わたしがヒロインになる方法

有涼汐

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1巻

1-3

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 重い片腕で目元を覆い、息を整えようと深く吸って吐いてを繰り返す。
 何とか息が落ち着いてきたところでギシッと足元に重みが加わる。それから両腕を掴まれて、シーツの上に縫い付けられた。
 目の前に現れたのは、赤い舌をチラリと見せた御影。彼は、今度は若葉の鼻を軽く舐める。

「んっ……」
ほぐれたし、そろそろ……いくぞ」

 そう言うと、御影は滑りを良くするように肉茎を数回秘所にこすりつけ、未だ誰も受け入れたことのないそこに、先端を少し押し込める。

「あっ、ひぅっ……」

 これから起こることへの恐怖に身体がわずかにこわってしまう。視線を彷徨さまよわせると御影はとろけるような笑みを浮かべながら、触れるだけの口付けを落とす。

「俺を見ろ」
「みか、げさん……」

 御影は恋人繋ぎのように指を交差させて若葉の手を握ると、腰を押し進めた。

「若葉……っ、くっ」

 指とは比べ物にならないほど太いものが、若葉の膣内へと挿入されていく。どれほど解され濡れそぼったとしても、初めての痛みがなくなるわけではないらしい。若葉はあまりの痛さに息を詰め、涙を流しながらいやいやと首を振った。
 やめてほしい、抜いてほしい。だけど御影のために耐えたいとも思う。相反する二つの気持ちが若葉の中でせめぎ合う。

「いっ、あ、あ、うっ」
「若葉、息吐け、止めんな」
「む、りぃっ、いたいぃ」

 まだ途中までしか入っていないのに、膣壁を押しひろげられる痛みと圧迫感で、お腹が苦しくてたまらない。両目を強くつむり、繋いでいる手を強く握り締めると御影の手の甲に爪が食い込む。

「見ろ、若葉。俺をちゃんと見ろ」
「うー、うーっ」

 次から次へと涙がこぼれていき、うまく言葉が紡げない。それでも言われた通りまぶたを上げ、かすんだ目で御影を見つめた。
 御影の顔がすぐ目の前にある。乱れた黒髪が頬に当たり、ぽたっと汗が一粒、若葉の顔に落ちてくる。優しい口付けが、額や鼻、頬と顔中に降ってくる。すると若葉の喉の力が少しずつ抜けていき、やっとまともに息ができるようになる。

「口開けろ……」
「は、い……」

 唇を開くと、熱くて肉厚な舌が若葉の口腔へと侵入してくる。口蓋こうがいを丹念に舐め回し、舌を擦り合わせ、若葉の身体の力が抜け切ったところで一気に奥まで突き入れた。

「んーっ、ん、んっ、んー」

 若葉はひときわ高く声を上げたが、それは全て御影の口の中へと吸い込まれていく。

「ん、はぁ……、全部入ったぞ」

 脚の間に御影の腰が密着し、熱く脈打った肉茎が自分の中でうごめいている。痛みと苦しみ、恥ずかしさ。いろいろな感覚が一気に若葉に襲い掛かり、知らず身体が硬くなる。

「は、はっ、ん……くる、しい……」

 唇が離れた瞬間、思わずそんな声を漏らす。と、絡めていた指がほどかれ、まるで子どもをあやすような優しい手つきで髪をかれた。繋がった下腹部は動かさないまま、御影はまた触れるだけの口付けを頬や鼻、首筋にも落としていく。
 辛抱強く続けられる穏やかな触れ合いに、硬くなった身体も次第にほぐれていく。
 繋がっている場所はまだじんじんと痛むが、先ほどよりはましになっていた。すると、若葉の意識は自然と膣内に収まる御影の肉棒に集中する。その熱さと硬さを改めて感じた途端、若葉の膣壁はぎゅっと締まった。

「くっ……、締めんな。結構こっちも我慢してんだから」

 御影は眉間にしわを寄せながら、深く息を吐いた。

「……我慢、してるんですか?」
「当たり前だろ。痛がってる相手にガツガツ突っ込むほどちくじゃない。それに、俺が初めての男なんだろ。優しくしたいし、気持ちよくしてやりたい」

 その優しさに胸がいっぱいになって、若葉はまた涙をこぼしそうになる。
 この人が初めての人で良かった。
 そんな想いを込めて、眉間に皺を寄せて汗を落とす御影に微笑んで見せる。

「……動いていいのか?」
「ん……」

 若葉は小さく頷いた。
 それを見届けた御影は雄々しくち上がったそれをギリギリのところまで静かに引き抜き、ゆっくりと奥に挿入する。再び襲ってきた痛みと苦しみに、若葉は唇を噛んで耐える。

「く、そ、さすがにきっつい……。けど、たまんないな……」

 御影はふっと笑うと、噛み締められている若葉の唇の隙間をぬるぬると舐めてくる。息苦しくなってうっすらと唇を開くと、容赦なく舌がねじ込まれた。舌を吸われ、唾液が口端から零れ落ちていく。その間も、御影の腰が止まることはない。
 強弱をつけながら抽挿ちゅうそうを繰り返し、膣壁をひろげるようにぐるりと掻き回し、若葉の身体を揺する。若葉は御影から与えられる甘いしびれに身体を徐々に支配され、あらがうことができなくなっていく。
 御影は若葉の腰を抱き寄せ、覆い被さりながら腰を揺らし続ける。若葉はそんな御影の背中に両腕を回し、必死にすがりながら嬌声きょうせいを上げた。

「あ、あ、あ……やぁ、も、いやぁっ」
「嫌じゃないだろ。こういう時はイイって言うんだよ」

 若葉は必死に首を横に振るが、御影の動きは止まらない。ごりごりと硬い亀頭で奥をえぐられ、そのたびに、若葉の膣内が収縮する。若葉は無意識のうちに両脚を御影の腰に絡め、リズムを合わせるように腰を動かし始めた。それに気付いた御影は笑みを浮かべると、若葉の耳朶みみたぶを噛み、穴に舌を挿し込んでくる。
 その間、御影の指が胸のいただきこすり、腰のラインを辿って下腹部を軽く押してきた。その瞬間、自分の中に入っているものの感触を再確認させられ、若葉の頭はさらに熱くなる。そのまま指は秘所へと向かい、隠れた花芯を擦る。真っ白になるような快感がまた若葉の全身を支配していく。

「や、や、それ、や、だめっつ、イっちゃう、またイっちゃうから」
「いいから、イけって。怖くないから」

 耳朶から首筋へと舌を這わせていた御影は、そう言ってさらに激しく花芯をなぶる。

「あ、あぁ、あ、ひぃ、だめ、だめ、だめぇぇえっ」

 両腕両脚を御影に絡めたまま、強く強く抱きつく。激しい快楽に若葉の身体はがくがくと痙攣けいれんし、頭はまるでのぼせているよう。酸素を取り込もうと息を吸い込むが、そんな若葉を見ても御影は腰を止めようとはしなかった。

「イッたか……。もう少し付き合え、な」
「やぁああ、あっ……!」

 くたりとシーツに沈みそうになる若葉の身体を抱え直し、腰を掴みながらひくついた膣壁を容赦なく擦り、突き上げる。達したばかりの敏感な身体に、また激しい快楽が駆け上がってきて、若葉の意識は飛びそうになる。御影は若葉の様子をうかがいながらも、激しく腰を動かしていく。
 ほとんど飛びかけた意識の中で奥をごりっと穿うがたれると、また若葉の頭が真っ白にはじける。膣内で膨れ上がった御影のものを無意識のうちにきつく締め上げれば、若葉を抱きしめる彼の身体が一瞬こわり、二、三度大きく震えるのを感じた。
 やがて御影が若葉の上に静かに倒れ込み、ゆるく抱きしめてくる。しばらくそのままお互い息を整え、けだるい空気の中を漂う。御影の身体は重くて熱い。が、それがむしろ心地よかった。
 少し息の収まった御影は若葉の頬を撫で、耳の付け根に口付けを落としてくる。
 初めて感じた人肌の感触は、普段持っている劣等感を消していってくれる。今腕の中にある温もりを忘れたくない。
 この痛みと幸せをくれた御影には、「ありがとう」と伝えたかった。


 身体が――というよりは背中と腰回りが熱い。そこに何かまとわりついている――そう気付いた若葉は、横向きに寝そべったまま、ずりずりと前に移動する。
 だがその熱い何かはまた腰に絡みついてきて、しかも若葉の身体を元の位置に引き戻す。状況の掴めない若葉は、反射的にまた身体を前方へとずらした。
 そこでふと、自分の部屋にあるベッドはこんなにも広かっただろうか、と気付く。
 重いまぶたを上げてみれば、カーテンの間から差し込む明るい日差しと、服が乱雑に落ちているフローリング、そしてゴミ箱周辺に散らばったティッシュや開封済みの小さなパッケージ。
 その異様な光景にぽかんと口を開けて顔だけ振り返ってみると、知った顔が寝息を立てていた。

「――っ!? ぎゃぁっ」

 驚いて、思わずさらに前方へと逃げてしまう。が、既にベッドの縁まで移動していたので、見事に床に落ちて思い切り膝をぶつけてしまった。

「いっ……つ……」
「……お前、朝から何してんだよ」

 御影が今の音で目を覚ましたのか、上半身裸で頬杖をつきながら若葉を見下ろしていた。

「あ、いえ……えっと……おはようございます」
「はよ……つっても、もう昼間……だな。若葉、シャワー浴びるか?」
「え、あ、っと……。み、御影さんお先に……どうぞ……」

 思考がまだ追いつかない状態で答えると、御影は笑いながらベッドを出る。そして若葉の頭を軽く撫で、触れるだけのキスを落としてからシャワールームへと向かった。
 ぼさぼさの頭に寝起きの顔を見られた。いや、そんなことはどうでもいい。
 若葉は昨夜の記憶をたぐり寄せる。
 こういう時ぐらい〝記憶が飛んじゃって覚えてないんです〟という常套句じょうとうくを使わせていただきたいが、これでもかというほどに記憶がある。今さらながら自分の酒の強さが恨めしい。
 自分はタクシーの中で寝てしまい、そのままお持ち帰りされて同意のもとに御影に抱かれたのだ。下腹部の違和感と、今いる部屋の状況が完璧なる証拠である。
 頭を抱えたいが、そんなことをしている場合ではない。とにかく服をかき集め、身に付ける。 恥ずかしさで死にそうだ。自分も自分だが、御影も御影だ。初心者相手に朝まで三回もさかるなんてどんなちく仕様だ。これが噂の絶倫か。
 頭の中でいろいろなことを考えながら着替えを済ませると、かばんに入れていたくしで軽く髪をかす。それからそろりと足を忍ばせ、玄関へと向かった。シャワールームからはまだ水の音が聞こえてくる。
 このまま立ち去ることをお許しくださいと両手を合わせてお辞儀をした若葉は、静かに、けれど素早く御影のマンションから出た。書き置きぐらい残すべきだったかと思うが、もう遅い。
 懸命に足を動かして駅へと向かうが、普段使わない場所をこれでもかと言わんばかりに使ったので、膝がガクガクして歩きにくい。まだ何かが入っているような感覚。昨夜のことがまた頭によみがえり、若葉は無性に恥ずかしくてたまらなくなった。



   第二章 間接キスはオムライスで


 若葉はふらふらになりながらも自宅に帰りつくと、大きく安堵の息を吐いた。一言メールぐらいしようかとも思ったのだが、そもそも御影の連絡先なんて知らなかったことを思い出す。
 月曜日は会社に行きたくない。ベッドに倒れこみながらそんなことを思うが、社会人である以上そういうわけにもいかない。
 御影とは部署も違う。顔を合わせる確率はさほど高くはないだろう。そう考えると、このまま知らないふりをして自然消滅――付き合っているわけじゃないけれど――を狙うのが一番か。そうすればいずれ、〝そんな一夜もありましたね〟なんて笑い話にすることもできるかもしれない。
 しかしこれで終わりにするなら、お礼ぐらい言っておくべきだった。こんな自分の初めてを貰ってくれたのだ――これでもかというほどに優しく、激しく愛撫あいぶして、頭も身体もどろどろに溶かして。神経が焼き切れて、脳が溶けてしまうような快楽。
 昨夜のことをありありと思い出し、若葉はつぶやく。

「……何あの顔、色気ありすぎでしょ……意味わからん」

 眉間にしわを寄せながら笑みを浮かべ、汗をしたたらせる御影。あの時の顔が目に焼きついている。
 モテる御影のことだ。あれを目にした女性は少なくないだろう。それでも、何故か自分が特別な人間になったような気持ちになる。
 付き合いたいなどというおこがましい願いは持っていない。あんなハイスペックな人に初めてを貰ってもらって、それ以上何を望むというのか。今回のことはまさしく奇跡のような出来事なのだ。
 あの御影に遠回しながらもお持ち帰りしてほしいと伝えられたのは、お酒の力だ。お酒すごい、けれど怖い。やはりいくら強いとはいえ、飲みすぎは良くない。これからはもっと気をつけないと。……といっても、あそこまで飲んだのは相手が御影だったからなのだが。
 だるい身体を引きずってシャワーを浴び、部屋着に着替えて温かい緑茶を飲んでくつろぐ。
 この土日には買い物に行こうと思っていたが、とにかく家にいよう。そう思い、頭の整理と体力の回復に全てを費やすことにした。


 月曜日。いつものように支度をして会社に向かう。そして、いつものようにカフェで紅茶を注文して外を歩いていたら、これまたいつものように朱利と出くわした。

「おはよう、若葉。……顔、疲れてるよ?」
「……うん、ちょっといろいろありまして」

 苦笑して見せれば、朱利はそれ以上突っ込むことなく「そっか」と言った。こういう時、何も聞かずにいてくれるのはありがたい。もし突っ込んで聞かれても、どう答えればいいのかわからない。
 それから他愛のない話をしながら会社に入り、お互いの部署へと向かった。
 自分のデスクに着き、パソコンを起動させる。紅茶を口に含み、一息ついた。ふと、御影から貰ったアップルティーのことを思い出す。途端に昨夜のことで頭が支配されそうになるのを、もう一口紅茶を飲むことで誤魔化した。頭を振り、徐々に仕事モードに切り替えていく。
 それからいつものように自分の仕事に没頭していると、主任から声をかけられた。

「鏑木さーん」
「はい」
「この商品の過去五年間の売り上げデータのまとめをくれますか。木曜日の会議で使いたいんですよ」
「わかりました。確か三年分はデータ化されてますけど、それ以前の二年分はしてませんよね?」
「そうなんです」

 主任はとてもさわやかな笑みを浮かべ、〝わかるでしょ?〟と言いたげな目で若葉を見る。
 つまり、資料室におもむきその書類を探し出して、データ入力をしろということだ。ため息をつきたくなるのを我慢しながら、若葉は〝魔の資料室〟と呼ばれる奥の資料室へ向かう。
 ここがそんな呼び方をされるのには理由がある。本来なら時系列で並んでいるはずの大量のファイルが、誰がどう整理したものかバラバラになっているのだ。さすがにここ三年分は整理してデータ化しているが、それ以前のものは使う機会も少ないため、まだ手がつけられていない。
 若葉は資料室に入ると、ジャケットを脱ぎ腕まくりをして、必要な資料を探す。まずは入り口付近の棚を上から順番に見ていくことにする。どこにあるかわからない以上、これが一番確実だろう。
 一時間が経った頃。お目当ての資料を全て見つけた若葉は、中央にある椅子に座り、机にべたっと顔をくっつけて一休みする。

「つっかれたー……。ここからデータ入力だなんて、本当、主任ちくなんじゃないかな……」

 少しぐらいここで休んでも怒られはしないだろう。十分くらいしたら部署に戻ろう。そしてデータ入力もしなければ。定時にはまだ二時間ほどあるが、少し残業して切りのいいところまで終わらせてしまおう。それで明日には終わらせて、一度主任に確認してもらう必要がある。
 効率の良い仕事の流れを思い浮かべながら、そろそろ戻ろうとジャケットを羽織る。すると、資料室のドアが開いた。そちらに目をやった瞬間、若葉の身体はギシッときしみ、そのまま動けなくなった。
 そこにいたのは御影だった。彼は全身から不機嫌なオーラを放出しながら、若葉を見据えている。

「みぃっ、かげ……さん……」

 まさに蛇ににらまれたかえる状態。何とか声を振り絞ってみるものの、最初の〝み〟が裏返ってしまう。
 一方御影は、つかつかと歩いてきて若葉の前に立ち、じっと見下ろしてきた。
 思わず『ひぃっ』と声を上げそうになるのを、必死に喉に力を入れてこらえる。その切れ長の目でそんな高いところから見下ろされると、相当な迫力になって怖い。
 どう見ても怒っている。それもかなりのレベルで。
 金曜のことはお互い同意のもとでいたした行為のはず。それなのに何故こんなに怒っているのか。
 混乱する頭の中で思い当たった答え。
 恐らく御影がシャワーを浴びている間に、何も言わずさっさと帰ってしまったから。それは、若葉程度の女に勝手に帰られたという意味でもあるし、口止めする前に帰られたという意味でもある。
 きっと御影は、一回寝ただけの自分が彼女面かのじょづらしてあの夜のことを言いふらし、面倒くさいことになるのを恐れたのだろう。だから口止めする必要があったのに、月曜の今日にいたるまでそれが叶わなかった。そう考えれば不機嫌になるのも理解できる。
 そう確信した若葉は、口を開きかけた御影をさえぎる。わかってはいても、本人にそれを突きつけられるのは怖くてたまらない。傷つきたくない。そう思い、一気にまくしたてた。

「こ、こ、この間は勝手に帰ってすいませんっ! 混乱して、とにかく頭の整理もしたくて帰りました! 記憶はあります! それ、で、その! そう! 一回寝たぐらいで彼女面かのじょづらなんてしませんから! ご、ご安心くださいませ! もちろん、今回のことは誰にも言いませんからぁああああ」
「は? お、おい! ちょっと待て……っ」

 言いたいことを言い切り、資料を抱えて脱兎だっとのごとく逃げ出す。後ろから引き留める声がしたが、聞こえないふりをした。他部署とはいえ課長に対して失礼だとは思ったが、そんなことも言っていられない。とにかく自分の部署に戻り、落ち着くことが先決だ。
 自分の席に座り息を整えていると、ふと一つの疑問が浮かんだ。
 何故、御影は資料室にやってきたのだろうか。あの資料室はあまり人の出入りがないところなのに。何か用事があったというのか。
 若葉は首を傾げながらも、持ち出した資料の確認をし始めた。


 やがて異動時期となり、朱利は要望通り秘書課へと配属が決まった。若葉といえば、総務課の一般事務を希望していたはずなのだが、廊下のボードに貼られた紙を見て絶句する。

「……なんで……」



 〝 辞令 
 総務課勤務 鏑木若葉殿
 ○年○月○日付をもって営業課勤務を命ずる。〟


 会社が決めたことだ。それをくつがえすことはまずできないというのはよくわかっている。わかってはいるが、〝何故〟という気持ちが若葉の心を支配していく。

「なんでだろうね……」

 朱利も驚きの表情で同意してくれるが、若葉としては今この場で頭を抱えてうずくまりたい気分だ。今まで一般事務として働き、それが自分に合っているとも思っていたので、現在の部署への残留を希望していたというのに。
 ため息をつきながら朱利と別れて総務課に戻る。すると主任がにこにこしながら声をかけてきた。

「今まで鏑木さんにはお世話になりましたね」
「……いえ、こちらこそお世話になりました」
「今日中に異動してもらうことになるから、片付けしてね。大丈夫、鏑木さんなら営業事務になってもうまくやっていけますよ」
「ありがとうございます。早速準備を始めます」

 主任に頭を下げて自分のデスクに戻り、片付けを始める。貰ってきた段ボール箱に自分の物を入れ、これから働くことになる営業課へと移動した。
 数分後、目的のドアの前まで来て、ため息をつく。
 何故、営業事務になったのか理解できない。営業として配属されるよりはマシだけど。
 少しの間考えていたが、ずっとここに立っていても仕方ない。重い箱を何とか片手で支え、ドアを開こうとする。と、勝手にドアが開き、中から男性が一人出てきた。自分と同じ年頃の、優しそうな男性だ。

「あ……」

 出入りの邪魔をしてしまったことに、若葉は焦る。

「す、すみません!」
「いや、こちらこそ。えっと……もしかして異動でこっちに? とりあえず入って」
「はい、ありがとうございます。鏑木と申します。本日からよろしくお願いします」
「鏑木さん……」

 箱を両手で持ち直してから頭を下げ、ドアの中に入る。若葉はこの男性の声に聞き覚えがあったが、どこで聞いたのかが思い出せない。おまけに男性にじっと見られている気もする。若葉が首を傾げると、彼は誤魔化すように笑みを浮かべた。

「ごめんね。今からみんな出ちゃうからさ、バタバタしてるんだ。俺やま、よろしくね。あ、課長は奥にいるから。それじゃね」
「はい、ありがとうございます」

 若葉は頭を下げて小山を見送ると、邪魔にならないようドアの側から離れ、フロアを見渡す。
 小山に続いて営業の人達が次々と出ていき、残っているのは営業事務とおぼしき女性が数人。奥には課長である御影が座っている。
 ――そう、営業課の課長は御影なのだ。
 まさかこんな形で、顔を合わせるとは思いもしなかった。先日資料室で逃げ出して以来だ。またもいつぞやの情事の記憶がよみがえり心臓が早鐘はやがねを打つが懸命に頭の隅に追いやり、深く息を吐いて平常心を保つ。
 御影のデスクまで歩いていき、頭を下げる。パソコンに向かって仕事をしている姿はさまになっていてやはりかっこよかった。

「本日からこちらに配属されました。鏑木です」
「あぁ、聞いてる。鏑木の席は聖川ひじりかわの隣になる。おい、聖川」
「はーい、こっちでーす」

 見れば綺麗な女性が笑いながらひらひらと手を振っている。つやつやストレートの髪に、丁寧にほどこされたナチュラルメイク。派手ではないのにお洒落しゃれな服装。同性なのについ見とれてしまう。

「詳しいことはあいつに聞け」
「はい、ありがとうございます。よろしくお願いいたします」

 聖川の隣の席に箱を下ろしつつ挨拶すれば、聖川は楽しそうな笑みを若葉に向ける。

「ふふ、あなたが鏑木ちゃんかー」
「え……っと?」
「あぁ、私、御影とか凛子と同期でね。噂は凛子からかねがね聞いているわ。可愛い後輩が頼ってくれるって言ってたから、私のことも同じように頼ってくれたら嬉しいな」
「あ、ありがとうございます! 凛子さんにはお世話になっておりまして……!」

 知らない部署に思わぬ繋がりがあったことに、若葉はほっとする。

「デスク片付けたら、仕事教えるわね」
「はい、よろしくお願いいたします!」

 お辞儀をして頭を下げると、ふと聖川が若葉の肩越しにちらりと御影を見る。続いて彼女は楽しそうな笑みをこぼしたが、若葉にはそれが何を意味しているのかわからない。
 首を傾げてみるものの、聖川は「なんでもないよ」と言うだけだった。


 その日の午前中は、聖川から営業事務の仕事を教えてもらった。彼女から指示をもらいつつ実際に業務をこなし、仕事の内容を把握していく。
 目まぐるしく時間は過ぎ、やがてお昼になる。すると他の営業事務の女性達も外に出ていき、フロアにはほとんど人がいなくなった。

「鏑木ちゃん、私達もご飯に行きましょう。付き合ってくれない?」
「ぜひお願いします!」

 聖川の誘いに大きく頷いた若葉は、お財布を持って彼女についていこうとする。と、まだフロアに残っていた御影に声をかけられた。

「鏑木、午後はやってもらう仕事がある」

 それを聞いて、聖川が先に反応した。

「もしかして、ファイリング?」
「あぁ、そうだ」

 何をファイリングするのかはわからないが、若葉は出来るだけ平静に答える。

「わかりました。戻ってきたら課長に声をおかけしますね」
「……」

 何故か御影の眉間にしわが寄る。思わず聖川の背中に隠れたくなったが、必死に足を床に縫いとめた。いったい何故、突然不機嫌になったのか。
 御影はムスッとしたまま、仕事を再開する。若葉はぐったりとした気分で聖川と並んで歩き出した。

「ふふ、あいつ。課長って呼ばれるの好きじゃないみたいだから。御影って呼んでやって」

 廊下に出ると、聖川が苦笑しながらそう教えてくれる。

「わかりました」

 なるほど、課長と呼んだから不機嫌だったのか。理由はよくわからないが、嫌だというのならこれまで通り御影さんと呼ぶことにしよう。
 そう決めて廊下を歩いていくと、今度は追ってきた女の子に声をかけられた。

「聖川さん! 鏑木さん! 私もお昼、ご一緒してもいいですか?」
「あら、おりちゃん。もちろんよー」

 沙織は同じく営業事務の子で、昨年入社したばかりだそうだ。ふわふわとしたロングヘアで、スタイルが良いのか、シンプルなオフィスカジュアルがとてもよく似合う可愛らしい子である。


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