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第一部 二章

クッキーは振っても増えない

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 ズズズっと、ストローが空になった容器の中で虚しく鳴る。

 むむむと訝しみ、フリフリと中身がなくなったプラスチックを横に振って、もう一度吸ってみるが、今度は先ほどより大きく空ぶる音が響く。

「たはは。クッキーじゃないんだから振っても増えないよー」

 む~~っとさっきまで口に広がっていた炭酸を名残惜しく思い出し、「え、叩くの間違いじゃない?」と気づいたが幸福そうな笑みを浮かべている一岡千和子いちおかちわこを見て、訂正するのがなんだか馬鹿らしくなり、少女––––美藤初みとうはじめは口にするのをやめておいた。

 一瞬暗くなったモニターが鏡代わりになって自分の姿を映し出す。そこにはソファーに腰掛けて気の抜けた顔の自分がプラプラと足を揺らす姿があり、はわわと初は慌てて、キリリ表情に力を入れ直した。

 そんな一連の動作を、横を通った家族連れに見られていたような気がして、モジモジと恥ずかしくなる。初は目を向ける場所がなくなり、とっさに売店にいる錬真れんまたちへと視線を移した。   

 横に座ってポップコーンを頬張る千和子は、通り過ぎていく家族を慈しむような目で眺めていた。楽しそう、おっとりとした千和子から出た綺麗で儚いささやき声だった。

「ほんと。お兄ちゃんたち楽しそう」

 はぁと長く呆れるようなため息が思わず初の口から漏れる。
 そんな様子にクスリと思わず千和子の口元がほころぶ。

「そうだねー子供みたいだねー」

 そう評された実の兄を、初はうざったくも思うが誇らしくも思った。今日一日、錬真は幼子のようにブーブーと文句は言いつつも確かに楽しんでいた。それは今日に限ったことでない。

 昨日もワーワー独り言を言いながらゲームをしていた。一昨日もそう、その前の日もゲームをしていた。……あれ、本当に誇らしいか。

 だが錬真が楽しそうに人生を送っているのは自明の理だった。兄はどこか捻くれていて、素直じゃないところもあるが、それでも暗い人生を送っている人間には見えなかった。

 一番近くで見て来た妹の私が言うのだから、間違いはない。と初は思った。
 ただ、それだけに、好きだったはずのものを捨ててしまった兄が心配でもあり、気にかけていた。

「特にマー君は昔からずっとそうだよねー変わってない」

 柳のような眉の下で綺麗な曲線を描く瞳には慈愛が満ちている。
 千和子の顔は雑誌の表紙を飾るようなモデルだったり、キツめのコロンを身にまといワイングラスを仰いだりする女性とは違う造りだ。

 絶世の美女とは言えないが愛嬌があふれていて親近感を抱き、男女隔てなく誰もが「可愛い子」と言いたくなってしまうような。華のある顔とは違うが、誰もが好きだと告白したくなってしまうような。そんな魅力のある顔をしている。

 それはきっと単純な顔の作りだけではなく、彼女の雰囲気もあるのだろう。どこにでも溶け込める優しい角のない性格がきっとそのまま現れているのだ。
 吸い込まれそうになる絵画のような横顔。誰もが見惚れてしまう横顔。

 だが、その横顔を唯一見つめる少女は恐ろしく感じた。

 昔からずっと変わらない。
 その意味を反芻はんすうする。
 自分が一番だと思っていた。

 果たして本当にそうだろうか。
 ちわちゃんと兄は赤ん坊の時からの知り合いだ。
 昔からずっと変わらない。
 優しい声音がひどく冷たく頭の中で聞こえる。

 私は兄の十二年間しか知らない。妹として後から生まれて来たのだから。
 だが隣にいる一岡千和子は違う。私が遅れて生まれた三年の間も兄と一緒に過ごしているのだ。本人たちにとってそれはきっと薄い記憶なのかもしれない、けれど。

 ずっと一番だと思っていた。兄のことを理解しているのは自分が一番だと思っていた。

 両親が共働きの中でずっと兄の面倒を見て来たつもりだ。料理だって家事だって、メイクだってきっとちわちゃんより上手くできる。ちわちゃんはいつもポワポワしてるし、抜けてるし、さっきだってクッキーは振ったら増えると思ってるし。私の方がしっかりしてるはず。

 でも、兄は私に頼るだろうか。

 例えば先週、高校の入学式の持ち物を聞いたのは誰か。
 例えば先々週、バイト始めようかなって相談してたのは誰か。
 例えば先々々週、このごろ初が大人ぶっててさーと愚痴を電話した相手は誰か。それを聞いて「うるさいバーカ」と頭を叩いたのは誰か。

 脳裏をよぎるのは「千和子—」と泣きつく兄と「どうしたのー」と笑顔で迎えるちわちゃんの姿だった。

 そしてひどく、周りの音が大きく聞こえた。高校生っぽいカップルだったり、夫婦っぽい人だったり、子供の手を引くお母さんだったり。

 そういうものだけやけにが目立った。

 だんだん、隣にちわちゃんがいることも忘れて、一人迷子になった気分になり兄たちの姿をもう一度探そうとしたが人に紛れて見えなかった。

 初の表情が固まる。千和子は静かになった自分の隣を不思議に思い、首を傾げて底が見えるポップコーンの入った容器を差し出し「食べる?」と初に微笑んだ。

 びくりとする少女。

 だが彼女にとって太陽のように明るい千和子の笑顔は安心を覚えた。「うん」と小さく答えてキャラメル味を口に運ぶ。

「はーちゃんは……」

 話し出す千和子に思わず初は息を飲んだ。そして出てくる言葉に身構えた。
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