ」
「はい」
 全ては一瞬の間に起こった。カラスはノーラの傾いた細い体を片腕で抱き留め、彼女の右手首を押さえていた。至近距離にノーラの顔がある。青い瞳は先ほどよりも少しだけ見開かれ、上下の唇もかすかに離れていた。それが驚きの表情なのだと、カラスはすぐに理解できた。ノーラの首から一筋の赤が伝っていく。天井に突き刺さった一本のナイフは、まだかすかに振動していた。
「本当にやりやがったな。今の命令は撤回だ」カラスはそう言って、ノーラを体から放した。
 するとノーラは何事もなかったかのように、感情の読めない顔に戻り、ただ突っ立っている。
 『何でも言うことを聞く』なんて言う奴は、たいてい覚悟ができておらず、その場限りのご機嫌取りをしているに過ぎない。だから『今すぐ死ね』と命令すると、ぽかんとしたり、困惑したり、それはできないと撤回したりするものだ。
 だがこの娘は、何の躊躇もなく自分の首をナイフで切り裂こうとした。しかも命令を聞いてから実行に移すまで、一秒もかかっていない。即断即決、即実行だった。カラスが瞬時に止めに入らなければ、刃は少女の細い首を深く抉っていたことだろう。
「おまえはバカか? おまえが血飛沫をまき散らして死んだら、この部屋の掃除はどうするんだ? 死体は?」
「わたし、する、掃除」
「自分の死体を自分で掃除する奴があるか」
 今度は数秒の間を置いて。「……なるほど。ベンキョー、なった」
「てめえ俺をバカにしてるなッ!?」カラスは思わず唾を飛ばした。
「違うのでございます、カラス様」冷や汗まみれのロイドが慌てて割って入った。「ノーラはまだ人間の言葉に不慣れでして、誤解のある言い方になってしまっただけでございます。大変失礼なことを致しました。二度とこのような無礼がないよう、きつく注意しておきますゆえ、お許しを」
「まあいい」カラスはこんなことで腹を立てている自分がバカらしく思えてきた。「とにかく従順なことは分かった」怒りがおさまると、今度は別の感情が腹の底から湧き上がってきた。それは笑い声になった。
 こいつらは頭がおかしい。それなのに、悪い気分じゃない。
「カ、カラス様? いったい、何が……」ロイドは哀れなほどそわそわし始めた。両膝を突き、祈るように両手を合わせる。「また何かご無礼を? 申し訳ございません。しかしどうか、どうか、ダークエルフの里に、一度足を運んでいただくだけでも……!」
「構わん」
 ロイドはゆっくりとカラスの顔を仰ぎ見た。
「……今、なんとおっしゃいました?」
「構わないと言ったんだ。ちゃんと前金はもらう」そこでカラスはノーラを見やる。「それに、こいつもいただく。なかなか面白い女だよ」
「は、はい! なにとぞ! なにとぞ、よろしくお願い致します!」
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