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1巻
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序章
あの日、幼心にも煌びやかなその世界に息を呑んだのを、碧は覚えている。
星のように降り注ぐシャンデリアの明かりの下に、綺麗なドレスを着た人たちがたくさんいた。
花ケ崎碧は赤いリボンをつけたテディベアを両手でぎゅうっと抱きしめ、周囲を見回す。
赤い絨毯が敷かれた廊下に、花で飾られた階段。
どこを見ても、絵本の中みたいだ。
「ねえねえ、お父様」
「どうした?」
「ここにはお姫様が住んでるんでしょう? どんな人なのかしら?」
「はは、お姫様は住んでいないよ。ここは、いろいろな人たちをおもてなしするための館だよ」
「おもてなし?」
「んー、楽しんでもらうってことかな」
父の言うことをなんとなく理解した碧は、広場に連れていかれる。
そこには、碧の知らない言葉を話す人や、テレビで見たことがある人など、さらにたくさんの人がいた。
けれど、自分と年齢の近そうな子どもは見当たらない。
五歳の彼女にとって、大人しかいない空間はつまらないものだった。
最初はおとなしく椅子に座っていたが少しすると飽きてしまい、テディベアを抱きしめて館の中を探検することにする。
「お父様はいないって言ったけど、きっとお姫様がいると思うの。眠り姫みたいに眠ってるのかしら?」
テディベアに話しかけながら、階段を上り廊下を進む。そうして行き止まりで戻っては、道を変えた。
しばらくそうやって探検をしていると、さすがに歩き疲れてくる。
父のいる広場へ戻ろうと振り返った碧は、その先が真っ暗であることに気がつく。いまにもおばけが出てきそうだと思い、テディベアを強く抱きしめた。
「こ、怖くないもの。レディは、こんなことで怖がったりしないもの」
いついかなる時も、冷静であれと母に教えられている。
水滴が零れてこないよう目をぱちぱちと瞬き鼻をズッと啜ると、碧は恐る恐る明るいほうへ歩き出した。
小さな物音が耳に入り、肩をびくっと震わす。
テディベアがつぶれるほど抱きしめ、ますます早足で歩いた。
すると、またしても後ろから音が聞こえる。
その音がどんどん近づいてきて、碧はついに走り出す。
「うーうー、やああ」
やみくもに走り続け、ふいにテディベアを落とした。慌てて拾おうとし、そのせいで足がもつれてべしゃっと転んでしまう。
「うっ、うっ」
膝と手のひらが痛い。その上、怖い。こんなことなら、大人しく父のそばにいればよかった。
そこに突然、知らない人の声がした。
「おい」
「ひぃっ、う、う、うわあぁあああん」
碧はとうとう声を上げて泣き始める。
「うわ、泣くな! 泣くなって!」
それに驚いたのか、声をかけてきた人が焦って碧になにかを差し出した。
「ひぐっ、うっ?」
「これ、やるから。泣くな」
「なあに? これ」
「俺のお気に入りのガラス玉」
「綺麗」
碧はぐしぐしと涙を拭いて、手渡された大きなガラス玉を受け取る。
天井に向けて光に当てると、それは七色に輝いた。
「わああ」
先ほどまでの恐怖を忘れ、ガラス玉をくれた人を見上げる。
そこには、碧の知らない男の子が立っていた。意思の強そうな目つき、乱れた青みがかった黒髪。無造作に剥ぎ取ったであろう子供用のネクタイがポケットから見えている。
こちらをまっすぐに見つめてくる、綺麗な瞳へガラス玉越しに見入った。
じっと動かなくなった碧を心配したのか、男の子はしゃがんで覗き込んでくる。
「どうだ? 泣きやんだか?」
「ん、ありがとう」
碧が小さく頷いたことで、安心したように男の子が息を吐き出した。
「ほら」
いつまでも座り込んでいる碧に手が差し出される。碧はその手をとって、立ち上がった。
「あなたはだあれ?」
「俺は、くじょうこうが」
「コウガくん」
「お前は?」
「えっと、えっと、はながさきあおいです」
碧はできるだけレディらしくお辞儀をしてみせる。
絵本の中のお姫様のように綺麗な挨拶ができただろうか。
ドキドキして様子を窺う。
男の子は落ちていたテディベアを拾い、埃を軽く払って碧に手渡しながらまた尋ねる。
「こんなところで一人でなにしてたんだ? 迷子か?」
碧は、テディベアを受け取りつつ見栄をはって答えた。
「探検してたの」
「ふうん。なら、続きするか?」
「一緒にいてくれるの?」
「年下を守るのが年上のつとめだからな」
「あおい、五歳だもん」
「俺は八歳だ」
「じゃあ、お兄さんだ」
そこで二人は手を繋ぎ合う。碧は心細かったことも忘れ、男の子といろいろなところに忍び込んで遊んだ。
そして、いつの間にか眠ってしまったらしく、気がついた時には、自宅のベッドで朝を迎えていた。
パジャマ姿の碧は、リビングへ行き父に声をかける。
「お父様、昨日の男の子は?」
「碧、ご挨拶が先」
開口一番に尋ねると、母に叱られた。
「おはようございます。お父様、お母様」
碧は慌てて挨拶をし、父の膝に上ってもう一度同じ質問をした。
「男の子……。ああ、九条さんのところの煌雅くんか。昨日、遊んでもらっていたね」
「遊んでもらったんじゃないわ。一緒に探検したのよ! あの子とまた会える?」
「会えるとも。九条さんは、よくパーティーに出席するからね」
それからというもの、碧は父が出席するパーティーに連れていってもらい、煌雅と遊ぶようになる。彼の自宅へも遊びに行ったし、彼が碧の家に来ることもあった。
パーティーで会えば、二人で抜け出して会場を探検したり、庭に出て遊び回ったり。そのたびにドレスを汚すので母には怒られたが、煌雅と一緒に遊ぶことをやめることはなかったし、そのこと自体を両親に止められたこともなかった。
煌雅は強引で、碧が嫌だということも時々するけれど、本当に嫌なことはしない。それに碧が泣かないようにと気遣ってくれた。他の男の子がぬいぐるみを持ち歩く碧をからかっても、煌雅だけはそんなことはせず、碧の大事なテディベアも仲間として見てくれる。
乱暴な口調の時は怖いと思うけれど、いつも頼りになる彼は碧にとって家族以外で一番信頼できる人になっていた。
兄弟のいない碧にとって、煌雅は優しく頼もしい兄みたいな存在だったのだ。そして、その想いが恋心に変わるまで大した時間はかからなかった。
けれど幼い頃はともかく、成長するにつれ、二人は自分たちの立場を理解する。
碧の父は海運会社の社長で、碧はその一人娘だ。古くからある財閥といった家ではないものの、父の大切な会社を継げるのは碧だけ。つまり、婿をとって、その人に次の社長となってもらわねばならない。
父は娘に会社の経営を背負わせる気はないようだった。
そして煌雅は、大企業を経営する一族の嫡男だ。彼が婿入りすることなど、ありえない。
中学生になった碧は、父にも母にも、そのことを耳にたこができるほど言われ続けた。
碧からすれば、それは父親の都合であって、自分が煌雅と仲良くするのをやめる理由にはならないし、そうしたくもない。こんなことで煌雅と会えなくなるのは嫌だった。
父のことは大好きだ。大切だとも思っているが、家のことを背負わせようとするのは苦しくてたまらない。けれど、自分が一人娘だということも理解しているし、いつか覚悟しなければならない日だってくるだろう。
その日まではただ純粋に、口が悪くても心根がとても優しい彼のことを想っていたかった。
碧のくだらない話を聞き、ぶっきらぼうながらも相づちを打ち、優しい眼差しをくれる煌雅。彼にとって自分は特別な存在なのだと信じていた。たとえ、妹のようなものだとしても。
無造作に髪の毛を掻き上げる仕草も、スムーズなエスコートも大好きだった。
煌雅は碧の誕生日や、クリスマスには必ずプレゼントを用意してくれる。彼が自分のことを考えて用意したというだけで、嬉しかった。彼からもらえるものであれば、庭に咲いている花一輪だって喜んだだろう。
高校生になった煌雅の周りにはいつも人がいて、なんだか窮屈そうだった。実際、彼は碧と一緒にいる時は素になれると笑っていたこともある。
もともとスタイルがよい彼は、学生服でも私服でも、常に素敵だった。少しだけ着崩している姿にも、碧はどきどきしたものだ。
けれど二人が仲良くしていると両親が困った顔をするせいか、いつしか煌雅に避けられるようになる。
それまでは、休みの日や学校終わりに待ち合わせをしてカフェで話をしたり、どちらかの家でゆったりと過ごしていたりしたというのに、終わりを告げる鐘が鳴るのはあまりにも早かった。
連絡をとっても忙しいと断られ、偶然街で会っても視線を外され、会話も弾まない。
父に連れられてやってきたパーティーで久しぶりに話しかけても、煌雅は礼儀正しく挨拶をするだけで、まともな会話はしてくれなかった。
それが寂しくて、切なくて、煌雅に会う夜はいつもテディベアを抱きしめて泣いた。
四六時中に一緒にいたことが嘘みたいだ。
ただ一緒にお茶をし、本を読み、学校の話をする。そんな些細なこともできなくなってしまった。
初恋は実らないというのは本当らしい。
そのまま月日は流れ、碧が推薦で私立の大学へ進学が決まった頃、ある事件が起きる。
それが碧の人生の分岐点、そして、煌雅との完全な別離になった。
第一章 青天の霹靂
外の喧騒で目が覚めた。
壁が薄いこのアパートは、隣の声がひどく響く。
碧はのそのそと起き上がり、硬い身体を伸ばす。
やわらかなベッドで眠っていたのは、七年も前のことだ。この薄い布団にも、とっくに慣れた。
何年も前に安く買った洋服に袖を通し、量販品の食パンとインスタントのスープで朝食を済ませる。そして、ドラッグストアでそろえたバーゲン品で化粧をした。
鏡に映る自分の顔を見つめる。
「変わったなあ……」
顔色は健康そうだし、睡眠不足でも食事の量が少ないわけでもない。
順風満帆とはいかなくても、それなりに幸せだ。
ただ、時々昔がとても懐かしくなる。
碧の胸が切なく疼いた。こんな未練がましい感情を持ち続けても、いいことはないのに。
その想いを振り切るように、首を横に振る。
「……仕事行こう」
建付けの悪いアパートの扉を開け、部屋を出た。隣の部屋の夫婦喧嘩の声が大きくなる。
碧は聞こえないふりをして、廊下を足早に通りすぎた。
春とはいえ、朝方はまだ肌寒い。それでも降り注ぐ日差しの柔らかさが、心を慰めてくれた。
風を感じながら、碧は踵がすり減ったパンプスで駅へ向かう。
花ケ崎碧は、苗字を母の旧姓である窪塚に変え、父の会社ではなく中小企業で事務員をしていた。
* * *
事の起こりは、七年前。父が倒れたこと。
すぐに救急車を呼んだものの、父はくも膜下出血であっという間に亡くなった。
どうしようもない悲しみと苦しさのせいか、葬儀前後の記憶はあまりない。
一番深く覚えているのは、叔父達に騙されて会社と家を奪われたことだ。
父との思い出がたくさん詰まった家を追い出され、母と二人、路頭に迷うことになった。
もっとも母がすぐに安いアパートを探し、そこで二人暮らしを始めた。
碧は父が亡くなったことと、叔父たちに騙されたことが悲しくて、引きこもって泣き続けていたが、母は悲しいはずなのに嘆かず、早々に仕事まで決め、そして碧を励まし、どうにか前に進んできたのだ。
そんな逞しい母は、元々、父と結婚するまではキャリアウーマンだったという。仕事で知り合った父に猛アタックされ、会社を辞めて夫を支えるために家に入ったのだそうだ。
母の背を見て、碧は顔を上げた。
二人で頑張ろうと笑う母がいなかったら、碧の心は潰れていただろう。
それに、父の遺産のほとんどを叔父に取られたとはいえ、母の口座にも父はそれなりのお金を遺しておいてくれた。そのおかげで碧は、大学に進学できたのだ。
もちろん、当初予定していたお金のかかる私立ではなく、公立の大学を受け直した。私大に通うほどの余裕はなかったから。
いま考えると、父が亡くなってすぐにでも動かなければならなかったのは、かえってよかったのかもしれない。そのおかげで余計なことを思考せずに済んだ。
高校までの友人たちとは連絡しなくなった。碧が自分のことで手一杯で連絡できなかったせいでもあるし、彼女たちからも連絡はない。
それはもちろん、煌雅も同様だ。
父が倒れた頃は、彼とは会話らしい会話をしていなかった。
碧は高校生で、煌雅が大学生だったというのもあり、それぞれの世界があった。それでも、同じ年頃の令息、令嬢となればコミュニティは共通する。幼い頃から同じ顔ぶれで、お互いの近況を誰からともなく知ったりする。
煌雅は大学で知り合った女性と付き合っていて、よくクラブに出入りしているらしい。
碧には縁のない世界だった。クラブという場所は怖いところだと、友人や父から言われており、そんな場所に出入りしている煌雅のことを、知らない男性のようだと感じてしまう。
もう碧がよく知る彼は存在しないのだと思った。
それでも、父が亡くなった時に葬儀に来てくれた彼を見て泣いたことを覚えている。煌雅は、出会った時みたいに、少し狼狽えつつも傍にいてくれた。彼が以前のような距離で傍にいてくれたのは、あれが最後だ。
彼の家族は、父が亡くなっても碧たちに対する態度を変えなかったものの、碧にはかえってそれが辛く、自分から付き合いを断っている。
父の名義だったスマホを解約したのを理由の一つにした。全部なくし、リセットしてしまいたかった。そうでなければ、この先生きていけないとさえ思ったのだ。
そのくせ、新しく契約したスマホから彼の連絡先を消せないでいるのは未練だった。
人間関係を擬似的にリセットしたからといって、大学で新しい友人を作ることもできない。
当時の碧は、同じ大学に通う人達と価値観がずれていることがわからず、相手を傷つけるような言動をしていたのだ。
お金の心配をしたことがなく、割り勘という制度が存在することも知らなかった。これまでは、友人と食事に行く時は、誘った人間が全部支払い、両親が懇意にしているお店であれば自動的に両親へ請求がいったからだ。
はじめて行った居酒屋でお金を出すことに思い至らず、財布すら出さないでいたら同級生たちの顰蹙を買ってしまった。碧もなぜそんな目で見られるのかわからず、戸惑った。
また、父と一緒に行ったお店で食事をして帰ろうとし、女将に食事代を請求された。女将は困ったように笑って説明してくれた。
本来食事代というものはその場で支払うもので、以前は花ケ崎という名前の信用があったから、請求しなかっただけ。いまは花ケ崎家の令嬢ではない碧には、その信用がないのだと。
花ケ崎という名前に守られていない自分には価値がないのだ。
それでも、父には世話になったからと女将は奢ってくれた。そのことが恥ずかしくとも、碧にはその支払いをする所持金はなかったし、クレジットカードも止められていた。
本当の意味で、碧はわかっていなかったのだろう。令嬢でなくなるということがどういう意味を持つのか。
いまならそれがわかるけれど、当時の碧は混乱するばかりだった。母は必死に働いており、朝早くから夜遅くまで家を空けるのが当たり前になっていたのだ。その母に心配をかけたくなくて、ネットで普通というのはどういうものかを調べた。
そうして、自分がいかに恵まれていたのかに気づいたのだ。
苗字を変えることになったのは、そんな頃のこと。
ネットに、面白おかしく碧の情報が書かれたのだ。
曰く、「落ちた令嬢」。
事実を織り交ぜてはいるものの、そのほとんどは悪意にまみれた嘘だった。
母は夜の仕事をしていて、父に迫り結婚したことにされ、その財産がなくなったいま、娘の碧も同じ仕事に就いているのだろうなど、なんの根拠があるのか首を傾げたくなる内容である。
そんな記事を最初に見つけてきたのは、大学のゼミで隣に座っていた男性だ。彼は教室で笑いながら、記事を読み上げた。
その男性は、以前碧を遊びに誘った人だった。
ただその頃は、大学や変化した環境に慣れるのに必死で、「余裕がないので、お断りさせてください」と丁寧に断った記憶がある。
それからしばらく経って同じゼミの人たちで出かけた時、彼がお店に先に入り扉を開けて待ってくれなかった。それを「扉を開けておいてはくれないんですか?」と聞いてしまったのだ。
前まで碧が通っていたお店の人たちはそうしてくれたし、友人だった男性や煌雅はとても紳士的で、いつも女性をエスコートしてくれた。
しかも碧は、ゼミの男性が食事代を少し多めに出したのを強調したことに違和感を持ち、首を軽く傾げてしまったこともある。その無自覚な行動が彼は気に障ったのだろう。
煌雅はいつもなにも言わなかったし、恩に着せることもなかった。碧も、その代わりではないが、なにかあれば彼にプレゼントをしたりしていた。
当時の碧にはまったく理解できなかったが、あの時、ゼミの男性は自尊心を傷つけられたのだと、社会人になってからやっと気がついた。
自分の無知を何度恥じれば、彼らと同じ価値観を持てるのかわからなかった。
そんなふうに周囲を苛立たせ、お高くとまっていると思われていた彼女が事実ではないと訴えたところで、大学の同級生の多くは碧の言葉を聞いてくれなかった。
夜の仕事をしているのならいいだろうと迫ってくる男も出始め、辛い日々が続いた。温室育ちの碧は、枕営業の意味すら知らなかったのに。
しかも、世事に疎いせいで軽く躱すこともできずにいた。
そのストレスもあって、暴飲暴食を繰り返し、体重が十キロほど増えた。
やがて、悪意を真正面から浴びる碧の状況を知った母は、苗字を変えることを提案してくれたのだ。すでに名前を知られている同級生たちには意味がないかもしれないが、この先も同じ苦しみを味わわずに済むように、と。
碧は迷ったものの、結局その提案を受け入れた。
父のことは大好きだ。両親に笑いかけられると幸せだった。
だから、父の苗字である花ケ崎は、大切な宝物でもあった。
でも少しだけ、父を恨んでもいる。
なぜ、こんな早く亡くなってしまったのか。
なぜ、こんな辛い思いをしなければならないのか。
なぜ、こんな疲れた母を見なければならないのか。
そんなことを考えたって仕方がないし、父だってあんなに早く自分たちを置いていきたくなかっただろう。そうわかっていても、やり場のない気持ちを父にぶつけるしかなかった。
それに、いまの自分に花ケ崎の名前はすぎたものだとも感じていた。
過去を忘れて前を向くために、碧は苗字を変えたのだ。
それでも、大学に通うことは辛く苦しくて、自宅で煌雅から貰ったガラス玉を握りしめながらテディベアを抱きしめるのが日課になってしまった。
昔のように煌雅へ語りかけるように、テディベアに話しかけた。
今日どんなことがあって、どんなことを言われたのか。そんな中にも、少しだけ楽しいこともあるのだと。
父がいた時必ず門限には帰宅し、遅くなれば車を呼ぶことが当たり前だった。いまはどんなに遅くなっても歩いて帰る。そこではじめて、風の気持ちよさと花の香りを感じたことなど。
そうして半年近く経ち、やっと大学で友人ができた。
碧が同級生の嘘を信じてしまい、騙されそうになっているのを助けてくれたのだ。
彼女たちは親切にも、碧が端からどう見えるのかを教えてくれた。
碧のずれた言動が、時に人を傷つけている、と。
だからといって、碧を騙そうとしたり怖い思いをさせようとするのは違うのだと怒ってくれた。
そしてこの先、普通に生きていくのならば、価値観などを矯正したほうがいいと、あらゆることをアドバイスしてくれた。
元がお嬢様だから仕方がないが、口調もいまのままではお高くとまっているように思われると言われて、口調すら他の人とそんなにも違うのだと気がついた。
こうして碧はアドバイスに従い、仕草や口調などを矯正していったのだ。
彼女たちのおかげで、碧はなんとか周囲に溶け込めるようになった。
バイトも始めて、自分で働く大変さやお金を得る楽しさも覚えた。
次第に大学も楽しくなってきて、友人たちと一緒に旅行にも行った。自分たちで企画をし、宿や交通手段を決めて行動する。碧があのまま令嬢として過ごしていたら、決して知ることのできなかった楽しさだろう。
結果、大学を卒業し、就職もできた。
大企業というわけにはいかなかったが、安定した中小企業の事務だったので、母も喜んでくれた。
その日は母に誘われて、久しぶりに父とお祝いの時によく行ったレストランで食事をした。あの頃のように、綺麗なワンピースを新調できたわけではなかったが、自分のバイト代で買ったレースのワンピースは碧にとって自信の一つになった。
煌雅も知ったら、きっと喜んでくれただろう。
よくないとわかっていながらも、心の中で煌雅に話しかけるのが癖になってしまった。彼との思い出とガラス玉、それにテディベアが碧の心の支えだったのだ。
社会人になってからも、会社に慣れることや働くことに必死だった。
それでも、ふとした瞬間、昔のことを思い出す。いい加減吹っ切らないといけないのに、彼のことを夢見てしまう。
おとぎ話のように、いつか迎えにきてくれるんじゃないかと。
二十五歳にもなって、幼すぎる。
そもそも彼がいまの彼女を見ても、もう碧だと気づくことはできないだろうに。
* * *
会社の最寄り駅で電車を降りた碧は、後ろから声をかけられた。
「碧、おはよう」
「七海さん! おはよう」
「今日は珍しくギリギリだね」
「そうなの、朝少しぼんやりしちゃって」
七海は同じ会社の同僚だ。碧と同じ年ではあるが、彼女は転職組のため同期ではない。
社内で、碧が心を許せる一人だ。
その彼女が、表情を曇らせる。
「顔色悪いけど、ひょっとして、お母さんになにかあった? 大丈夫?」
「んー、特になにかあったわけじゃないから大丈夫。ただ、仕事は休めないみたいで……病院で検査したほうがいいとは伝えてるんだけどね」
碧の母は、最近体調を崩していた。家を追い出されてからこれまで、休みなく働き続けてきたせいだろう。
父が遺してくれたお金が多少あったとはいえ、それだけでずっと食べていけるわけがない。
日々の食費や衣服など、母が稼いで賄っていた。
だが、碧も働くようになったのだし、そろそろ母も仕事を抑えてもいい頃だ。
あの日、幼心にも煌びやかなその世界に息を呑んだのを、碧は覚えている。
星のように降り注ぐシャンデリアの明かりの下に、綺麗なドレスを着た人たちがたくさんいた。
花ケ崎碧は赤いリボンをつけたテディベアを両手でぎゅうっと抱きしめ、周囲を見回す。
赤い絨毯が敷かれた廊下に、花で飾られた階段。
どこを見ても、絵本の中みたいだ。
「ねえねえ、お父様」
「どうした?」
「ここにはお姫様が住んでるんでしょう? どんな人なのかしら?」
「はは、お姫様は住んでいないよ。ここは、いろいろな人たちをおもてなしするための館だよ」
「おもてなし?」
「んー、楽しんでもらうってことかな」
父の言うことをなんとなく理解した碧は、広場に連れていかれる。
そこには、碧の知らない言葉を話す人や、テレビで見たことがある人など、さらにたくさんの人がいた。
けれど、自分と年齢の近そうな子どもは見当たらない。
五歳の彼女にとって、大人しかいない空間はつまらないものだった。
最初はおとなしく椅子に座っていたが少しすると飽きてしまい、テディベアを抱きしめて館の中を探検することにする。
「お父様はいないって言ったけど、きっとお姫様がいると思うの。眠り姫みたいに眠ってるのかしら?」
テディベアに話しかけながら、階段を上り廊下を進む。そうして行き止まりで戻っては、道を変えた。
しばらくそうやって探検をしていると、さすがに歩き疲れてくる。
父のいる広場へ戻ろうと振り返った碧は、その先が真っ暗であることに気がつく。いまにもおばけが出てきそうだと思い、テディベアを強く抱きしめた。
「こ、怖くないもの。レディは、こんなことで怖がったりしないもの」
いついかなる時も、冷静であれと母に教えられている。
水滴が零れてこないよう目をぱちぱちと瞬き鼻をズッと啜ると、碧は恐る恐る明るいほうへ歩き出した。
小さな物音が耳に入り、肩をびくっと震わす。
テディベアがつぶれるほど抱きしめ、ますます早足で歩いた。
すると、またしても後ろから音が聞こえる。
その音がどんどん近づいてきて、碧はついに走り出す。
「うーうー、やああ」
やみくもに走り続け、ふいにテディベアを落とした。慌てて拾おうとし、そのせいで足がもつれてべしゃっと転んでしまう。
「うっ、うっ」
膝と手のひらが痛い。その上、怖い。こんなことなら、大人しく父のそばにいればよかった。
そこに突然、知らない人の声がした。
「おい」
「ひぃっ、う、う、うわあぁあああん」
碧はとうとう声を上げて泣き始める。
「うわ、泣くな! 泣くなって!」
それに驚いたのか、声をかけてきた人が焦って碧になにかを差し出した。
「ひぐっ、うっ?」
「これ、やるから。泣くな」
「なあに? これ」
「俺のお気に入りのガラス玉」
「綺麗」
碧はぐしぐしと涙を拭いて、手渡された大きなガラス玉を受け取る。
天井に向けて光に当てると、それは七色に輝いた。
「わああ」
先ほどまでの恐怖を忘れ、ガラス玉をくれた人を見上げる。
そこには、碧の知らない男の子が立っていた。意思の強そうな目つき、乱れた青みがかった黒髪。無造作に剥ぎ取ったであろう子供用のネクタイがポケットから見えている。
こちらをまっすぐに見つめてくる、綺麗な瞳へガラス玉越しに見入った。
じっと動かなくなった碧を心配したのか、男の子はしゃがんで覗き込んでくる。
「どうだ? 泣きやんだか?」
「ん、ありがとう」
碧が小さく頷いたことで、安心したように男の子が息を吐き出した。
「ほら」
いつまでも座り込んでいる碧に手が差し出される。碧はその手をとって、立ち上がった。
「あなたはだあれ?」
「俺は、くじょうこうが」
「コウガくん」
「お前は?」
「えっと、えっと、はながさきあおいです」
碧はできるだけレディらしくお辞儀をしてみせる。
絵本の中のお姫様のように綺麗な挨拶ができただろうか。
ドキドキして様子を窺う。
男の子は落ちていたテディベアを拾い、埃を軽く払って碧に手渡しながらまた尋ねる。
「こんなところで一人でなにしてたんだ? 迷子か?」
碧は、テディベアを受け取りつつ見栄をはって答えた。
「探検してたの」
「ふうん。なら、続きするか?」
「一緒にいてくれるの?」
「年下を守るのが年上のつとめだからな」
「あおい、五歳だもん」
「俺は八歳だ」
「じゃあ、お兄さんだ」
そこで二人は手を繋ぎ合う。碧は心細かったことも忘れ、男の子といろいろなところに忍び込んで遊んだ。
そして、いつの間にか眠ってしまったらしく、気がついた時には、自宅のベッドで朝を迎えていた。
パジャマ姿の碧は、リビングへ行き父に声をかける。
「お父様、昨日の男の子は?」
「碧、ご挨拶が先」
開口一番に尋ねると、母に叱られた。
「おはようございます。お父様、お母様」
碧は慌てて挨拶をし、父の膝に上ってもう一度同じ質問をした。
「男の子……。ああ、九条さんのところの煌雅くんか。昨日、遊んでもらっていたね」
「遊んでもらったんじゃないわ。一緒に探検したのよ! あの子とまた会える?」
「会えるとも。九条さんは、よくパーティーに出席するからね」
それからというもの、碧は父が出席するパーティーに連れていってもらい、煌雅と遊ぶようになる。彼の自宅へも遊びに行ったし、彼が碧の家に来ることもあった。
パーティーで会えば、二人で抜け出して会場を探検したり、庭に出て遊び回ったり。そのたびにドレスを汚すので母には怒られたが、煌雅と一緒に遊ぶことをやめることはなかったし、そのこと自体を両親に止められたこともなかった。
煌雅は強引で、碧が嫌だということも時々するけれど、本当に嫌なことはしない。それに碧が泣かないようにと気遣ってくれた。他の男の子がぬいぐるみを持ち歩く碧をからかっても、煌雅だけはそんなことはせず、碧の大事なテディベアも仲間として見てくれる。
乱暴な口調の時は怖いと思うけれど、いつも頼りになる彼は碧にとって家族以外で一番信頼できる人になっていた。
兄弟のいない碧にとって、煌雅は優しく頼もしい兄みたいな存在だったのだ。そして、その想いが恋心に変わるまで大した時間はかからなかった。
けれど幼い頃はともかく、成長するにつれ、二人は自分たちの立場を理解する。
碧の父は海運会社の社長で、碧はその一人娘だ。古くからある財閥といった家ではないものの、父の大切な会社を継げるのは碧だけ。つまり、婿をとって、その人に次の社長となってもらわねばならない。
父は娘に会社の経営を背負わせる気はないようだった。
そして煌雅は、大企業を経営する一族の嫡男だ。彼が婿入りすることなど、ありえない。
中学生になった碧は、父にも母にも、そのことを耳にたこができるほど言われ続けた。
碧からすれば、それは父親の都合であって、自分が煌雅と仲良くするのをやめる理由にはならないし、そうしたくもない。こんなことで煌雅と会えなくなるのは嫌だった。
父のことは大好きだ。大切だとも思っているが、家のことを背負わせようとするのは苦しくてたまらない。けれど、自分が一人娘だということも理解しているし、いつか覚悟しなければならない日だってくるだろう。
その日まではただ純粋に、口が悪くても心根がとても優しい彼のことを想っていたかった。
碧のくだらない話を聞き、ぶっきらぼうながらも相づちを打ち、優しい眼差しをくれる煌雅。彼にとって自分は特別な存在なのだと信じていた。たとえ、妹のようなものだとしても。
無造作に髪の毛を掻き上げる仕草も、スムーズなエスコートも大好きだった。
煌雅は碧の誕生日や、クリスマスには必ずプレゼントを用意してくれる。彼が自分のことを考えて用意したというだけで、嬉しかった。彼からもらえるものであれば、庭に咲いている花一輪だって喜んだだろう。
高校生になった煌雅の周りにはいつも人がいて、なんだか窮屈そうだった。実際、彼は碧と一緒にいる時は素になれると笑っていたこともある。
もともとスタイルがよい彼は、学生服でも私服でも、常に素敵だった。少しだけ着崩している姿にも、碧はどきどきしたものだ。
けれど二人が仲良くしていると両親が困った顔をするせいか、いつしか煌雅に避けられるようになる。
それまでは、休みの日や学校終わりに待ち合わせをしてカフェで話をしたり、どちらかの家でゆったりと過ごしていたりしたというのに、終わりを告げる鐘が鳴るのはあまりにも早かった。
連絡をとっても忙しいと断られ、偶然街で会っても視線を外され、会話も弾まない。
父に連れられてやってきたパーティーで久しぶりに話しかけても、煌雅は礼儀正しく挨拶をするだけで、まともな会話はしてくれなかった。
それが寂しくて、切なくて、煌雅に会う夜はいつもテディベアを抱きしめて泣いた。
四六時中に一緒にいたことが嘘みたいだ。
ただ一緒にお茶をし、本を読み、学校の話をする。そんな些細なこともできなくなってしまった。
初恋は実らないというのは本当らしい。
そのまま月日は流れ、碧が推薦で私立の大学へ進学が決まった頃、ある事件が起きる。
それが碧の人生の分岐点、そして、煌雅との完全な別離になった。
第一章 青天の霹靂
外の喧騒で目が覚めた。
壁が薄いこのアパートは、隣の声がひどく響く。
碧はのそのそと起き上がり、硬い身体を伸ばす。
やわらかなベッドで眠っていたのは、七年も前のことだ。この薄い布団にも、とっくに慣れた。
何年も前に安く買った洋服に袖を通し、量販品の食パンとインスタントのスープで朝食を済ませる。そして、ドラッグストアでそろえたバーゲン品で化粧をした。
鏡に映る自分の顔を見つめる。
「変わったなあ……」
顔色は健康そうだし、睡眠不足でも食事の量が少ないわけでもない。
順風満帆とはいかなくても、それなりに幸せだ。
ただ、時々昔がとても懐かしくなる。
碧の胸が切なく疼いた。こんな未練がましい感情を持ち続けても、いいことはないのに。
その想いを振り切るように、首を横に振る。
「……仕事行こう」
建付けの悪いアパートの扉を開け、部屋を出た。隣の部屋の夫婦喧嘩の声が大きくなる。
碧は聞こえないふりをして、廊下を足早に通りすぎた。
春とはいえ、朝方はまだ肌寒い。それでも降り注ぐ日差しの柔らかさが、心を慰めてくれた。
風を感じながら、碧は踵がすり減ったパンプスで駅へ向かう。
花ケ崎碧は、苗字を母の旧姓である窪塚に変え、父の会社ではなく中小企業で事務員をしていた。
* * *
事の起こりは、七年前。父が倒れたこと。
すぐに救急車を呼んだものの、父はくも膜下出血であっという間に亡くなった。
どうしようもない悲しみと苦しさのせいか、葬儀前後の記憶はあまりない。
一番深く覚えているのは、叔父達に騙されて会社と家を奪われたことだ。
父との思い出がたくさん詰まった家を追い出され、母と二人、路頭に迷うことになった。
もっとも母がすぐに安いアパートを探し、そこで二人暮らしを始めた。
碧は父が亡くなったことと、叔父たちに騙されたことが悲しくて、引きこもって泣き続けていたが、母は悲しいはずなのに嘆かず、早々に仕事まで決め、そして碧を励まし、どうにか前に進んできたのだ。
そんな逞しい母は、元々、父と結婚するまではキャリアウーマンだったという。仕事で知り合った父に猛アタックされ、会社を辞めて夫を支えるために家に入ったのだそうだ。
母の背を見て、碧は顔を上げた。
二人で頑張ろうと笑う母がいなかったら、碧の心は潰れていただろう。
それに、父の遺産のほとんどを叔父に取られたとはいえ、母の口座にも父はそれなりのお金を遺しておいてくれた。そのおかげで碧は、大学に進学できたのだ。
もちろん、当初予定していたお金のかかる私立ではなく、公立の大学を受け直した。私大に通うほどの余裕はなかったから。
いま考えると、父が亡くなってすぐにでも動かなければならなかったのは、かえってよかったのかもしれない。そのおかげで余計なことを思考せずに済んだ。
高校までの友人たちとは連絡しなくなった。碧が自分のことで手一杯で連絡できなかったせいでもあるし、彼女たちからも連絡はない。
それはもちろん、煌雅も同様だ。
父が倒れた頃は、彼とは会話らしい会話をしていなかった。
碧は高校生で、煌雅が大学生だったというのもあり、それぞれの世界があった。それでも、同じ年頃の令息、令嬢となればコミュニティは共通する。幼い頃から同じ顔ぶれで、お互いの近況を誰からともなく知ったりする。
煌雅は大学で知り合った女性と付き合っていて、よくクラブに出入りしているらしい。
碧には縁のない世界だった。クラブという場所は怖いところだと、友人や父から言われており、そんな場所に出入りしている煌雅のことを、知らない男性のようだと感じてしまう。
もう碧がよく知る彼は存在しないのだと思った。
それでも、父が亡くなった時に葬儀に来てくれた彼を見て泣いたことを覚えている。煌雅は、出会った時みたいに、少し狼狽えつつも傍にいてくれた。彼が以前のような距離で傍にいてくれたのは、あれが最後だ。
彼の家族は、父が亡くなっても碧たちに対する態度を変えなかったものの、碧にはかえってそれが辛く、自分から付き合いを断っている。
父の名義だったスマホを解約したのを理由の一つにした。全部なくし、リセットしてしまいたかった。そうでなければ、この先生きていけないとさえ思ったのだ。
そのくせ、新しく契約したスマホから彼の連絡先を消せないでいるのは未練だった。
人間関係を擬似的にリセットしたからといって、大学で新しい友人を作ることもできない。
当時の碧は、同じ大学に通う人達と価値観がずれていることがわからず、相手を傷つけるような言動をしていたのだ。
お金の心配をしたことがなく、割り勘という制度が存在することも知らなかった。これまでは、友人と食事に行く時は、誘った人間が全部支払い、両親が懇意にしているお店であれば自動的に両親へ請求がいったからだ。
はじめて行った居酒屋でお金を出すことに思い至らず、財布すら出さないでいたら同級生たちの顰蹙を買ってしまった。碧もなぜそんな目で見られるのかわからず、戸惑った。
また、父と一緒に行ったお店で食事をして帰ろうとし、女将に食事代を請求された。女将は困ったように笑って説明してくれた。
本来食事代というものはその場で支払うもので、以前は花ケ崎という名前の信用があったから、請求しなかっただけ。いまは花ケ崎家の令嬢ではない碧には、その信用がないのだと。
花ケ崎という名前に守られていない自分には価値がないのだ。
それでも、父には世話になったからと女将は奢ってくれた。そのことが恥ずかしくとも、碧にはその支払いをする所持金はなかったし、クレジットカードも止められていた。
本当の意味で、碧はわかっていなかったのだろう。令嬢でなくなるということがどういう意味を持つのか。
いまならそれがわかるけれど、当時の碧は混乱するばかりだった。母は必死に働いており、朝早くから夜遅くまで家を空けるのが当たり前になっていたのだ。その母に心配をかけたくなくて、ネットで普通というのはどういうものかを調べた。
そうして、自分がいかに恵まれていたのかに気づいたのだ。
苗字を変えることになったのは、そんな頃のこと。
ネットに、面白おかしく碧の情報が書かれたのだ。
曰く、「落ちた令嬢」。
事実を織り交ぜてはいるものの、そのほとんどは悪意にまみれた嘘だった。
母は夜の仕事をしていて、父に迫り結婚したことにされ、その財産がなくなったいま、娘の碧も同じ仕事に就いているのだろうなど、なんの根拠があるのか首を傾げたくなる内容である。
そんな記事を最初に見つけてきたのは、大学のゼミで隣に座っていた男性だ。彼は教室で笑いながら、記事を読み上げた。
その男性は、以前碧を遊びに誘った人だった。
ただその頃は、大学や変化した環境に慣れるのに必死で、「余裕がないので、お断りさせてください」と丁寧に断った記憶がある。
それからしばらく経って同じゼミの人たちで出かけた時、彼がお店に先に入り扉を開けて待ってくれなかった。それを「扉を開けておいてはくれないんですか?」と聞いてしまったのだ。
前まで碧が通っていたお店の人たちはそうしてくれたし、友人だった男性や煌雅はとても紳士的で、いつも女性をエスコートしてくれた。
しかも碧は、ゼミの男性が食事代を少し多めに出したのを強調したことに違和感を持ち、首を軽く傾げてしまったこともある。その無自覚な行動が彼は気に障ったのだろう。
煌雅はいつもなにも言わなかったし、恩に着せることもなかった。碧も、その代わりではないが、なにかあれば彼にプレゼントをしたりしていた。
当時の碧にはまったく理解できなかったが、あの時、ゼミの男性は自尊心を傷つけられたのだと、社会人になってからやっと気がついた。
自分の無知を何度恥じれば、彼らと同じ価値観を持てるのかわからなかった。
そんなふうに周囲を苛立たせ、お高くとまっていると思われていた彼女が事実ではないと訴えたところで、大学の同級生の多くは碧の言葉を聞いてくれなかった。
夜の仕事をしているのならいいだろうと迫ってくる男も出始め、辛い日々が続いた。温室育ちの碧は、枕営業の意味すら知らなかったのに。
しかも、世事に疎いせいで軽く躱すこともできずにいた。
そのストレスもあって、暴飲暴食を繰り返し、体重が十キロほど増えた。
やがて、悪意を真正面から浴びる碧の状況を知った母は、苗字を変えることを提案してくれたのだ。すでに名前を知られている同級生たちには意味がないかもしれないが、この先も同じ苦しみを味わわずに済むように、と。
碧は迷ったものの、結局その提案を受け入れた。
父のことは大好きだ。両親に笑いかけられると幸せだった。
だから、父の苗字である花ケ崎は、大切な宝物でもあった。
でも少しだけ、父を恨んでもいる。
なぜ、こんな早く亡くなってしまったのか。
なぜ、こんな辛い思いをしなければならないのか。
なぜ、こんな疲れた母を見なければならないのか。
そんなことを考えたって仕方がないし、父だってあんなに早く自分たちを置いていきたくなかっただろう。そうわかっていても、やり場のない気持ちを父にぶつけるしかなかった。
それに、いまの自分に花ケ崎の名前はすぎたものだとも感じていた。
過去を忘れて前を向くために、碧は苗字を変えたのだ。
それでも、大学に通うことは辛く苦しくて、自宅で煌雅から貰ったガラス玉を握りしめながらテディベアを抱きしめるのが日課になってしまった。
昔のように煌雅へ語りかけるように、テディベアに話しかけた。
今日どんなことがあって、どんなことを言われたのか。そんな中にも、少しだけ楽しいこともあるのだと。
父がいた時必ず門限には帰宅し、遅くなれば車を呼ぶことが当たり前だった。いまはどんなに遅くなっても歩いて帰る。そこではじめて、風の気持ちよさと花の香りを感じたことなど。
そうして半年近く経ち、やっと大学で友人ができた。
碧が同級生の嘘を信じてしまい、騙されそうになっているのを助けてくれたのだ。
彼女たちは親切にも、碧が端からどう見えるのかを教えてくれた。
碧のずれた言動が、時に人を傷つけている、と。
だからといって、碧を騙そうとしたり怖い思いをさせようとするのは違うのだと怒ってくれた。
そしてこの先、普通に生きていくのならば、価値観などを矯正したほうがいいと、あらゆることをアドバイスしてくれた。
元がお嬢様だから仕方がないが、口調もいまのままではお高くとまっているように思われると言われて、口調すら他の人とそんなにも違うのだと気がついた。
こうして碧はアドバイスに従い、仕草や口調などを矯正していったのだ。
彼女たちのおかげで、碧はなんとか周囲に溶け込めるようになった。
バイトも始めて、自分で働く大変さやお金を得る楽しさも覚えた。
次第に大学も楽しくなってきて、友人たちと一緒に旅行にも行った。自分たちで企画をし、宿や交通手段を決めて行動する。碧があのまま令嬢として過ごしていたら、決して知ることのできなかった楽しさだろう。
結果、大学を卒業し、就職もできた。
大企業というわけにはいかなかったが、安定した中小企業の事務だったので、母も喜んでくれた。
その日は母に誘われて、久しぶりに父とお祝いの時によく行ったレストランで食事をした。あの頃のように、綺麗なワンピースを新調できたわけではなかったが、自分のバイト代で買ったレースのワンピースは碧にとって自信の一つになった。
煌雅も知ったら、きっと喜んでくれただろう。
よくないとわかっていながらも、心の中で煌雅に話しかけるのが癖になってしまった。彼との思い出とガラス玉、それにテディベアが碧の心の支えだったのだ。
社会人になってからも、会社に慣れることや働くことに必死だった。
それでも、ふとした瞬間、昔のことを思い出す。いい加減吹っ切らないといけないのに、彼のことを夢見てしまう。
おとぎ話のように、いつか迎えにきてくれるんじゃないかと。
二十五歳にもなって、幼すぎる。
そもそも彼がいまの彼女を見ても、もう碧だと気づくことはできないだろうに。
* * *
会社の最寄り駅で電車を降りた碧は、後ろから声をかけられた。
「碧、おはよう」
「七海さん! おはよう」
「今日は珍しくギリギリだね」
「そうなの、朝少しぼんやりしちゃって」
七海は同じ会社の同僚だ。碧と同じ年ではあるが、彼女は転職組のため同期ではない。
社内で、碧が心を許せる一人だ。
その彼女が、表情を曇らせる。
「顔色悪いけど、ひょっとして、お母さんになにかあった? 大丈夫?」
「んー、特になにかあったわけじゃないから大丈夫。ただ、仕事は休めないみたいで……病院で検査したほうがいいとは伝えてるんだけどね」
碧の母は、最近体調を崩していた。家を追い出されてからこれまで、休みなく働き続けてきたせいだろう。
父が遺してくれたお金が多少あったとはいえ、それだけでずっと食べていけるわけがない。
日々の食費や衣服など、母が稼いで賄っていた。
だが、碧も働くようになったのだし、そろそろ母も仕事を抑えてもいい頃だ。
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