雪の残響 ~エラリア帝国の終焉~

Dragonfly

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最後の夜

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気が付けば、ヴェラは自室の寝台の上で伏していた。
夢……?そんなはずはない。あれは確かに“神の声”だった。

耳の奥に、まだ残響がある。
――見いだせ、そして選べ。
その声の尾だけが、現実の縁に引きずられ、ゆっくりと溶けていく。

目を開くと、部屋の空気がかすかに揺れた。
香炉の煙が糸のように天へ昇り、光を捉えて淡くゆらめいている。
冷気は壁の石に染み込み、指先から静かに伝わってくる。
すべてが静寂に包まれていた――それは、神の沈黙に似ていた。

夢か現か。
現実に戻るたび、神の声の輪郭だけが薄く残り、光が少しずつ現実の色に溶けていく。
寝台の天蓋を覆うレース越しに、淡い燭光がちらつき、影が息をするように動いていた。

胸の奥が痛んだ。
“前回”のすべてが――あの血の夜が、再び形を取り戻しつつある。
それでも、ヴェラはゆっくりと呼吸を整えた。

ハーモニアが――紅の妃が、あんなにはっきりとした意思をもって“前回”のミハイルと自分を陥れようとしていたことは、いまだに信じがたかった。

あれだけ、一族の武力という後ろ盾があり、武功も立て、皇帝にすら「並び立つ」とまで言われる。そんな彼女が自分を邪魔に思う理由などないに等しいように、ヴェラには思えた。

だが、なんとしてでも、“今回”はミハイルの命を救わなければならない。
彼が死ぬ未来など、もう二度と見たくはなかった。

「今は、いつなの……?」

かすれた声が、震える。
起き上がって、室内を見回す。寝台脇の香炉からは、まだ白い煙が細く立ちのぼり、夜の入りに灯された蝋燭の光が、ゆらゆらと壁の黄金の文様を照らしている。
そして、寝台のそばの卓上に置かれた封書を見つけ、息を飲んだ。

「これは……!」

見覚えのある書簡だった。

封蝋の紅が、蝋燭の光を受けて鈍く光った。
指先がそれに触れた瞬間、紙の冷たさが肌の奥にしみこむ。
羊皮紙のわずかなざらつき、封蝋に押された紋章の凹み、そしてほのかに漂う香料の匂い――どれも、あの日と同じだった。

“前回”も、同じ蝋の匂いを嗅いだ気がした。
だがそのとき、私は泣くことさえ忘れていた。
冷たい光の中で、ただ指先が震えていた記憶だけが残っている。

今、その記憶と現実が重なりあう。
封を切る音が、遠い時の向こうからこだまのように返ってきた。
紙の上に広がる文字が、過去と現在の境を越えて滲んでくる。

――蒼の領地における暴動、財政支援の疑い、白の妃との密通。

文面を追うごとに、空気が重く、息がしづらくなっていく。
ああ、この言葉を、私はもう一度見てしまったのだ――。

ミハイル・ルースが領地で捕らえられ王宮の牢に収監されたことの告知書。

これが届いた日、それは――!

ギィ……と重い音がして、部屋の扉が開いた。
胸の前で手を組み、ヴェラはその場に立ちすくむ。

扉を開けた侍従が、さっと道を空ける。
淡い褐色の肌、濃灰の髪、均整の取れた体――皇帝アルセニイ一世が、入ってくる。

「陛下……」

ガクリと膝をつくように、ヴェラはひざまずいた。
全身を、無力感が駆け抜ける。

これは――この日は――“前回”、皇帝との最後の夜だった日だ。
――そして明日、ミハイルは殺される!――

心の奥の絶叫に、皇帝の背後で扉がふたたび閉じる重い音が重なった。

香の煙が濃くたなびき、銀色の燭台の火がひとつ、またひとつと震える。

衣の裾が絹のような音を立て、香油の匂いが波のように押し寄せてきた。
それは生き物のように重く、呼吸の隙間にまで入り込み、逃げ場を奪う。

膝まずいたまま荒い息をしているヴェラを、アルセニイ一世は眼を細めて見下ろした。

「先に言っておくが」

その声は、わずかに微笑みを帯びてさえいるように、ヴェラには思える。

「父や一族のことを、余に訴えても無駄だ、妃よ」
「陛下――!」
「そなたを可愛がってやれるのも、これが最後かもしれぬ」

その微笑みは、ますます深く――そして、冷たくなる。

ヴェラの喉が、砂を飲み込んだように乾いた。
心臓が胸の奥で暴れ、耳の内側にまで響く。

「せいぜい励むがよい――白の妃よ」

ミハイルのことにも、彼女自身のことにも、何ひとつ言及することなくいつものようにあいまいな笑みを湛えて彼女の体を引き寄せ手を伸ばしてくる姿に、ヴェラの心身は恐怖と絶望のあまり凍り付く。

だが、その恐怖と絶望は、はじめてのものではない。

――この方にとって、私は、いつでも換えのきく玩具でしかなかった――

それを、“前回”の記憶とハーモニアとのやりとりを知った今、ヴェラははっきりと悟っていた。
その悟りは、心の奥に小さな炎となって灯り、冷たい夜気の中で消えずに瞬く。

皇帝は、乾いた笑いの下にヴェラの恐怖と絶望を組み伏せようとするかのように、覆いかぶさってきた。

“前回”のヴェラは、それに対してなすべがなかった。

吐息の距離、指先の冷たさ。涙が頬を伝う感覚を、彼女は思い出せなかった。
ただ、天井の装飾を数えていた記憶だけが、やけに鮮明に残っている。
「声を出せば、すべてが壊れる」と思っていた。
だから黙った。
だから、あの結末になった。

しかし――

「陛下――お待ちを!!」

全身の力で、ヴェラは皇帝の体を押しのけ、その拘束から抜け出した。
そんな反応をされたことのないアルセニイの顔が、呆けたように彼女を見る。

”神の代理人”の言動は絶対だ。意見であれば許されるが、反論も反抗も――その世界には、存在しない。

「無駄だ、と言われましたが」

ヴェラの銀水色の瞳が、まっすぐに皇帝の濁った灰色の瞳を見つめる。

「それでも、申し上げます。ミハイル・ルースは陛下に忠誠を尽くした臣下です」

皇帝は完全に虚を突かれ、機械的に言葉を返す。

「だが、反逆を企て、それを手助けした」
「それは誤りです。証拠は――偽りです」
「しかし、それを明かすことなど、できないであろう?」

薄い笑いが皇帝の唇に浮かぶが、ヴェラは構わず畳みかけた。

「では、なぜ神は沈黙なさっているのでしょうか」
「余のすることに、文句がないからだ」

皇帝の声には、迷いの欠片すらなかった。

「神は、余を承認されている」
「おそれながら――私の考えは、異なります。神は、試しておられるのです」
「試す――?」

怪訝そうな曇りが、皇帝の顔に広がる。ヴェラは、胸の前で手を組み直す。

正直、これからいうことは自分の推測にすぎなかった。神が意味のあることを語らない今、その心を推し量ることはできない。だが、もう引き返すつもりも、なかった。

「愛を、です。もしこの国が神に見放される日が来るとしたら――それは、陛下が神の名のもとに“愛”を殺すときです」
「愛……?」

聞いたこともない言葉を、聞いたような顔だった。暖炉の火が、一瞬大きく燃え上がる。
その光に包まれて、ヴェラの姿が、その白銀色の肌が、まるで雪明かりのように淡く輝いた。

アルセニイは、彼女の姿から目をそらせて、しばらく沈黙した。
そして、彼の唇から低く、かすかな声が落ちた。

「……ミハイル・ルースは、そなたにとって、何なのだ」

ヴェラは息を呑み、震える声で答える。

「養父です――そして、誰よりも大切な、ただ一人の人です」

皇帝の瞳が、何かを思案するように揺れる。
ふたたびの長い沈黙の後、その奥にほんの少し、愉快そうな光が宿った。

「……よかろう。ミハイル・ルースの命は、今回のところ赦そう」
「……!」

ヴェラは思わず口元を押さえた。涙がこぼれて、床に落ちる。
零れ落ちる涙は、ただの涙ではない――光を帯びた、彼女自身の祈りに近かった。
涙は光の粒となり、天井を照らすかのように煌めく。

「だが、家長は交代させ、二度と宮廷には戻さぬ」
「それで、充分です……!」

彼女の涙を、皇帝はしばらく眺め――そして、言った。

「だがな、白の妃よ」
「はい――?」
「そなたの罪は、見過ごしてはやれぬ」
「私の、罪……?」

今度は、ヴェラのほうが茫然とする番だった。皇帝の言っていることの意味がよく理解できないままに、ヴェラの胸は凍りつく。
視界の端で、銀の燭台の光が揺れ、壁の金箔が反射して血のように滲んだ。

「ミハイル・ルースは、反逆を企て、加担した罪に問われている。そなたは冤罪だと言うが、おそらくそれを明かすことは困難だろう。さらに奴は――密通の罪を犯した。それは、そなたもであろう?白の妃よ」

皇帝の声は、冷たい鐘の音のように響いた。
広間の奥の影が震え、銀の器の水面が揺れる。

「陛下、それは……」
「本来であれば、死をもって償わねばならぬ。それが帝国の掟、余の掟だ。それを曲げることを、そなたは嘆願した。それを叶える代償は――そなたに、払ってもらわねばならぬ」

今度こそ、恐怖と絶望で完全に凍り付いたように動けなくなってしまったヴェラの体を、やすやすと皇帝は引き寄せる。

「命は取らぬ。ミハイル・ルースを助命する以上、そなたの命を取るわけにもいかぬからな」
「陛下……」

力なく喘ぐヴェラの白銀の肌を、皇帝は掌で撫でた。銀水色の瞳からこぼれる涙も、完全に無視される。

空気がひび割れた。
燭台の火が揺らぎ、床に描かれた黄金の鷹ーー皇帝の紋章が淡く光を放つ。

「とはいっても、妃のまま置いておくことも、できぬな。――〈黒の修道院〉への生涯幽閉あたりが、適当か?」

思案するような声が、遠のいていく。〈黒の修道院〉は修道院とは名ばかりの、終身刑となった貴人が収監され残る命を祈りに費やすだけの、幽閉の場所だ。
その名を聞いた瞬間、ヴェラの視界がぐらりと傾く。

その高い塔は空を貫き、祈りが昇れぬ場所と呼ばれる。それが〈黒の修道院〉だ。
どんな光も、どんな声も、届かぬ絶望の空間。

恐怖と絶望が、ヴェラの意識を混濁させた。
だが、その最果てで、彼女の心は叫んでいた。

――違う……これではダメ!ダメよ!!――

世界が、真っ白に灼けた。

 

“神の声”は、怒りでも慈悲でもなく、ただ世界の秩序を揺さぶるかのように響いた。
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