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第1章:寄宿学校編〜時計の針は動き出す〜
第01話:時計師は、最強の魔術師と出会う
しおりを挟む深夜の静寂は、金属を削る旋盤の鈍い音によって、等間隔に切り刻まれていた。
古びたレンガ造りの建物の隙間、都市の静脈のような路地裏に、その工房はある。
天井から吊るされた裸電球が、機械油の膜で煤けた空気をオレンジ色に染めていた。
その光の下で、職人は一人、作業台に向かっている。
革の作業着を纏い、銀色の髪を後ろで一つに束ねた後ろ姿は、削ぎ落とされた身体のラインも相まって、端正な青年のそれに見えた。
リズ。それがこの工房の主の名だ。
キィィィィン、という耳障りな高音が響き、細長くねじれた真鍮の切り屑が、彼女の指先から零れ落ちる。
リズの視界にあるのは、拡大鏡越しに捉えた世界。
わずか直径数ミリの真鍮円盤が、高速回転の中で完璧な円を描き、鋭利な刃先がその表面を滑らかに掬い取っていく。
彼女が作り出しているのは、魔法の介在を一切許さない、純然たる物理法則の集積だった。
リズは、わずかに旋盤のハンドルを戻し、回転を緩める。
鋼の刃先を、今度は磨き上げられた革で拭う。
その指先は、油で汚れ、小さな傷がいくつも刻まれているが、不思議と震え一つなかった。
魔術を操る者たちが、詠唱や魔導具という「不確かな媒介」に頼る一方で、リズは鋼の硬度と、摩擦係数と、質量の均衡だけを信じている。
「……もう少し」
独り言は、機械油の匂いに混じって消えた。
壁に掛けられた数百の時計たちが、それぞれに異なる「今」を主張している。
カチ、カチ、カチ。
異なる金属音が重なり合い、不協和音の中に一種の秩序を作り出していた。
リズはそのすべてを、目隠しをしていてもどの個体がどの音を発しているか聞き分けることができる。
時計とは、物理的に制御された時間の檻だ。
その檻を設計する者として、彼女は世界の「歪み」に対して誰よりも敏感だった。
そこへ、予告も、足音も、気配さえもなく、一人の少女が姿を現す。
重厚な鉄扉が、まるでそこに存在しなかったかのように音もなく開かれる。
「――酷い匂い。油と、焦げた鉄の、下俗な香りが鼻につくわ」
鈴を転がすような、しかし傲慢さに満ちた声が、狭い工房の壁に跳ね返る。
そこに立っていたのは、深夜の路地裏には到底不釣り合いな、深い夜色のウールコートを纏った少女だった。
エルゼ・フォン・アステリア。
最高級の毛皮が添えられた襟元から、白磁のような首筋を覗かせ、彼女はその場にいるだけで周囲の空気を高貴に塗り替えてしまう。
本来、アステリア家は代々、洗練された魔術を受け継いできた名門中の名門。
しかし彼女、エルゼだけは、一族の系譜に一度として現れなかった異端の魔術、「時を操る魔術」を発現させていた。
国中の魔術師が畏怖し、同時に遠巻きにするその突然変異の天才が、退屈そうに金の刺繍が施された手袋を脱ぎ捨てる。
リズは作業の手を止めず、背中を向けたまま、手元の微細な調整に神経を研ぎ澄ませていた。
「……貴族の方が迷い込むような場所ではありません。香水が必要なら、三つ隣の通りへ行かれることをお勧めします」
リズの声は、鋼のように冷たく、一切の感情を排していた。
「不遜ね。魔術も碌に扱えない無能と蔑まれる時計職人が、私に指図をするつもり?」
エルゼは優雅な所作で工房を見渡す。
埃を被った古い振り子、錆びた万力、整理されているが油まみれの工具類。
そのすべてが、彼女にとっては「魔術を使えない者の足掻き」にしか見えなかった。
「一族の伝統すら塗りつぶす、この私の魔術。それに見合う正確な時を刻む器を探しに来たのだけれど……。どうやら、時間の無駄だったかしら?」
彼女はため息をつき、顎を僅かにしゃくって、見下すような視線をリズの細い背中へ投げる。
「跪きなさい。あなたのその止まった思考を、私が物理的に止めてあげるわ」
エルゼが、その魔術を解き放つ。
それは詠唱を必要としない、意志の反映。
瞬時に、工房の「時間」が完全に凍結した。
旋盤の回転が止まり、宙を舞っていた真鍮の粉が、空間の中に浮遊したまま固定される。
電球の微かなフィラメントの揺らぎさえもが、漆黒の静止画へと変わった。
エルゼは満足げに微笑み、静寂の中を歩き始める。
「あら、本当に止まった。案外、脆いものね」
彼女は動かなくなったリズの傍らに立ち、その銀髪に指先で触れようとする。
だが、リズの意識は止まっていなかった。
(……なるほど。これが『時』の操作、ですか)
リズは思考の中で、凍りついた空間の「流動」を冷静に観察する。
表面上は完璧な静止。だが、彼女の研ぎ澄まされた職人の感覚は、そこに奇妙な「ムラ」を感じ取っていた。
魔術という名の「技術」で編み上げられた檻には、必ず網目がある。
「二度目よ。今度はもっと深く、世界の理を止めてあげる」
エルゼがさらに魔術を重ねる。
何者も到達し得なかった、絶対静止の領域。
空気の分子運動さえもが無理やり抑え込まれ、工房内の温度が物理法則を無視して急降下する。
リズの肉体は依然として動かない。
しかし、彼女の耳は、エルゼの魔術が時を固定する際に出す「軋み」を捉えていた。
カチ、という、物理的な音ではない、魔術の構成単位が切り替わる極小の断層。
それは、巨大な時計の歯車が噛み合う瞬間の、目に見えない隙間に似ている。
エルゼは退屈そうに首を傾げた。
「やっぱり、ただの人間。このまま一生、私の庭の彫像にしてあげてもいいのだけれど」
彼女はリズの顔を覗き込もうとする。
その目は、リズという人間を見ていない。ただの「興味深い反応を示さなかった機械」への失望だった。
「……三度目よ。これで最後」
エルゼが、仕上げと言わんばかりに最大級の魔術を叩き込む。
一帯の因果が凍結し、存在そのものの意味を剥奪するような至高の静寂。
だが、その瞬間。
魔術と魔術が重なり合い、次の「停止」へと移行するわずか一千分の一秒の、理論上の空隙。
リズの指が、跳ねるように動く。
「な……っ!?」
エルゼの視界の中で、彫像だったはずの「青年」が、滑らかに、しかし電光石火の速さで振り返る。
その手には、先ほどまで旋盤で削っていた真鍮の部品が握られていた。
「……残念ながら。三度目は、通用しません」
リズは悠然と立ち上がり、手に持った真鍮の部品をエルゼの鼻先に突きつける。
あと数ミリ。それだけでエルゼの鼻腔を裂くことができる距離で、リズの腕は完璧に制止していた。
「ば、馬鹿な……。私の『時の静止』から逃れられる人間など、この世にいないはずよ!」
エルゼは大きく目を見開き、たじろいだ。
自分の支配下にあるはずの世界で、この銀髪の「無能」だけが、自由を謳歌している。
リズの周囲だけは、魔術の影響を完全に拒絶し、絶対的な「現実の時間」が流れているかのようだった。
「あなたの魔術は精緻ですが、機械と同じです。どんなに完璧な歯車でも、噛み合う瞬間には必ず『遊び』が生じます」
リズは冷徹な瞳で、狼狽える天才魔術師を見据える。
「私は毎日、その『遊び』を調整して生きています。一秒を千に分割する世界で、たった一回の隙間を見つけることなど、呼吸をするよりも容易なことです」
「繋ぎ目……? 遊び? 私の至高の術式を、そんな言葉で片付けるの?」
エルゼは戦慄した。
一族の異端として孤独に磨き上げてきた彼女の誇りを、リズはただの「精度の低い機械の不備」として処理してしまったのだ。
リズはゆっくりと部品を下ろし、再び作業台へと向き直る。
「魔術なんていう、あやふやな理屈で時を止めたつもりかもしれませんが。私の時計の秒針は、あなたの魔法よりも重い」
「……っ!」
エルゼは顔を赤く染め、屈辱に震えた。
今まで彼女を見上げてきた人々の称賛、畏怖、羨望。
そのすべてが、この路地裏の職人の前では無意味なゴミ屑に等しい。
しかし、その屈辱の奥底で、彼女の心臓が奇妙な高揚を刻み始めていた。
「気に入ったわ……。最高に不愉快で、最高に興味深い男ね」
エルゼは震える手でコートの襟を正し、無理やり余裕を取り戻そうとした。
その瞳には、敗北を認めきれない、暗く歪んだ執着が宿っている。
リズは再び背を向け、作業台の微細な塵を吹き飛ばした。
エルザは脱ぎ捨てた手袋を無造作に拾い上げると、リズの作業台に荒々しく叩きつける。
「……一週間後、次に私がここへ来る時までに、私の魔術に耐えうる懐中時計を形にしておきなさい。代金なら望むだけ払ってあげるわ」
それは依頼という名の命令であり、同時にエルゼが絞り出した最大級の譲歩だった。
「フン、次までにその不遜な態度を矯正しておくことね」
エルゼは吐き捨てるように言い残すと、夜色のコートを翻し、一度も振り返ることなく工房を後にする。
重い鉄扉が閉まり、再び工房には旋盤の音と時計の秒針の音だけが戻った。
リズは、自分の懐中時計を取り出し、その刻みを確認する。
「……三秒の遅れ。やはり、魔術の磁場は歯車の油を劣化させますね」
彼女は眉をひそめ、すぐに分解掃除の準備を始める。
時間すらも操る最強の魔術師を「ただの迷惑な環境要因」として扱うその態度こそが、この工房において最も残酷な真実だった。
世界がどれほど歪もうとも、リズの刻む「一秒」だけは、何者にも汚されることはない。
窓の外では、夜が深まっていた。
都市の喧騒が消えた路地裏で、鋼の鼓動だけが、静かに、しかし力強く、現実を繋ぎ止めている。
こうして、魔術が使えない職人と、魔術に絶対の自信を持つ魔術師の、歪な関係が刻まれ始めた。
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