9 / 30
回帰1
祝宴の後
しおりを挟む
気が付けば、ヴェラの意識は、見慣れぬ寝室の天井近くに浮かんでいた。
赤と金が散りばめられた、豪奢な部屋。
壁には燃え盛る戦の図を描いたタペストリーがかかり、絹の帳の向こうからは、香の甘く重い香りが漂ってくる。
一度も足を踏み入れたことはないが、一目で――ここが紅の妃ハーモニアの寝室だとわかった。
寝台には、ハーモニアと、皇帝アルセニイの姿。
深紅の天蓋の下、二人の影が寄り添い、暖炉の火がその輪郭を揺らめかせている。
静寂の中に、肌と肌が触れあう微かな音と、低い息遣いが満ちていた。
ヴェラはその光景を、まるで夢の中のように見下ろしていた。
胸の奥が、氷と炎を同時に飲み込んだように熱く、そして冷たくなる。
やがてハーモニアは身を起こし、微かに含み笑いを浮かべた。
その声は、蜜を垂らすように滑らかで、刃のように鋭い。
「陛下、白の妃の心には、何か秘密めいたものがあると思われませんか?」
その一言に、ヴェラの意識がざわめく。
息を呑み、声にならない声を漏らした瞬間――
皇帝の低い声が、ゆっくりと、まるで氷を踏むように応えた。
「……ああ、よく見ているな、ハーモニア。面白いことに、ヴェラは余ではない誰かを、想っているようなのだ」
その言葉が突き刺さった瞬間、胸の奥にある心臓が、一度止まった気がした。
「ご存じでしたか」
ハーモニアの声は艶やかに揺れ、唇の端に笑みを浮かべる。
「気づいているとも――だが、誰のことをどれほど思っていようとも、彼女は所詮、余の”もの”だからな」
アルセニイの声は静かでありながら、そこに滲む形のない影が、どんな怒号よりも冷たく、恐ろしかった。
まるで自分の心までもが、誰かに所有されることを当然のように語られているかのようだ。
「ご趣味の悪いことで」
ハーモニアは、少し意地悪く笑い、皇帝の胸に指先を滑らせた。
その指は愛撫のようでいて、何かを奪おうと狙っている蛇の舌のようでもあった。
「”神の代理人”として、その程度の愉悦は許されるであろう?」
皇帝はつぶやき、ただ火の方を見つめている。
愉悦というにはあまりにも空虚な、倦怠に酷似した色が、その瞳の中で揺らいだ。
「それとな、紅の妃よ」
「はい?」
「そなたは少し、男というものを理解したほうがよいぞ」
淡々と語る皇帝に、ハーモニアは首をかしげる。
「理解ーーと、いうのは?」
「そなたは、余と似すぎているのだ。男というのはなーー自分と異質なものに対する征服欲を持つ生き物なのだ。本能的にな」
ハーモニアが息を飲む。
”ヴェラ”もまた、声にならない息を宙中で飲む。
「それがーー陛下が、白の妃をご寵愛される、理由でしたか……」
ハーモニアの声は、獣のうなり声に似ていた。
皇帝の顔が、ほんの少しゆがむように笑う。
「”あれ”を、その想いごと支配下に置いて楽しむ余の欲のことを、”寵愛”とは呼ばぬと思うがな」
枯れた声ーーその底の濁った灰色の瞳は虚ろで、なにも映してはいない。目の前のハーモニアのことさえも。
――この人は、誰のことも愛してはいない。誰も、彼の中に届いてはいない――
ヴェラの心に、冷たい理解が広がる。
その理解が、かえって彼女を深い恐怖へと引きずり込む。
ハーモニアは目を細め、唇を火の色に染めながら、声を低くして囁いた。
「もし、先日の蒼のように……白のミハイル・ルースが帝国に害をなしたら、どうされます?陛下はだいぶ、白の妃をご贔屓にされていますが」
皇帝は火の揺れる灯を眺めたまま、平然と答えた。
「同じことになる。蒼が犯した過ちと変わらぬ結末だ。ヴェラは余を楽しませてくれるが、代わりがいないわけではない」
その声音の無感情さに、ヴェラの意識は震えた。
情など、そこには欠片もなかった。ただ、皇帝としての冷たい冷ややかさだけがある。
ハーモニアは微笑みを深め、喉の奥で小さく笑った。
それは勝者の笑みではなく、より深い悪意を隠す仮面のようだった。
(ならば、排除してしまえばよい……)
その声が、耳ではなく頭の奥で響く。
脳髄に直接、赤熱した刃を突き立てられるような激痛。
視界がにじみ、呼吸が遠ざかっていく。
ーー見出せ、そして選べーー
”神の声”が、焼けつくような光の中で響いた。
次の瞬間、世界はまた、まっ白に溶けていった。
赤と金が散りばめられた、豪奢な部屋。
壁には燃え盛る戦の図を描いたタペストリーがかかり、絹の帳の向こうからは、香の甘く重い香りが漂ってくる。
一度も足を踏み入れたことはないが、一目で――ここが紅の妃ハーモニアの寝室だとわかった。
寝台には、ハーモニアと、皇帝アルセニイの姿。
深紅の天蓋の下、二人の影が寄り添い、暖炉の火がその輪郭を揺らめかせている。
静寂の中に、肌と肌が触れあう微かな音と、低い息遣いが満ちていた。
ヴェラはその光景を、まるで夢の中のように見下ろしていた。
胸の奥が、氷と炎を同時に飲み込んだように熱く、そして冷たくなる。
やがてハーモニアは身を起こし、微かに含み笑いを浮かべた。
その声は、蜜を垂らすように滑らかで、刃のように鋭い。
「陛下、白の妃の心には、何か秘密めいたものがあると思われませんか?」
その一言に、ヴェラの意識がざわめく。
息を呑み、声にならない声を漏らした瞬間――
皇帝の低い声が、ゆっくりと、まるで氷を踏むように応えた。
「……ああ、よく見ているな、ハーモニア。面白いことに、ヴェラは余ではない誰かを、想っているようなのだ」
その言葉が突き刺さった瞬間、胸の奥にある心臓が、一度止まった気がした。
「ご存じでしたか」
ハーモニアの声は艶やかに揺れ、唇の端に笑みを浮かべる。
「気づいているとも――だが、誰のことをどれほど思っていようとも、彼女は所詮、余の”もの”だからな」
アルセニイの声は静かでありながら、そこに滲む形のない影が、どんな怒号よりも冷たく、恐ろしかった。
まるで自分の心までもが、誰かに所有されることを当然のように語られているかのようだ。
「ご趣味の悪いことで」
ハーモニアは、少し意地悪く笑い、皇帝の胸に指先を滑らせた。
その指は愛撫のようでいて、何かを奪おうと狙っている蛇の舌のようでもあった。
「”神の代理人”として、その程度の愉悦は許されるであろう?」
皇帝はつぶやき、ただ火の方を見つめている。
愉悦というにはあまりにも空虚な、倦怠に酷似した色が、その瞳の中で揺らいだ。
「それとな、紅の妃よ」
「はい?」
「そなたは少し、男というものを理解したほうがよいぞ」
淡々と語る皇帝に、ハーモニアは首をかしげる。
「理解ーーと、いうのは?」
「そなたは、余と似すぎているのだ。男というのはなーー自分と異質なものに対する征服欲を持つ生き物なのだ。本能的にな」
ハーモニアが息を飲む。
”ヴェラ”もまた、声にならない息を宙中で飲む。
「それがーー陛下が、白の妃をご寵愛される、理由でしたか……」
ハーモニアの声は、獣のうなり声に似ていた。
皇帝の顔が、ほんの少しゆがむように笑う。
「”あれ”を、その想いごと支配下に置いて楽しむ余の欲のことを、”寵愛”とは呼ばぬと思うがな」
枯れた声ーーその底の濁った灰色の瞳は虚ろで、なにも映してはいない。目の前のハーモニアのことさえも。
――この人は、誰のことも愛してはいない。誰も、彼の中に届いてはいない――
ヴェラの心に、冷たい理解が広がる。
その理解が、かえって彼女を深い恐怖へと引きずり込む。
ハーモニアは目を細め、唇を火の色に染めながら、声を低くして囁いた。
「もし、先日の蒼のように……白のミハイル・ルースが帝国に害をなしたら、どうされます?陛下はだいぶ、白の妃をご贔屓にされていますが」
皇帝は火の揺れる灯を眺めたまま、平然と答えた。
「同じことになる。蒼が犯した過ちと変わらぬ結末だ。ヴェラは余を楽しませてくれるが、代わりがいないわけではない」
その声音の無感情さに、ヴェラの意識は震えた。
情など、そこには欠片もなかった。ただ、皇帝としての冷たい冷ややかさだけがある。
ハーモニアは微笑みを深め、喉の奥で小さく笑った。
それは勝者の笑みではなく、より深い悪意を隠す仮面のようだった。
(ならば、排除してしまえばよい……)
その声が、耳ではなく頭の奥で響く。
脳髄に直接、赤熱した刃を突き立てられるような激痛。
視界がにじみ、呼吸が遠ざかっていく。
ーー見出せ、そして選べーー
”神の声”が、焼けつくような光の中で響いた。
次の瞬間、世界はまた、まっ白に溶けていった。
1
あなたにおすすめの小説
主人公の恋敵として夫に処刑される王妃として転生した私は夫になる男との結婚を阻止します
白雪の雫
ファンタジー
突然ですが質問です。
あなたは【真実の愛】を信じますか?
そう聞かれたら私は『いいえ!』『No!』と答える。
だって・・・そうでしょ?
ジュリアーノ王太子の(名目上の)父親である若かりし頃の陛下曰く「私と彼女は真実の愛で結ばれている」という何が何だか訳の分からない理屈で、婚約者だった大臣の姫ではなく平民の女を妃にしたのよ!?
それだけではない。
何と平民から王妃になった女は庭師と不倫して不義の子を儲け、その不義の子ことジュリアーノは陛下が側室にも成れない身分の低い女が産んだ息子のユーリアを後宮に入れて妃のように扱っているのよーーーっ!!!
私とジュリアーノの結婚は王太子の後見になって欲しいと陛下から土下座をされてまで請われたもの。
それなのに・・・ジュリアーノは私を後宮の片隅に追いやりユーリアと毎晩「アッー!」をしている。
しかも!
ジュリアーノはユーリアと「アッー!」をするにしてもベルフィーネという存在が邪魔という理由だけで、正式な王太子妃である私を車裂きの刑にしやがるのよ!!!
マジかーーーっ!!!
前世は腐女子であるが会社では働く女性向けの商品開発に携わっていた私は【夢色の恋人達】というBLゲームの、悪役と位置づけられている王太子妃のベルフィーネに転生していたのよーーーっ!!!
思い付きで書いたので、ガバガバ設定+矛盾がある+ご都合主義。
世界観、建築物や衣装等は古代ギリシャ・ローマ神話、古代バビロニアをベースにしたファンタジー、ベルフィーネの一人称は『私』と書いて『わたくし』です。
最強令嬢とは、1%のひらめきと99%の努力である
megane-san
ファンタジー
私クロエは、生まれてすぐに傷を負った母に抱かれてブラウン辺境伯城に転移しましたが、母はそのまま亡くなり、辺境伯夫妻の養子として育てていただきました。3歳になる頃には闇と光魔法を発現し、さらに暗黒魔法と膨大な魔力まで持っている事が分かりました。そしてなんと私、前世の記憶まで思い出し、前世の知識で辺境伯領はかなり大儲けしてしまいました。私の力は陰謀を企てる者達に狙われましたが、必〇仕事人バリの方々のおかげで悪者は一層され、無事に修行を共にした兄弟子と婚姻することが出来ました。……が、なんと私、魔王に任命されてしまい……。そんな波乱万丈に日々を送る私のお話です。
はじめまして、私の知らない婚約者様
有木珠乃@『ヒロ弟』コミカライズ配信中
ファンタジー
ミルドレッド・カーマイン公爵令嬢は突然、学園の食堂で話しかけられる。
見覚えのない男性。傍らには豊満な体型の女性がいる。
けれどその女性から発せられた男性の名前には、聞き覚えがあった。
ミルドレッドの婚約者であるブルーノ王子であることを。
けれどミルドレッドの反応は薄い。なぜなら彼女は……。
この世界を乙女ゲームだと知った人々による、悪役令嬢とヒロイン、魔女の入れ替え話です。
悪役令嬢を救いたかったはずなのに、どうしてこんなことに?
※他サイトにも掲載しています。
さようならの定型文~身勝手なあなたへ
宵森みなと
恋愛
「好きな女がいる。君とは“白い結婚”を——」
――それは、夢にまで見た結婚式の初夜。
額に誓いのキスを受けた“その夜”、彼はそう言った。
涙すら出なかった。
なぜなら私は、その直前に“前世の記憶”を思い出したから。
……よりによって、元・男の人生を。
夫には白い結婚宣言、恋も砕け、初夜で絶望と救済で、目覚めたのは皮肉にも、“現実”と“前世”の自分だった。
「さようなら」
だって、もう誰かに振り回されるなんて嫌。
慰謝料もらって悠々自適なシングルライフ。
別居、自立して、左団扇の人生送ってみせますわ。
だけど元・夫も、従兄も、世間も――私を放ってはくれないみたい?
「……何それ、私の人生、まだ波乱あるの?」
はい、あります。盛りだくさんで。
元・男、今・女。
“白い結婚からの離縁”から始まる、人生劇場ここに開幕。
-----『白い結婚の行方』シリーズ -----
『白い結婚の行方』の物語が始まる、前のお話です。
腹黒薬師は復讐するために生きている
怜來
ファンタジー
シャルバリー王国に一人の少女がいた。
カナリヤ・ハルデリス
カナリヤは小さい頃から頭が冴えていた。好奇心旺盛でよく森に行き変な植物などを混ぜたりするのが好きだった。
そんなある日シャルバリー王国に謎の病が発生した。誰一人その病を治すことができなかった中カナリヤがなんと病を治した。
国王に気に入れられたカナリヤであったが異世界からやってきた女の子マリヤは魔法が使えどんな病気でも一瞬で治してしまった。
それからカナリヤはある事により国外追放されることに…
しかしカナリヤは計算済み。カナリヤがしようとしていることは何なのか…
壮絶な過去から始まったカナリヤの復讐劇
平和な国にも裏があることを皆知らない
☆誤字脱字多いです
☆内容はガバガバです
☆日本語がおかしくなっているところがあるかもしれません
そのご寵愛、理由が分かりません
秋月真鳥
恋愛
貧乏子爵家の長女、レイシーは刺繍で家計を支える庶民派令嬢。
幼いころから前世の夢を見ていて、その技術を活かして地道に慎ましく生きていくつもりだったのに——
「君との婚約はなかったことに」
卒業パーティーで、婚約者が突然の裏切り!
え? 政略結婚しなくていいの? ラッキー!
領地に帰ってスローライフしよう!
そう思っていたのに、皇帝陛下が現れて——
「婚約破棄されたのなら、わたしが求婚してもいいよね?」
……は???
お金持ちどころか、国ごと背負ってる人が、なんでわたくしに!?
刺繍を褒められ、皇宮に連れて行かれ、気づけば妃教育まで始まり——
気高く冷静な陛下が、なぜかわたくしにだけ甘い。
でもその瞳、どこか昔、夢で見た“あの少年”に似ていて……?
夢と現実が交差する、とんでもスピード婚約ラブストーリー!
理由は分からないけど——わたくし、寵愛されてます。
※毎朝6時、夕方18時更新!
※他のサイトにも掲載しています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる