9 / 10
回帰1
祝宴の後
しおりを挟む
気が付けば、ヴェラの意識は、見慣れぬ寝室の天井近くに浮かんでいた。
赤と金が散りばめられた、豪奢な部屋。
壁には燃え盛る戦の図を描いたタペストリーがかかり、絹の帳の向こうからは、香の甘く重い香りが漂ってくる。
一度も足を踏み入れたことはないが、一目で――ここが紅の妃ハーモニアの寝室だとわかった。
寝台には、ハーモニアと、皇帝アルセニイの姿。
深紅の天蓋の下、二人の影が寄り添い、暖炉の火がその輪郭を揺らめかせている。
静寂の中に、肌と肌が触れあう微かな音と、低い息遣いが満ちていた。
ヴェラはその光景を、まるで夢の中のように見下ろしていた。
胸の奥が、氷と炎を同時に飲み込んだように熱く、そして冷たくなる。
やがてハーモニアは身を起こし、微かに含み笑いを浮かべた。
その声は、蜜を垂らすように滑らかで、刃のように鋭い。
「陛下、白の妃の心には、何か秘密めいたものがあると思われませんか?」
その一言に、ヴェラの意識がざわめく。
息を呑み、声にならない声を漏らした瞬間――
皇帝の低い声が、ゆっくりと、まるで氷を踏むように応えた。
「……ああ、よく見ているな、ハーモニア。面白いことに、ヴェラは余ではない誰かを、想っているようなのだ」
その言葉が突き刺さった瞬間、胸の奥にある心臓が、一度止まった気がした。
「ご存じでしたか」
ハーモニアの声は艶やかに揺れ、唇の端に笑みを浮かべる。
「気づいているとも――だが、誰のことをどれほど思っていようとも、彼女は所詮、余の”もの”だからな」
アルセニイの声は静かでありながら、そこに滲む形のない影が、どんな怒号よりも冷たく、恐ろしかった。
まるで自分の心までもが、誰かに所有されることを当然のように語られているかのようだ。
「ご趣味の悪いことで」
ハーモニアは、少し意地悪く笑い、皇帝の胸に指先を滑らせた。
その指は愛撫のようでいて、何かを奪おうと狙っている蛇の舌のようでもあった。
「”神の代理人”として、その程度の愉悦は許されるであろう?」
皇帝はつぶやき、ただ火の方を見つめている。
愉悦というにはあまりにも空虚な、倦怠に酷似した色が、その瞳の中で揺らいだ。
「それとな、紅の妃よ」
「はい?」
「そなたは少し、男というものを理解したほうがよいぞ」
淡々と語る皇帝に、ハーモニアは首をかしげる。
「理解ーーと、いうのは?」
「そなたは、余と似すぎているのだ。男というのはなーー自分と異質なものに対する征服欲を持つ生き物なのだ。本能的にな」
ハーモニアが息を飲む。
”ヴェラ”もまた、声にならない息を宙中で飲む。
「それがーー陛下が、白の妃をご寵愛される、理由でしたか……」
ハーモニアの声は、獣のうなり声に似ていた。
皇帝の顔が、ほんの少しゆがむように笑う。
「”あれ”を、その想いごと支配下に置いて楽しむ余の欲のことを、”寵愛”とは呼ばぬと思うがな」
枯れた声ーーその底の濁った灰色の瞳は虚ろで、なにも映してはいない。目の前のハーモニアのことさえも。
――この人は、誰のことも愛してはいない。誰も、彼の中に届いてはいない――
ヴェラの心に、冷たい理解が広がる。
その理解が、かえって彼女を深い恐怖へと引きずり込む。
ハーモニアは目を細め、唇を火の色に染めながら、声を低くして囁いた。
「もし、先日の蒼のように……白のミハイル・ルースが帝国に害をなしたら、どうされます?陛下はだいぶ、白の妃をご贔屓にされていますが」
皇帝は火の揺れる灯を眺めたまま、平然と答えた。
「同じことになる。蒼が犯した過ちと変わらぬ結末だ。ヴェラは余を楽しませてくれるが、代わりがいないわけではない」
その声音の無感情さに、ヴェラの意識は震えた。
情など、そこには欠片もなかった。ただ、皇帝としての冷たい冷ややかさだけがある。
ハーモニアは微笑みを深め、喉の奥で小さく笑った。
それは勝者の笑みではなく、より深い悪意を隠す仮面のようだった。
(ならば、排除してしまえばよい……)
その声が、耳ではなく頭の奥で響く。
脳髄に直接、赤熱した刃を突き立てられるような激痛。
視界がにじみ、呼吸が遠ざかっていく。
ーー見出せ、そして選べーー
”神の声”が、焼けつくような光の中で響いた。
次の瞬間、世界はまた、まっ白に溶けていった。
赤と金が散りばめられた、豪奢な部屋。
壁には燃え盛る戦の図を描いたタペストリーがかかり、絹の帳の向こうからは、香の甘く重い香りが漂ってくる。
一度も足を踏み入れたことはないが、一目で――ここが紅の妃ハーモニアの寝室だとわかった。
寝台には、ハーモニアと、皇帝アルセニイの姿。
深紅の天蓋の下、二人の影が寄り添い、暖炉の火がその輪郭を揺らめかせている。
静寂の中に、肌と肌が触れあう微かな音と、低い息遣いが満ちていた。
ヴェラはその光景を、まるで夢の中のように見下ろしていた。
胸の奥が、氷と炎を同時に飲み込んだように熱く、そして冷たくなる。
やがてハーモニアは身を起こし、微かに含み笑いを浮かべた。
その声は、蜜を垂らすように滑らかで、刃のように鋭い。
「陛下、白の妃の心には、何か秘密めいたものがあると思われませんか?」
その一言に、ヴェラの意識がざわめく。
息を呑み、声にならない声を漏らした瞬間――
皇帝の低い声が、ゆっくりと、まるで氷を踏むように応えた。
「……ああ、よく見ているな、ハーモニア。面白いことに、ヴェラは余ではない誰かを、想っているようなのだ」
その言葉が突き刺さった瞬間、胸の奥にある心臓が、一度止まった気がした。
「ご存じでしたか」
ハーモニアの声は艶やかに揺れ、唇の端に笑みを浮かべる。
「気づいているとも――だが、誰のことをどれほど思っていようとも、彼女は所詮、余の”もの”だからな」
アルセニイの声は静かでありながら、そこに滲む形のない影が、どんな怒号よりも冷たく、恐ろしかった。
まるで自分の心までもが、誰かに所有されることを当然のように語られているかのようだ。
「ご趣味の悪いことで」
ハーモニアは、少し意地悪く笑い、皇帝の胸に指先を滑らせた。
その指は愛撫のようでいて、何かを奪おうと狙っている蛇の舌のようでもあった。
「”神の代理人”として、その程度の愉悦は許されるであろう?」
皇帝はつぶやき、ただ火の方を見つめている。
愉悦というにはあまりにも空虚な、倦怠に酷似した色が、その瞳の中で揺らいだ。
「それとな、紅の妃よ」
「はい?」
「そなたは少し、男というものを理解したほうがよいぞ」
淡々と語る皇帝に、ハーモニアは首をかしげる。
「理解ーーと、いうのは?」
「そなたは、余と似すぎているのだ。男というのはなーー自分と異質なものに対する征服欲を持つ生き物なのだ。本能的にな」
ハーモニアが息を飲む。
”ヴェラ”もまた、声にならない息を宙中で飲む。
「それがーー陛下が、白の妃をご寵愛される、理由でしたか……」
ハーモニアの声は、獣のうなり声に似ていた。
皇帝の顔が、ほんの少しゆがむように笑う。
「”あれ”を、その想いごと支配下に置いて楽しむ余の欲のことを、”寵愛”とは呼ばぬと思うがな」
枯れた声ーーその底の濁った灰色の瞳は虚ろで、なにも映してはいない。目の前のハーモニアのことさえも。
――この人は、誰のことも愛してはいない。誰も、彼の中に届いてはいない――
ヴェラの心に、冷たい理解が広がる。
その理解が、かえって彼女を深い恐怖へと引きずり込む。
ハーモニアは目を細め、唇を火の色に染めながら、声を低くして囁いた。
「もし、先日の蒼のように……白のミハイル・ルースが帝国に害をなしたら、どうされます?陛下はだいぶ、白の妃をご贔屓にされていますが」
皇帝は火の揺れる灯を眺めたまま、平然と答えた。
「同じことになる。蒼が犯した過ちと変わらぬ結末だ。ヴェラは余を楽しませてくれるが、代わりがいないわけではない」
その声音の無感情さに、ヴェラの意識は震えた。
情など、そこには欠片もなかった。ただ、皇帝としての冷たい冷ややかさだけがある。
ハーモニアは微笑みを深め、喉の奥で小さく笑った。
それは勝者の笑みではなく、より深い悪意を隠す仮面のようだった。
(ならば、排除してしまえばよい……)
その声が、耳ではなく頭の奥で響く。
脳髄に直接、赤熱した刃を突き立てられるような激痛。
視界がにじみ、呼吸が遠ざかっていく。
ーー見出せ、そして選べーー
”神の声”が、焼けつくような光の中で響いた。
次の瞬間、世界はまた、まっ白に溶けていった。
0
あなたにおすすめの小説
妻からの手紙~18年の後悔を添えて~
Mio
ファンタジー
妻から手紙が来た。
妻が死んで18年目の今日。
息子の誕生日。
「お誕生日おめでとう、ルカ!愛してるわ。エミリア・シェラード」
息子は…17年前に死んだ。
手紙はもう一通あった。
俺はその手紙を読んで、一生分の後悔をした。
------------------------------
つまらなかった乙女ゲームに転生しちゃったので、サクッと終わらすことにしました
蒼羽咲
ファンタジー
つまらなかった乙女ゲームに転生⁈
絵に惚れ込み、一目惚れキャラのためにハードまで買ったが内容が超つまらなかった残念な乙女ゲームに転生してしまった。
絵は超好みだ。内容はご都合主義の聖女なお花畑主人公。攻略イケメンも顔は良いがちょろい対象ばかり。てこたぁ逆にめちゃくちゃ住み心地のいい場所になるのでは⁈と気づき、テンションが一気に上がる!!
聖女など面倒な事はする気はない!サクッと攻略終わらせてぐーたら生活をGETするぞ!
ご都合主義ならチョロい!と、野望を胸に動き出す!!
+++++
・重複投稿・土曜配信 (たま~に水曜…不定期更新)
【完結】乙女ゲーム開始前に消える病弱モブ令嬢に転生しました
佐倉穂波
恋愛
転生したルイシャは、自分が若くして死んでしまう乙女ゲームのモブ令嬢で事を知る。
確かに、まともに起き上がることすら困難なこの体は、いつ死んでもおかしくない状態だった。
(そんな……死にたくないっ!)
乙女ゲームの記憶が正しければ、あと数年で死んでしまうルイシャは、「生きる」ために努力することにした。
2023.9.3 投稿分の改稿終了。
2023.9.4 表紙を作ってみました。
2023.9.15 完結。
2023.9.23 後日談を投稿しました。
貧民街の元娼婦に育てられた孤児は前世の記憶が蘇り底辺から成り上がり世界の救世主になる。
黒ハット
ファンタジー
【完結しました】捨て子だった主人公は、元貴族の側室で騙せれて娼婦だった女性に拾われて最下層階級の貧民街で育てられるが、13歳の時に崖から川に突き落とされて意識が無くなり。気が付くと前世の日本で物理学の研究生だった記憶が蘇り、周りの人たちの善意で底辺から抜け出し成り上がって世界の救世主と呼ばれる様になる。
この作品は小説書き始めた初期の作品で内容と書き方をリメイクして再投稿を始めました。感想、応援よろしくお願いいたします。
神様の忘れ物
mizuno sei
ファンタジー
仕事中に急死した三十二歳の独身OLが、前世の記憶を持ったまま異世界に転生した。
わりとお気楽で、ポジティブな主人公が、異世界で懸命に生きる中で巻き起こされる、笑いあり、涙あり(?)の珍騒動記。
いっとう愚かで、惨めで、哀れな末路を辿るはずだった令嬢の矜持
空月
ファンタジー
古くからの名家、貴き血を継ぐローゼンベルグ家――その末子、一人娘として生まれたカトレア・ローゼンベルグは、幼い頃からの婚約者に婚約破棄され、遠方の別荘へと療養の名目で送られた。
その道中に惨めに死ぬはずだった未来を、突然現れた『バグ』によって回避して、ただの『カトレア』として生きていく話。
※悪役令嬢で婚約破棄物ですが、ざまぁもスッキリもありません。
※以前投稿していた「いっとう愚かで惨めで哀れだった令嬢の果て」改稿版です。文章量が1.5倍くらいに増えています。
【完結】捨て去られた王妃は王宮で働く
ここ
ファンタジー
たしかに私は王妃になった。
5歳の頃に婚約が決まり、逃げようがなかった。完全なる政略結婚。
夫である国王陛下は、ハーレムで浮かれている。政務は王妃が行っていいらしい。私は仕事は得意だ。家臣たちが追いつけないほど、理解が早く、正確らしい。家臣たちは、王妃がいないと困るようになった。何とかしなければ…
幼女はリペア(修復魔法)で無双……しない
しろこねこ
ファンタジー
田舎の小さな村・セデル村に生まれた貧乏貴族のリナ5歳はある日魔法にめざめる。それは貧乏村にとって最強の魔法、リペア、修復の魔法だった。ちょっと説明がつかないでたらめチートな魔法でリナは覇王を目指……さない。だって平凡が1番だもん。騙され上手な父ヘンリーと脳筋な兄カイル、スーパー執事のゴフじいさんと乙女なおかんマール婆さんとの平和で凹凸な日々の話。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる