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第一部 三章

まどろみの出会い

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 拳を強く握り締めても、鋼の炎は出なかった。


               ☆    ☆     ☆


 二階から三階に上がる階段で軽い駆け足になり、三階から四階へと上がる階段で二段飛ばしになった。

 階の端にある階段を登りきり、四階に着く頃になると俺も龍太郎も膝に手をつき肩で息をしていた。急な有酸素運動に肺が締め付けられ、額からは汗が落ちる。すぐそこの教室には「一組」というプレートがあった。どうやら校舎から見て正面、向かって右から教室は並んでいるようだった。

「ああ、僕の颯爽さっそうと華麗な登場シーンが台無しだよ……」

 俺以上に疲れているのは龍太郎。ああ、こいつ運動神経はまったくなかったんだよなぁ。中学の体力診断。男子恒例の1500メートル走も三年間サボり続けてたもんなぁ。女子に混ざってちゃっかり木陰で見学してた男だ。

「あ、でもヒーローは遅れて登場するっていうよね」ね? と目で訴えられる。知らんわ。
「こんなことなら普段から運動しておけばよかった……」

 独り言を呟く。

「わたし一組だから、じゃあねー」

 へたり込んでしまいそうな俺たちとは対照的に、涼しげな顔でトコトコ小走りに一組の教室へと消えていってしまった。
 一岡千和子いちおかちわこは昔から運動神経の良い女の子であった。運動会でも必ず女子の選抜リレーの選手を務めたり、小学校の男女混合で行う体育とかではチーム分けの際に千和子の取り合いをしていた。

 筋肉質な体型ではなくむしろ丸いと思うのだが、どこにそんな運動能力があるのだろうか、昔から疑問である。本人に聞くのは流石に怒りそうなのでやめておこう。

「ずるい……僕たちも一組がよかった」

 四組への愛情はどこいったんだよ。まぁだが、龍太郎の愛が揺れてしまうのも頷ける。
 四組は廊下の一番端の教室で階段は一箇所しかなかった。なんだこの欠陥建築。
 俺たちのクラスに人権はないのか! こんなの毎日が遅刻エブリデイやんけ! と心中で文句を吐きながら二人して廊下を走った。

「三十四番、美藤みとう……もいなのか。三十五番、望月もちづき……」

 乱雑に引き戸が開かれ、勢い余って戻ってくる扉を右足で止める。
 初めに飛び込んできた光景、それは二十四……以上のこちらを見つめる瞳。そのどれもは当然のことながら見たこともない人間たち。龍太郎風に言うのならば遅れてきたヒーローの登場に目を丸める者ばかり。ああ、最前列のお友達なんて待ってましたと、瞳を燦々輝かせて––––いるわけもなく。
 クラス全員からの視線が痛い。

 集まる衆目に耐えきれなくなって横を向く。

 黒板は、初めは本当に黒板だったらしい。

 というのも、昔々は墨汁から作ったその名の通り黒い板であったようだ。だが、黒色は長時間眺めるのに向いていないため、目に優しいグリーンへと変更されたようだ。

 首を向けた先、健康に配慮して誕生した緑板に、チカチカする色で「宇佐美」と書かれてあった。
角ばった書体の前には白髪混じりの大人がいる。出席簿を持つ手の先には黄色といよりイエロー色のチョークの粉がポロポロと付着してあり、状況から察するに宇佐美という名前の男性教員がいた。

 この人が我々、一年四組の担任の先生か。

 年齢は自分の両親、より五歳くらい上だろうか。顔にはいくつかのシワがあるが厚い胸板で丸メガネが似合っていたため予想をつけるのが難しい。「入学式から遅刻か」そう呆れ顔でため息交じりに呟いた一言は、どことなく父性が漂っており親しみを感じた。

「どっちが美藤でどっちが乙訓おとくにだ」
「ええっと、僕が乙訓です」

 背後からひょっこり顔を出して、遠慮がちに挙手をする。龍太郎に続いて自分も名乗ろうとした時「早く席に座りなさい」と着席を促す。「右から出席番号順だよ」と添えて。

 埋め尽くされた教室。

 端と端の空席は、上から見るとまるでジグソーパズルの欠けたピースみたいでよく目立つ。一つは一番右の窓際の列、前から数えて三番目。もう一つは教卓から見て左後方、鳥瞰ちょうかんすれば右後方の一番後ろの席だった。

 右端の席は「お」で始まる乙訓だろう。彼のお望み通り窓際の席だ。
 消去法で自分の席が左後ろの方だろうな。「じゃあ」と小さく肩を叩かれると、こちらの返事も待たずに龍太郎は 手提げのバックを抱くような姿勢でそそくさ自らのせきに向かった。

 俺も「すいません」と顎を突き出すように素早く謝ってから急いで教室の一番後ろまで移動する。身を小さくせてソソソッと着席。席に着いた途端に長いため息が漏れた。
 恥ずかしさとか、居心地の悪さだとか。

 そういう諸々から自分を切り離すように、両腕の中に顔を埋め、机に突っ伏せた。


                   ☆    ☆     ☆


 ヤベーやったわー。やらかしたわー。

 周りから見られているのではと思うと、肩身の狭い思いは増していくばかり。実際には一番後ろの俺のことなど誰も見てはいなかったのだが、チラと左斜め前方を見やると、龍太郎も同じように身を小さくさせていた––––と思いきや早速後ろの席の女子と話していた。

 しかもペロリと舌を出して。読唇術なんて使えないのだが「いやー参ったよ」と言う唇の動きが手に取るようにわかった。
 あの野郎……。これがイケメンの力か。天然スケコマシが! 色目使いやがって。

 俺にも、俺にも話しかけてくれる女子は⁉ 一番後ろなので、自分の背後に誰かいるわけはなく、右隣を見ればメガネをかけたヒョロイ男子。ちらりちらっと横目でこちらを見てくるのがまたなんとも腹立たしい。
 なに? 話したいの?

 前の席は女の子ではあるが横の席に比べて、自分と距離が離れている。そのため声をかけるには微妙な間合いで、話しかけ辛い。
 まぁ話しかけられないのは距離関係ないんだけどね。

 と真理に自分が気づいてしまう前に、全俺の望みを掛けて左隣へ視線を移す。それまでの間、スローモーションのおように時が流れていった気がした。

 パッと視界に入った時、その制服は前に座る女子や千和子と同じだった。
よし、女の子だ! 左肩から感じる気配、距離感も丁度いいんじゃないか。
青春とは結局高校時代のことを指すのだ。新たな出会いが俺を待っている。

 胸を踊らせながら左を向く。

 が、たかぶった思いを発散させる場所はなく、隣に座る彼女の顔を見ることはできない。

 なぜなら左隣の女の子は。

 思いっきり机に突っ伏せていた。
 耳をすませばかすかに寝息も立てて。

 この状況で寝るのかよ! 
 驚き、というより若干引いた。

 むしろ尊敬するわ。なんだこの隣の女。ヤベーな。

「よし、全員いるな」

 宇佐美先生は出席簿を二回、トントンと教卓に叩いて音を鳴らすと、穏やかな口調で話し出す。
「これから十分後、五十分から入学式が、体育館で行われるので各自移動するように。トイレ等行きたい人は今のうちに。終わった後はまたこの教室に戻ってくるから。貴重品だけ、しっかり管理しなさい」

 説明の間、先生は合計六回もトントンと叩いて音を鳴らした。きっと癖なのだろう。「それじゃあ遅れないようにね」と付け足して、宇佐美先生は教室を後にした。

 それを合図に皆、伸びをしたり、首を回してコキコキと骨を鳴らし出す。
 話し声も多少生まれ緊張が解けていった。

 トイレ、も別に行きたくないし、貴重品も財布とスマホくらいか。
 それらも既にポケットに入れてある。入学式まで遅刻なんてごめんだ。早く体育館に行こう。と立ち上がり、教室の前方、我が友龍太郎の方へと目をやる。

 彼は後ろの女の子とよほど話が合うのか、まだお喋りを続けていた。
 会話の最中こちらの目線に気づき、ちょいちょいと手招きをする。話し相手の女の子も振り返ってこちらを向くので無視できる状況ではなくなり、気持ち急ぎ目で向かう。

「こちらミトゥーだよ」と紹介され「あ、どうも」と挨拶している内にその女の子のお友達が来て、そのお友達が友達二人を連れて来て、そのお友達のお友達の一人が「あれ、もしかして四中のゆっこ?」と知り合いを発見して、そのお友達のお友達の知り合いの……。と、繰り返している内に人が集まり自己紹介、他己紹介合戦が始まった。

 その中心にいるのは未だ席を立っていない龍太郎。

 その風格、リア充界の王の如し。

 彼が「こちらミトゥーだよ」と言うたび俺は「あっ、ども」「あっ、チッス」と口にする機械と化していた。
 どうやら高校でも龍太郎の後をコバンザメのようにくっ付いていれば、自然とお友達が増えていくようだ。
 
 さすがのイケメン力。よっヲタク界の星!

 そうしていると誰かが「そろそろ時間」と言い出し、乙訓パーティー、一同は体育館へと向かい出す。気づけば自分たち以外の話し声は聞こえない。

 まぁ俺ほとんど話していないのだけれど。
 コバンザメはコバンザメらしく、一番後ろから集団と移動する。

 そして扉を閉めようと、引き戸に手をかけた。



「あはは、そうなんだ。二人は小学校が一緒だったんだね––––ミトゥー? どうかした?」

 俺の手は止まったまま。足は動き出さない。

「……いや、ちょっと。席に忘れ物しちゃって」
「ああ、そうなんだ」
「乙訓くーん? 早く行こーよー」

 先ゆく一団の誰かが龍太郎を呼ぶ。

「ああ、りゅう、先行っていいぞ」
 大したことじゃないから、と促す。
「え、でも……」
 それでも彼は戸惑う。
「早くー」

 もう一度呼ばれさらに困惑げな表情を浮かべるが、「いーからいーから」と俺が言葉を足すと渋々納得したようだ。

「わかった。遅れないようにね」

 そう言うと龍太郎は駆け足で集団へと戻り、角を曲がって階段へと消えて行く。
 廊下に出していた半身を戻し、見やるのは自分の席、の隣の席。
 もう誰も教室には残っていないと思っていた。自分たちで最後だと。だが、違った。



 そこに彼女はいた。
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