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2 うどんワールドカップ(終)
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翌朝、雪乃がアパートにやってきた。
「荷物はまとめてあるわよね?」
雪乃の後ろには黒服の男たち。
「あなたたち、荷物を運び出して」
「荷物はない」
俺はきっぱりと答えた。
「ない?」
雪乃の整った顔の、眉が片方だけわずかに上がる。
「聞き間違いかしら? あたしは昨日、荷物をまとめておくように、と……」
「この部屋にあったものは全部捨てた。必要なものは自分で持ってる。だから荷物を運ぶ必要はない」
雪乃はよほど驚いたのか、形の良い唇をぽかんと開けたが、すぐに失態に気づき、クールな面持ちを取り戻した。
「来て」
俺は黒服たち……雪乃のボディーガードに囲まれ、車へと案内された。
「あなた、どうして来る気になったの?」
「来ないと思っていたのか?」
「必ず来るという確信はなかったわ」
案外、この女は完璧ではないのかもしれない。そのほうが人間らしくていい。
だから俺はあえて雪乃が想像していなかったであろう理由を答えた。
「来月の家賃が払えないんだ」
「は?」
「来月の家賃が払えないから、行くことにした」
意外にも、雪乃は腹を抱えて「あっはっは!」と豪快に笑った。
俺は雪乃という美女に、俄然、人間としての興味がわいてきた。
雪乃は笑いをおさめて、
「あたしのことは、雪乃と呼んでくれていいわ」
「分かった。俺のことは瑠衣でいい」
「瑠衣、よろしくね」
「雪乃、こっちこそよろしく。だが、うどんワールドカップで俺は何をするんだ?」
「当然、最も歴史と権威ある職人部門に出場するわ。究極のうどんを打って、世界を驚愕させるのよ」
「待ってくれ、俺はうどんなんて作ったことがない」
雪乃は余裕の微笑みを浮かべて言い放つ。
「言ったじゃない? あなたがうどんの声を聞いて、あたしがうどんを打つのよ」
俺は姫川雪乃の豪邸に転がり込んだ。雪乃はとんでもなく金持ちだった。
見た目こそモデルのような美女だが、そんな外見からは想像がつかないほど、うどんへの情熱を持っていた。
実際、モデルの仕事をしているらしく、家を留守にすることも多かったが、忙しい仕事の合間を縫ってうどん作りに励んでいた。厨房に立つ雪乃は真剣そのもので、徹夜でうどんを打っていることもあれば、難しい顔をして何時間も小麦粉とにらめっこしていることもあった。あらゆることに妥協を許さない、まさに職人だった。
俺はというと、まず、うどん恐怖症を克服する必要があった。ずっとうどんを避けてきた俺にとって、うどんに近づき、うどんの声に耳を傾けるのは、精神的に辛かった。
だが、雪乃のうどんに対する情熱や誠実さを目の当たりにすると、こんなことで諦めてはいけないという気がしてくる。雪乃は俺に「タッグを組む」と言ったのだ。こんな俺を必要としてくれたのだ。だから、雪乃をひとりでワールドカップの舞台に立たせるわけにはいかない。
やがて俺はうどんに素手で触れるほど、うどん恐怖症を克服し、うどんを打つ雪乃の隣に立てるまでに成長した。
「このうどんは、なんて言ってる?」
作務衣(さむえ)姿の雪乃が、うどんの生地を素足で踏み踏みしながら聞いてきた。
俺は傍らに腰掛けて、その様子を眺めている。
「気持ちいい。もっと踏んでほしい、と」
「当然ね。あたしに踏まれたら誰だって嬉しいに決まってる」
「……」
「もっと気持ち良くしてあげるわ。ここ? ここがいいの? ほらほら、それともこっちがいいのかしら?」
そんなこんなで、俺たちはうどんワールドカップの日を迎えた。
岡山県倉敷市。
巨大なホールに集まった世界中のうどん職人たちと、大勢の観客。
今日、ここでうどん職人の頂点を決めるうどんワールドカップが開催される。
職人たちは会場に設置されたそれぞれのブース、つまり厨房で、同時にうどんを打ち始める。できあがったうどんを審査員が試食し、味や見た目を評価して順位を決定する。
雪乃は力強くうどんをこねる。その隣で俺は雪乃にうどんの声を届けるのが役目だ。
「瑠衣、あなた大丈夫なの? うどんの声は聞こえてるの?」
雪乃はうどん生地と格闘しながらも、横目で俺のことを気にしている。なんせ、大舞台を経験したことのない俺は朝から緊張で腹が痛い。
「ギリギリ聞こえるんだが、会場中のうどんの声が混ざって聞こえにくいんだ。観客もうるさい」
「全員条件は同じよ、なんとか集中して」
「分かってる」
だが集中しようとするほど、頭の中で無数の声が反響して、吐き気を覚えた。
「瑠衣、あなたは下がって休んでて」
「だけど、それじゃあ、うどんの声が」
雪乃は涼しい顔で、なんでもないことのように言い放つ。
「みくびってもらっては困るわ。うどんの声が聞こえなくても、究極のうどんの打ち方はあたしの全細胞に叩き込んであるんだから」
俺は勘違いをしていたらしい。
そもそも雪乃は世界トップクラスの職人の技術を持っている。しかも、他のチームは三人で作業を分担しているのに、雪乃だけは一人ですべての工程をこなすつもりだ。
「作業は全部あたしがやる。そうやって勝つことに意味があるのよ」
試合前にもそんなことを言っていた。うどんに対してはどこまでも完璧主義者なのだ。俺のサポートがなくたって、優勝してしまうかもしれない。
俺は必要ないのでは?
そんなことを考えたとき、
「だからって最後まで休んでていい、ってことじゃないから。うどん打つのって重労働なんだから、瑠衣の力で少しはあたしに楽をさせなさい」
素直じゃないところが雪乃らしい。
だけど嬉しかった。そんなことを言われたら、なおさら俺だけ休んでいるわけにはいかない。
「俺は大丈夫だ、試合が終わるまでは意地でも倒れたりしない」
雪乃は俺を横目で一瞥しただけで何も言わなかった。
俺は雪乃が全身全霊で打つうどんの声だけを無数のノイズの中から拾い上げる。
「雪乃のうどんは喜んでる。問題ない」
「当然ね」
ここまではほぼ完璧。
だが俺の体調は、うどんの生地をねかし、伸ばし、一本一本の麺に切っていく工程に入っても改善しなかった。
ときどき目を閉じ、耳を塞いで、ノイズを軽減させながら、だましだまし雪乃の隣に立ち続けた。
「あとは茹でるだけよ」
いよいよ終わりが近づいてきた。
雪乃は沸騰した鍋に、パラパラと麺をほぐしながら入れる。再び沸騰したら、吹きこぼれない程度に火を弱め、高い温度で茹で上げる。
俺はいっそう集中してうどんの声を聞いた。
……寒い。
どくん、と心臓が跳ねた。
あの冬の日に見捨ててしまったうどんへの後悔が蘇り、めまいがした。
「瑠衣? うどんはなんて?」
うまく呼吸ができず、調理台に両手を突いてしまう。
「瑠衣!? ホントに大丈夫なの!?」
俺がここで倒れれば、雪乃は試合続行どころではなくなる。俺たちは強制的に棄権とされる可能性さえある。
俺が恥をかくだけならいいが、雪乃に恥はかかせられない。雪乃は腐りかけていた俺に救いの手を差し伸べてくれた恩人だから。そして、雪乃が今日まで、どれほどの努力をしてきたか、俺だけは知っているから。
「寒いって言ってる。雪乃、火力をもう少し上げられるか?」
「これ以上火力を上げたら鍋が吹きこぼれるわ。それで火が消えたら目も当てられない」
雪乃の主張はもっともだ。
火力を上げるのはリスクが高すぎる。雪乃のうどん作りを見てきた俺はよく分かっている。
俺の個人的な感情で、この試合を台無しにするわけにはいかない。
今回も、救えない。
だけど、それで俺は後悔しないのか?
「だけどね」「だけど」
二人の声が重なった。俺は雪乃に先を譲る。
「瑠衣と会った日に、あたしはこう言ったでしょう? 『あたしは、あなたが聞いたうどんの声を無駄にしないと誓う』と。だから、うどんが『寒い』と言っているなら、火力を上げる。その一択よ」
雪乃は真剣な表情で、俺をまっすぐに見つめていた。
「……雪乃、ありがとう」
俺は素直に頭を下げた。
「それに、火力の調整はあなたがやりなさい」
「いや、待て、作業はぜんぶ雪乃がやるって……」
「仕方ないでしょ。うどんが満足できて、かつ吹きこぼれないギリギリの火力を維持するなんて繊細な作業は、瑠衣がうどんの声を聞きながら直接やるしかないじゃない」
「……いいのか?」
「あたしは究極のうどんで圧勝することにしか興味がないの。あなた、あたしの相棒だったら、一秒でも早くやりなさい」
雪乃ににらまれ、俺はコンロの前に立った。
深呼吸すると頭が少しすっきりした。
俺は母が怖かった。だけどあの冬空の下に放置されたうどんを見捨てたのは、他ならぬ俺の選択。
俺がうどんワールドカップに出場したなんて知ったら、母は鬼のように怒るに違いない。
だけど、俺はもう後悔しない。
後悔するような選択は、二度としたくない。
自分の頬を叩いて気合いを入れた。つまみをわずかに回して火力を上げる。鍋の様子を観察しつつ、さらにゆっくりと回していく。まだだ、もう少し。鍋は激しくぐつぐつと音を立て、泡が鍋のフチまで浮かび上がる。まだだ、あと少し!
うどんが喜ぶ声が聞こえた。鍋は今にも吹きこぼれそうだ。わずかにあふれた湯が鍋のフチを伝い落ちるが、コンロの火は消えない。
俺はうどんの声と鍋の様子と、つまみを握る指先とに全神経を傾け続けた。
「上出来よ」
雪乃が歩み出た。
「ご苦労様、あとは任せて」
麺を茹で終わったのだ。
俺はふらふらと後ろに下がり、床に尻もちを突いた。集中しすぎて頭がくらくらする。ふと見上げると、麺をザルに上げ、水洗いする雪乃の頼もしい背中があった。
なんだか懐かしさを感じながら、俺は目を閉じた。
「ただいま」
居間に入ると、こたつで母がお茶を飲んでいた。
「私の言いつけを破ってうどんワールドカップに出るなんて、どういうつもり?」
母は座ったまま静かに尋ねてきたが、明らかに怒りで震えていた。
「父さんは、実はうどん職人だったんだな。しかも、過去にうどんワールドカップに出場するほどの腕だった」
ワールドカップの日に感じた懐かしさの正体は、父のかすかな記憶だったのだろう。うどんを作る雪乃の後ろ姿が、父の背中と重なったのだ。
ガンッ!
母がテーブルを叩いた。
「あの男は家族よりうどんを選んだクズだよ。うどんのせいで私の人生はめちゃくちゃだ!」
「母さん、うどんは誰の人生も壊さない。うどんは、うどん以上でも以下でもなく、ただ存在するだけだ」
母が立ち上がって、つかみかかってきた。
「知ったような口をきくな! 出て行け! お前の顔なんて見たくもない! お前もあの男と同じだ!」
母は俺にビンタを食らわせたかと思うと、うずくまって泣き始めた。
ひどく哀れに見えた。
「……出て行くよ。だけど俺は家族を捨てたりしない。毎月お金を送る。ときどき様子も見に来る。じゃ」
母に背を向けて、その場をあとにした。
玄関ドアを開けると、雪乃が待っていた。
「ごめんなさい、声が聞こえちゃったんだけど、本当にこれでいいの?」
雪乃にしては、すっきりしない表情。
「いいんだ、今はこれで。だけど、いつかきっと母さんと一緒にうどんを食べるよ。俺自身が打った、究極のうどんを」
俺は歩き始める。青空を見上げながら。
その後ろを付いてくる雪乃の足音。
「だったら、特訓しなきゃね」
「ああ、いろいろ教えてくれ」
雪乃が急に走り出し、俺を追い抜いて振り返った。その顔には意地悪な笑み。
「教えてください雪乃様、でしょ?」
そうだ、今や雪乃は誰もが認める世界一のうどん職人。多少偉そうでも許されるだろう。
それに俺は、雪乃に救われた。雪乃と出会って、自分とも、うどんとも向き合えた。
だからどこまでも雪乃についていくと決めたのだ。
俺はわざとらしく、かしこまった口調で答える。
「世界一のうどん職人の技を、教えてください雪乃様」
おわり
「荷物はまとめてあるわよね?」
雪乃の後ろには黒服の男たち。
「あなたたち、荷物を運び出して」
「荷物はない」
俺はきっぱりと答えた。
「ない?」
雪乃の整った顔の、眉が片方だけわずかに上がる。
「聞き間違いかしら? あたしは昨日、荷物をまとめておくように、と……」
「この部屋にあったものは全部捨てた。必要なものは自分で持ってる。だから荷物を運ぶ必要はない」
雪乃はよほど驚いたのか、形の良い唇をぽかんと開けたが、すぐに失態に気づき、クールな面持ちを取り戻した。
「来て」
俺は黒服たち……雪乃のボディーガードに囲まれ、車へと案内された。
「あなた、どうして来る気になったの?」
「来ないと思っていたのか?」
「必ず来るという確信はなかったわ」
案外、この女は完璧ではないのかもしれない。そのほうが人間らしくていい。
だから俺はあえて雪乃が想像していなかったであろう理由を答えた。
「来月の家賃が払えないんだ」
「は?」
「来月の家賃が払えないから、行くことにした」
意外にも、雪乃は腹を抱えて「あっはっは!」と豪快に笑った。
俺は雪乃という美女に、俄然、人間としての興味がわいてきた。
雪乃は笑いをおさめて、
「あたしのことは、雪乃と呼んでくれていいわ」
「分かった。俺のことは瑠衣でいい」
「瑠衣、よろしくね」
「雪乃、こっちこそよろしく。だが、うどんワールドカップで俺は何をするんだ?」
「当然、最も歴史と権威ある職人部門に出場するわ。究極のうどんを打って、世界を驚愕させるのよ」
「待ってくれ、俺はうどんなんて作ったことがない」
雪乃は余裕の微笑みを浮かべて言い放つ。
「言ったじゃない? あなたがうどんの声を聞いて、あたしがうどんを打つのよ」
俺は姫川雪乃の豪邸に転がり込んだ。雪乃はとんでもなく金持ちだった。
見た目こそモデルのような美女だが、そんな外見からは想像がつかないほど、うどんへの情熱を持っていた。
実際、モデルの仕事をしているらしく、家を留守にすることも多かったが、忙しい仕事の合間を縫ってうどん作りに励んでいた。厨房に立つ雪乃は真剣そのもので、徹夜でうどんを打っていることもあれば、難しい顔をして何時間も小麦粉とにらめっこしていることもあった。あらゆることに妥協を許さない、まさに職人だった。
俺はというと、まず、うどん恐怖症を克服する必要があった。ずっとうどんを避けてきた俺にとって、うどんに近づき、うどんの声に耳を傾けるのは、精神的に辛かった。
だが、雪乃のうどんに対する情熱や誠実さを目の当たりにすると、こんなことで諦めてはいけないという気がしてくる。雪乃は俺に「タッグを組む」と言ったのだ。こんな俺を必要としてくれたのだ。だから、雪乃をひとりでワールドカップの舞台に立たせるわけにはいかない。
やがて俺はうどんに素手で触れるほど、うどん恐怖症を克服し、うどんを打つ雪乃の隣に立てるまでに成長した。
「このうどんは、なんて言ってる?」
作務衣(さむえ)姿の雪乃が、うどんの生地を素足で踏み踏みしながら聞いてきた。
俺は傍らに腰掛けて、その様子を眺めている。
「気持ちいい。もっと踏んでほしい、と」
「当然ね。あたしに踏まれたら誰だって嬉しいに決まってる」
「……」
「もっと気持ち良くしてあげるわ。ここ? ここがいいの? ほらほら、それともこっちがいいのかしら?」
そんなこんなで、俺たちはうどんワールドカップの日を迎えた。
岡山県倉敷市。
巨大なホールに集まった世界中のうどん職人たちと、大勢の観客。
今日、ここでうどん職人の頂点を決めるうどんワールドカップが開催される。
職人たちは会場に設置されたそれぞれのブース、つまり厨房で、同時にうどんを打ち始める。できあがったうどんを審査員が試食し、味や見た目を評価して順位を決定する。
雪乃は力強くうどんをこねる。その隣で俺は雪乃にうどんの声を届けるのが役目だ。
「瑠衣、あなた大丈夫なの? うどんの声は聞こえてるの?」
雪乃はうどん生地と格闘しながらも、横目で俺のことを気にしている。なんせ、大舞台を経験したことのない俺は朝から緊張で腹が痛い。
「ギリギリ聞こえるんだが、会場中のうどんの声が混ざって聞こえにくいんだ。観客もうるさい」
「全員条件は同じよ、なんとか集中して」
「分かってる」
だが集中しようとするほど、頭の中で無数の声が反響して、吐き気を覚えた。
「瑠衣、あなたは下がって休んでて」
「だけど、それじゃあ、うどんの声が」
雪乃は涼しい顔で、なんでもないことのように言い放つ。
「みくびってもらっては困るわ。うどんの声が聞こえなくても、究極のうどんの打ち方はあたしの全細胞に叩き込んであるんだから」
俺は勘違いをしていたらしい。
そもそも雪乃は世界トップクラスの職人の技術を持っている。しかも、他のチームは三人で作業を分担しているのに、雪乃だけは一人ですべての工程をこなすつもりだ。
「作業は全部あたしがやる。そうやって勝つことに意味があるのよ」
試合前にもそんなことを言っていた。うどんに対してはどこまでも完璧主義者なのだ。俺のサポートがなくたって、優勝してしまうかもしれない。
俺は必要ないのでは?
そんなことを考えたとき、
「だからって最後まで休んでていい、ってことじゃないから。うどん打つのって重労働なんだから、瑠衣の力で少しはあたしに楽をさせなさい」
素直じゃないところが雪乃らしい。
だけど嬉しかった。そんなことを言われたら、なおさら俺だけ休んでいるわけにはいかない。
「俺は大丈夫だ、試合が終わるまでは意地でも倒れたりしない」
雪乃は俺を横目で一瞥しただけで何も言わなかった。
俺は雪乃が全身全霊で打つうどんの声だけを無数のノイズの中から拾い上げる。
「雪乃のうどんは喜んでる。問題ない」
「当然ね」
ここまではほぼ完璧。
だが俺の体調は、うどんの生地をねかし、伸ばし、一本一本の麺に切っていく工程に入っても改善しなかった。
ときどき目を閉じ、耳を塞いで、ノイズを軽減させながら、だましだまし雪乃の隣に立ち続けた。
「あとは茹でるだけよ」
いよいよ終わりが近づいてきた。
雪乃は沸騰した鍋に、パラパラと麺をほぐしながら入れる。再び沸騰したら、吹きこぼれない程度に火を弱め、高い温度で茹で上げる。
俺はいっそう集中してうどんの声を聞いた。
……寒い。
どくん、と心臓が跳ねた。
あの冬の日に見捨ててしまったうどんへの後悔が蘇り、めまいがした。
「瑠衣? うどんはなんて?」
うまく呼吸ができず、調理台に両手を突いてしまう。
「瑠衣!? ホントに大丈夫なの!?」
俺がここで倒れれば、雪乃は試合続行どころではなくなる。俺たちは強制的に棄権とされる可能性さえある。
俺が恥をかくだけならいいが、雪乃に恥はかかせられない。雪乃は腐りかけていた俺に救いの手を差し伸べてくれた恩人だから。そして、雪乃が今日まで、どれほどの努力をしてきたか、俺だけは知っているから。
「寒いって言ってる。雪乃、火力をもう少し上げられるか?」
「これ以上火力を上げたら鍋が吹きこぼれるわ。それで火が消えたら目も当てられない」
雪乃の主張はもっともだ。
火力を上げるのはリスクが高すぎる。雪乃のうどん作りを見てきた俺はよく分かっている。
俺の個人的な感情で、この試合を台無しにするわけにはいかない。
今回も、救えない。
だけど、それで俺は後悔しないのか?
「だけどね」「だけど」
二人の声が重なった。俺は雪乃に先を譲る。
「瑠衣と会った日に、あたしはこう言ったでしょう? 『あたしは、あなたが聞いたうどんの声を無駄にしないと誓う』と。だから、うどんが『寒い』と言っているなら、火力を上げる。その一択よ」
雪乃は真剣な表情で、俺をまっすぐに見つめていた。
「……雪乃、ありがとう」
俺は素直に頭を下げた。
「それに、火力の調整はあなたがやりなさい」
「いや、待て、作業はぜんぶ雪乃がやるって……」
「仕方ないでしょ。うどんが満足できて、かつ吹きこぼれないギリギリの火力を維持するなんて繊細な作業は、瑠衣がうどんの声を聞きながら直接やるしかないじゃない」
「……いいのか?」
「あたしは究極のうどんで圧勝することにしか興味がないの。あなた、あたしの相棒だったら、一秒でも早くやりなさい」
雪乃ににらまれ、俺はコンロの前に立った。
深呼吸すると頭が少しすっきりした。
俺は母が怖かった。だけどあの冬空の下に放置されたうどんを見捨てたのは、他ならぬ俺の選択。
俺がうどんワールドカップに出場したなんて知ったら、母は鬼のように怒るに違いない。
だけど、俺はもう後悔しない。
後悔するような選択は、二度としたくない。
自分の頬を叩いて気合いを入れた。つまみをわずかに回して火力を上げる。鍋の様子を観察しつつ、さらにゆっくりと回していく。まだだ、もう少し。鍋は激しくぐつぐつと音を立て、泡が鍋のフチまで浮かび上がる。まだだ、あと少し!
うどんが喜ぶ声が聞こえた。鍋は今にも吹きこぼれそうだ。わずかにあふれた湯が鍋のフチを伝い落ちるが、コンロの火は消えない。
俺はうどんの声と鍋の様子と、つまみを握る指先とに全神経を傾け続けた。
「上出来よ」
雪乃が歩み出た。
「ご苦労様、あとは任せて」
麺を茹で終わったのだ。
俺はふらふらと後ろに下がり、床に尻もちを突いた。集中しすぎて頭がくらくらする。ふと見上げると、麺をザルに上げ、水洗いする雪乃の頼もしい背中があった。
なんだか懐かしさを感じながら、俺は目を閉じた。
「ただいま」
居間に入ると、こたつで母がお茶を飲んでいた。
「私の言いつけを破ってうどんワールドカップに出るなんて、どういうつもり?」
母は座ったまま静かに尋ねてきたが、明らかに怒りで震えていた。
「父さんは、実はうどん職人だったんだな。しかも、過去にうどんワールドカップに出場するほどの腕だった」
ワールドカップの日に感じた懐かしさの正体は、父のかすかな記憶だったのだろう。うどんを作る雪乃の後ろ姿が、父の背中と重なったのだ。
ガンッ!
母がテーブルを叩いた。
「あの男は家族よりうどんを選んだクズだよ。うどんのせいで私の人生はめちゃくちゃだ!」
「母さん、うどんは誰の人生も壊さない。うどんは、うどん以上でも以下でもなく、ただ存在するだけだ」
母が立ち上がって、つかみかかってきた。
「知ったような口をきくな! 出て行け! お前の顔なんて見たくもない! お前もあの男と同じだ!」
母は俺にビンタを食らわせたかと思うと、うずくまって泣き始めた。
ひどく哀れに見えた。
「……出て行くよ。だけど俺は家族を捨てたりしない。毎月お金を送る。ときどき様子も見に来る。じゃ」
母に背を向けて、その場をあとにした。
玄関ドアを開けると、雪乃が待っていた。
「ごめんなさい、声が聞こえちゃったんだけど、本当にこれでいいの?」
雪乃にしては、すっきりしない表情。
「いいんだ、今はこれで。だけど、いつかきっと母さんと一緒にうどんを食べるよ。俺自身が打った、究極のうどんを」
俺は歩き始める。青空を見上げながら。
その後ろを付いてくる雪乃の足音。
「だったら、特訓しなきゃね」
「ああ、いろいろ教えてくれ」
雪乃が急に走り出し、俺を追い抜いて振り返った。その顔には意地悪な笑み。
「教えてください雪乃様、でしょ?」
そうだ、今や雪乃は誰もが認める世界一のうどん職人。多少偉そうでも許されるだろう。
それに俺は、雪乃に救われた。雪乃と出会って、自分とも、うどんとも向き合えた。
だからどこまでも雪乃についていくと決めたのだ。
俺はわざとらしく、かしこまった口調で答える。
「世界一のうどん職人の技を、教えてください雪乃様」
おわり
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