雪の残響 ~エラリア帝国の終焉~

Dragonfly

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回帰1

紅の祝宴

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真っ白な光は、すぐには去っていかなかった。

まぶたの裏に、まだかすかな残響が揺れている。
それは単なる眩しさではなく、何千年も前の祈りが今も空気の底で燃えているような、古い記憶の余燼だった。

その光の中には、声があった。
耳ではなく、体の奥底から響くようなかすかな囁き。

 

それは命令でも慰めでもない。声の欠片。

気がつけばヴェラは、黄金色の燭火と香、そして料理の匂いが渦を巻く王宮の広間の片隅に、ひとりたたずんでいた。

ーーこれは、確か……蒼の一族の反乱が平定されたことを祝う宴ーー

目に映る光景は夢のようだったが、けれど指先には現実の熱があった。
”もうひとりのヴェラ”の内側にいる感覚は消え、火の温かさや食べ物の匂いが、直接肌を包む。

膝の上の布の重み、髪に落ちる香の煙の柔らかなしびれ。
全てがあまりに生々しく、彼女は無意識に両手を顔の前に上げ、そっと握ってみた。
確かな感触。血の流れる、生きた手。

ーーミハイルが反逆の疑いをかけられて命を落とす、ほんの少し前……。この時すでに、何かの予兆があったということなの?ーー

広間の中央では、祝宴の音が渦を巻いていた。

銀の器がぶつかり合い、かすかな澄んだ音を放つ。
その一つ一つがまるで小さな鐘のように、空気を震わせていた。
絹の裾がすれるたび、ざらりと乾いた音が混じる――それは言葉よりも雄弁な、地位と欲の擦過音。

紅の妃ハーモニアの兄、紅の一族を統べるアレクセイが、隣席にいる黄の一族の長老グレゴリーと、なにかの意見を戦わせているのが見える。

堂々たる体躯のアレクセイの前で小柄な老人は一見弱々しく見えるが、その眼光は老獪だ。
論争は、どうやら老人の方が優勢らしい。その勇猛さで知られるアレクセイが、めずらしくひるんだような表情を見せている。

香炉から立ちのぼる煙には、蜂蜜の甘い香りと、香辛料で焼かれた肉の匂いが重なっていた。
その奥に、わずかに鉄と血のような金属の香りが潜んでいる。
祝福に隠れた犠牲が、匂いの層になって広間を満たしていた。

壁際では楽士たちが淡く光る衣をまとい、静かに楽を奏でている。
弦が爪弾かれ、笛が高く細く、鐘がゆるやかに響く。

反逆者を出したばかりの蒼の一族の有力者達は謹慎しており、ここには参加していない。
だが、彼らはいずれ戻っては来る。まるで何事も、なかったかのように。

ヴェラの胸の奥で、心臓が重く鳴る。
その鼓動が、いつしか宴の太鼓と重なってゆく。
低く、規則的に、しかしどこか乱れたような拍。
祝祭のリズムのなかに、彼女自身の不安が音になって溶けていく。

遠くの席では、白の一族の代表として参加している長老のアントンが、翠の女長老タチアナと、親しげに語り合っていた。こういうにぎやかな表舞台の場に、ミハイルはほとんど姿を現さず、かわりに穏やかで愛想のよい長老アントンがやってくる習いだった。

それは余分に目立つことを避けているミハイルの賢さのようでもあり、表に出て危険が増すことを避ける注意深さのようでもあった。

この祝宴の後、数日後からはじまる暴動の後処理の会議には、アントンにかわってミハイルが参加しにくるはずだが……今日は、会えない。

広間の中で、ヴェラは息をひとつ吸い込んだ。
甘やかで、濃密で、どこか焦げたような空気。
その香りの奥に、言葉にならない予感――“終わり”の匂いを感じる。

五つの一族の妃たちが並び、豪華な食卓を囲んでいる。
黄金の燭台に立つ炎は、ひとつひとつが祈りの灯のようにゆらぎ、高い天井に描かれた黄金の鷹の彩色壁画を、赤く照らしていた。

ヴェラの隣には、新しくやってきた蒼の妃テオドラが、緊張した表情で座っている。
まだ十四歳の少女で、金色の髪と透き通るような肌色に映える澄んだ青い瞳が、亡き異父姉のルドミラを思わせた。

ヴェラの後宮入りの日にいた先代の蒼の妃ルドミラは、蒼の領地の果てで蜂起した暴動に父方の従兄が関係したということで連帯責任を問われ、少し前に双子の娘を残して処刑されていた。
その報せを聞いたとき、ヴェラは息を飲んで泣くことすらできなかった。
信仰も理も、そこでは何の盾にもならなかった。

ルドミラが何を想っていたのか、本当に暴動に何らかの関与をしていたのか、そもそも知っていたのかすら、わからない。

ただ、彼女は嫌疑に対し何一つ抗弁することなく、諾々と処分を受け入れたと聞く。

双子の娘たちは罪を問われることはなく、後宮内で〈銅の庭〉と呼ばれる、母を失った皇帝の子供のための区画で成人の日まで、皇帝の叔母にあたる貴婦人アグニやその侍女たちに世話されると聞いた。

それは小さな幸いではあったものの、ルドミラがあっけなく処刑されたことは、ヴェラの心に深い影を落としていた。
処刑決定の知らせを聞いたとき、そして、その執行を告げたあの鐘の音。
帝都の塔で鳴らされる、粛清の報せの鐘が、今も耳の奥にこびりついている。
低く、重く、氷のように鈍い響き。
その一打ごとに、世界からひとつの声が失われていくようだった。

ルドミラが処刑されたその夜、ヴェラは夢を見た。
雪の原に立つ、二つの小さな影。
ルドミラの幼い双子の娘たちが白い息を吐きながら、凍りついた門の向こうに向かって、母を呼んでいた。

「おかあさま」
「どこに行ったの」
「帰ってきて」

その声が風に散り、雪の上に消えるたび、空の奥で、もう一度あの鐘が鳴っていて。

そしてヴェラは悟る。
この宴に漂う香も音も光も、すべての祝福の裏に、失われた祈りが沈んでいることを。

一族や家の力も、皇帝の寵愛も、”神の代理人”の絶対的な意志と”神の国”の秩序の前では、嵐の前のろうそくの炎でしかない。
誰もが自らを支えていると思っていた足場が、ひと息で崩れる――その儚さを、ヴェラはもう痛いほど知っていた。

宴は、華やかに続いている。

紅のハーモニアは誇らしげに息子を伴い、堂々たる態度で皇帝のそばに座っていて、その姿からは火と血と誇りの臭いがした。
蒼の一族の地で発生した暴動に際し、紅の軍を率いて素早く現地に赴き、わずか数日のうちに全てを平定してきたのは彼女だった。
もうすぐ八歳になるという息子も、今回初めて戦いに同行し、わずかだが剣を振るい、武勲を上げて帰ってきたという。

これは、紅の妃ハーモニアをたたえる宴だった。
そのために香も、音楽も、料理もすべて紅の調べで統一されている。
燭台の光で紅い絹が照り、葡萄酒の波が宝石のようにきらめく。

ーー”前回”の私は、いたたまれずに、黙って隅で身を縮めていた。でも……この時に戻ってきたということは、きっと何かがあるということ……ーー

ヴェラは深く息を吸い、震える心を押さえながら、頭を上げて微笑みを浮かべた。
豪奢な食卓、尽きない酒――それに対する感謝を、ハーモニアが黄の妃に述べているのが見える。

「黄の一族の豊かさは陛下のもの、すなわち後宮のものでもありますから。この程度のことーーいかようにでも」

黄の妃カタリナは、鷹揚に微笑んでみせていた。
その微笑みは柔らかく、それでいて鋭利だ。

交易や商業に長けた黄の一族がこの帝国の国庫の多くを支えていることは、ヴェラも知っていた。
だが、この宴そのものが、そのすべてが、黄の一族の財によって成り立っていたとは。

カタリナは五人の妃たちの中で最も年長で、長く皇帝に仕えている。
十歳になる娘を一人もうけており、圧倒的な財力を後ろ盾に、紅の妃とはまた異なる形で確固たる地位を築いていた。
その言葉の一つ一つには、金貨のような重みがある。

「それに、この豊かな実りは、翠の一族あってのもの」

カタリナはつややかに微笑み、翠の妃イレーネに視線を送る。
イレーネもまた、控えめながら誇らしげに胸を張った。

「特に上質なものをそろえるよう、手配しました。ハーモニア様を祝い、陛下の御世を寿ぐためですから」

皇帝と紅の妃に向けられた彼女の翠の瞳は、今は炎を受けてうっすらと黄みがかり、純粋なあこがれに煌めいている。
ハーモニアが金茶の瞳を細めて機嫌よく笑い、酒杯を手に皇帝に体を寄せ、甘くささやいた。

「陛下、この勝利の褒美として、七日七晩、陛下と共に過ごすことをお許しいただけますか」

皇帝アルセニイは艶やかに笑ってうなずき、ハーモニアの肩を抱いた。

「そなたは本当に、妃として公に余に並び立つことができるな。ハーモニア」

その灰色の瞳は、祝福の光を宿していながら、どこか底なしの虚無を湛えている。

だがその言葉は、柔らかでありながら、印章のように明確に響いた。
この広間にいるすべての者が、それを聞き取るように。

ハーモニアの金茶色の瞳の中の縦長の瞳孔が、主人に撫でられた猫のように愉悦に細まる。
その光の中には、征服者の静かな誇りが宿っていた。

――ああ、この時陛下は、紅の妃をはっきりと”公に並び立てる”と言われたのね……――

それは、ルドミラへの悼みやテオドラへの同情、自らの身の置き場のなさに心を縮めていた”前回”のヴェラが、気づくことのできなかった事実だった。
今、ようやくその言葉の意味の重さが、冷たく胸に落ちる。

「後宮内の力関係など、簡単に揺らいでしまうもの……」

向かいの席にいたカタリナが、顔をよせて囁いた。

「いかに陛下の寵愛があっても、それは儚いものよ、白の妃」

カタリナの金色の瞳が、ワインの反射でゆらめく。
そこに浮かんでいるのは、忠告と嘲り、そして微かな同情のように見える。 幾度もこの盤上で勝ち抜いてきた女だけが知る、哀しみのような光だった。

――ああ、この言葉は、”前回”も言われた――

ヴェラは静かに、あいまいな微笑を返す。
だが今は理解している。
後宮入りして以来、最も皇帝の訪れが多いにもかかわらず、いまだ懐妊の兆しがない。それが、囁きに見える言葉の裏に潜んでいる刃なのだと。

ハーモニアのように圧倒的な武力も、カタリナやイレーネのような富の後ろ盾もない。
”神の耳”の持ち主とはいえ、神が帝国の行く末に沈黙していては、何の縁(よすが)にもならない。

――私は、後宮という盤上の、小さな駒――
そしてそれを動かして楽しんでいるのは、神であり、その代理人たる皇帝アルセニイ一世その人。

宴が進むにつれ、ハーモニアと皇帝の距離は、目に見えて近づいていった。

二人の姿はまるで、主とその膝の上で喉を鳴らす猛獣のよう。
紅の光が二人の間を照らし、他の妃たちの影を伸ばしていく。

深紅の絹に金糸で炎の模様が縫い取られた衣の裾から紅蓮の花の香が漂う。
紅の一族では、戦勝を祝う夜にこの香を焚き、炎に酒を注ぐ儀式が行われるという。

ハーモニアはゆるやかに立ち上がり、黄金の杯を手に取った。
杯の中には濃い葡萄酒が満ちている。
彼女はそれを、卓上の小さな燭火にそっと傾けた。
――瞬間、赤い炎が高く立ちのぼる。
酒が火に溶け、芳香と熱が広間を包んだ。

「火は、陛下の御世を永遠にする」

彼女はそう言い、静かに頭を垂れた。
その所作には、古い信仰の儀式のような荘厳さがあった。


皇帝アルセニイは、その様を黙って見つめていた。
長い沈黙ののち、ゆっくりと右手を上げ、炎の光を受けたその指で、彼女の額に触れる。 

「そなたの忠と火を、余は受け取ろう」 

その瞬間、二人の視線が交わった。 
それは――皇帝と寵姫の間に交わされる愛の盟約ではなく、契約に見えた。炎を介して結ばれる、皇帝とその軍の盟約。 
ハーモニアの金茶色の瞳の奥で、紅玉が細かく砕けるような輝きがきらめく。 

周囲の妃たちは、誰も言葉を発せなかった。 
紅の光に照らされたその場は、まるで“帝国という神殿”における奉献の儀のよう。 
音楽すら一瞬止まり、炎の爆ぜる音だけが響いた。 

ヴェラはその光景を見つめながら、胸の奥にひややかな痛みを覚えた。 
――火は祈りを焼き、残るのは灰だけ。 
それでも、燃えさかるものの美しさに、誰も抗えない。 

紅い衣が床をすべり、ハーモニアが立ち上がって皇帝にしなだれかかる。 

アルセニイがそれを抱きとめると、酒の色に濁ったハーモニアの瞳が、その膝の上からヴェラを見下ろした。 
侮蔑の色を隠そうとすらしない。 

(お前を、排除してやる……) 

その声が、突然、脳内に直接響いた。 
女のーーハーモニアの声。 

ヴェラは思わず耳をふさぐ。 
同時に、頭の芯を焼け串で貫かれたような、鋭い痛みが走った。 

今のは、なに……? 

 

”神の声”が、耳の奥で静かに、しかし確実に響いた。 
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