魔術が使えない時計職人と、時を操る魔術師

駄駄駄(ダダダ)

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第1章:寄宿学校編〜時計の針は動き出す〜

第02話:時計師は、秘密を暴かれる

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 鉄扉の軋む音が、工房の静寂を無遠慮に引き裂いた。

 リズは顔を上げない。拡大鏡の奥に広がる世界から視線を逸らすことは、職人としての死を意味するからだ。

 リズは今、極小の真鍮製歯車に、目視では捉えられないほどの微細な「逃げ面」を削り出していた。

 この一削りが、時計に魂を吹き込み、一秒の定義を鋼に刻み込む。魔術使いが呪文を紡ぐように、彼女はやすりの一振りに全神経を注いでいる。

「……一週間。約束通り、顔を出してあげたわよ」

 背後から響くのは、記憶にあるよりもさらに傲慢さを増した、凛とした声音。

 エルゼ・フォン・アステリア。

 今日は夜色のコートではなく、深い真紅のドレスに、漆黒のレースをあしらったボレロを纏っている。

 その姿は、場違いなほどに美しく、そしてこの煤けた工房を侮蔑するかのように鮮やかだった。

 リズはピンセットを置き、ようやく椅子を回転させる。

 リズの年齢は二十代前半。十代前半のエルゼから見れば、十歳は年上の、完成された「大人」の佇まいがそこにはあった。

「……正確には一週間と、三時間十二分です。貴族の方は時間という概念を誇張して捉える癖があるようですね」

 リズの声は、低く、落ち着いている。

 彼女が男の振りをしているのは、あくまで合理的な判断の結果だ。職人の世界は、女というだけで技術を軽視されるか、あるいは余計な庇護の対象にされる。

 髪をタイトに結い、油の匂いを纏い、無愛想に振る舞うだけで、世間は彼女を「端正な美青年」として丁重に扱い、その技術にだけ正当な対価を払う。

「不遜ね。私の気分次第で、この国の時間はどうとでもなるのよ」

 エルゼは不快げに鼻を鳴らし、工房の中央へと踏み込んだ。彼女の歩みに合わせ、靴音がコツン、コツンと硬質に響く。

 リズは無言で立ち上がり、作業台の隅に置かれた、預かっていた修理品――アステリア家伝来の古時計を指し示す。

「注文の品です。あなたの魔術――その『不規則な停滞』による磁場と因果の歪みを、物理的に相殺する機構を組み込みました。これでもう、あなたの傍にあってもこの時計が止まることはありません」

 エルゼは眉を上げ、疑わしげにその裏蓋を開ける。中に鎮座していたのは、装飾の一切を排した、鈍い銀光を放つ懐中時計だった。

「……随分と無骨ね。アステリアの至宝が持つには、品格が足りないのではないかしら?」

「品格で時を刻めるなら、宝石でも眺めていればいい。それは『正しく動くこと』だけに特化した、鋼の塊です。あなたの魔術に耐えるために、あえて美しさを削ぎ落としました」

 エルゼは時計を手に取り、その重みに一瞬だけ目を細めた。ずっしりと重い。まるで、逃れようのない現実そのものを掌に乗せているような感覚。

 彼女は試すように、指先から微かな魔力を流し込む。

 自身の周囲数メートルを、コンマ数秒だけ停止させる「時の干渉」。通常、精密機械であればその歪みに耐えられず、ゼンマイが弾けるか、歯車が噛み合わなくなるはずだった。

 しかし。

 チッ、チッ、チッ、チッ――。

 時計は、何事もなかったかのように、冷徹なリズムを刻み続けた。

「……信じられない。私の魔術を、ただの歯車の噛み合わせで受け流したというの?」

「受け流したのではなく、組み込んだのです。外部からの時間圧を、調速機の振動エネルギーへと変換する特殊な脱進機を設計しました。あなたが時間を止めようとすればするほど、この時計は力強く動く」

 リズは淡々と説明を続ける。その言葉は、魔術を神秘として崇める者への、最大級の侮辱であった。

 エルゼは時計を握りしめ、リズを見据える。

 この男の瞳には、自分への畏怖が欠片も存在しない。国を揺るがす天才魔術師である自分を、ただの「扱いにくい仕様の注文主」としてしか見ていない。

 その事実に、エルゼの胸の奥で、どろりとした黒い感情が疼いた。屈辱。そして、これまでに感じたことのない種類の独占欲。

「……一つ、気に食わないわ。この裏蓋、傷がついているじゃない」

 エルゼが言いがかりのように指し示したのは、肉眼では判別できないほどの微細な線傷だった。

「確認します」

 リズは躊躇なくエルゼの手元へ歩み寄り、時計を覗き込んだ。

 至近距離。

 エルゼの鼻腔を、高級な香水の香りを突き抜けて、強烈な「油」と「鉄」の匂いが襲った。リズの銀髪が、彼女の肩に触れるほどに近づく。

 リズは作業台の強い照明の下、ルーペを片目に当てて裏蓋を凝視した。

「……これは傷ではありません。加工の際、鋼の結晶構造が表面に浮き出たものです。実用上の精度には一ミリの狂いも生じません」

「言い訳は聞きたくないわ。完璧と言い張るのなら、私の目の前で磨き直してみせなさい」

 エルゼの無茶な要求に、リズはわずかに眉を寄せる。しかし、職人としての誇りが、それを拒むことを許さなかった。

「……分かりました。少々、時間がかかります。磨き上げるまでは、ここを動かないでください」

 リズは作業着の袖を捲り、再び旋盤の前の椅子に腰を下ろした。エルゼは、その背後から監視するように立ち尽くす。

 工房の温度が、作業の熱気でわずかに上昇していく。リズは研磨用のオイルを取り出し、布に含ませた。集中が極限に達した時、リズの周囲の空気が変わる。

 雑念を排し、ただ「物」と対話するその背中は、異様なまでの静謐さを纏っていた。額に滲んだ汗が、銀色の前髪を濡らし、一筋の雫となって頬を伝い落ちる。

(……本当に、時計のこと以外どうでもいいのね)

 エルゼは、リズの横顔を観察した。透き通るような白い肌、長く繊細な睫毛。

 男にしてはあまりにも整いすぎている。だが、その指先が繰り出す動作は、どんな剣士よりも正確で、鋭い。

 やがて、リズは暑さに耐えかねたのか、あるいは作業の邪魔になったのか、無造作に首元のボタンを外した。さらに、革の作業着の肩紐を一本、ずらす。

「……ん?」

 エルゼが思わず声を漏らした。リズは研磨に没頭するあまり、返事もしない。作業着の下、薄いシャツが汗で肌に張り付いている。

 リズが、大きく息を吐きながら腕を伸ばしたその瞬間だった。汗に濡れて透けた布地の下で、慎ましく、しかし確かな曲線を描く、柔らかな肉体の輪郭が、エルゼの視界に飛び込んでくる。

「……あ」

 エルゼは息を呑んだ。そこにあるはずの、逞しい青年の胸板ではない。細い鎖骨のラインから続く、あまりにも華奢な、成熟した女性としての実体。

 リズが、不意に顔を上げた。拡大鏡を外し、乱れた銀髪をかき上げるその動作。露わになった首筋の白さと、わずかに開いた口元から漏れる熱い呼気。

 エルゼの頭の中で、これまでの「青年職人」としてのリズの像が、ガラスのように粉々に砕け散った。

「……磨き上がりました。これで、満足ですか?」

 リズは、鏡のように磨き上げられた時計を差し出した。その瞳は依然として合理的で、冷ややかだ。だが、エルゼの目には、その瞳が先ほどまでとは全く違う色を帯びて映っていた。

「……あなた、まさか、女だったの?」

 エルゼの声が、わずかに震える。

 屈辱。困惑。そして、説明のつかない激しい高揚。自分が「不敵な青年」だと思って執着していた相手が、自分と同じ、いや、自分よりも遥かに艶やかな魅力を持つ女性であったという事実。

 リズは、エルゼの言葉を聞いても、表情一つ変えなかった。ただ、めくれたシャツを無造作に直し、肩紐を戻す。

「……今更ですね。この格好は、仕事がしやすいからしているだけです。あなたが私をどう呼ぼうと勝手ですが、技術の精度は性別では変わりませんよ」

 リズは十歳年上の余裕をもって、狼狽えるエルゼを見据えた。その「秘密を暴かれても動じない強さ」が、エルゼのプライドをさらに深く抉る。

「……いいわ。面白いじゃない」

 エルゼは、顔を真っ赤に染めながら、しかしその瞳には、敗北を認めきれない歪んだ執着を宿した。

「あなたが女なら、話は別よ」

 エルゼはリズの顎を強引にクイと持ち上げ、その唇が触れそうなほどの距離で囁いた。

「あなたのその秘密、私が独占してあげる。この工房も、あなたの技術も、その銀髪一本に至るまで……全部、私の『所有物』にすると決めたから」

 エルゼは時計を奪い取るようにして受け取ると、夜色のコートを翻し、一度も振り返ることなく工房を後にした。

 重い鉄扉が閉まり、再び工房には旋盤の音と時計の秒針の音だけが戻る。

 リズは、自分の懐中時計を取り出し、その刻みを確認した。

「……五秒の遅れ。やはり、彼女の感情の起伏は磁場を乱しすぎますね」

 彼女は眉をひそめ、すぐに分解掃除の準備を始める。最強の魔術師を「ただの面倒な環境要因」として扱うその態度こそが、この工房においての現実だった。

 世界がどれほど歪もうとも、リズの刻む「一秒」だけは、何者にも汚されることはない。

 だが、リズの心拍数は、自らが設計したどの時計の針よりも、わずかに速く、不規則に乱れていた。
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